2005年12月29日木曜日

5_49 第四紀の復活?2:第三亜代と第四亜代

 今回の第四紀の廃止という国際地質科学連合の国際層序委員会の決定は大きな衝撃が走りました。そのための議論が各所で行われました。

 時代区分の中で、第四紀という時代は、地質学だけが扱う時代ではなくなってきています。例えば、環境問題で、氷河期や長期の気候変動を考えるためには、重要なデータ収集の時代となっています。また、人類が登場する時代ですので、人類学や考古学でも研究対象となる時代であります。現在の自然を研究しているときでも、その源泉をたどれば、第四紀という時代にかならずたどり着きます。人文科学の歴史に関する記述も、たいてい第四紀からはじまります。
 第四紀という時代を研究している人たちが集まっている学会があります。国際的な学会として第四紀研究国際連合(INQUA)という組織があり、日本でも第四紀学会があります。第四紀学会には、地質学だけでなく、考古学、気象学、生態学、地理学、人類学など多様な分野の研究者が参加しています。学会の構成員から見ても、第四紀という時代は、もはや地質学だけの分野の研究対象ではなく、多くの学問分野で必要な時代区分となっています。ですから、第四紀の廃止には、大きな社会的影響があります。各所から反論、意見が出されました。
 最終的に、第四紀研究国際連合と国際地質科学連合の国際層序委員会によるタスク・グループで議論して、票決に基づき、次のような結論が出されました。
・第四紀は国際地質時代区分で正式な時代と層序区分とする
・時代は鮮新世ゲラシアン期の始まり(約259万年前)から現在までとする
・時代区分におけるランクは、新生代内の亜代か亜紀とする
というものでした。
 それを受けて、国際層序委員会では、議論を経て票決をして、2005年9月28日付けで国際地質科学連合長に報告しました。そこでは、第四紀が新生代の正式な時代区分であるということを強調されています。その上で
・第四紀は260万年前(鮮新世ゲラシアン期のはじまり)から現在までとすること
・地質年代の区分で新第三紀(ネオジン)の最上部で亜紀に相当(新生代における第三紀と第四紀と区分のレベル)させること
というものです。
 その報告には、第四紀を含めた層序表がつけられています。新生代は第三紀と第四紀が260万年前に亜代として区分されています。そして、その下の紀のランクとして、パレオジンとネオジンがあります。
 この問題の決着は、公式には国際地質科学連合の長がOKを出せばいいことなのか、総会にかけて承認を得るべきことなのか、どのような手続きを経るべきものなのかは、私は詳しく知りません。しかし、国際層序委員会の結論は重いはずです。ですから、決まるとすると、提案どおりになり、だめだと再度議論となるでしょう。
 もし国際層序委員会の結論通りだとすると、新生代の時代区分は次のようになります。

第四亜代|       |
    | ネオジン紀 |
--------|       |--260万年前
    | ----------------2300万年前
第三亜代|       |
    | パレオジン紀|

という、非常に複雑な構造となります。
 これでも問題がないわけではありません。亜代という年代区分が導入されていること、新生代が他の中生代や古生代が整理されてきたのに、より複雑になっていること、第四亜代が、ネオジン紀のひとつしたの更新世の後期の時代から始まり、重複していることなどです。やはり、第三亜代と第四亜代は浮いた時代区分です。慣例を残すために、無理くりつくられた気がします。今まで整備されてきた時代区分は、学問の積み上げのものに作り上げられました。第四紀は、今までの学問の積み上げもありますが、今までの学問への影響を少なくするために残されたという気がします。今回の決定が最終的なものかどうかわかりませんが、後に憂いを残さなければいいのですが。
 ひとつの時代区分について長々議論されたのは、やはりこの第四紀の廃止という考えの衝撃が大きかったことが伺われます。そして、このような複雑な構造になっても、第四亜代として残そうというのは、第四紀という時代が、人類にとって重要なのだということです。それは、自然の科学と人の科学が出会う時代だからなのかもしれません。
 このような議論を通じて、第四紀という時代はどういう時代なのか、そしてそれは、なぜ必要なのかを考える機会になればいいと思います。

・人間の都合・
時間を人為的に区切るということは、
やはり人間の都合で自由にできます。
ところが人間の都合で自由にできるのなら、
論理的にしていけばいいのですが、
そうもできないのが人間の都合でもあります。
人間というのは、なかなか一筋縄ではいかないものです。
そこが人間の困ったところであり、
いいところでもあるのかもしれませんが。

・今年最後のマガジン・
今年も、これが最後のメールマガジンです。
長いようで短かった2005年も、もうすぐ終わりです。
皆様にとっては、どのような1年だったでしょうか。
なかなか一言ではいえないでしょう。
私だってそうです。
いいこと、悪いこと、どちらともいえないこともありました。
でも、そんなことを振り返れるのは、
12月も押し詰まった、暮れの時期ではないでしょうか。
そして次の1年に向けて決意を新たにするのではないでしょうか。
もちろん振り返っても、1年を展望しても、
実際にどうなるかは自分の毎日の努力によるものです。
でも、時の流れにわざわざ区切りをおいているのですから、
その区切りを有効利用すればいいと思います。
それが大晦日や正月の有効な使い方ではないでしょうか。
私もそんなふうに利用しようと考えています。
ではよいお年を。

2005年12月22日木曜日

5_48 第四紀の復活?1:時代区分の更新

 地質時代シリーズで「1_52 新生代1:時代区分」(2005.10.27)で第四紀が消えたという話をしました。しかし、第四紀が復活しつつあるという話題を紹介します。

 地球の過去の歴史は、地質学者がさまざまな手段を使って調べていきます。もともと地球が経てきた時間には区分などありませんから、人があるいは研究者が独自に、自分たちの都合に合わせて時間を区切っていくことになります。しかし、それぞれの研究者が独自に時代区分を行っていくと、時代を比べるときや、後の人が研究を参考にしたい時に、混乱をきたします。そのため、時代区分は、国際的に協議されて決めるという方法がとられています。
 現在、地質学者の国際的な学会として、国際地質科学連合(IUGS)という組織があり、その中の国際層序委員会(ICS)で年代に関する検討と原案作成が行われています。国際層序委員会で、2004年に最新の年代が発表されました。その詳細は2005年3月に出版された「A Geologic Time Scale 2004」という589ページにおよぶ厚い本で紹介されています。1989年以来の15年ぶりの大改定でありました。
 改定で大きく変わったのは、時代境界の年代の値と、第三紀という時代区分が完全になくなったこと、そして第四紀もなくすという方針です。
 最後の第四紀をなくすということが、実は非常に複雑な問題を起こしています。現段階でもまだ解決していません。そのあたりの事情を紹介しましょう。
 2004年あたりに、ICSの原案が提示され、ホームページを見ながら、だいぶ変わったなと感じていました。しかし、時代境界の年代の値は、妥当なものだったようですし、第三紀をなくすというのは以前の1989年からの方針でしたので、それほど混乱は起こりませんでした、しかし、第四紀に関しては、ICSのホームページに紹介されている年代の表で、第四紀があったり、消えていたり、定まらない状態でした。それに、第四紀をなくす派の論文が紹介されていたり、その間の議論もホームページで紹介されていました。
 最終的に本の中でも、第四紀に関するその混乱が、そのまま現れてた状態で、ある表には第四紀があり、別の表では第四紀がなかったりということになっていました。例えば、本の裏面にカラーで印刷された地質時代表では、第四紀が付け足されています。本についていたポスターサイズの大きなカラー図では消えています。本文の時代区分の詳細な表では、次のようなコメントがありました。
「『第四紀』は約260万年前から始まる周期的な気候変動(氷河期と間氷期の事件)をしている期間を考慮した伝統的なものである。そのため、新しい時代区分における完新世、更新世、最後期鮮新世を含むものとなる。層序時代区分での位置は正式決定はまだである」
 ですから、まだ正式には第四紀をどうするかが、まだ決まっていない、混乱した状態であります。
 権威ある組織から出版物が出たということで、そのデータが多くの分野で利用されていくはずです。実際に2004年12月出版された日本の子供向けの図鑑では、この本に基づいた年代の数値が早くも使われていました。今後、第四紀という時代をどうするかというような混乱は、できる限り早く解消する方がいいはずです。しかし、現状はなかなか大変なようですが。
 第四紀についての混乱の詳細については、次回で紹介しましょう。

・漬物・
北海道にも何度か大雪が降り、除雪車も何度か入り
とうとう根雪となりました。
いよいよ冬本番です。
先日小学校の行事で、農家の人が漬けた漬物を
何種類か食べる機会がありました。
どれもなかなかおいしく、我が家でも作りたいのですが、
なかなかうまくいできません。
昨年に続き今年も秋に、家内が大根を5本ほど買ってきて挑戦しました。
まず、大根を干していました。
どれくらい干せば良いかわからず、もう少しと思って干していたら
なんと、腐ってきました。
昨年に続き2度目の失敗となりました。
昨年は20本ほど買って大きな樽でつくろうとしたので
そのショックは大きかったのですが、
今年は、失敗してもいいようにと少しにしておきました。
でも、やはり家内にはショックだったようで、
あと少しがいけなかったと反省していました。
漬物もなかなか奥が深いようです。

・忘年会・
忘年会シーズンですが、皆さんは楽しんでおられますか。
私は、大学の教職員の大規模な忘年会がありました。
全職員は二百数十名になるのですが、
100名以上の参加がありました。
そこであったビンゴ大会で、私は、
二等を当てて、多くの人から、うらやましがれました。
多くの人は一等の1名分の液晶テレビより、
二等のiPOD nanoを欲しがっていたようです。
もちろん私もそれがあたって大喜びでした。
この忘年間で私は、今年はいい年と思えるような気がします。

2005年12月16日金曜日

1_54 新生代3:気候変動(2005.12.16)

 地質時代シリーズの新生代の3回目です。今回は新生代に起こった気候変動を見ていきましょう。

 太陽は、自ら輝いています。その輝きは、核融合によって、もたらされています。核融合に関しては、さまざまな実験や研究がなされて、詳しく分かってきました。太陽が恒星として進化していくと、時間と共に太陽光度が強くなることがわかってきました。
 そのような光度の変化が、地球環境に大きな影響を与えることを最初に指摘したのは、カール・セーガンとミューレンが1972年に発表した論文でした。
 彼らの指摘がもし本当なら、地球は20億年前より古い時代は、全球凍結していたはずという計算結果がでています。
 しかし、地球には38億年前には海が存在していたという証拠があります。それは、海底で溜まった地層が、その時代にはあるのです。そして38億年前から現在まで、各時代の地層があります。つまり、38億年前以降、海がずっと存在していたことになります。
 なぜ、このような不思議なことがおこっているのでしょうか。2つの研究の結論は、矛盾したものとなっています。これを暗い太陽のパラドックス(faint young Sun paradox)と、セーガンらは呼びました。
 このパラドックスを解決するためには、地球の大気組成が、時代と共に変化してきたと、考えればいいとセーガンらは提案しています。それは、温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)の大気で占める割合が、時間と共に変化してきたと考えれば、解決できるというものです。つまり、二酸化炭素が時代と共に減ってきたと考えれば、暗い太陽のパラドックスを解決できるのです。
 現在、二酸化炭素が非常に少ない状態です。20億年前以前は、二酸化炭素の温室効果で、暗い太陽を補って地表を暖めていました。20億年前以降から現在までは、二酸化炭素を減らすことによって、太陽の暑さをしのいでいるという状態です。そして現在、二酸化炭素はほとんどなくなり、温室効果が非常に少ない状態です。
 もし、太陽内での核融合のモデル計算が正しければ、太陽光度はこれからも、数十億から億年のタイムスケールで上昇していきます。そうなれば、将来、地球は温室効果をする二酸化炭素をほとんど使い尽くしたので、熱くなり、やがては海も蒸発するかもしれません。金星のような暑い星となるかもしれません。
 違うスケールで、別の気候変動の記録が読み取られました。それは、地層中に残された化学成分を使って、地層ができた当時の気温を推定する方法です。それによると、パレオジン初期(約5500万年前)から、地球の気候は寒冷化の一途をたどっていることがわかってきました。この寒冷化という気候変動は、現在も進行中だと考えられています。これは、数千万、数百万年というスケールでの寒冷化です。
 このような寒冷化の原因は、地球の冷却が考えられています。そのシナリオの基づくと次のようなストーリが考えられています。
 地球が冷却してくると、地球内部のマントルの対流が衰え、プレートの生産速度が低下します。それによって、火山活動も衰えて、火山噴火によって放出される二酸化炭素の量が減り、温室効果が低下することになります。これが寒冷化のシナリオです。
 もしこのシナリオが正しければ、今後、寒冷化はつづくことになります。
 気候変動は、不規則ですが、変動していることは、さまざまな証拠からわかってきました。しかし、このような変動が、何に由来するかはよくわかっていないのが現状です。
 太陽光度の上昇は数十億から億年のスケールの温暖化、地層に記録された寒冷化は、数千万、数百万年というスケールです。人類が気にしている地球温暖化は、数百から数十年の単位です。
 気候変動のメカニズムは、まだ解明されていません。まして、気候変動の未来予測はなかなか困難です。もっと気候変動の研究を進めていく必要があります。

・カンジキ・
先日は関東にも雪が降り、寒い日が続いています。
私の住む北海道にも、やっと本格的な雪が降りました。
このまま積もれば、根雪になりそうです。
先日の日曜日には、今年初めて吹雪いて、一気に積もりました。
湿った雪で重かったのですが、冬らしくなりました。
私は冬のスポーツはしていないのですが、
子供と一緒に新雪の森を歩くことが目標です。
昨年はまだ長男や次男が森を歩くのは無理なようなのと、
私がスキーにするかスノシューにするかなど迷っていて実行できませんでした。
今年は、いろいろ考えた結果、カンジキをはいて歩き回ることに決めました。
私と家内の分は買いました。
このカンジキが、子供たちの長靴にあるかどうかを試して
大丈夫そうなら、子供たちの分も注文するつもりです。
今年の冬は、家族で、カンジキをはいて、
新雪の森林を歩ければと思っています。

・師走・
師走も、もう半ばとなりました。
暮れのさまざま行事、年賀状、来年の準備、
加えて、我が家には、暮れから正月にかけて母が来ます。
久しぶりに、家族で温泉に泊まりで出かけることになります。
そんなことを考えていると、師走は、
あっという間に過ぎてしまいそうです。
今年中、12月中にやるべきこと、整理すべきこと、
いろいろやるべきことが残っています。
あわただしさが、師走なのでしょうが、
やるべきことはちゃんとやりましょう。

2005年12月8日木曜日

5_47 まだまだ見える望遠鏡

 今回で望遠鏡シリーズが最後となります。最後は電磁波では見えないものを見る望遠鏡の話です。

 素粒子と呼ばれるこの世で最小のものがあります。原子のみならず、この世のありとあらゆるものは素粒子からできています。そんな素粒子のひとつに、ニュートリノというものがあります。
 ニュートリノは、素粒子の中でも小さく、他の素粒子と反応することも少なく、なんでも通り抜けてしまうだけの素粒子です。ですから、実際に存在するかどうか調べるのが、なかなか難しい粒子でした。
 1934年に、旧ソビエトのパーヴェル・チェレンコフは、直接ニュートリノを観測するのではなく、ニュートリノが起こす現象を観測することで、ニュートリノの存在を確認する方法を発見しました。
 それは、大量の水の中をニュートリノが通り抜けると、電子と衝突して電子がはじき飛ばされることがあります。はじき飛ばれた電子は、水の中を光より速い速度で通り抜けます。そのとき青白い光が発生します。この光を、発見者にちなんで、チェレンコフ放射と呼んでいます。
 光より速いといいましたが、真空中の光はこの世で一番速いのですが、物質の中では、その物質の持つ屈折率で割った値まで光の速度は低下します。真空中で光は秒速約30万kmですが、屈折率1.33の水の中では、光は、秒速約23kmまで下がります。電子が、これより速い速度で動けばチェレンコフ放射が起こります。
 原子炉のようにニュートリノが大量に出るところであれば、チェレンコフ放射は定常的に起こります。しかし、自然界の量の少ないニュートリノを捕らえるのは現実的には困難なこととなります。反応しにくい、少ないニュートリノを捕らえるためには、大量の水を用意しておかなければなりません。
 しかしこの原理を用いれば、ニュートリノを観測できることになります。ニュートリノは、核反応で出てくるのですが、それ以外にも、陽子が崩壊するときに放出されるという考えがありました。これは、ある仮説から導きだされた予測でした。その予測によると、陽子の寿命は10の30乗から32乗年というものでした。そんなに長い時間をかけて観測できませんから、大量の陽子を集めて観測すれば、短い時間で陽子が壊れるのを観測できます。
 そんな目的で1983年に、岐阜県神岡鉱山跡地の地下1000mに、カミオカンデという3000トンの超純水に入れた装置が完成しました。現在は50000トンという大量の超純水を蓄えたスーパーカミオカンデが1996年に動き出しました。
 カミオカンデは、陽子の崩壊を観測することなく、宇宙からのニュートリノを検出しました。宇宙からのニュートリノを観測することによって、太陽の核融合の様子が探られました。それを指導的に行ったのが、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊でした。
 そして、世界を驚かしたのは、1987年2月23日に現れた超新星爆発によるニュートリノ観測でした。南半球だけで見えた超新星爆発でした。しかし、ニュートリノは、地球の中を通り抜けてカミオカンデで観測されたのです。つまり、カミオカンデのような装置は、地下にありながら、望遠鏡としての役割を果たすことが分かってきたのです。
 カミオカンデは実は、非常に性能のいいニュートリノ望遠鏡だったのです。それ以来、ニュートリノ天文学という新しい学問分野が誕生したのです。1960年代には、宇宙から飛んで来するニュートリノを検出する試みがなされてきました。
 人類はいろいろな知恵を使って宇宙を眺めてきました。目で見るものだけでなく、目では見えないものでも観測装置を使えば、見たのと同じことになります。これからもそんな知恵がいろいろ使われて、さまざまな宇宙を見る目を生み出すことでしょう。

・アイスキューブ・
現在、ニュートリノ望遠鏡は、世界3台あります。
日本のスーパーカミオカンデ。
カナダのサドベーにある、ニュートリノ天文台。
南極大陸の氷の下のAMANDAと
それを拡大した2009年完成予定のアイスキューブ。
アイスキューブは壮大な国際共同計画です。
現在AMANDAという装置が稼動しており、
水の代わりに氷をニュートリノ検出装置に使っています。
氷の下1400mから2400mに60個の光センサーをつけ下ろします。
そのような穴を何個も開けてセットした全体が
ニュートリノ望遠鏡を構成します。
南極の氷は大量で、望みさえすれば
いくらでも大きな観測装置にできます。
毎年80個のケーブルを下ろして、6年かけて完成する予定です。
日本でも、千葉大学の吉田滋さんが参加されています。

・師走・
師走というのは、あわただしい月で、
あっという間に過ぎていくような気がします。
気をつけていないと、すぐに今年が終わってしまいます。
今年中にしなければならないこと、やり残していることを
忘れずにやっておきましょう。
そうそう年賀状もそろそろ考えなければなりませんね。
人ごとではなく自分のこととして考えなければなりません。
そんなことをあれこれ考えている時間があれば、
やるべきことをやりましょうか。

2005年12月1日木曜日

5_46 電波でみた宇宙と地球

 望遠鏡の進歩を概観しているシリーズです。今回は電波望遠鏡の思わぬ使い方を紹介しましょう。

 電波は、波の性質を持っています。その波の性質を利用して、電波望遠鏡では、奇抜で面白い観測ができるようになりました。そのいくつかを紹介しましょう。
 星から来る波を2つの電波望遠鏡で、同時に受け取ったとします。もし、電波の発信源の天体が一つのものであれば、同じ波として合成しても一つの波になります。ところが、もし波にずれがあると、干渉という現象が起きてわずかの違いも見つけやすくなります。
 干渉とは、波を重ね合わせたとき、同じ波であれば、山と谷が一致し、強めあう効果のことです。少しでもずれると、ずれに応じた縞模様が現れます。大きくずれると、干渉は起こらず、でたらめな波となります。ニュートンリングは、干渉のいい例です。
 この干渉という作用を利用すると、ほんの少しの波の違いが区別できます。前回、電波望遠鏡では、電波の波長が長いので、可視光の望遠鏡に比べると精度が悪くなると言いましたが、この干渉という効果を利用すると、観測の精度を格段に上げられる場合があります。
 ずれは、いくつかの原因によって生じます。一つは、届く波に変動がある場合と、もうひとつは受け取る側が変動している場合です。
 一つに見える天体が、実は2つの近接した天体である場合、天体と地球上にある2箇所の望遠鏡までの距離が、ほんのわずかですが違ってきます。するとその距離の違いが、電波の波のずれとして干渉として観測できることがあります。地球の遠く離れた場所の2つの望遠鏡で、同時に同じ天体を観測すればいいわけです。もし干渉が起これば、その天体は、2つの天体であったことがわかります。
 この方法は、1946年、マーティン・ライルたちが開発たものです。電波の受ける素子を開口と呼んでいたことから、開口合成と呼ばれている技術です。また電波望遠鏡を干渉を計る干渉計として用いることから、超長基線電波干渉計、VLBI(Very Long Baseline Interferometer)と呼ばれています。
 この干渉計の精度を上げるには、望遠鏡の間隔ができるだけ離れていた方がいいわけです。できれば、地球の直径より離せれば理想的です。つまり、地球外に電波望遠鏡の一つを置けば、非常に長い距離を取ることができます。そうすれば、より遠くの2つの天体の分離して見分けることができます。
 実際に、干渉計として用いるために、電波望遠鏡が、人工衛星はるか(HALCA)として1997年2月12日に打ち上げられ、遠くの銀河やクェーサーという特殊な天体の観測に利用されています。
 この技術を地球に転用すると、面白い観測装置になります。一つの星を地球の2箇所で測定します。もともと一つの天体から発信された電波ですから、電波望遠鏡の2つの間隔に応じた干渉が常に起こるはずです。しかし、ある時間間隔をおいて、同じ測定をしたとき、もし時間差によって干渉にずれが生じたとすると、電波望遠鏡の2つの間の距離が変化したことになります。そのずれは、非常に小さなものでも検出できるはずです。つまり、地球の2地点の距離を非常に正確実測できるということです。
 別々のプレートにある電波望遠鏡を用いて、その距離の時間変化を調べれば、プレート移動を正確に測定したことになります。このようにして、プレートの移動速度が実測されています。
 電波望遠鏡は、他にも、いろいろな利用がされています。ビックバンのときの光が、宇宙の背景放射として電波の波長領域で観測されたり、太陽のフレアから電波が出ているいことがわかったり、電離していない水素原子が発見されたり、パルサーと呼ばれる高速で自転する中性子星が発する非常に正確な周期の電波を発見したり、可視光では得られない情報を、つぎつぎと電波望遠鏡から得ています。

・未知の世界・
望遠鏡シリーズが続きます。
当初こんなに長くなるとは思っていませんでした。
概略は知っていたつもりですが、
調べていくと、つぎつぎと面白いことが分かってきます。
私たちの地球の外を見る目は、非常に多様になったということです。
そして、面白ことに、今回紹介したように地球の観測に
電波望遠鏡が使える技術が出てきました。
人は、本当にいろいろなことを思いつくものです。
人の知恵とは、尽きることがないのでしょうか。
そして、そこには新たな未知の世界が広げていくのです。
外をみる技術が、中をみる技術となったのです。
地球外の宇宙を知ろうとすること、
それは、実は自分とは何ものなかを知ることなのかもしれません。

・冬モード・
いよいよ師走となりました。
北海道は連日、変化の激しい日々が続いています。
基本的に寒い日が続いているのですが、
風がなく快晴であれば、ガラス越しの室内は暑いくらいになります。
でも、雪がしょっちゅう降り、朝夕は道路が凍ります。
まだ根雪には早いのですが、冬到来です。
子供たちは、冬靴と冬服で、冬の帽子で毎日出かけています。
自転車を乗ることもできなくなりました。
衣替えも終わりました。
我が家は、完全に冬モードです。

2005年11月24日木曜日

5_45 電波をみる望遠鏡

 宇宙のかなたから、はるばる地球にやってく来るのは、目で見える光だけではありません。電波もやってきます。そんな電波を見る望遠鏡もあります。

 前回まで、望遠鏡の発展の歴史を見てきました。それは、私たちが常に見ている光を、どうすれば、よりよく見ることができるかということが、焦点となりました。ところが、他にも改善の余地があります。それは、見える光以外のものを観測することです。
 見える光(可視光)を含めてすべての電磁波を詳しく調べてみると、地表に届いているのは、可視光だけでなく、可視光よりもっと波長の長い赤外線や電波も、たくさん地表に達していることがわかります。電波とは、赤外線より波長の長い電磁波のことです。地表でも電波を使えば、私たちが見ている可視光以上の情報を、手に入れることができるはずです。そんな試みが、天文学ではなされています。
 実際に地表に届くのは、すべての波長の電波ではなく、ある限られたものとなります。40m以上の波長の電波は、大気中にある電離層で反射されてしまうので、地上に届きません。また、3cm以下の波長の電波は、大気中の水分子や酸素分子によって吸収されるので、地上にあまり届きません。ですから、波長でいうと40mから3cmの間の電波が、電波のでの観測の対象となります。
 可視光の望遠鏡では、レンズで屈折させて光を集めたり(屈折望遠鏡)、反射鏡を使って光を集める方法(屈折望遠鏡)がありました。電波は、屈折することがほとんどできないため、反射だけで集めるしかありません。そのため、電波望遠鏡の形は、すべておわんのようなパラボラになります。
 可視光を反射をさせるには、反射率の高い鏡面持つものでなければなりませんでした。しかし、電波は金属であれば、どんなもので反射できるので、さまざまな素材を利用することができます。さらに、電波の波長より小さければ、パラボラの反射面に隙間があっても反射できます。隙間を適切に取れば、望遠鏡が大型化しても、重さを軽くすることができます。波長が長ければ、金網でも反射鏡の役目を果たします。
 ここまで、電波望遠鏡の良い点ばかりをあげましたが、もちろん弱点もあります。反射鏡の形は、目的とする波長の4分の1以下のズレにしなければ観測精度が悪くなります。そのため、電波望遠鏡としてパラボラをつくると、ある波長の範囲の電波しか、精度良く測れないことになります。また、波長の長い電波を測定しようとすると、大きな反射鏡が必要となってしまいます。
 さらに、一般に望遠鏡の精度(分解能といます)の限界は、望遠鏡の直径に比例し、なおかつ観測する波長に反比例します。電波の波長は、可視光の波長の1万倍以上もありますから、電波望遠鏡の精度は、光学望遠鏡と比較すると、非常に悪いものとなります。
 このような欠点があるのですが、それでも、やはり電波望遠鏡が使われています。それは、可視光で見えないものが見えるからです。可視光は、星間ガスがたくさんあるようなところでは、光が散乱してしまって通過できません。つまり、星間ガスが多いところでは、雲がかかったような状態になり、星間ガスの向こうが見えません。ところが、電波は波長が長いので、星間ガスであまり散乱することなく、通り抜けることができます。つまり、雲に左右されることなく、雲の中や向こう側が観察できるのです。そのような星間ガスの多いところは、星の誕生の場所となります。電波を使えば、星の誕生を覗き見ることができるのです。
 その他にも、電波望遠鏡はいろいろな利用方法がありますが、それは次回としましょう。

・電波・
電波とは、赤外線より波長の長い電磁波のことです。
これは一般論で、電波法というものでは、
周波数が3,000,000MHz(= 3000GHz = 3THz)以下
波長ではいうと0.1mm以上の電磁波のこととされています。
しかし、すべての波長が利用されているわけではなく、
利用目的によって、非常に需要の多い波長帯もあります。
たとえば、テレビのVHFでは1m~10mを、
UHFでは10cm ~1mあたりの波長を使っています。
携帯電話は波長10数cmを使っています。
そこにたくさんの利用が殺到していますので、
それを混信なく早く使いこなすために、
デジタル化などのさまざまな手法が開発されています。
そのような電波を管理するところが、各国にあり
日本では、総務省となっています。
そしてそので定められているのが、電波法というものです。

・巨大パラボラ・
日本で最大の電波望遠鏡は長野県南牧村の八ヶ岳のふもとにある、
野辺山宇電波天文台の直径45mのパラボラです。
10数年前の一般公開で見に出かけたことを思い出します。
世界最大の電波望遠鏡は、
プエルトリコにあるアレシボ天文台の直径305mのパラボラです。
このパラボラは、自然のくぼ地にパラボラを設置したものです。
ですから望遠鏡は動かすことができません。
しかし、地球が自転しているので、
地球の自転を使って観測すことができます。
私は訪れたことがないのですが、
カールセーガン原作の映画「コンタクト」の
最初の場面でアレシボの電波望遠鏡が出てきました。
それがすごく印象として残っています。

2005年11月17日木曜日

5_44 望遠鏡の工夫

 地球を調べるシリーズの2回目です。前回に続いて光学望遠鏡の話題です。

 望遠鏡でより多くの天体、つまり暗い天体まで見るには、弱い星の光を、できるだけたくさん集めた方がいいわけです。そのためには、望遠鏡の口径を大きくして、光をたくさん集めればいいことになります。その結果、望遠鏡の口径が大きくされていきました。
 望遠鏡を大きくしていくと、レンズを正確に作る技術にも限界があります。屈折望遠鏡では、1m以上になると、精度の良いレンズは、非常に製作が難しくなります。そのため、大きな口径の望遠鏡は反射望遠鏡になりました。
 反射望遠鏡は、屈折望遠鏡の大きさをはるかにしのぐ、10mほどの口径にまで発展しました。しかし、レンズが大きくなれば、レンズが自分の重みで歪んできます。やはり限界がでてきたのです。
 現在は、次世代の望遠鏡として、小さなレンズの集合体として大きなレンズをつくり、レンズ自身の歪みを、コンピュータを使って小さなレンズを動かして補正するという技術が生まれました。能動光学と呼ばれる技術です。
 口径の大きい望遠鏡をつくりより、能動光学で十分調整された性能のいいレンズの望遠鏡をつくる方が今では主流となっています。その口径は、6mから8mほどのサイズです。日本の誇るハワイにあるすばる望遠鏡も、このような能動光学を駆使したものとなっています。この技術が。確立され、進歩してくれば、数十mというサイズの望遠鏡の建築も可能になるかもしれません。
 望遠鏡の精度を上げられない要因が、もう一つあります。それは、大気の乱れです。星が瞬いて見えるのは、大気が動いているため、その中を通る光が乱れるからです。
 大気の乱れを避けるためには、大気のない大気圏外がいいわけです。そのような理由でつくられたのが、ハッブル宇宙望遠鏡です。しかし、地球外にものを、それも巨大で精密な望遠鏡を持っていくのには、ものすごい手間と費用がかかります。ですから、そう容易にできるできることではありません。
 地表で何とかできないでしょうか。そんな思いで生まれたのが、補償光学という技術です。
 原理は、明るい星を一つ決め、その明るい星の光の乱れから、大気の乱れを瞬時に計算して、補正するというものです。大気の乱れを観測し、その乱れを補正するために、100分の1秒以下の単位で、小さな鏡を変形していく技術です。
 現在、そのような補正に使える星の数が、限られていることが問題となっています。空の1%くらいにしか、そのような星がなく、あと場所では、この技術が使えないのです。
 しかし、人間はあきらめないのです。大気の乱れを測定するための星がなれば、人工的に星に変わるものをつくればいいと考えたのです。
 ハワイ・マウナケア山にあるケック望遠鏡で、補償光学をするために、人工的に「明るい星」に変わるものをつくったのです。レーザで上空95kmにあるナトリウム原子の層を照らし、その層が9.5等星の明るさで輝くようにしたのです。つまり人工的に明るい星に変わるものをつくり出したのです。その輝きを利用して、空気の乱れを測定しようということです。
 この技術が確立されれば、ケック望遠鏡は、ハッブル宇宙望遠鏡の4倍の解像度が出ると考えられています。
 人間の知恵には、限界がないのでしょうか。このような最先端の技術を見ていると、そう感じてしまうのは、私だけでしょうか。

・冬の到来・
いよいよ私の町にも、初雪が降りました。
平年より2週間ほど初雪が遅かったようです。
初雪の前までは、暖かかい日が続き、
雪虫もいつもりたくさん飛び交っていました。
庭の木々には、もうすでに雪囲いが施されています。
公園のベンチもまとめてビニールがかけられています。
ブランコも取り外されました。
我が家の車も、スタットレスの冬タイヤに変えました。
みんながそれぞれ雪に備えてきました。
いよいよ冬の到来です。

・年の功・
大学では、若者たちが、薄着で冬を迎えています。
彼らはどうしてあんな薄着で耐えられるのでしょうか。
いつも不思議で仕方がありません。
確かに彼らも外に出ると寒そうにしています。
それでも、彼らは薄着で済ましています。
私にはもう寒さに耐える気力、体力がありません。
ですから、早めに厚着をして対処しています。
これは、老化でしょうか。
それとも年の功でしょうか。

2005年11月10日木曜日

5_43 大気の障害を越えて

 「調べる道具」シリーズをはじめます。今回は、宇宙の眺める望遠鏡についてです。

 地球には、大気があります。大気は地球の大きさと比べると、あまりに薄く、か弱いように見えます。しかし、この薄い大気が、地球の外から来るさまざまな電磁波を吸収して、地表に届かないようにしてしまいます。そのおかげで、地表で生命が安心して生きてるのです。
 地表から地球の外の宇宙を見ようとすると、この大気が多くの電磁波を吸収してしまうという効果が、逆に障害になります。夜に空を見ても、赤外線の一部と可視光だけが、観察できる部分となります。どんなに道具や技術を工夫しても、届かないものは、調べることができません。でも、可視光を詳しくみれば、星の観測は十分できるはずです。それが望遠鏡の歴史でもあります。
 遠くのものを見るには、目を凝らします。しかし、どんなに目の良い人でも、見えるものには限界があります。目より遠くを見る道具として、望遠鏡が登場しました。
 望遠鏡を最初に天体観測に利用したのは、ガリレオでした。ガリレオは、レンズの原理を研究して、いくつかの望遠鏡を作り、月、太陽の黒点、木星、土星、さらには、天の川まで調べていきました。
 ガリレオの望遠鏡は、対物レンズに凸レンズ、接眼レンズに凹レンズを用いました。ケプラーは、対物レンズも接眼レンズも凸レンズを使いました。これらは、光を屈折させるので、屈折望遠鏡とよばれています。その後、ニュートンは、対物レンズの変わりに凹面鏡を使う反射望遠鏡をつくりました。
 屈折望遠鏡で、より遠くを見るには、大きな対物レンズが必要になります。そのためには、大きなレンズをつくる技術が必要です。1879年アメリカのヤーキス天文台の口径1.02mの望遠鏡をピークにして、製作の簡単な反射望遠鏡に取って代わりました。ヤーキス天文台の望遠鏡は、現在使われている最も大きなものです。
 反射望遠鏡では、19世紀中ごろに、凹面鏡のガラスの表面に銀のメッキをする技術が実用化されました。その結果、20世紀になると、倍率が大きくて、より多くの光を集める口径の大きな反射望遠鏡が、次々と作られました。ハワイにあるケック望遠鏡は、口径1.8mの鏡を36枚組み合わせたもので、合成した口径が10mとなり、世界最大の反射望遠鏡となっています。
 小さな望遠鏡で、天体を見ている分には、口径を大きくすることはいいことでした。しかし、望遠鏡の性能が上がり、大きな望遠鏡になってくると、どうしてもクリアできない問題がでてきました。
 それは、空気のゆらぎとレンズの歪みでした。
 大気のゆらぎの中を光が通ると、光もゆらいでしまいます。星が瞬いているのは、大気のゆらぎのためです。望遠鏡が大きくなれば、望遠鏡の中の光の通り道のゆらぎが問題となってきます。
 また、反射鏡でも、レンズが大きくなると、レンズが自分の重みで歪んできます。こんなささやかに見える反射面の歪みも、解像度に大きな影響を与えます。このようなゆらぎと歪みは、どんなに精度よく見ようとしても、星の姿をぼやけませますつまり、どんなに口径を大きくして、光を集めても、良く見えための限界があります。
 大気のゆらぎやレンズの歪みを克服するために、新しい望遠鏡はさまざまな工夫を凝らしています。それは次回としましょう。

・調べる道具シリーズ・
今回から「調べる道具」シリーズをはじめます。
いろいろ調べる道具があります。
そんな道具に秘められた
さまざまな工夫、苦労をみていきたいと考えています。
まず今回は、望遠鏡からでした。
予想通り1回では終わりませんでした。
続きは次回のお楽しみです。

・大学の値打ち・
今年は、秋が暖かくていいのですが、
落ち着かない日々が始まりました。
それは、大学は推薦入学の申し込みがはじまったからです。
少子化の時代ですから、推薦入試の申し込み数が
多い少ないで、大学関係者が一喜一憂する季節となります。
推薦入試の次がセンター試験、その次が一般入試となります。
あわただしい時期が始まります。
そんなとき、ふと次のようなこと考えました。
私立大学は、学生が入学することで運営されています。
学生にたくさん受験をしてもらって、
大学にあった学生だけを選抜していくことが
大学にとって大切なことです。
それが入試であります。
そのためには、学生にとって魅力のある大学を、目指さなければなりません。
それを、大学自身が常に模索しています。
時代や社会、大学によっても魅力は違うでしょう。
大学教員として単に教育熱心だけではダメなようです。
つまり教員がどんなに熱心にいい教育をしても、
無駄ではないのですが、集客力を発揮しないのです。
自慢とする良い教育を、少なくとも、高校生やその父母に、
評価してもらうためには、宣伝が必要です。
他の大学の比べて違っている点、
勝っている点を明確に打ち出し、
いろいろ考え出してアピールすることになります。
しかし、それは多くの大学でやっています。
アピールできる点が、ある年あったとしたら、
次の年には、他の大学もそれをマネてきます。
イタチゴッコのような気がします。
高校生やその父母は、そんな宣伝を、
多数の評価の一つとして見ているに過ぎないようです。
やはり、教員として、誠意を持って今いる学生の教育をすること、
そしてそれを真摯に飽くことなく繰り返すことが
大学教員としての基本はないでしょうか。
それを当たり前でも、対外的に示すしかないのではないでしょうか。
良い教育のないところに、大学の存在意味がないのですから。
多分、これは理想論でしょうね。

2005年11月3日木曜日

1_53 新生代2:新しい生物の出現(2005.11.03)

 地質時代シリーズの新生代の2回目です。今回は生物に起こった変化を見ていきましょう。

 前回、新生代の特徴として、哺乳類の多様化・大型化、被子植物の多様化、寒冷化、人類の誕生の4つを挙げました。今回は、動物と植物で起こった変化みていきましょう。
 新生代に入って生物に起こった変化の原因は、中生代末のK-T境界と呼ばれる隕石の衝突という事件によって、引き起こされた大絶滅でした。
 隕石の衝突によって、中生代に繁栄していた多くの生物が絶滅しました。種(しゅ)の数で見ると、中生代に生きていた生物のなんと70パーセントが絶滅したと考えられています。個体数のデータはありませんが、個体数で見るともっと多くの絶滅が起こったはずです。つまり、地上の生物の数は、極端に少なくなっていたに違いありません。
 中生代の陸上を支配していた恐竜も滅びました。海ではアンモナイトが絶滅し、海面近くで暮らす有孔虫という微生物の仲間もたくさん絶滅しました。
 何とかこの危機を生き延びたももは、力が強かったわけではありません。大きかったからではありません。良い場所をたくさん占有していたものでありません。必ずしも強いものが生き延びたわけではないのです。生き残ったのは、隕石の衝突によって訪れた過酷な環境を、細々とでも、冬眠してでも、種としてでも、根としてでも、何でもいいから、少しの数でもいいから、生き延びたものたちだけでした。
 突然に訪れた苛酷な環境は、回復して、もとの状態にもどっていきます。すると、そこには、海でも陸でも、ほとんど競争相手のいない自由に使える環境が広がっていることになります。生き延びた少数の種の少数の個体は、その環境を好きなように利用できるのです。
 陸上で繁栄していたのは、動物では哺乳類、植物では被子植物でした。
 哺乳類の祖先は、古生代には古いタイプのものはすでに誕生していました。中生代にも生きていましたが、恐竜の仲間が繁栄していたので、小さな体で、ほぞぼそ暮らしていました。新生代になり、恐竜の生き残りたちと競争をして勝ったのは、哺乳類でした。恐竜の生き残りたちは、陸地を追われ空を生活の場としました。それが鳥類です。やがて哺乳類が大繁栄をして、陸地の支配者になりました。そして海をも生活の場とするものまで生まれました。これは、恐竜がたどった道と同じでした。
 植物でも交代劇はおこりました。中生代はイチョウやソテツなどの裸子植物が陸地を支配していました。花を咲かせる被子植物は中生代白亜紀に登場したのですが、新生代になって大繁栄します。
 隕石の衝突による環境変化は一時的なものでした。衝突の影響から回復した新生代は、中生代の温暖な気候がまだ続いていました。温暖な環境の下で、哺乳類と被子植物は、繁栄していきました。南極にも熱帯林がみられるほどの暖かさでした。ですから地球の陸地のほとんどが温かい気候となり、生物たちはその中で進化しました。
 ところが、約5500万年前の古第三紀初期から、地球の気候は寒冷化しいきます。それは、とどまることなく寒冷化の一途をたどります。寒冷化が始まって約4000万年前には、オーストラリア大陸が南極大陸から分裂します。約3000万年前には、南極大陸は氷で覆われるほど寒くなりました。
 寒冷化によって、暖かいところから寒いところまで、陸地には多様な環境が生まれてきました。寒冷化によって生まれた多様な環境に、生物は適応していきました。その結果、生物の多様性を生み出しました。
 新生代の気候変動については、次の機会としましょう。

・過ぎ行く秋・
北海道では、あちこちの山ですでに初雪の便りを聞きました。
まだ、私の住む里には初霜も初雪もありません。
今年の秋は、少し暖かいようです。
しかし、確実に季節は、冬に向かっています。
木によっては、紅葉が、もう盛り過ぎたものもあります。
先日、初雪前に飛ぶという雪虫の大量発生がありました。
私の家でも、冬に備えて、いろいろ変化がありました。
夏に使う網戸もはずしてしまいました。
家内が、漬物用の大根をたくさん買いました。
新しいスタットレスタイヤを購入しました。
こんな秋の光景を目にすると、季節の移ろいを感じます。
冬を目前にすると、過ぎ行く秋が惜しくなります。

・新メールマガジン・
再度、新しいメールマガジンの告知をします。
それは、「Terraの科学」というものです。
Terraに関する広範な内容を
深くそして多様な見方で紹介しようと考えています。
Terraとは「地球」という意味ですが、
この講義ではもっと広く地球に関係するすべてものととらえます。
大人も考えさせられ、子供にも分かる内容にします。
ぜひ、興味のある方はホームページをのぞいてください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、メールマガジンも発行しますので、登録する方は、
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
でお願いします。
「地球のささやき」のようなエッセイではなく、
大学で私が実際に行っている講義を同時進行でお送りします。
大学生レベルの内容ですが、
小学生や中学生でもわかるものを目指しています。
よろしくお願いします。

2005年10月27日木曜日

1_52 新生代1:時代区分(2005.10.27)

 地質時代シリーズです。いよいよ新生代になります。まずは、新生代の概要から紹介しましょう。

 新生代は、現在、古第三紀と新第三紀の2つに分けられています。古第三紀は6550万年前から2303万年前の間の時代、新第三紀は2303万年前から現在でです。
 さらに、新第三紀は、古いほうから暁新世(6550万年前~5580万年前)、始新世(5580万年前~3390万年前)、漸新世(3390万年前~2303万年前)に区分され、古第三紀は、中新世(2303万年前~533.2万年前)、鮮新世(533.2万年前~180.6万年前)、更新世(180.6万年前~1.15万年前)、完新世(1.151万年前~現在)に区分されています。
 ここまで読まれた方は、新生代は、まず、第三紀と第四紀に分かれるのじゃないの、と思われたでしょう。実は、国際的に地質年代区分を考える会議で、以前にあった第三紀と第四紀の区分は、2004年に正式に消えました。
 上で述べた古第三紀と新第三紀は、仮の日本語名称です。古第三紀は英語ではPaleogene、新第三紀はNeogeneとして決められていますが、正式日本訳はありません。第三紀(Tertiary)という名称が消えたのですから、第三紀に新旧をつけて区分するのはおかしいことになります。しかし、ここでは旧名称のまま使いました。日本語訳を正式に決めるのは、日本地質学会ですが、学会でも議論や提案はありますが、まだ決定はされていません。
 第四紀という言葉は、地質学だけでなく、いろいろな学問分野で使われています。学会名にも使われています。ですから急になくすことはできず、まだ名称としては残っています。しかし、国際的には、時代区分としては使わない方がいいとされています。一応あちこちで使われているので、新第三紀の一番新しい時代の呼び方として、260万年前~現在間を第四紀として暫定的に残されています。
 時代区分はここまでにして、新生代の概要をみておきましょう。
 中生代の末の大絶滅(K-T境界の事件)が起きました。また、中生代が温暖な時代であったの対して、新生代は寒冷化が起こりました。それら2つの原因によって、生物に大きな変化がありました。
 新生代の特徴を挙げると、
・哺乳類の多様化、大型化
・被子植物の多様化
・寒冷化
・人類の誕生
となるのでしょう。
 これについては、次回以降で詳しく紹介しましょう。

・新メールマガジンの発行・
新しいメールマガジンを発行します。
これは、「Terraの科学(Part2)」というものです。
Terraに関する広範な内容を
深くそして多様な見方で紹介しようと考えています。
Terraとは「地球」という意味ですが、
この講義ではもっと広く地球に関係するすべてものととらえます。
広くしかし深くTerraを見ます。
奇抜にでも納得できる見方を示します。
大人も考えさせられ、子供にも分かる内容にします。
Terraに関する永遠の疑問にも答えることもできます。
ぜひ、興味のある方はホームページをのぞいてください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、メールマガジンも発行しますので、登録する方は、
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
でお願いします。
「地球のささやき」のようなエッセイではなく、
大学で私が実際に行っている講義を同時進行でお送りします。
大学生レベルの内容ですが、
小学生や中学生でもわかるものを目指しています。

そころで、Part2というからには、Part1があるはずです。
実は、以前、2年間に及ぶ毎週の「Terraの科学」を行いました。
今度は、Part2として、
・メールマガジン
・ホームページ
に加えて、
・音声と動くカーソルによる講義のファイル
も同時にお送りします。
より本物の講義に近いものになります。
内容はPart1と重複することあります。
しかし、多くの点で進歩していると思います。
受講する人は、専用プレーヤーをインストールする必要があります。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/player.html
一度インストールしたら、
あとは、ダウンロードしたファイルをダブルクリックするだけで
自動再生ができます。
ソフトのバージョンアップも自動でおこえます。
詳しくはホームページを参照ください。

・人との出会い・
新しいメールマガジンの講義ファイルは、
PC Letterというソフトを使って作成しています。
私がこのソフトを初めてインターネットで出会ったときは、感動しました。
それは、2005年の4月8日のことでした。
伝えたい内容を、直接にわかりやすく、伝えられるものであること
非常に有効であることを感じました。
まさに「百聞は一見にしかず」を身をもって経験しました。
このPC Letterというソフトを、私は自分が現在取り組んでいる
ITを用いた科学教育に利用できないかと考えました。

どんなに良いソフトでも金額的に高ければ利用することができません。
それと、このソフトの仕様のままでは、
私のやりたいことができないと感じていました。
ですから、安くてな、おかつ仕様の改造可能かどうかが問題となりました。
調べてみるために、ソフトの製作者にコンタクトすることにしました。

まずは問題の価格も個人のポケットマネーで払える程度でした。
とりあえずは導入可能であることが分かりました。
こんなすごいソフトの製作者は、
なんと北海道の襟裳岬に近い浦河町にある
三栄堂という小さな電気屋さんを営む三上博正とその甥子さんでした。
地方からもいいものが生まれるという証拠を見ました。
早速私は、このソフトの試用をお願いしたところ、
快くソフトを提供いただきました。

ところがこのソフトはインタネットを利用するため
大学のセキュリティと私のセキュリティソフトのトラブルのため、
なかなか動くようになりませんでした。
普通なら、トラブルが長く続くようなソフトは
すぐにあきらめてしたでしょうしょう。
しかし、このソフトが自分のやりたいことを実現してくれそうなので、
何度もめげそうになりながら、
なんとか動くようにしたいと粘っていました。
三上さんにも何度も連絡を取り
対処の方法をお尋ねしました。

三上さんたちも大学にまで2度も出向いてくれました。
その結果、やっと動くようになりました。
作る側になって、このソフトのもつ潜在能力をますます感じました。

そして、あつかましくも、私は自分のやりたいことを説明して、
それに使えるようにソフトの仕様の改良をお願いしました。
そんな希望に対しても三上さんは快く応じてくださいました。
それが今回のメールマガジンをはじめるきっかけとなりました。

大学の研究費を工面して、心ばかりですが、ソフト改良代としました。
まだ、このソフトはバージョン1になっていません。
日々改良されているということです。

このような好意に対して私のできることは、
やはり私にできることで最大限の誠意を示すことです。
私がもともとこのソフトに魅力を感じたのは
科学教育に利用することです。
ですから、このソフトを利用して
質のいいコンテンツをつくり上げることだと思います。
それが最終的に、このソフトのよさを宣伝することになるのだと思いました。

私は、三上さんとの出会って良かったと思っています。
なぜなら、自分と同じように
地方で独力でがんばっていることに共感を覚えたからです。
そして良いものは、都会でも地方でもハンディはないということです。
優れているものは、都会の大手企業が宣伝費と使えば
利用者を爆発的に増やすことできるかもしれません。
たとえ人数が少なくても、
本当に必要としている人には、本当に使っている人には、
その良さはきっと分かるはずです。
私が地方で孤立無援で新たしい学問である
地質学や科学教育、地質哲学にがんばっていけるのは、
そのような背景があるからです。
いや、そのような背景があるのなら
雑音や雑用、誘惑の多い都会より、
田舎のほうが開発環境がいいかもしれません。
私と三上さんは分野や手法は違うのですが、
考え方に共通するものがあります。
本当にいい出会いがあったと思っています。

2005年10月20日木曜日

4_65 古戦場の静内川へ

 10月の連休に北海道の静内川に出かけました。丸一日、静内川を遡りながら調査をするつもりでしたが、残念ながら目的は果たせませんでした。そのときに感じたことを紹介しましょう。

 四半世紀も前になりますが、私が卒業論文で調査をした地が、日高山脈のカムイエクウチカウシ山に源流をもつ静内川でした。カムイエクウチカウシ山の標高は1979mです。奇しくも、その1979年に私は、この静内川流域で3ヶ月間滞在して地質調査をしました。
 当時、高見ダム建設の真最中で、ダム予定地付近では、大規模な土木工事がおこなわれていました。山奥なので、街まで2、3時間かかります。通っていては時間のロスとなります。ですから、労働者たちは住み込みの飯場で生活をしていました。大変な数の労働者なので、多くの飯場があり、ガソリンスタンドも店もあり、ちょっとした村ともいうべき場所が出現していました。私は、そんな飯場群の一番上流のところに3ヶ月間、お世話になって、寝泊りすることにして、調査をしました。
 いくらたくさんの人がいるといっても、工事現場のダムサイトから離れるとそこは、日高山脈の奥地です。ですから、人跡のほとんどない沢を、一人で黙々と調査しました。最初は一人で沢を歩くとが怖かったのですが、しばらくすること、一人で歩くこと、一人で調査することの楽しさが分かってきました。ヒグマやエゾシカ、エゾクロテンなどに出会うと恐ろしくもあり、楽しくもありました。
 そして、この3ヶ月に及ぶ野外調査が、私に地質学のすばらしさを教えてくれ、一生の仕事として今も縁があります。
 私にとって古戦場ともいうべき静内川を再訪するために、10月の連休にでかけました。私は、今、地質学と哲学、教育学の狭間をテーマにしてい研究しています。それをライフワークにしようと考えています。しかし、成果がなかなかあがりません。そんな自分自身を見つめなおすために、私にとって学問を目指す原点となった地にもどろうと考えました。そして、そこで感じたことを、今後の自分のライフワークの参考にしようと考えていました。
 静内川沿いには、かつて日高横断スーパー林道の予定地があります。日高横断スーパー林道を造るか造らないで議論があり、結局は造らないという結論になりました。その道を行けば、自分の調査したところが一日で見て回れるはずでした。自分の書いた卒論を読み返して、携えてでかけました。
 実際に行ってみると、高見ダムより下流にある静内ダムで通行止めとなっていました。落石が危険なためと書いてありました。私が調査した地には、残念ながら、入ることができませんでした。未練があったのですが、静内ダムより下流の川原を調査しならが、帰途に着きました。
 調査地より下流の川原で、自分の調べていた石ころを手にしながら、見ることのかなわなかった上流の調査を思いました。そして、過去を振り返ることはないのだ、未来をみて進むことを考えればいいのだと悟りました。
 静内川の下流近くの川原を調査しているとき、本流から分かれた小さいな流れにサケが遡上して産卵している場所を見かけました。今まで、秋に北海道の川を調査すると、サケの遡上は良く見かけました。しかし、産卵をする光景は始めてみました。感動してしばらく立って見入っていました。
 産卵に適した場所を何度も回りながら泳ぐメスの周りを、ガードするように一匹のオスが回っています。時々来る別のオスを追い払いながら、傷だらけのオスがメスを守ります。メスは砂利の川底を時々尾びれで掘り返しています。オスは、時々メスに産卵を促します。そんな繰り返しが延々と続いていました。実際の産卵するまでには長い時間がかかるようなので、30分ほど見ていたのですが、あきらめて帰りました。
 流れる時間には攻し難きものがあります。私はそんな過去を顧みるために静内川の古戦場に戻りました。結局はいくつくことができませんでしたが、サケの産卵現場をみて、それでいいのだと思いました。
 産卵現場の少し川下には多数のサケの死体がありました。それを食べる鳥たちがたくさんきていました。サケは死してなお、自然への恵みとなります。自然の生き物は、このように時の流れの中で、自分の役割を果たして死んでいきます。私も、自分の選択を信じて、時の流れに乗り、過去を振り返ることなく、前を見て進もうと考えました。

・川らしい川・
静内川は二級河川です。
もちろん治水工事は各所でなされています。
しかし、いい川原があれば、
そこに行くことができました。
ある沢の合流の出会いでは、
広々とした川原が広がっていました。
非常に気持ちのよい川原でした。
別のところでも広い川原があり、昼食をとりました。
久しぶりに川原らしい川原をいくつも見ました。
こんな当たり前の自然の川原を
北海道でも今までなかなか見ることができませんでした。
そのためストレスがたまっていたのですが、
今回の静内川で、川らしい川を見て
今までのストレスを晴らすことができました。
やはり静内川は私にとって
新たな心がまえを与えくれました。

・古戦場へ・
なぜ古戦場へいくことを思い立ったのかというと、
それは地質学者の巽好幸さんが書かれた
「安山岩と大陸の起源 ローカルからグローバルへ」
という本の最後に、こんな言葉が書かれていました。
「もっとたくさんの課題があるに違いない。
人生は無限に続く訳ではないのだから、
より効率的に、そしてしっかりと物事を進めていくために、
少し冷静になって考えてみたいと思っている。
そのためにも、私はこの本を抱えて、
もう一度小豆島を訪れるつもりでいる。」
小豆島は、巽さんが卒業論文で調査されたところです。
私もこの言葉に刺激されたのです。
一流の研究者と私とでは、
やはり能力も行動力も違うのでしょう。
私には、天も味方しませんでした。
でも、古戦場の川は、過去より未来を、
今流れている時間を精一杯に生き抜くことの
大切さ教えてくれました。

2005年10月13日木曜日

4_64 石狩川の源流へ

 9月下旬の連休に、石狩川の上流を目指しました。石狩川の源流である石狩岳に、できるだけ近づきたいと考えて出かけました。

 北海道を代表する石狩川は、アイヌ語が語源だとされています。いくつかの説があるようですが、「非常にまがりくねった川」を意味する「イ・シカラ・ペツ」というアイヌ語が語源だといわれています。
 石狩川の源流は、標高1967mの石狩岳です。石狩岳は、大雪山系から東に延びる石狩山地の中にあり、主峰ともいうべき位置にあります。石狩岳に端を発した石狩川は、大雪山を反時計回りに流れながら、旭川、深川、滝川、岩見沢、江別を抜け、石狩で日本海に出ます。全長268kmに及ぶ大河です。
 長さでみると石狩川は、日本では3番目の長さで、北海道では一番長い川です。日本で第一位が367kmの信濃川、第二位が322kmの利根川です。ここに示した川の長さは、現在ものです。
 石狩川は、もともとの人手が入る前の状態では、語源どおり、激しく蛇行していたため、356kmもありました。第一位の信濃川に次ぐ長さでした。しかし、明治から開拓が始まると、治水事業として、蛇行を短絡してまっすぐにする工事がおこなわれました。その結果、88kmも短くなりました。現在も治水工事は続いています。
 私は、北海道に13個ある一級河川を調べています。中でも石狩川が長く、自宅の近くにあるので、よく調べています。しかし、なかなか源流へは出かけることができませんでした。そこで、思い切って今年の9月下旬の連休にでかけました。
 連休の初日は雨でした。調査もできないで、層雲峡でうろうろしていたのですが、夕方近くになって雨が上がったので、下見をかねて、石狩川源流に向けて出かけました。層雲峡を抜けて、石北峠に向かう国道39号線から左に別れ、次いで三国峠に向かう国道273号とも分かれ左に進みます。そこからは林道です。
 下見のつもりで途中までいって、いい川原を見つけたので調査をしました。その日は暗くなったので、それより奥に行くことなく帰りました。翌日は大雪山の黒岳に登る予定だったので、翌々日にもう一度、もっと上流まで調査に入るつもりでした。
 翌々日に再度出かけたとき、驚きました。上流に入る林道は通行規制がされていました。大雪山の山腹に大雪高原温泉があるのですが、そこまでマイカーがたくさん入り、事故も起こるのでしょう。国道脇の駐車場にマイカーをとめて、そこから先はバスで温泉までいくことになります。
 下見に行った日は、天気が悪く観光客もいないので、通行規制が解除されていていたようです。通行規制を知らせる看板があったのですが、解除という張り紙がしてあったので、もう規制の期間は終わったのだろうと思い込んでいました。
 調査するつもりの日は、天気もよく、駐車場には多くの車やバスがとめてありました。バスで温泉に行ったのでは、調査になりません。ですからあきらめました。でも、いつの日にか、石狩川の源流の調査をしてみたいものです。

・源流へ・
私が石狩川の源流の調査を渋っていたのは、
層雲峡が有数の観光地で、
なかなか安い宿が取れないのと、
人が多いことが理由でした。
石狩川源流への旅は、
9月23日から25日の連休でした。
早めにペンションを予約しておき、出かけました。
予想通り紅葉シーズンで
多くの観光バスが層雲峡には来ていました。
源流へはいけなかったのですが、
上流の各所で調査はしました。
しかし、できればなんとか再度出かけて
念願の源流をたどりつきたいものです。

・渡り鳥・
山の上の方は9月下旬ですが
紅葉が始まっていました。
私が登った黒岳には、
9月20日には初雪が観測されていました。
先日朝大学に着くと
空からカモの鳴き声がしました。
見上げると快晴の秋空を
南に向かって渡り鳥が飛んできました。
彼らは季節の変わり目を忘れることなく
移動を続けています。
季節や自然は人の思いとはかかわりなく流れていきます。

2005年10月6日木曜日

4_63 西予市再訪

 何度目の城川でしょうか。このエッセイでも何度か紹介したのですが、またまた愛媛県西予市城川町に来ました。再度西予市の紹介と私がたびたび訪れる訳を紹介しましょう。

 西予市の中でも特に城川町にはたびたび来ています。今年も2度目となります。2005年9月16日から22日までの6日間、西予市と周辺の地質調査をしました。
 2004年4月に城川町は市町村合併によって、近隣の5つの町が集まって西予市になりました。私はそれまで、城川町立地質館の設立の協力、資料収集の援助、そして普及活動の実施などで毎年のように城川町に通っていました。城川町から西予市というものに新しく行政単位が変わりましたが、地質館は存続しています。
 近年では、地質館を中心とした地質学の普及をいろいろな手法を試みてきました。特に遠隔地での連携教育を目指して新しい試みをしています。西予市の地質館になったことによって、地質館の扱うべき地域が今までの城川町から西予市全域へと広がりました。そのため、今まで城川町で行っていた地質の教育素材を西予市全体に広げるための調査を昨年から始めました。
 今回でまだデータのない市町村で調査をして、教育素材を集めることが目標でした。できれば、今年で調査を終わらせて、来年には拡大したホームページや普及活動に入りたいと考えています。
 長年の付き合いで城川にたびたび来ているのですが、それ以外にも訪れる理由があります。それは、城川町が地質学的に重要で面白い地域であるからです。
 黒瀬川構造帯とよばれる地帯が城川を通っています。黒瀬川構造帯は、秩父帯と呼ばれる地層の中に、紀伊半島から九州まで点々と分布する変わった岩石群から構成されています。
 黒瀬川構造帯の岩石群は、古生代から中生代にかけての列島を構成したいたものだと考えられています。この列島を黒瀬川古陸と呼んでます。現在の日本列島と似たような岩石種からできます。
 シルル~デボン紀の堆積岩(岡成(おかなろ)層群と呼ばれています)、角閃岩や片麻岩と呼ばれる変成岩(寺野変成岩)、圧力でつぶれた花崗岩の仲間(三滝火成岩)、マントルを構成していた岩石(超塩基性岩で現在は蛇紋岩になっています)などがあります。
 これらの岩石の岡成や寺野、三滝という名称は城川にある地名です。また黒瀬川という名称も城川にある川の名称です。日本でもかなり古い時代のシルル紀の化石が、城川町で見つかっています。ですから、地質学的に重要なところなのです。
 また秩父帯の南側にある四万十帯の境界は、仏像構造線と呼ばれているのですが、これは中央構造線に次ぐ大きな断層帯です。それも西予市内で見ることができます。大きな断層帯の本当の断層はなかなか露頭でみることができません。たいていは地形に現れてるだけで、衛星画像や航空写真では判別できるだけです。西予市でも断層がつくる崖(断層崖といいます)となっていて、露頭がほとんどありません。しかし、今回の調査で、1箇所ですが断層を確認できました。
 自分たちの住んでいる地域が、地質学的に面白いところであるということを、案外地元の人は知りません。古い化石が市内の結構あちこちで見つかり、仏像構造線が見えるとこがあり、構造線によって市内も特徴的な地形ができるこをあまり知りません。そんなことを伝えて理解してもらうことが、目標であるのです。そしてそんな情報を外に向けて発信していくモデルケースとしていきたいと考えています。

・ホッとするところ・
城川町は私にとって第二の故郷のような気がします。
山林に囲まれた清流の里に来るとホッとします。
馴染みのある地だからでしょうか。
自然がかもし出す環境からでしょうか。
自分の子供時代に過ごした景色に似ているからでしょうか。
わが大学の教員は、5年以上勤務すると
申請が通れば1年間研修に出ることができます。
一般にはサバティカと呼ばれるものです。
私はサバティカでの1年間を
ここで過ごそうかと考えてくらいです。
しかし、現実はなかなか厳しく、私の希望通りにいかないようですが。

・第二の故郷・
上で第二の故郷という言い方をしましたが、
何をもって第二の故郷というのでしょうか。
第一の故郷ははっきりしています。
生まれ育ったところです。
もしまだ親や親族がいるなら
第一の故郷はまだあることになります。
では第二の故郷とは、二番に長く住んだところでしょうか。
その定義では城川町は私の第二故郷ではありません。
第一の故郷とは私の場合は、生まれて20年近く過ごし、
そして親も親族もまだ暮らしている京都になります。
もし第二の故郷を二番に長く過ごしたところとなる、
私の場合、神奈川11年、札幌10年、鳥取5年となります。
神奈川も札幌も鳥取も、いずれも数年毎に点々と転居していました。
それにその地が好きで住んだのは
神奈川県湯河原の4年間と現在の江別が3年半です。
でも、暮らした時間が短いので故郷という実感がわきません。
もし第二の故郷とは心からそう思えるところとしたら、
私のような場合でも、
城川を第二の故郷としていいのではないでしょうかね。

2005年9月29日木曜日

1_51 中生代から新生代へ4:衝突説の影響(2005.09.29)

 K-T境界の事件については、今回が最後です。K-T境界の研究は欧米の科学者たちが中心になって進めてきました。この説が科学的検討に耐え定説化した裏側には、科学者の人間的な営みもあったのです。

 中生代の白亜紀から新生代の古代三紀へ時代境界、K-T境界についての事件のあらましは、前回まで3回にわたって紹介してきました。このK-T境界の論争は、学問的な成果だけでなく、実はいろいろな影響を与えました。その波及効果の2つについて、今回は紹介しましょう。
 ダーウィンの進化論以降、生物の進化を科学的な視点で考えられるようになってきました。欧米においては、生物の進化を採用すということは、宗教からの脱却をも意味しました。かつて欧米では、世の中のあらゆることが、キリスト教あるいは聖書に基づいてました。生物進化を採用することは、「聖書の中の事実」としてノアの洪水のような天変地異の出来事や創造説を否定することでした。
 宗教からの脱却には歴史的な天変地異説と斉一説の大論争がありました。激変説とは、19世紀初めにキュビエが中心になって唱えた説で、地球の歴史では急激な天変地異が何度もあり、そのたびに生物が絶滅し、新しい生物が出現したという考えでした。キリスト教では、激変とは「ノアの洪水」のことでした。斉一説とは、現在も働く地球の定常的な営みによって、過去の出来事もさなれるという考えです。生物の進化もその中に位置づけられました。
 天変地異説と斉一説の大論争の結果、斉一説が勝って現在に至っています。ですから、西洋の科学者にとっては激変説は、過去の苦い歴史で、一種のタブーでもありました。ところが隕石衝突説とは、激変説の再来でもあったのです。
 隕石衝突説は、欧米の人にとっては、科学以前に心理的に抵抗があったようです。科学的に反論するために、隕石衝突説を他の絶滅説でも検証しようとしたのですが、なかなか証拠がそろわないで、現在では負けた状態となっています。
 科学的に隕石衝突説が正しいことがわかってくて、科学者たちがそれを受け入れるようになってくると同時に、天変地異説と斉一説の争いという歴史的呪縛から開放されたのです。
 もう一つ重要な波及効果がありました。それは、この隕石衝突説が提唱された頃にあった「冷戦」という世界情勢と関連していました。
 第二次大戦後、トルーマン大統領のアメリカ合衆国と指導者スターリンのもとのソビエト連邦(当時)との間で始まった対立は、1947年、アメリカのジャーナリストのリップマンが書いた「冷戦」という本によって、一般化した言葉になりました。大戦後から1980年ころまでは、アメリカとソビエトによる軍拡による冷戦の時代でありました。
 1980年のアルヴァレらの論文に刺激をうけたカール・セーガンらは、1983年に「核の冬」という論文をサイエンスという世界的に権威のある雑誌に発表し、世界に衝撃を与えました。
 冷戦による軍拡によって米ソ両国は、大量の核兵器を保持していました。セーガンらのモデルは、両国が使用できる全核弾頭の半数以上を爆発させたいう核戦争をシミュレーションしたものでした。モデル計算をした結果は、次のようなシナリオとなりました。
 核戦争によって上空に持ち上げられた大量の塵や火災による煙によって、北半球の地表は寒く暗くなります。3週間後に陸上の気温が40°Cほど低下します。太陽光を利用する光合成が停止し、植物が壊滅します。それによって食物連鎖が切断されます。さらに光合成によって供給されていた酸素もなくなり、オゾン層が減少します。有害な紫外線は陸上生物にさらにダメージを与えます。
 最終的に、生存する生物は非常に少ないという結果になりました。さらにホモ・サピエンスの絶滅を引き起こすと、結論しました。
 科学者だけでなく心ある人たちは、この論文に衝撃を覚えました。その論文だけのせいではないかもしれませんが、幸いにも全面核戦争は回避されました。冷戦は科学が招いた人類の危機でしたが、その危機を察知して警告を出したのも科学でした。科学は両刃の刃なのです。

・はじめてのこと・
隕石衝突説の提唱の一人、ルイス・アルヴァレスは
核とも関係が深い人物でした。
彼は、核兵器による「はじめて」のことに
2度も立ち会ったことのある唯一の科学者でした。
その「はじめて」のこととは、
・最初の原爆実験を上空から観測したこと
・人類にはじめて使用した原爆を広島の上空から観測したこと
というものです。
核に対して重要な「はじめて」の事件に
二度にわたって上空から核爆発に立ち会ってきました。
いってみれば、ルイスは核爆弾を一番知っていたのです。
カール・セイガン以上に核について知ってるはずです。
それを後の論文に反映させなかったのは、なぜだったのでしょうか。
でも、それに関してはもう問うことのできない過去のことです。
いずれにしても、K-T境界の隕石衝突説は、
人間の核戦争への抑止力にもなったのです。

・短い秋・
秋分の日の連休に、大雪山にいってきました。
黒岳に家族で登ってきました。
8合目あたりまで広葉が始まっていました。
広葉どころか、9月21日には、
大雪山の黒岳や旭岳では初雪が観測されました。
麓ではまだ秋の花が咲いているのに、
山では冬が忍び寄っていました。
北海道の短い秋が山から駆け下りてきます。

2005年9月22日木曜日

1_50 中生代から新生代へ3:絶滅のシナリオ(2005.09.22)

 前回は、K-T境界の大絶滅の原因として、隕石衝突説が受け入れられるようになってきた経緯を紹介しました。今回は、隕石衝突説による大絶滅のシナリオを紹介しましょう。

 隕石衝突の一番の証拠は、なんといってもクレータです。ところが肝心のクレータが、実はなかなか見つからなかったのです。もし陸地の造山帯などの変動の激しい地域に落ちていたら、6500万年も前のことですから、すでにクレータの痕跡は造山運動によって消されているかもしれません。また、もし海に落ちていて、その海洋プレートがすでにマントルにもぐりこんでいたら、もはやクレータは見ることはできません。でも、再度多くの研究者がクレータ探しをしました。
 まずは地表の各地のクレータでK-T境界の時代のものがないかが、探されましたが、見つかりませんでした。ということは、まだクレータと認定されていないものを探さなければなりません。被害の一番大きな地域が、クレータに近いはずです。そんな地域を、人工衛星のデータや地表のデータなどから、探されました。
 その結果、メキシコのユカタン半島の隠れている丸い地形が候補に上がりました。ユカタン半島のクレータは、埋まってしまっていて、形がほとんど見えませんでした。
 そのクレータは、半分ほどは陸地にあり、あとの半分は海底にありました。クレータの縁に沿って陸地には池がたくさんありました。メキシコ湾の石油探査やボーリングの結果でも、海底にもクレータの構造があることがわかってきました。このクレータはチュチュルブ・クレータと呼ばれています。こうして、K-T境界の隕石衝突のクレータが確定されました。
 世界各地のK-T境界の地層から、隕石衝突説を支持する証拠が見つかってきました。代表的な証拠を挙げると、イリジウムの濃集はもちろんですが、巨大津波によってできた堆積物、衝突でできた丸い粒(スフェリュールと呼ばれています)、衝突石英(高圧で形成される結晶)、すす、衝突変成でできた鉱物(コーサイト、ダイヤモンドの高圧できる結晶)などがあります。
 これらは、すべて衝突説を支持する証拠と考えられています。したがって、隕石衝突説でが、これらの証拠も一緒に説明できるようなシナリオが必要になってきます。
 まず、隕石の大きさが問題です。K-T境界でのイリジウムの量がわかっているので、それに地球の表面積をかければ、総イリジウムの量がわかります。隕石に含まれているイリジウムの量から、隕石の大きさが見当が付きます。
 グッビオの粘土層のイリジウムからは、直径6.6kmの隕石が推定されて、デンマークの粘土層のイリジウムからは、直径14kmの隕石が衝突したと推定されています。両者の誤差は大きいのですが、どうも10kmほどの直径の隕石が地球に衝突したと考えれます。
 これらの情報から、大絶滅のシナリオが考えられています。
 直径10kmほどの隕石が、25km/秒で衝突すると、1億メガトンのTNT爆弾に匹敵するような膨大なエネルギーが放出されます。衝突地点には大きなクレータができます。とんでもなく激しい衝撃波が周辺を走り、すべてのものを吹き飛ばします。
 その後、超巨大津波や大火災、酸性雨が発生します。衝突や大火災によってちりやすすが成層圏に上がり、長期にわたって太陽光がさえぎられます。太陽光が地表に届かないと、光合成生物が絶滅します。つまり、植物がなくなります。植物をエサとしている草食動物が絶滅します。草食動物をエサとしている肉食動物が絶滅します。
 このような最悪の連鎖によって、大絶滅が起きていきます。これがK-T境界で起きた事件のシナリオです。地質学的には短時間で起こる大絶滅です。しかし、それでも、生き延びた生物たちもいたのです。

・衝突エネルギー・
上で、「直径10kmほどの隕石が、25km/秒で衝突すると、
1億メガトンのTNT爆弾に匹敵する」と書きました。
でも、このエネルギーはどれくらいのものか
見当が付かないと思います。
いくつかの換算をしましょう。
このエネルギーは、広島に落ちた原爆が、
13キロトンであったことから、
広島の原爆の70億倍以上のエネルギーを放出したことになります。
冷戦のとき一番たくさん保有されていた
核兵器6万個をすべて爆発させたより
はるかに大きなエネルギーを放出した計算になります。
・世界人口あたり広島原爆1個が爆発
・地球の表面積1000km2あたり1個が爆発
・30km四方に広島原爆1個が爆発
という規模です。
その規模は人類の想像を絶するものであったのです。

・四国から大雪へ・
6日間ほど四国の西予市城川に出かけていました。
したがって、このマガジンは事前に作成して
発行していたものです。
城川には何度も訪れています。
第2の故郷とも言うべき地となっています。
23日から25日の連休は大雪山の方に調査に出かけます。
雪が来る前にいろいろなところの調査を
しておかなければなりません。
土産話は別の機会しましょう。

2005年9月15日木曜日

1_49 中生代から新生代へ2:論争(2005.09.15)

 前回は、K-T境界の隕石衝突説の提唱にまつわる話をしました。今回はその説に関する論争を紹介しましょう。

 中生代と新生代の時代境界(K-T境界)の絶滅は、隕石衝突説によるものだということが唱えられたとき、大論争が起こりました。整理すると、その論点は、絶滅のスタートのタイミングと、絶滅に要した時間の2点になります。
 第1の論点の絶滅のスタートのタイミングとは、生物の絶滅が、K-T境界で起こったのか、それともそれ以前から起こっていたのか、ということです。
 これを検証するには、白亜紀後期にいた生物が、本当にK-T境界直前まで生存していたかを確かめれば、答えがでるはずです。アンモナイト、植物、恐竜などは、多様性があり、研究もたくさんあるので、それらの化石を用いて検証されました。
 衝突説が出てくる前までは、アンモナイトはK-T境界よりかなり前に絶滅していたと考えられました。アンモナイト研究の第一人者のウォードは、「証拠の不在は、不在の証拠ではない」といって、10年間、野外調査を継続しました。その結果、1994年に「最後のアンモナイトはK-T境界粘土層の直下で回収された」と報告しました。
 植物は、ほとんどがK-T境界を生き延びたと考えられていました。それは、植物には、種や根など体の一部が残っていれば、長い時間生活していなくても、生き延びて、次に生活できる環境ができれば、復活できるためです。
 K-T境界を詳しく調べると、被子植物の花粉はほとんど姿を消し、その代わり、シダ植物の胞子が突然出現することがわかりました。このような変化を「シダのスパイク」と呼んでいます。「シダのスパイク」の意味するのは、何かの原因ですべての植物が絶滅したあと、最初に荒廃地に生えた植物がシダ植物であったということです。「シダのスパイク」は、巨大火山などによる絶滅も起こっています。ですから、K-T境界で「シダのスパイク」が発見されたということは、急激な絶滅を意味しているのです。
 恐竜も、かつてはK-T境界の2~8万年前に絶滅していたと考えられていました。恐竜化石の情報は少ないのですが、K-T境界で恐竜化石を含む地層を、徹底的に調べていけば、決着を見るはずです。
 そのような調査が各地でなされました。アメリカのモンタナ州北東部のヘルクリークでは、K-T境界の60cm以内で恐竜化石を発見されました。コロラド州のレートン層では、K-T境界下37cmでハドロサウルスの化石が発見されています。中国ではK-T境界のすぐ近くで発見され、インドのデカンではとうとうK-T境界で恐竜の卵の化石が発見されてました。
 以上のことから、K-T境界で突然多くの生物が絶滅したということがわかってきました。
 K-T境界で突然多くの生物が絶滅があったとしても、巨大火山爆発でも同じような大絶滅を起こすことが可能です。巨大火山爆発説が隕石衝突説の対案として出てきました。火山でも、イリジウムの濃集が可能です。問題は、絶滅が突然か、それともだらだらとか、という第2の論点、つまり絶滅に要した時間に移りました。
 もし、衝突説では起きて、火山説では起きないものがあれば、衝突説を証明できます。イリジウムの濃集は火山からも見つかっているし、巨大な火山なら、イリジウムを地球全体にばら撒くことも可能かもしれません。
 しかし、細かい灰の成分は、火山で広くばら撒けますが、重い元素や鉱物をばらまくことはできません。衝突石英やスフェルールは重くて、地球全体に広がることはできないというのが、火山説の問題点です。
 火山の候補としてインドのデカン・トラップの火山があげられていました。しかしこの火山では、イリジウムの濃集は火山活動の間に見つかっています。また、火山活動はK-T境界より100万年前から始まり、K-T境界以降も100万年は続いています。
 この火山活動の前半100万年にわたって恐竜は生き延びていました。それは上で述べたK-T境界で恐竜の卵の化石のことです。以上のことから、今では火山説より衝突説のほうが有利となっています。
 いろいろ論争を紹介しましたが、今のところK-T境界の大絶滅は、隕石衝突説が一番有力です。多くの議論を経てきましたので、多くの研究者は隕石衝突説を受け入れるようになってきました。

・存在するということ・
アンモナイトの研究者のウォードは、
アンモナイトがたくさんでるスペインのビズケー湾で研究していました。
その後、ビズケー湾に続くフランスの海岸沿いで研究を続けました。
範囲を広げながら、K-T境界付近のアンモナイト探しをしたのです。
10年という歳月をアンモナイト探しの野外調査に費やしたのです。
この誠意、熱意、あるいは執念というものには頭が下がります。
調査の初期には、最後のアンモナイトは、
K-T境界より10mも下であったと発表しました。
しかし、彼は、「証拠の不在は、不在の証拠ではない」といって
10年間を野外調査をしたのでした。
その結果、1994年に
「最後のアンモナイトはK-T境界粘土層の直下で回収された」と報告しました。
この成果は、隕石衝突説に大きな支持を与えました。
そして私は、研究者の誠意と熱意を感じました。

・シニョール・リップス効果・
シニョール・リップス効果というものがあります。
存在することは一つの証拠で十分証明できますが、
存在しないことはすべてを網羅しなければ証明できません。
一般には存在しないことは証明するのは非常に困難です。
シニョール・リップス効果は、それに基づいた考えで提唱した、
2人の研究者の名前から付けられたものです。
それは、次のような考え方です。
・ある化石の出る地層が広ければ、
たくさんの種類が見つかり、
少なければ、化石の多様性が少なく「見える」
・化石の種類数が少ないほど、
絶滅の真の時代をみつけることはできなくなる
というものです。
恐竜やアンモナイトも、本当に数が多ければ
よりK-T境界に近いところまで見つけることができるでしょう。
しかし、実際にはそれほどたくさん見つかるわけではありません。
見つからなかったからといって、
いないということにはなりません。
シニョール・リップス効果が働く限り、
化石から本当の絶滅の時期を調べることは
困難で不確かになります。
この効果をなくすには、
K-T境界の地層をできるだけ広く探していくしかありません。
言うのは簡単ですが、実際にするのは大変です。
ウォードはそれを成し遂げたのです。

2005年9月8日木曜日

1_48 中生代から新生代へ1:K-T境界(2005.09.08)

 中生代は、温暖で穏やかな時代でした。大繁栄をしていた大型の動物は恐竜の仲間です。しかし、1億8550万年間続いた恐竜の支配した時代も、突然終わりました。そんな終わりの事件を紹介しましょう。

 中生代の終わりの白亜紀と新生代のはじまりの第三紀の名称の頭文字をとったもので、中生代と新生代の時代境界をK-T境界と呼んでいます。K-T境界が他の地質時代の境界とは違って、このような名称で呼ばれているのは、恐竜を含む多くの種類の生物がこの時代境界に絶滅したからです。
 K-T境界で、なぜ大絶滅が起こったのかは、1970年代前半までは、実はよくわかっていませんでした。それがある親子によって思いもよらぬ展開を遂げることになりました。
 1977年、ウォールター・アルヴァレスという地質学者が、イタリアのグッピオと呼ばれる地域で、K-T境界の地層を見つけました。ウォールターの発見したK-T境界の地層は、1cmほどの粘土層で、黒っぽく、ススがたくさん含まれていました。さて、この地層からどんな事件が読み取れるのでしょうか。
 ウォールターの父はルイス・アルヴァレスといい、非常に好奇心旺盛な物理学者でした。ルイスは、1968年に水素泡箱の開発でノーベル物理学賞を受けました。水素泡箱とは、水素のガスの入った容器を過冷却して、ちょっとした刺激で液体が発生する装置です。この装置の中に目には見えない粒子が通過すると、そのときに飛んだ場所にスジができます。そのスジを用いて、当時「亜原子粒子」と呼ばれていた素粒子が多数発見されました。素粒子の研究には不可欠の道具をルイスは発明したのです。
 ルイスは、他にもさまざまな分析装置を工夫していました。そんなひとつに原子炉を使った放射化分析という方法がありました。原子炉の中に試料を入れ、中性子を試料に浴びさせて、原子を放射化します。放射化された原子の多くは放射能を持つようになります。放射能を持つということは、壊れやすい原子(放射性原子)が壊れていくときに、さまざまな電磁波や粒子などを放出することです。その放出される電磁波や粒子を測定することによって、含まれている原子の量を正確に知ることができます。放射化分析は、非常に含有量の少ない成分も測定できる方法でした。
 ルイスは、ウォールターの発見したK-T境界の粘土層とこの上下の地層の試料を放射化分析で調べました。その結果、イリジウム(Ir)とよばれる白金(プラチナ、Pt)の仲間の元素が、K-T境界に濃集していることを発見しました。その量は、まわりの地層の数倍もありました。
 イリジウムという元素は、白金の仲間の元素と同じで地殻をつくる岩石にはほとんど含まれていません。なかでもイリジウムがその差がいちばん大きくなっています。ですから、K-T境界の地層でイリジウムが見つかるということは、当時の地表にイリジウムを濃集させる特別な事件があったはずです。
 その事件を、アルバレスたちは、隕石の衝突と考えました。隕石には、地殻の含有量にくらべて、10万倍もおおくイリジウムが含まれているからです。隕石の濃度を利用すれば、K-T境界の濃集も説明できると考えたのです。
 隕石の衝突は、当時の地質学者たちには思いもよらない原因でした。当時の地質学者たちは、K-T境界に限らず大絶滅の原因は、地球内部の何らかの営みによるものであると考えていました。そのため、隕石衝突説をめぐっては、さまざま論争がなされました。
 中でも地球内部説派と隕石衝突説派とは、次の2つが大きな論点となりました。
 第1の論点は、絶滅のスタートのタイミングです。生物の絶滅が、K-T境界で起こったのか、それともそれ以前から起こっていたのか、ということです。
 第2の論点は、絶滅に要した時間です。瞬時か、それともある程度の時間をもって(じわじわと)起こったかです。
 もちろん隕石衝突説では、絶滅はK-T境界ではじまり、瞬時の事件です。それを証明するか、否定するかが、論争となりました。論争の詳細は、次回としましょう。

・常識・
恐竜の絶滅は、隕石衝突説の登場の前までは、
さまざまな説がありました。
しかし、多くの地質学者たちは、地球内部の原因による
気候変動をその主たる原因と漠然と考えていました。
しかし、そのメカニズム、シナリオは、よくわかっていませんでした。
誰も、決定的な説を出すことができなかった非常に大きな問題でありました。
ルイス・アルバレスは物理学者でしたが、
前例や地質学の常識に囚われていませんでした。
その結果、隕石衝突説に思い至りました。
隕石の衝突は、考えてみると偶然に支配された説です。
そんな説を採用することに地質学者は抵抗を感じました。
それまで、地質学者たちは地球内部に原因がある考えていました。
地球内部説に基づいて地質学者たちは研究を進めてきていました。
地質学者たちにとって根拠はなかったのですが
地球内部説が常識化していました。
突然の環境変化は想定外でした。
ですから、地質学者たちは反論しました。
いろいろな立場で反対がありました。
感情的なものはさておき、
それまで地球内部説による証拠が反論ために利用されていきました。
多くのデータが、再度検討されたり、集めなおされたりして、
大論争となりました。
でも、それにも今では決着を見ています。
それは次回以降の地質時代シリーズで紹介していきます。

・英気を養う・
子供たちの夏休みも終わり、
9月に入って、自分自身の仕事ができるようになりました。
秋を感じさせる季節となり、いい気候の中で研究をしています。
休日には、行楽や祭りなどのイベントを楽しんでいます。
大学も9月上旬はほとんど開店休業状態です。
会議もほとんどありません。
ですから、じっくりした研究をするのにはチャンスです。
私は、9月中旬から下旬にかけては、
野外調査などで忙しくなりますが、
それまでの2週間ほどは落ち着いて
今までやり残していたことをしています。
この間に英気を養っておきましょうか。

2005年9月1日木曜日

4_62 玄能石

 北海道の三笠に玄能石というものが見つかります。それを土産物屋で見つて買ってきました。玄能石について紹介しましょう。

 ゲンノウ(玄能と書きます)というものをご存知でしょうか。大工さんが使うカナヅチあるいはハンマーのことです。ハンマーは、小さなものをカナヅチ、大きなものをゲンノウと使い分けることもあるそうです。
 ところで、なぜハンマーのことを玄能というのでしょうか。源翁和尚という僧侶が語源になっているそうです。栃木県那須に殺生石というものがあります。その石が、いろいろな怪奇現象を起こしていたそうです。それを聞いた源翁和尚が、大きなハンマーでこれを割って、悪霊を取り除きました。これ以降、ハンマーを、源翁(ゲンオウ)から転じて、ゲンノウとも呼ぶようになったといわわれています。伝承ですから、本当のところは知りませんが。
 石にも玄能石と呼ばれるものがあります。その名称の由来は、石の形がゲンノウに形が似ているからです。私は、三笠産の玄能石を土産物屋で手に入れました。私が持っているものは、両側がとがっている10cmほどの長さのものです。
 玄能石は、ゲンノウ型以外にも、星型やコンペイトウ型のようなものもありますが、いずれもとがった形をしているのが特徴です。その形から、明治時代の考古学者は、石器だと見誤まっていたこともありました。
 玄能石は、変わった分布をしてます。日本では、フォッサマグナより北の地層から見つかっています。産地としてでは、福島、新潟、秋田、長野、北海道などが知られています。北海道では、三笠が有名です。ロシアやカナダなどの高緯度に位置する国々でも発見されています。つまり、玄能石は寒い地方の地層から見つかっていることになります。同じ地層から見つかった化石によっても、低温の海水域の海底堆積物の中で結晶したことがわかってきました。
 また、玄能石は、不純物を多く含んだ方解石(マグネサイトのこともあるようです)からできています。ところが方解石は、六方晶系というグループの結晶なのですが、玄能石の形は六方晶系の結晶の形とは違っています。
 もともとは別の晶系の鉱物で、その鉱物が何らかの理由で、方解石に置き換わったのではないかと考えられています。このようにある鉱物が別の鉱物に置き換わることはよくあり、仮晶(かしょう)と呼ばれています。
 では、もともとの鉱物は、なんだったのでしょうか。実は長い間、謎でありました。しかし、高緯度の地層から見つかるということが、重要なヒントになります。
 1963年、グリーンランド南西岸のイカ・フィヨルドの海底で炭酸泉の湧き出す周囲で、新鉱物が発見されました。地名からイカ石(Ikaite)と呼ばれます。イカ石は、ゼロ℃近い水から沈殿した含水炭酸カルシウム(CaCO3・6H2O)という成分を持つ結晶です。その後、1982年にも、ドイツの調査船が南極大陸の沿岸海底で、ガラスのように透明なイカ石の自形結晶を発見しました。
 海底から引き上げられた結晶の大きさは、6.5cmほどあったのですが、見ているうちに、透明感がなくなり、ばらばらの方解石と水とに分解したそうです。
 イカ石は、摂氏3℃以上(8℃以上という説もある)になると、水分をすぐになくし、ザラメ状の穴ぼこだらけの方解石に変化するという性質が明らかになってきました。幸いにもドイツの調査では、くずれる前のイカ石の写真がとられていました。イカ石は単斜晶系に属するもので、方解石の六方晶系とは違っていました。
 このようなことから、イカ石は玄能石と同じものであることがわかってきました。
 玄能石とは、冷たい地層の中で、イカ石の原型をとどめたまま、別の鉱物に置き換わりました。それ玄能石を、今、私は手にしているのです。自然の神秘を手にした気がします。そして、その神秘を解き明かした人類の英知も一緒に手にした気がします。

・グレンドン石・
白海に面したロシアのある村の砂浜には、
白っぽい丸石が打ち上がることがあります。
丸石の中に茶色のトゲトゲの石が入っていることがあります。
この石は、鉱物標本業者の間では、
グレンドン石(Glendonite)という名前で呼ばれています。
日本の玄能石と同じ種類のものです。
白海沿岸の海底には、永久凍土が融けずにあるそうです。
そんな冷たい海底でできたイカ石が、
海底から海岸に達するまでの間に方解石に変わっていったようです。
海岸に打ち上げられるグレンドン石にも神秘の歴史があります。

・イカ石の謎・
イカ石にはもうひとつ謎があります。
イカ石は単斜晶系の結晶です。
ところが、グレンドン石と呼ばれるものの中には
どうも違った形(他の晶系に属する)もあるようです。
そうなると、グレンドン石には、
別の起源のものもあるのかもしれません。
その謎はまだ解けていません。

・私の夏休み・
さてさて、とうとう9月になりました。
北海道は暑い日もありますが、
秋のさわやかな気候となってきています。
特に学校に行っている子供たちや子供のいる家庭では、
夏休みも終わり、あわただしい日常が始まっているでしょうか。
ところが北海道の我が家の子供たちは、
8月18日から学校が始まっています。
北海道は夏休みが短く、冬休みが長いのです。
ですから、子供たちは、もう夏休み気分は抜けています。
しかし、私の大学は9月一杯が夏休みです。
私もやっとさまざまな校務が終わり、
じっくりと仕事ができるようになりました。
いってみれば、これからが私の夏休みなのかもしれませんね。

2005年8月25日木曜日

4_61 マンモス

 暑い夏に、寒い氷河期のことでも思いをはせるために、氷河期の代表的生き物でもあるマンモスを見に行きました。

 愛・地球博(愛・地球博は愛称、略称は愛知万博で正式名称は2005年日本国際博覧会)では、8月にはいってからは、連日10万人超す入場者を記録しているようです。中でも、冷凍マンモスが話題になっているようです。そのマンモスは、地名から「ユカギルマンモス」と呼ばれています。しかし、私は、別のところで、冷凍をマンモスを見ました。それも並ばず、無料でです。
 札幌近郊の人は思い当たったでしょうか。北海道大学の博物館でおこなわれている特別企画展示の「マンモス絶滅の謎に迫る シベリア・マンモス展」でマンモスのお尻の部分が展示されていました。じつは、このお尻の標本は、愛・地球博で、一時的にマンモスの頭部と一緒に公開されていたものです。
 シベリアのマンモスは、永久凍土の中に冷凍保存されていたため、皮膚や毛、尻尾まで、なまなましく保存されています。もともと北大の博物館には、北大の研究チームがシベリアで発見し、持ち帰ったマンモスの歯や毛髪マなどの展示がされていました。そんないきさつから、お尻の標本を借りて、冷凍のまま展示されたのです。
 ご存知でしょうが、今から氷河期の終わりに(正確には1万1000年から1万年前の間)、マンモスはシベリアの大地から、突然、絶滅してしました。なぜでしょうか。
 400万~500万年前にアフリカで生まれた人類の祖先は、50万~60万年前に現在の中国の地域及び東南アジアへ広がっていきました。彼らは、モンゴロイドという黄色人種で、北京原人やジャワ原人などの化石人類として発見されています。モンゴロイドの一部は、北に向かいマンモスだけを狙って狩っていました。彼らはマンモスハンターと呼ばれ、40人ほどの集団で暮らし、年間4頭ほどのマンモスを狩っていたようです。しかし、アジアに広がっていたモンゴロイドは、氷河期最盛期に絶滅してしまいました。
 かつては、マンモスハンターの過度の狩猟によるためと考えられていたのですが、どうも原因はそれだけではないというころがわかってきました。
 マンモス絶滅の有力な原因として、激しい気候変動による可能性がでてきました。
 ヨーロッパとアメリカのチームがグリーンランドの氷床で2本のボーリングコア(GRIP、GISPと呼ばれています)から、過去10万年以上の気候変動が読み取られました。そのデータによると、氷河期の終わりは、短い周期で気候が激しく変動していたことがわかってきました。
 温かくなりつつあった氷河期の終わり頃、1万1500年前に一時的に寒い時期(ヤンガー・ドライアス期と呼ばれています)がきました。その様子は、想像を絶するものだったようです。寒い時期から、約10年のあいだに気温が約7.7度以上も上昇したと推定されています。氷河期からの急激な温暖化によって、北半球の氷床は融けだし、大量の淡水が大西洋に流入していきました。その結果、海洋・気候のシステムに大きな影響を与えました。
 シベリアでは、大量の雨や雪が降りました。大量の積雪は植物を隠してしまいます。それまで、シベリアは乾燥した大地で、柳やイネ科の草が広がる草原でした。マンモスにとっては、冬期にエサがないという環境では生きていけませんでした。
 さてさて、マンモス絶滅の謎は、まだ解けていません。温暖化、人為どうも1万数千年前に起こったことのですが、現在の人類が直面している状況と似ているような気がします。果たして、私たちはマンモスの絶滅から学ぶべきことはないでしょうか。

・最後のマンモス・
マンモスについては、いろいろな説があります。
実は4000年前(紀元前1700年頃)に、
北極海のウランゲル島で、
体高1mほどの小型のマンモスが発見されています。
コビトマンモスとも呼ばれ、この小型化は、
乏しくなった食料で生きていくための
適応ではないかと考えれられています。
最後のマンモスがこの島で原住民に狩猟され、
マンモスが絶滅したとも考えられています。
すると、上の気候変動説も、本当の原因ではないことになります。
さてさて謎はますます深まります。

・北大博物館・
北大の博物館を見学しているとき、
ボランティアでマンモスの解説のところにいた方を見かけました。
よく知っているAさんでした。
Aさんは今年の春、北大を定年退職されたのですが、
ボランティアとして博物館の展示場で週に一度解説をされ、
それ以外の日には研究を続けられているそうです。
話し込んでいて、実は展示の解説をよく見ることができませんでした。
申し訳ないことをしてしました。
せっかくの解説を聞かずに、
近況報告をし合っていました。
できれば、機会があればもういちど見に行きたいものです。

2005年8月18日木曜日

1_47 中生代(2005年8月18日)

 地質時代のシリーズです。今回は中生代です。中生代は現在人類が直面している地球環境問題の起こっていた時代でした。そんな中生代を概観してみましょう。

 中生代は、2億5100万年前から6550万年前の間の1億8550万年間の時代です。中生代は、三畳紀(2億5100万年前~1億9960万年前:5140万年間)、ジュラ紀(1億9960万年前~1億4550万年前:5410万年間、白亜紀(1億4550万年前~6550万年前:8000万年間)に細分されています。
 中生代の特徴は、一言でいうと「現在につながる時代」ということになります。生物のタイプでいいますと、現代型生物の出現してきた時代です(1_46 古生代から中生代へ3:生物の変化を参考にしてください)。また、古生代末にできたパンゲア超大陸が分裂する時代(1_45 古生代から中生代へ2:絶滅の原因)で、中生代を通じて温暖な時期となります。
 この温暖で安定した気候の時期が、陸上生物の発展をもたらしました。それは、恐竜の時代ともいうべき時期であります。恐竜の仲間は地球のほぼ全域に進出しました。陸だけででなく空へも翼竜が、海へも魚竜が進出しました。陸上の恐竜には恒温性を持っていた可能性もありますが、変温性でも暖かい時代であったので、十分勢力をもって繁栄できる時代でした。
 温暖化の程度は、白亜紀には年平均気温で10~15℃も高かったという見積もりがあります。こんなに暖かいと、氷床はほとんど融け、世界的な海進が起こっていました。また、海洋生物の生産量が増え、有機物が地層中にたくさん蓄積され、石油がたくさん形成されました。
 この温暖化のそもそもの原因は、パンゲア超大陸を分裂させたプルームの活動です。古生代と中生代の境界に起こった事件ですが、その後も活発にプルームが活動したと考えられています。プルームは激しい火山活動を伴います。火山から放出された二酸化炭素が大量で、その温室効果で、気温が上昇したと考えられています。
 軽く「年平均気温で10~15℃も高かった」と書きましたが、もし二酸化炭素が中生代の温暖化の原因だとすると、現在人類が直面している温暖化は、中生代に起こったほどのものではありません。地球にとってはその変化は「ささやか」といっていいかもしれません。
 P-T境界という古生代から中生代への境界で、原因不明の生物史上最大の絶滅がありました。その結果、現在型の生物が現れたのですが、新しい時代には新しい生物が発展しました。それが恐竜たちです。恐竜たちは、中生代の温暖化の時代を最大限に利用しました。
 このように地球の歴史を眺めていくと、地球環境に激変があっても、生物たちはタフに生き延びます。そして新しい地球環境に適応して、新しいタイプの生物が繁栄していきます。そんなタフな生物たちに、6550万年前にさらなる試練が待ち構えています。これは次回以降の話としましょう。

・水泳の夏休み・
今年の北海道は、暑かったです。
特に6月から7月に、蒸し暑い日が何日もありました。
この暑い夏を、我が家の子供たちは、水泳に明け暮れました。
夏休みに入った早々、スイミングスクールに5日ほど通いました。
その後は、近所の小学校のプール解放にほとんど毎日のように通いました。
まだ次男が小さいので母親が付き添わないとだめなので
家内も子供と一緒にプール通いました。
しかし、お盆ころから、昼間どんなに暑くても
朝夕は涼風が吹くようになりました。
そろそろ北海道の暑い夏も終わろうとしています。
そして子供たちの夏休みの終わりです。
夏休み最後の日は、山のきれいな川に
家族でいって、川遊びをしてきます。
山の川は水が冷たくで泳げませんが、
いろいろなものがあるので、川は面白いです。

・地球環境・
人類が直面している地球温暖化は、
地球にとっても、生物にとっても初めてのことではありません。
上で述べたように中生代に経験しています。
生物は地球の環境の変化を受け入れるだけです。
たとえそれが他の生物が引き起こしたことだとしてもです。
しかし、ひとつの種にとっては、環境の変化は死活問題になりかねません。
同胞の死、家族の死、自分の死は、受け入れがたいことです。
このような思いは、何も人類だけでのものではないはずです。
しかし、人類以外の生物は、それに黙って耐えてきました。
知恵を持った人類は、それを受け入れることを良しとせず、
何とか回避しようとしています。
自分で蒔いた種を、自分で摘もうとしています。
しかし、気をつけなくてはいけないのは、
その回避方法を展開するときに、
他の生物を犠牲にしていないか、
あるいは今まで他の生物を犠牲にして
その問題を起こしてこなかったかということです。
そんなことを深く考えながらよく、
いろいろな方策を考えていかないのと、
新たな問題を引き起こしかねません。
地球は人類のものではありません。
地球は地球自身のものです。
そして他の生物のものであります。
もっと人類は、もっと知恵を使っていかなければなりません。

2005年8月11日木曜日

4_60 十勝岳

 7月下旬の夏休み前の連休に十勝岳にいって来ました。調査が目的なのはもちろんですが、観光もしてきました。今回は十勝岳の周辺の火山について紹介していきましょう。

 北海道の中央部には、南北に50km以上にわたってのびる火山の列があります。北の大雪山から南の十勝岳までに多数の火山から構成されてる列です。この火山列の南側は、十勝火山群と呼ばれ、北東から南西にかけて延びる前富良野岳、富良野岳、上ホロカメトック山、十勝岳、美瑛岳、オプタテシケ山があり、その列と交差するように南東側に、下ホロカメトック山や大麓山などがあります。いずれも、1500mの越える標高の火山で、中でも2077mの十勝岳が主峰ともいうべき山となっています。
 十勝火山群は、50万年前から現在まで、繰り返し活動をしていきた成層火山群です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こっています。北海道の中央部には、十勝岳火山群の火山噴出物が広く積もっています。
 十勝岳火山群の活動は詳しく解明されています。活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。歴史時代でも活動は続いていて、1857年、1887年、1836年、1962年、1988-89年の火山活動の記録があり、現在も噴気が上がっています。
 中でも1926年の噴火は大きな被害を出しました。1926年2月から小規模な噴火を繰り返していていたのですが、5月24日正午過ぎ、中央火口丘の北西部から水蒸気爆発が起こり、小規模な泥流が発生しました。泥流は6kmほど下の白金温泉まで流れ下りました。午後2時にも小規模な噴火があり、午後4時18分に大規模な水蒸気爆発が起こりました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の1分後には2.4km離れた硫黄鉱山事務所を襲い、24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。この噴火によって北西に開いたU字型の火口(450×300m)が形成されました。
 その後も噴火を繰りかえし、9月には行方不明者2名を出す噴火があり、大正火口ができました。1928年12月にようやく一連の噴火がおさまりました。
 十勝火山群は、現在も小規模な火山活動が続いています。1998年、2000年にはやや活動が活発化しました。その後も毎年のように小規模な火山活動が繰り返されています。
 私が行った7月下旬は、北海道にしては蒸し暑い天気でした。しかし、標高が1000m以上にもなるとさすがに涼しくなります。7月下旬ですが、まだ日陰には残雪が残っていました。残雪の向こうには十勝岳の噴煙が見えました。そして私の足元には高山植物が花盛りでした。
 私には、この火山の噴煙と高山植物が、どうも落ち着かない取り合わせに感じられました。なぜかはわかりません。高山植物の艶(あで)やかさと噴煙の禍々(まがまが)しさが、どうも相容れないものに感じました。植物はたくましく生きている生命の営みです。噴火は大地の営みです。大地の営みのもとで、生命の営みがなされます。ですから、艶やかさの背景の儚(はかな)さを感じてしまうのかもしれません。
 バスで訪れた観光客も、噴煙と高山植物を眺めていました。さて彼らには噴煙と高山植物はどうのように映ったのでしょうか。

・富良野・
北海道の中央には、テレビドラマで有名になった富良野があります。
私はテレビドラマで有名になる前に、
調査で富良野に何度かきていました。
もう20数年も前のことです。
そのころの富良野は、スキーのワールドカップが開催されたスキー場があり、
ウィンタースポーツの地として、ニセコとともに有名でした。
夏は、ただ静かな田園風景が広がる地域でした。
そんな印象があるので、富良野の東部にある十勝岳の調査のついでに、
今回も静かな富良野の田園風景を見るつもりでいました。
ところがどうでしょうか。
富良野に向かう道がかなり混んでいました。
これは、このままいくと大変だという気がして、
人気のないところへ、逃れました。
確かに穏やかな田園風景、そして瀟洒な店は観光客を誘うに十分です。
その道は北海道とは思えない車の列となっていました。
でもこれも北海道なのでしょうね。

・芦別・
富良野の混雑を避けて行ったのは芦別でした。
そちらはもとは鉱山町でしたが、
現在では炭鉱はおこなわれていません。
今では、大きな観光宿泊施設があり、
観光に力を注いでいるようです。
今回紹介した調査とは別に、
7月下旬から8月頭に3日間、私は芦別に行きました。
星槎大学という通信制の大学が芦別にあり、
その大学の主催のシンポジウムがあったのと
私が参加している研究会の集まりがあったからです。
そのときに市長や地元のもと炭鉱マンとも話をする機会がありました。
いずれもなかなか面白い話が聞けました。
多くの経験をしている人は面白ですね。
私もそんな人間になりたいと思っています。

2005年8月4日木曜日

2_41 進化論の進化4:進化論の更なる進化

 「進化論の進化」のシリーズも、いよいよ最後です。今回は、進化論が現在直面している問題点と今後の展望を見ていきましょう。

 遺伝子はDNAの分子配列によって決まりました。DNAの変化が子孫に伝わることが進化のメカニズムの核心でした。しかし、そのような分子レベルの変化が生物の進化を生み出すことに、どうしても賛成できない研究者もいます。
 との一つが、生物とは、DNAのような生物に内在するも要因ではなく、個体が集まった集団、グループが一斉に変化していくという考えに立つものです。
 例えば、フランスの生物学者のラマルクは(1744~1829)、ダーウィンと同時代に生きたい人で、早い時期に進化説と唱えました。だた、ダーウィンの進化論とは違っていまし。進化は、環境によって成長に影響を与え、身体が変化し、その後天的に得た変化(獲得形質といいます)が子孫に伝わるという考えでした。この説は、用不用説とも呼ばれています。ラマルクの進化論は、ある個体が獲得した形質がどのように遺伝するかが説明できないため、批判され、認められることはありませんでした。いくつかの実験結果から、この説を裏付ける証拠が得られたのですが、現在では、その実験の信憑性が疑われています。それに、後天的に得た形質を、どのように子孫に遺伝させるかが、解決されていません。
 この考えの延長線上に、前に話した定向進化説があります。今西錦司(1902~1992)の唱える進化論(今西進化論と呼ばれます)があります。今西は、カゲロウの研究から、棲む環境が異なると多くの種が同時に、異なる形態をした種になっているという「棲み分け」という現象を見つけました。この棲み分けから、環境に適合するために形態を進化させるという進化論が生まれました。この説は、総合説のようなゆっくりとした進化ではなく、急激な進化が必要になるため、対立します。しかし、今西の説は、どのようなシステムで進化が起こるのかが解明されていないため広まりませんでした。
 もう一つの大きな反論は、大進化を一番よく見ている研究者からのものです。総合説は種分化のような小規模な進化には適用できても、今までにない新しいタイプの種や大進化には適応できないという反論です。
 この考え方は、古生物学の分野から出てきました。1972年に発表されたエルドリッジとグールドとの断続平衡説と呼ばれるものです。比較的短期間(断続的に)に爆発的な種の分化がおこり、あとは長期の安定期(平衡状態)が続くという考え方です。その根拠は、中間種的な化石が極めて少ないこと、大量絶滅などの環境の激変の後に新しい形質の爆発的な出現すること、が挙げられています。これはなかなか手ごわい反論ですが、まだ決着はみていません。
 次なる反論は、ダーウィンの進化論では進化が連続的に起こりますが、非連続的な進化の実例が見つかってきたことです。それも、生物の進化における重要な局面においてです。
 それは、マーギュリスが唱えた細胞共生説というものです。真核生物のミトコンドリアや葉緑体、鞭毛など、生物において重要な器官が、別の単細胞生物が共生することによってできたものだという考えです。これは、自然選択とはまったく違った方法で進化が起こるというとことを示しました。高等動物でも、微生物やウイルスの遺伝子に影響を受けている可能性があります。現在では、この説が正しいことが証明されています。そして、このような影響も、進化の過程にはあったことが、総合説でも受け入れられています。
 分子レベルの研究からも反論が出てきました。それは、木村資生が唱えた中立説というものです。中立説によると、分子レベルの進化は、突然変異と遺伝的浮動(定常的に起こっている変化)によって説明でき、分子が環境とは無関係に進化するというものです。この説は、分子レベルの議論を中心にした総合説は、衝撃を与えました。しかし、現在では、重要な遺伝子にかかわる分子の進化は、自然選択によって抑制されることがわかってきました。そのため、現在では総合説と矛盾しないと考えられています。
 いくつかの反論は、総合説に取り入れられました。また、科学の進歩によって、分子レベルでみた総合説の教義(ドグマ)と考えられていた、DNA→RNA→たんぱく質へという遺伝情報の流れが、逆転写現象の発見によって崩れ去りました。総合説自身の研究からも、変化を求められています。
 上で述べたように、まだまだ、白黒のついていない問題も残されています。まだ、進化論は完成していないのです。新しい知識をとりいれた、よりより進化論が必要なのでしょう。まだまだ進化論は進化していきそうです。

・世の常・
今年は、7月下旬から北海道は天気が悪い日が多いようです。
雨でなくても、湿気も多く蒸し暑い日が多いです。
それでも本州の暑さに比べればましなのですが、
北海道の涼を求めてこられている人には、
期待はずれのような気がするのでしょうね。
でも、これも北海道です。
北海道の夏は、涼しいことは涼しいのですが、
盛夏ともなれば暑い日もあります。
蒸し暑い日だってあります。
砂漠にだって雨が降ることだってあります。
一般論はあったとしても、
ある個別にみれば、それなりの変化があるのです。
これは世の常でもあります。

・停電・
夕方から雷が鳴っていたのですが、
雨で夜は涼しいので窓を閉め切っていました。
まして、テレビをつけていると外の音はあまり聞こえません。
その夜、数分ほどでしたが、停電がありました。
私も子供も寝ていたので、騒ぎはしませんでした。
程なく停電は回復しました。
回復してから時計を見ると家内が
まだ起きている時間なので、さぞかしあわてていたことでしょう。
朝起きたら、あちこちの電化製品がリセットされていました。
常時電気をつけていると、便利なこともあるのですが、
非常事態には不便なものです。
この街に引っ越して4年目ですが、停電は初めてのことでした。

2005年7月28日木曜日

2_40 進化論の進化3:進化の総合説

 ダーウィンの進化論は19世紀後半から20世紀前半にかけての60年ほどの間、さまざなま反論が出されてきました。ダーウィンの進化論は、主流派の考え方でしたので、それらの反論を受けて立つ形で、新たな進化論へと変貌してきました。1930年代から40年代になると、主流派の反撃がはじまります。その概略を見ていきましょう。

 20世紀に入って生物学の進歩と科学技術の進歩によって、多様な生物学に関するデータが出てきました。ダーウィンの進化論も、そのような新しい情報を取り入れた進化論へと展開していきます。
 発展的な進化論とは、ダーウィンの自然選択説を、現代的に再構築したものです。多くの新しいデータ、反論に対する回答、新しい考え方などを取り入れて、成長してきたものです。そのため、進化の総合説と呼ばれています。総合説の考え方は、ネオ・ダーウィン主義と呼ばれることもあります。
 進化の総合説は、現在においても、主流で正統とされている進化論です。正統派ですから、多くの研究者が、この仮説に基づいて研究し、考えています。現在でも、まだ総合化はされ続けています。
 時代順にみていくと、ダーウィンの進化論への批判に対する反撃は、集団遺伝学というものからはじまりました。
 集団遺伝学は、生物測定学という学問から発展してきました。生物統計学とは、あるグループの個体の中にみられる変異を測定して、統計的分析をおこなうことです。その分析を何世代にわたって測定することで、進化の傾向を見ようとする手法です。
 19世紀にはじまったこの生物測定学から、集団遺伝学が発展してきました。変異の測定を、集団の遺伝子の状態としてとらえ、統計的に処理し、検討していきます。その結果、生物には、多数の遺伝子が働いていることが示されました。そして、メンデルがおこなったような実験で見られる突然変異や連続的な変異は、矛盾なく説明できることが示されました。
 いろいろな視点から、他にも反撃がなされました。
 アメリカの遺伝学者ドブジャンスキー(1900~1975)は、ショウジョウバエを使った実験をしました。あるグループの中に伝わる遺伝子には、現在の環境では、役に立っていないものがたくさありました。しかし、種全体としてみたとき、環境に変化が起こったときに、多様な遺伝子を持っている方が、変化する環境に適応できる能力をもっていると考えました。それが自然選択という形に表れるのだという考えです。
 ドイツ出身のアメリカの進化生物学者マイヤ(1904~)は、鳥類の研究をしていました。ある鳥のグループが、地理的に隔離されることによって、新種となることを示しました。これは、異所種分化による新種の誕生という考え方です。隔離という自然選択が、種分化を起こすという実例でした。
 アメリカの古生物学者シンプソン(1902~1984)は、哺乳類の化石、特にウマの化石の研究をしていました。化石の証拠から、ウマが環境に適応しながら進化してきたことを示し、「定向進化説」を否定する証拠を示しました。
 彼らが中心となって、進化の総合説(ネオ・ダーウィニズム)が確立されてきました。総合説という言葉は、シンプソンが1949年に書いた「進化の意味」という本の中で用いたのが最初とされています。
 進化は、あるグループの中に蓄えられている遺伝子の変化として起こるのですが、そのプロセスは、次のようのようなものだと考えられています。
 まず、突然変異や交配の時に遺伝的な組み換えが起こります。それらの遺伝的な変異は、集団の中に蓄えられていきます。遺伝的な変異の頻度は、適応とは関係なく変動したり、自然選択によって適応として変動することもあります。さらに、グループが地理的に隔離されることによって、異なった遺伝子をもった変種と呼ぶべきグループができます。やがて、それは新種へと定着し、種分化が起こります。
 これが現在の進化の総合説の概略です。しかし、総合説は、実はダーウィンの自然選択説といくつかの点で違いが生じてきました。
 ダーウィンの考えた自然選択は、個体単位で起こる現象でした。つまり、生存競争で適応力の強い個体が生き残ることによって進化がおこると考えたのです。一方、総合説では、遺伝子単位で自然選択が起こります。適応している遺伝子が集団中に増えていくことによって進化が起こると考えています。
 個体か遺伝子かに違いがあります。この違いを重視したのが、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスでした。ドーキンスは、その考えを1976年に出版された「利己的な遺伝子」で展開して有名になりました。
 現在では、遺伝子がDNAレベルで解明されてきました。それは総合説には有利に働きました。しかし、そのような分子レベルが進化をコントロールすることに疑問を感じる研究者もいました。進化も新しい局面に入ったのかもしれません。それは次回としましょう。

・夏休み・
夏休みのはじまりました。
北海道の夏は短いのですが、
学校の夏休みも短くなっています。
ところが、わが大学は、今年から夏休みが長くなりました。
昨年までは、9月中ごろから、後期の講義がはじまりました。
しかし、今年から9月一杯夏休みで、10月から後期が始まります。
その分、1月から2月にかけて講義が延びることになります。
そうなると、教員は忙しくなります。
講義の成績評価と共に、入試の判定、卒業の認定などが、
短い期間にこなさなければならなくなるからです。
でも、いい気候の夏に、長い休みが取れるのはありがたいことです。
特に私のように野外調査をしているものにとっては、
調査のチャンスが増えて助かります。
冬は北海道の調査はできないですから。

・台風・
台風が本州に来襲しました。
北海道も雨が激しくなっていきました。
この文章を書いている時点では、まだ、台風は北海道には来ていませんが、
雨が各地で激しく降っているというニュースが流れています。
北海道は台風に弱いところですが、大きな被害が出ないか心配です。
皆さんの所は台風の被害はなかったでしょうか。
こんな雨だというのに我が家の子供たちは、プールに出かけるのでしょう。
もちろん室内の温水プールですが。
どうも最近は危機意識が低下しているのか、
予報の発達、都市の安全対策の徹底によって、
安全が神話となっているのでしょうか。
まあ、今後の様子を見守りましょう。

2005年7月21日木曜日

2_39 進化論の進化2:進化論の歴史

 ダーウィンの進化論が生まれて150年近くたちます。その間、進化論は紆余曲折してきました。現在でも進化論の内容については、いろいろな議論されています。進化論の歴史をザーッと見てきましょう。

 1859年に出版されたダーウィンの「種の起原」では、生物の進化は、自然選択(自然淘汰とも呼ばれる)によって起こるという考えが示されました。この自然選択とは、個体変異と生存競争というものによって進化を説明しています。もう少しわかりやすく述べましょう。
 もともと生物ひとつひとつは、同じ種類でも、大きい小さい、あるいは長い短い、または太い細い、などのいろいろな差があります。このようなひとつひとつの生物(個体といいます)ごとにある差(変異)を、個体変異と呼んでいます。もちろん生まれてくる子供にも、そのような個体変異があります。
 例えば、オス同士でも、強いオス、角の立派なオス、色のきれいなオスがよりメスに気に入られて、多くの子孫を残す可能性があります。子供間にも、競争があります。同じ親から生まれた子供でも、大きい子供、力の強い子供が、親からエサをたくさんもらい、早く成長し大人になるかもしれません。これらは、生存競争とよばれ、ある変異をもつ個体が、生き残りやすく、子孫を残す可能性が高くなるという考えです。
 もし、住んでいる環境でこのような生存競争が起こったとすると、環境からの影響、つまり自然が生き残る個体を選択するかのような効果を持ちます。これが、自然選択の考えです。
 住んでいる環境により適応した性質をもつ個体が生き残る率が高くなり、このプロセスが繰り返し起こることによって、変異がやがてその地の生物全体の性質となり、もとの種とはまったく違った新しい種となっていきます。つまり、種分化が起こるということです。
 ダーウィンの時代には、変異の原因も不明でした。しかし、自然選択説は、生存競争と変異の組み合わせによって、神が介在しなくとも、種が進化するメカニズムが示されたことに重要な意味を持ちました。
 進化論は、「種の起原」が出版後、10年ほどで広く受け入れられました。しかし、自然選択説に対しては、さまざまな反対意見が出されました。
 例えば、オオツノジカの巨大な角や剣歯虎(サーベルタイガー)の長くのびすぎた犬歯などは、あまりにも過度に発達しています。これは、ある方向に向かった進化は必要以上に進むという定向進化という考えで説明すべきで、自然選択説では説明できないとされました。
 アメリカの古生物学者コープ(1840~1897)は、動物の体が大型化する傾向ような生物の進化には一定の方向性があるという「コープの法則」を見つけ、定向進化論を唱えました。アメリカの古生物学者オズボーン(1857~1935)も、コープらの定向進化説を支持しながら、適応放散説を提唱しました。
 オランダの植物学者ド・フリース(1848~1935)は、突然変異によって、新しい種が生まれるという説を発表した。少しの連続的変異が集まって進化していくというダーウィンの自然選択説に、突然変異説で反対したのです。この説は、多くの支持をえました。
 もちろんそれぞれの反論に対しても、いろいろな議論が起こりました。ドブジャンスキー(1900~1975)やマイヤ(1904~)は、種分化には隔離が重要であるとしました。シンプソン(1902~1984)は、定向進化説を実証的に否定しました。
 いずれにしても進化論が誕生して50年ほどの間に、このような混乱した状況が生まれました。そして、自然選択説は、危機に瀕していていました。
 その後進化論は巻き返しが起こりますが、この続きは次回としましょう。

・海か山か・
北海道も暑い日が来ました。
あまりの暑さに海で泳ぐ人もでてきました。
しかし、海難事故が起こっています。
私は、海よりも山が好きです。
調査も山のことが多いので、
我が家の子供たちは、山のきれいな沢で水遊びをします。
沢では、冷たくて、なかなか泳げませんが、
水遊びをするには、山の中の沢は楽しいものです。
そろそろ子供たちは夏休みが始まります。
北海道の夏休み1ヶ月もなく、短いものです。
でも、近いうち海にも連れて行きますかね。

・十勝岳・
先日、富良野の十勝岳に出かけました。
リフトがあると思っていたのですが、
今はなくなっていました。
昭和火口まで行きたかったのですが、いけませんでした。
家内の母が一緒だったので
リフトがないので無理はできず、
途中までいきました。
しかし、1200m近くまで登りました。
下は暑くてたまりませんでしたが、
涼しい気候と高山植物、残雪、眺望が心地よかったです。
このときの話は、別の機会にしましょう。

2005年7月14日木曜日

2_38 進化論の進化1:進化しているということ

 生物の進化だけでなく、時間と共に変化していくことに対して、進化という言葉が広く使われています。例えば、コンピュータの進化、携帯電話の進化、宇宙の進化、地球の進化、などなど。ここでは、生物の進化について見てきます。

 現在、生きている生物は、その祖先から進化してきました。しかし、進化とはいったいどういうことでしょうか。本当に進化は起こっているのでしょうか。そんな素朴な疑問を考えてみます。
 進化とは、長い時間がかかって、祖先とはまったく違った種類の生物に変わってしまうことです。祖先が今も生きていることもありますし、祖先はいなくなっている場合もあります。そんな進化ですが、生物の歴史を見ていきますと、進化には、スケールの違いによって、2つのものがあります。種分化(小進化とも呼ばれます)と大進化の2つです。
 種分化(小進化)とは、生物が時間とともに変化していき、最終的に異なった種類の生物になることです。上で述べた意味をそのまま反映している変化です。これは、新しい種が誕生することを意味しています。
 一方、大進化とは、種分化と比べて、生物のより大きな変化をいいます。脊椎動物でいえば、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類へと変わるようなものを大進化といいます。生物の分類体系でも大きな、界、門、綱、目などが変化することを大進化と呼んでいます。
 上で述べた例で、動物は界という分類で、脊椎動物とは門で、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類は綱の変化で、体の基本的な構造に違いによって区分されています。
 2つの種分化と大進化は、現在では、根本的に違うものではないとされています。つまり少しの変化(種分化)の積み重ねが、大きな変化(大進化)つくるということです。
 今まで生物が進化していることを前提として話してきましたが、ところで、本当に生物は進化しているのでしょうか。もし進化しているのなら、その証拠は何でしょうか。
 現在、進化の証として、化石、現生生物の分布と相、分子進化学的な証拠などが挙げられています。
 化石の証拠とは、まず、化石を過去の生物とみなすことからはじまります。そして、いろいろな時代の多数の化石を集めて、過去の生物がどう変化してきたかをみよう、という考え方です。しかし、これは、化石を多数集めて、進化という連続をみようという考えです。化石という点を多数集めて進化という線とみなしていきます。実際の化石は、必ずしもすべて連続していないのですが、過去の生物から現在の生物に至るまでの道筋の概略を表しており、進化とみなしています。過去の証拠から進化を探る方法であります。
 生物が現在の地理的な分布や、生物の組み合わせ(生物相といいます)が、そうなっている理由を説明するには、生物が種分化してきた、つまり進化してきたという考えを取り入れなければ説明できないことがあります。これは、現生生物の種分化を、マクロ的な視点でみるアプローチであります。
 分子進化学的な証拠とは、現生生物をミクロ的な視点で見て調べる方法です。細胞や生物関連分子などを調べていくと、そこには進化の痕跡や証拠が見つかるということです。
 以上のような進化の証拠が挙げられていますが、いずれも進化があったということを論理的に、証明しているわけではありません。ですから、進化の考え方には、いろいろな解釈がありえますし、実際にいろいろな進化論があります。しかし、多くの生物学者は、進化があったと信じています。
 もうひとつ、進化の考えには、最初の生物が一つのものから始まったという前提があります。これも実はなかなか難しい問題です。
 生物が生まれ、進化しているという考えは良しとしても、ひとつの生物から進化がスタートしたという保障はありません。
 多数の多様な生物が誕生して、いろいろな種が生まれ、いろいろな進化があってもいいはずです。地球初期の生命誕生の様子を想像すると、多様な生物が生まれ、多様な生物から、多様な進化が起こった、と考えた方が、ありえそうです。
 しかし、現在の生物は、ひとつの種からすべての生物が進化してきたと考えています。そのような最初の生命をコモノートと呼んでいます。もちろんコモノートは、ひとつの考え方、仮説で、そのような生物は見つかっているわけではありません。
 コモノートには、根拠があります。それは、生きている生物には、いろいろな生命活動の方法が可能なのに、共通の仕組みを持つことがわかっているからです。その代表的なものは、セントラル・ドグマ(中心狭義とも呼ばれます)というものです。セントラル・ドグマとは、遺伝情報がDNAに蓄えられ、RNAを使って遺伝情報が運ばれ、タンパク質を合成するというメカニズムです。この方法をすべての生物が用いているのです。いろいろな方法がありうるはずなのに、ひとつの方法しか使っていなのは、一つの祖先コモノートがあり、その祖先はたまたまこの方法を選んだということになります。

・成績・
6月、北海道は暑く、雨がほとんど降りませんでした。
7月になり、北海道にはやっと雨らしい雨が降りました。
そして6月下旬の暑さが嘘のように、
爽快に日々が続いています。
7月ともなれば、大学の学生たちは、
そろそろ試験を見据えた行動をしています。
授業で試験に関する内容が述べられないか、
何とか単位をうまくとる方法がないか
などをあの手この手で模索しています。
教員も、定期テストの準備と成績をつけるために
レポートや出席の整理に追われ始めます。
わが大学の出席は完全にデジタル化しされています。
学生証をカードリーダに通すことによって
出席を取れます。
コンピュータに翌日には集計されて
教員と本人には出席情報は閲覧できます。
ですから、自分が現在何回出席しているのかは
簡単に知ることができます。
しかし、レポートの評価や入力、テストの採点は
やはり、教員が自力しなければなりません。
1400名分の処理が必要となります。
こればかりは、何度やっても気が重いものです。

・共通祖先・
生物の進化について、最近、考えています。
もちろん生物学者ではないので、
地質学者としても立場で考えています。
古生物学も専門が違っていますが
地質学と近い分野なので理解できます。
生物の進化を地質学的に考えていくことは
なかなか面白いテーマでもあります。
今回エッセイで紹介したコモノートは、
エッセイのような内容では、
正確には共通祖先という言葉を使うべきです。
ですが、私がいつも用いているコモノートを使いました。
コモノートとは、東京薬科大学生命科学部の山岸明彦さんが
提唱された考え方です。
「遺伝的仕組みが成立し、環状ゲノムを有していた」生物で、
共通祖先を想定して使われました。
共通祖先に関する呼び方には、他にも、
プロゲノート(遺伝子型と表現型の対応していない生物 )
センアンセスター(曖昧な共通祖先を意味する概念的な生物)
などがあります。
実際のコモノートは化石ではわかりませんが、
現生生物の研究から、
好熱菌で、ゲノムサイズは小さく、遺伝子数は少ない
生物だと考えられています。
さて、いつの日にかコモノートにたどり着けるのでしょうか。
それとも、今は亡き、幻の生物のなのでしょうか。

2005年7月7日木曜日

1_46 古生代から中生代へ3:生物の変化(2005年7月7日)

 古生代からの中生代にかけての異変は、大きなものでした。生物の絶滅を伴っていたのですが、そこでは生物の型というものの交代劇も劇的に起こっていたのです。

 古生代から中生代にかけての時代境界(P-T境界と呼ばれています)では、確実な原因はまだ特定されていませんが、大絶滅がありました。その絶滅は、化石の証拠がたくさん見つかるようになる顕生代(古生代以降)では、最大のものでした。
 大絶滅があったとしても、生物が全滅していなければ、生き残った生物が、次の時代の新しい環境に適応して、進化を遂げていきます。生き残った生物の多様化への新たな旅立ちとなります。
 絶滅の程度が大きければ大きいほど、新しい生物は独自の多様化、つまり以前とは違ったタイプの生物の進化への道をたどることが可能となります。そんな変化が、P-T境界では起こりました。
 顕生代の生物は、大きく3つに分けられています。化石の資料が豊富な海の動物を基にして分けられたものです。カンブリア型、古生代型、現代型の3つの型があります。「3」といえば、顕生代も古生代、中生代、新生代の「3」つに分けられていますが、それぞれに対応しているのでしょうか。対応していればわかりやすいのですが、型の名前を見てもわかるように、対応していないのです。
 カンブリア型生物とは、カンブリア紀に出現した多様な生物のことです。体に硬い組織を持つ海生無脊椎動物が繁栄しました。特徴的な動物として、三葉虫や古盃動物(礁をつくった生き物)が挙げられます。カンブリア型の生物には、現在知られている無脊椎動物のすべての種類(門(もん)とよばれる分類の基準で)が出そろっています。カンブリア型生物はカンブリア紀に栄えたのですが、オルドビス紀以降になると徐々に勢力を失っていき、古生代の終わりに絶滅しました。
 オルドビス紀には、次の古生代型の生物が出現してきます。その変化は、突然ではなく、カンブリア型生物がいたのですが、徐々に古生代型生物の勢力が優勢になって、入れ替わるように変わっていきました。古生代型生物は、古生代型サンゴや古生代型アンモナイト、フズリナ、三葉虫など、海の生き物を主としたものでしたが、植物は海から陸へ進化していきました。
 現代型生物も、やはりオルドビス紀から出はじめていますが、栄えるのは中生代以降です。現代型生物は、新しいタイプの生物で、現在の生物につながるものです。
 このような3つの生物型の変化は、大きな枠組みの生物の変化ですから、徐々に変わっていくはずなのですが、古生代と中生代の境界(P-T境界)の変化だけが急激に起こっています。カンブリア型生物がいなくなり、古生代型生物生物の勢力が弱まり、現代型生物が主流となります。これは、P-T境界の大絶滅がいかに大きなものであったのかということを示しています。
 カンブリア型や古生代型の生物は、P-T境界で起こった異変を乗り越えるには十分な能力をもっていなかったのです。大異変を乗り越え、そして次の新しい環境に適応できる能力をもっていたのは、現代型生物だったのです。つまり現代型生物以外のライバルは、P-T境界でほとんどいなくなったのです。そして中生代以降現在まで、現代型生物が地表の生物の支配者となっているのです。

・7月の北海道・
7月になりました。
2005年ももう半分過ぎたことになります。
本州はまだ梅雨前線の影響を受けているでしょうか。
北海道の初夏はすがすがしく気持ちがいいです。
6月には蒸し暑くて耐えられない日がありましたが、
晴れの日は乾燥して風でも吹けば爽快に気分になります。
春から初夏にかけてのイベントは終わりました。
大学は前期の終わりに向けて最後の追い込みの時期です。
教員は試験の準備や、今までのレポート、出席などの
整理が必要になってきます。
なんとなく7月は忙しい時期です。

・セプコスキー・
前回、膨大な量の古生物のデータベースをつくった
セプコスキーの話をしたのですが、
今回紹介した3つの生物型は、
セプコスキーとミラーが1985年に提唱した区分です。
エッセイでは、海の動物と書いたのですが、
正確には、海生の底生動物を用いた区分です。
この3つの生物型の考えを用いると、
大陸棚で起こった顕生代の生物の交代劇がうまく説明できました。
しかし、この区分によるタイプ分けは、
P-T境界の大絶滅も示していたのです。

2005年6月30日木曜日

2_37 後世に残るということ:進化3

 世に残る成果には、いろいろあります。天才的なひらめき、高度な数学的処理、大きな装置を使っての大規模な実験や観測、複雑なプログラムによるシミュレーション、どれも能力のある人がなせるものです。しかし、長期間継続した研究によって残る成果を上げる人もいます。このような研究は、能力以上に継続する強い意志が必要です。そんな研究者の仕事を紹介しましょう。

 絶滅の周期についての研究を前回紹介しましたが、そこで用いられたデータは、ある一人の研究者によって構築されたものです。その研究者の名は、セプコスキー(J. John Sepkoski Jr.)です。
 セプコスキーは、1948年7月26日にマイアミで生まれました。ノートルダム大学で学士、ハーバード大学で学位を取得しました。サウスダコタのブラックヒルズで野外調査による古生物学の研究をおこないました。最初はロチェスター大学で教鞭をとり、後にはシカゴ大学に移りました。シカゴの自然史フィールド博物館の研究員もかねていました。
 セプコスキーが、ハーバード大学在学しているとき、古生物学者のグールドに師事していました。その時に、このデータベースをつくり始めました。彼のデータベースは、シンプルでした。彼は古生代以降の顕生代の生物で、海洋の動物化石の属という分類の単位で、報告されているすべての化石のデータを集めました。彼が集めたデータは、属の数で3万7000以上になりました。
 セプコスキーは、なぜ属という単位を用いたのでしょうか。生物の分類のいちばん小さな単位が種というものです。種を用いた方がよかったのではないでしょうか。種の上の分類が、属になります。化石の場合、種のレベルの分類の考え方は、研究者によっても違ってくるし、研究の進展により、種のレベルでは、変更がよく起こるります。属のレベルだとそのような激しい変更は少なくなります。ですから、属のレベルでデータベースをつくりました。
 生物の分類名のつけ方は、かつては、属は中の種が持つ共通の特徴を書き、種は個別の特徴をすべて書くようにしていました。ですから、やたら長い分離名称となっていました。現在では、属名と特徴的な1語で種を表す方法がとられています。これは、18世紀にリンネが用いて普及した、二命名法と呼ばれているものです。古生物もこの命名法にならっています。
 また、セプコスキーが海の動物化石を用いたのは、陸上生物は、古生代の初めにはいませんでしたし、生物が土砂の中に埋もれて化石になるので、陸上生物では、生きていたものがすべて化石になる率は少なくなります。化石としてよく保存されているのは、海洋生物です。特にプランクトンのような微生物は、チャートなどの海洋底堆積物をつくることから、大量に地層の中から発見できます。
 セプコスキーのデータベースは、大量の論文を長年にわたって集め続けました。属の中の種がどれかが見るつかれば、その属の出現時期として、属のどれか種が最後に見つかった時代を、その属の絶滅として記録しました。これだけを淡々と継続的に続けたのです。
 単調で単純な仕事にみえますが、実際にやろうとすると、網羅的に、そして新しい論文を次々と集めてその内容を検討していくという、膨大で永続的な作業を続けなければなりません。彼は、20数年間にわたってこのデータ収集を続けたのです。その継続するという志には、頭が下がります。そして見習うべき志だと思いました。
 セプコスキーのこのデータ収集は、1999年5月1日に終わりました。新しい属ができなくなったのではなく、彼が死んでしまったからでした。50歳という若さでした。高血圧による心不全で、自宅で亡くなりました。
 しかし、セプコスキーのデータベースは、今も、生き続けて活用されています。2002年にはアメリカ古生物学雑誌で「化石海洋動物属概要」という563ページの大部の本が、彼の著書として出版されました。そこには、CD-ROMで彼のデータベースがついています。セプコスキーという研究者の存在はなくなりましたが、彼のデータベースという業績は、今も多くの研究者が活用しています。それが、今回のネイチャーの論文へとつながっているのです。

・師弟関係・
私は、論文や彼のデータを用いた図は見ていたはずなのですが、
セプコスキーという彼の名前を知ったのは、
ネイチャーに掲載されたロードとミュラーの論文から、
いろいろ調べていく過程でした。
一方、彼が師事したグールドは、私が尊敬する古生物学者でした。
そのグールドのとろこでセプコスキーは博士論文の研究をしていたのです。
そのグールドも2002年に60歳で逝きました。
そして、グールドと7つ違いの弟子が師より先に逝ったのです。
師はそのときどんな思いだったのでしょうか。
私は、恩師をすでに2名亡くしました。
恩師には報いることはできなかったのですが、
少なくとも恩師より今のところ長生きしています。
それだけがとりあえずの恩返しとなっています。
立派な研究をして恩師を喜ばせることは、
いつのことになるでしょうか。
そもそも私にできるのでしょうか。
不安ですが、自分のペースで怠けることなく励むしかありません。

・北海道の夏・
北海道も夏らしくなってきました。
日中は暑い日が続きます。
私の大学建物は南北にのびる建物が多く、
中央に南北に伸びる廊下があり、
東西に教室や研究室があります。
私の研究室は、5階建ての5階の西向きにあります。
窓が西向きにあり、午後からは西日が差します。
窓もドアも開ける風が通るのですが、
快晴の午後は耐えられない暑さになってきました。
今年は今のところ雨も少なく、暑い夏になりそうです。
北海道の建物は寒さ対策をしているのですが、
暑さ対策は窓を開けるだけです。
朝夕は涼しいので、窓を閉めなければならないのですが、
午後の暑さはたまりません。
でも、これも北海道の自然なのです。
甘んじましょう。

2005年6月23日木曜日

2_36 絶滅の周期:進化2

 少し前ですが、ネイチャーという雑誌に生物の絶滅に関して面白い論文がありました。絶滅が周期的に起きているという報告です。今回は、絶滅の周期性について紹介しましょう。

 前回のエッセイで、生物に進化が起こっていることは確かだが、進化の仕組みや、進化がなぜ起こるのかは、よくわかっていないという話をしました。今回は、進化ではなく、進化とも密接に関係がある絶滅についてです。
 地球の歴史を見ていくと、生物の大絶滅が何度もあったのですが、その大絶滅が、なぜ、どのように起こったのかも、進化同様、よくわかっていません。進化のメカニズムがわからないのだから当然ともいえますが、絶滅が生物自身に起因するのであれば、進化と同じように解明できません。しかし、自然環境の変化などの外因で、絶滅が起こるのであれば、大絶滅などの大きな異変は、地球環境に大きな変化を与えたような大事件となります。そのような地球における大事件は、どこかに記録されているかもしれません。その事件の詳細がわかれば、もしかしたら大絶滅のメカニズムが解明できるかもしれません。
 白亜紀末の隕石の衝突の事件があり、地球環境に劇的変化が起こりました。その環境変化がきっかけで、大絶滅が起こったと考えられています。大絶滅の原因が隕石の衝突であるというのは突き止められたのですが、衝突の事件から、どのような連鎖が起きて、多くの種や属にいたる生物種が大量に絶滅したのか、そのプロセスはまだよくわかっていません。
 すべての生物が絶滅したのなら、まだ話は簡単であったのです。なぜなら地球生物がすべて絶滅するほどの大きな環境変化、例えば大気や海洋がすべてなくなるような大事件、が起こればいいのです。ところが、いくつもの生物が生き延びたのです。生き延びた種が、次の時代に新たに進化をして、生物の多様性をつくっていったのです。
 なぜ、それらの生物が生き延びたのでしょうか。もし偶然なら、進化は偶然が大きく作用していることになります。進化が偶然か必然化は、重大な問題ですが、解決されていません。
 白亜紀の末の大絶滅は、原因が突き止められただけでも、上出来というべきでしょう。他の時代に起こった大絶滅は、原因がまだよくわかっていなのですから。
 ロードとミュラーがネイチャーという科学雑誌の2005年3月10日号に論文を報告しました。彼らは、既存の化石のデータベースをもとに、統計的な処理をして、絶滅には周期性があることを見つけ出しました。大絶滅には6200万年と1億4000万年周期の周期性があるという内容です。そして、6200万年の周期が強くあわられているというのです。
 アメリカン・サイエンティストの7-8月号で、ヘイズもその論文に関連する議論しています。新しい年代区分に基づく補正や各種の統計的手法について詳細に検討しています。そして、同様の周期を見出しています。処理方法によっては、1億4000万年の周期の方が強くなることを示しました。
 生物の絶滅の周期性の研究は、ロードとミュラーの研究が最初ではなく、何人かの研究者が周期性を見つけて、すでに報告しています。6200万年の周期は1970年代にすでにトムソンが唱えています。フィッシャーとアーサーは3200万年周期を、ロープとセプコスキーは2600万年周期を、それぞれ提唱していました。そして、今回再度6200万年周期と1億4000万年周期が提示されたのです。
 6200万年という周期は長いものです。ロードとミュラーは、生物たち自身が生み出す周期としては、長すぎると考えました。つまり、この絶滅の周期は、生物学的な原因ではなく、生物以外の要因を考えるべきだとしました。
 彼らは、物理学者なので天文学的原因をたくさん挙げていますが、7つの可能性を考えました。太陽系が銀河の分子雲のなかを通り抜ける1億4000万年の周期、マントル・プルームの周期、太陽系が銀河系の回転面を横切る7400万から5200万年の周期、まだ見つかっていない太陽の長い周期の変化が気候に影響を与える周期、地球軌道の周期性が引き起こす気候変動、彗星の周期的衝突、未知の惑星Xがカイパーベルトを刺激して彗星のシャワーを起こす、などが考えられています。これらはきちんと議論された原因の候補ではありません。彼らの上げた可能性に過ぎません。
 原因を探る前に、この周期性が何を意味するのかを考えなければならないようです。白亜紀の終わりの大絶滅が隕石の衝突で、他の大絶滅では隕石の衝突の証拠は明らかではありません。となる、大絶滅が少なくとも隕石衝突とそうでないものがあるわけです。違う原因で起こった大絶滅が、なぜ周期性ができるのでしょうか。よくわかりません。まだまだ謎は解けそうにもありませんね。

・雨の周期性・
本州は梅雨の真っ最中でしょうか。
それとも暑い夏のような日でしょうか。
北海道は、爽快な日が続いています。
1年で一番いい季節でもあります。
祭りや外での行事が、この時期にいろいろおこなわれます。
ただ困るのは、最近は平日が快晴でいいのですが、
週末が雨の周期で変わっていくことです。
休日の外での行事の予定が流れたり、
変更したりすることがあります。
子供たちの行事は一通り終わったので、
天気に気をもむことはなくなりました。
でも、天気によって、出かけるか出かけないかの
我が家の予定も変わってきます。
できれば、外でいろいろしたいことがあるのですが、
天気ばかりは、ままならないものです。

・歴史科学・
結果から原因を探ることは、実はなかなか難しいものです。
物理現象は化学反応のように、再現可能な現象なら
その解明はまだ可能でしょう。
しかし、地球の歴史や生物進化は、
一度限りのことで、再度繰り返すことがありません。
歴史の科学は、なかなか厄介なものです。
ある出来事(結果)があったとき、その原因とされたものが、
本当かどうかは、どうしたら確かめることができるでしょうか。
論理的には、できません。
従って、研究者は、その原因とする仮説が
もっともらしいかどうかを競うことになります。
証拠や情報をできるだけ集めて、
原因とされる仮説をもっともらしくすることで、
とりあえずの決着を見ることになるのでしょう。
歴史科学は、再現不可能なところがつらいところです。
でも、そこが歴史科学の面白さでもあるのでしょうが。

2005年6月16日木曜日

2_35 進化の原因:進化1

 進化という考え方が生まれてから140年以上たちます。しかし、私たちは本当に進化を解明したのでしょうか。進化の本質について、考えていきましょう。

 生物の進化について、1859年にダーウィンの有名な「種の起源」が発表され、進化論が唱えられて以来、優秀な多数の生物学者が140年以上にわたって考え続けてきました。その結果、生物が進化してきたことは、確からしいことがわかってきました。もちろん創造説などを支持する人は、宗教的立場から反対していますが。
 進化は過去にだけ起こっただけでなく、これから未来に向かって起こっていくでしょう。そして現在進行中の進化もあります。今起きている進化を調べている研究者もいます。ウイルスや昆虫など世代交代の早い生物では、進化が起こっていることが確かめられています。身近なところでは、病気の原因となっているウイルスに対して、以前はよく効いていた薬が、効かなくなってきたという話を聞いた人もいるでしょう。これは、ウイルスが薬に負けないように進化してきたものです。
 しかし、現在生きている世代交代の期間が長い哺乳類などの生物では、現在進行中の進化は調べにくいのですが、家畜やペットなどの品種改良は、進化のメカニズム利用しているものです。人為的に進化を起こしたといえるでしょう。進化の研究の初期には、このようなものが利用されてきました。
 化石を調べることによって、多くの生物種がどのように進化してきたかを、知ることができています。過去にすでに起こって、終わってしまった進化も、調べることができます。化石という証拠は、化石がどのような順番に出てくるかを知り、そこから生物がそうのように変化してきたかを推定していきます。その変化を進化と呼んでいるのであって、なぜ進化したのかという原因を化石は示しているのでありません。
 ダーウィンが示した自然淘汰という考え方は、進化の要因のひとつの可能性を示しています。自然淘汰とは、環境に適合した生物が生き残る確率が高く、それが繰り返されると、新しい種が生まれるというものです。自然淘汰という考え方は、一見環境変化が種に進化をもたらしているようですが、本当にそこには因果関係が存在するのでしょうか。その因果関係を証明するのは、実は難しいことです。
 もし、自然淘汰が進化の原因だとしても、自然淘汰の考えから、脊椎動物が、魚、両生類、爬虫類、哺乳類というような大きな流れ(大進化と呼びます)が、なぜ起こったのかを教えてくれるでしょうか。大進化は偶然の積み重ねでしょうか。もちろんそう考える研究者もいます。一方、大進化には、なんらかの必然性が働いていると考える研究者もいます。では、自然淘汰と大進化にはどんな必然性があったのでしょうか。よくわかっていません。
 現在唱えられている進化論には、解決されていない問題がいろいろあります。自然淘汰と遺伝子への記録のメカニズム、遺伝子の突然変異が自然環境にうまく適応しているように見える謎、似た環境では別種の生物でも似た形態を持ちうること、などなど。考えると進化にはわからないことがいっぱいあります。
 実のところ、進化の実態はよくわかっていないのが現状ではないでしょうか。生物が進化しているのは確かですが、進化論というべきものは、まだ完成しているとはいえません。私たちの進化に関する知恵は、まだまだ足りません。進化論をもっと進化させる必要があるようです。

・詳細さと大胆さ・
進化とは、長い間研究されてきたおかげで、
非常に詳細に解明されていることもたくさんあります。
分子レベルの解明が進められていることもあって、
遺伝子とその進化のメカニズムについても
深く考えられています。
かたや、長い時間にわたって起こってきた大進化についても、
かなり詳しくわかってきました。
いまや、非常に微小な部分の情報、
非常に長い時間にわたる変化、
多様な情報が、進化論には付け加わりました。
しかし、化石による情報、
とくに大型の陸上生物に関する情報は、非常に断片的です。
時には骨の切れ端ひとつのある生物種を決めていることもあります。
どんな状態の化石で、それなりの根拠をもって、
ある生物の情報を得ているわけです。
それも重要な証拠ではあります。
このように少ない部分的な化石で種が同定されているのは
特別な例ではなく、大型の化石では極当たり前のことなのです。
非常に断片的な証拠で、大進化が構成されていることも確かです。
詳細さと大胆さによって進化は語られているのです。
これは、いた仕方のないことだとは思います。
しかし、なんとなく不安を感じているのは、私だけでしょうか。

・進化の進化・
いまや時間と共に変化してきたものについて、
生物に限らず、「進化」という言葉があちこちで使われています。
そして、時には、いや多くの場合、そんな「進化」という言葉には、
後の時代に進化したものの方が、より高度である、より進んでいる
という考えが潜んでいます。
本当の進化には、そのような価値観は含まれていません。
もとの生物種と何らかの原因で違ったものが誕生したとき、
進化したという言葉を使います。
ただそれだけです。
そこに人間的な価値感を入れないことが重要です。
でもいまや進化という言葉は、
日常語となり、いろいろなニュアンスが加わってきました。
これは、「進化」という言葉の進化なのでしょうか。

2005年6月9日木曜日

1_45 古生代から中生代へ2:絶滅の原因(2005年6月9日)

 古生代の終わりに起こった絶滅の事件は、化石の記録が残っているものの中では最大のものでした。最近、その実態が明らかになってきました。今回はその大絶滅を紹介しましょう。

 古生代と中生代の時代境界は、古生代の最後の時代であるペルム紀(Permian)と、中生代最初の時代である三畳紀(Triassic)の境界なので、P-T境界と呼ばれています。P-T境界の大量絶滅は、現在、わかっている絶滅の中では、最大規模のものでした。この絶滅事件で、海洋域の無脊椎動物の属のレベルで78~74%が絶滅し、種のレベルでは最大で96%が絶滅したといわれています。絶滅は海だけでなく、陸の生物にも及んでいます。
 この大絶滅の原因として、いくつものものが考えられてきましたが、いまだに確定されていません。地球外の原因、特に隕石衝突説は、何度も提唱されてきましたが、その根拠は多くの研究者が認めているものではありません。従って、多くの研究者は、地球内に原因があると考えています。
 原因として、P-T境界の頃に起こった事件が、いくつか候補があります。超大陸の形成と分裂、異常な火山活動、海洋の超酸欠状態という事件があったことが、地質学的証拠から知られています。そしてそれらが、現在最も有力な候補であります。
 古生代末の3億年前ころに、パンゲア超大陸が出現しました。パンゲア超大陸は、北半球にあった北半球の大陸が集合しはじめ、ローラシア大陸となり、南半球にあったゴンドワナ大陸と古生代末に合体してできたものです。パンゲア超大陸は、北極から南極まで長く延びた巨大な大陸でした。パンゲア超大陸の東側には、テチス海とよばれる巨大な湾があり、残りは超海洋パンサラサができました。
 古生代末の地球は、ひとつの大陸とひとつの海という非常に単純で、不思議な構成となっていた時代です。このような超大陸がひとつの状態というのは、顕生代ではパンゲア超大陸の一度だけでの出来事でした。
 中生代の三畳紀(約2億5000万年前)に入ると、パンゲア超大陸が分裂をはじめます。南・北アメリカとヨーロッパ・アフリカ大陸の間に、大西洋ができはじめます。
 超大陸の分裂は、巨大な暖かいマントルの上昇流(スーパープルームといいます)によっておこります。大陸が割れはじめるときには、特別激しい火山活動が起こりました。この火山活動は私たちが知っているどんな火山活動より、激しいものであったと考えれています。その激しい火山活動が、地球規模の環境変化を起こしたのではないかと考えられています。その事件は「プルームの冬」と名づけられて、研究されています。
 日本で見つかったP-T境界は、深海底でたまったチャートと呼ばれる岩石から見つかっています。周辺のチャートは、赤っぽい色をしているのですが、P-T境界の部分だけ黒っぽい色で、見かけの違うチャートとなっています。
 チャートは珪酸(SiO2)からできていますが、珪酸だけのチャートは、無色か透明のものとなります。しかし、少量の不純物が含まれていると、不純物によって色が付くことがあります。赤っぽい色は、赤鉄鉱という鉄の酸化物の色です。一方黒っぽいチャートには、赤鉄鉱がまったく含まれないで、黄鉄鉱(FeS)という鉱物を含まれています。
 赤鉄鉱も黄鉄鉱も鉄を含む鉱物ですが、チャートが溜まる環境によってできる鉱物が違ってきます。赤鉄鉱は酸素が多い環境ででき、黄鉄鉱は酸素がない環境でできます。
 P-T境界のチャートが黒いということは、時代境界のときに深海底付近が酸欠状態になっていたことを意味しています。また、黒っぽいチャートの地層の厚さから、酸欠の期間は、2000万年ほど続いたと考えられます。大変長い期間の酸欠状態であることから、超酸素欠乏事件と呼ばれ、その原因が探られています。
 超大陸の形成と分裂、異常な火山活動、海洋の超酸素欠乏のどれもがP-T境界付近で起こった地球史上における重大な事件です。それぞれが、どこかに因果関係があるのでしょう。しかし、その因果がどのように大絶滅事件に結びついているのかが、まだわからないのです。あまりにも原因の候補が多すぎるためかもしれません。そのために、因果関係が複雑になっているのでしょう。そんな謎に多くの地質学者が取り組んでいます。

・今どきの大学生・
前にTasさんから、最近の学生が勉強しないという話題がありました。
それに対して、私は、次のようなメールを書きました。

「最近の学生は勉強できないという話ですが、
時代が違うので単純に比較できないですが、
私の目から見ても、そう見えます。
本もあまり読まないし、好奇心も少なく、
集中力も少ないように見えます。
しかし、それはあくまでも一般論であった、
個別の個々人に対しては、個性もありますし、
一概には当てはまらないことでもあります。
個々人というところを見るべきでもあると思います。
なによりも、学力のなさを学生当人の責任するのは間違っています。
かつては進学率も低く、勉強のできる子供たち、
勉強の好きな子供たちが、大学に進学し、学び続けていました。
現在は、学びたくない子供は、大学に行かないと意思表示ができています。
その点では、自分の将来を選ぶ、判断力があるともいえます。
大学に来る子供たちには、
学びたい子供たちも、もちろんいますが、
意思表示のできない子供たち、
あるいは何がしたいかもわからない子供たちも含まれています。
以前は大学に来なかった階層も、日本が豊かになったので、
いけるようになりました。
その比率が「全入(進学希望者全員入学)の時代」となって、
多くなったことは確かです。
そのような状況が、大学生の学力低下という評価に
結びついているのだと思います。
このような子供の属性ができたのは、子供の責任ではなく、
時代がそのような子供を生んだのです。
だから、そのような子供が大学に来るのは、
社会状況として仕方がないことです。
大学側はそのような子供をどう教育するかを対処を迫られます。
これは、大学側の問題なのだと思います。
子供の属性を愚痴っていても、生産的でありません。
少しでも、彼が大学に来てよかった、
あるいは今後の人生でなんらかの役に立つことを身に付けて
卒業できるようにしてあげることこそ、大学側の任務だと思います。
それさ押さえれば、いつの時代も、どの教育も、目的は同じとなるはずです。
それを一生懸命やれるかどうかが、そしてできたかどかが、
大学の存在理由であり、存在価値となるのではないでしょうか。」
という返事でした。
皆さんはどうお考えでしょうか。

・ジンギスカン・
本州はそろそろ梅雨の話題でしょうか。
北海道は晴れさえすれば、
すがすがしい、いい季節となっています。
こんないい気候は、外でいろいろ祭りがあります。
大学祭も各地でおこなわれます。
ヨサコイ・ソーラン祭りが、
そろそろたけなわとなってきました。
今週末には最後の審査会があります。
周辺の大学でも一生懸命に練習をしています。
ある大学では、ヨサコイ・ソーランを
授業に組み込んでいることろもあります。
そして、祭りにはジンギスカンがつき物です。
私は、もう外で2回ジンギスカンを食べました。
青空の下で、ジンギスカンもなかなかいいものです。

2005年6月2日木曜日

1_44 古生代から中生代へ1:大絶滅の意味(2005年6月2日)

 しばらく間が開きましたが地質時代のシリーズを再開します。3月に古生代の話を書いたのを最後に、しばらく途切れていました。さて、今回は古生代と中生代の境界の話から再開しましょう。

 地球の歴史で、大量の絶滅が何度か起こっています。どの程度の絶滅があったかは、その絶滅の事件が起きる直前まで生きていた生物の化石の種類が、その事件でその程度絶滅したかで、見当が付きます。つまり全滅前後の化石の種類を調べ、どれだけ絶滅したかを統計ととれば、その絶滅の規模をだいたい見当が付きます。この方法は一見簡単にみえますが、当たり前のことですが、たくさんの化石が出る時代でないと使えません。
 この地質時代シリーズも紹介しましたが、化石がたくさん見つかるのは、顕生代(けんせいだい)と呼ばれる古生代の始まり(5億4200万年前)以降の時代です。生物が顕(あらわ)れた時代という意味です。つまり、生物が繁栄している時代ということです。もちろん現在も顕生代に含まれます。
 それ以前の大絶滅がどんなに大規模であったとしても、その規模を見積もることはなかなか難しいものです。たとえていうと、どんなに状況証拠がそろっていても、肝心の多数の死体が見つからないことには、その虐殺の様子や程度はわからないようなものです。私たちが生物の進化を定量的に知ることができるのは、今のところ、顕生代だけです。つまり45.5億年の地球の歴史の9分の1しか、正確な絶滅の証拠をつかめないのです。
 顕生代には、たくさんの絶滅があったことがわかっています。大きな絶滅の事件の多くは、時代の境界に用いられています。もちろん大きな絶滅があったのに、それが大きな時代境界になっていないこともあります。地質時代の境界は、学問の進展に伴って、必要に応じて、区分されてきました。今わかっているすべての情報が提示されて区分されたものではなく、そのときにあったデータでもっとらしいものをもととして区分されたものです。
 ですから、今から考えると、なぜそこに境界があるか、なぜそちらの境界の方が重要視されているのか疑問に思えるものもあります。しかし、このような矛盾を解消するに、十分な議論をしていかなければなりません。もし変えるとしたら、今までの研究成果の表現を、すべて読み替えることにしなければならないからです。それは、すごく混乱を伴うことになるからです。
 さて、大量絶滅の原因については、多くの研究があり、さまざまなものが考えられてきました。たとえば、気候の悪化、食物の悪化、病気、寄生虫、闘争、解剖学上のまたは代謝上の障害、種の老齢化、老化を示す過度の特殊化に向かった進化的浮動、大気の圧力のまたは組成の変化、有毒ガス、火山チリ、植物による過剰な酸素の生産、隕石、彗星、造山運動、卵を餌にする小型哺乳類による遺伝子プールの流出、捕食者の過剰な殺戮能力、宇宙線、洪水、地球の極の移動、大陸漂移などがあります。このあたりまでは、なんとなく科学的な根拠がありそうです。しかし、他の原因として、重力定数の変動、精神異常的な自殺因子の発達、エントロピー、太平洋海盆からの月の抽出、湖沼環境の排水、黒点などになると、それがどう大絶滅と結びつくのか、本当に起こったこのななか思えるようなことが原因となっています。さらには、神の意思、空飛ぶ円盤でやってきたグリーンハンターたちの襲撃、ノアの箱舟が狭かったなどなど、まさにありとあらゆる原因が考えられてきました。
 なぜこんなにもたくさんの原因が挙げれているかというと、大絶滅が起こった理由がなかなか究明できないからです。生物が生きていた環境は、海、土、大気など地表にあるもののいずれかです。それらの環境は、移ろいやすく、なかなか明瞭な記録を残さないからです。もちろん生物の柔らかい肉体は、他の生物のエサや栄養になります。運良く他の生物の栄養にならなかったとしても、長い時間を経れば、有機物は分解してしまいます。最終的に残るのは、化石と呼ばれる、石化したもの部分だけです。
 私たちが過去を調べるすべは、地層や岩石などの固体物質として残されたものだけです。化石ももちろん固体です。大気や海の記憶も、地層や岩石に刻印されていなければ、私たちは読み取ることができないのです。
 私たちがよく知っている恐竜絶滅は、中生代と新生代の時代境界で起こった事件です。地質学者も大いに関心を寄せています。その大絶滅事件で、まじめに議論されたものだけでも、65種類の原因が考えられたそうです。
 古生物学者や地質学者の多くは、一般に大絶滅が地球内の原因によると考えています。しかし、多くの研究者が納得している絶滅の原因で、唯一はっきりとしているのは、皮肉なことに、地球外の原因によるものです。それが有名な恐竜絶滅の隕石衝突説です。
 たくさんの大量絶滅の中でも最大のものは、古生代の終わりにおこりました。古生代と中生代の境界は、古生代の最後の時代であるペルム紀(Permian)と、中生代最初の時代である三畳紀(Triassic)の境界なので、P-T境界と呼ばれます。さて、次回は、その時代境界の話をしましょう。

・地質時代シリーズ・
地質時代シリーズを続けるのを、ついつい怠っていました。
地球地学紀行が連続していたためです。
これからは、忘れないようにこのシリーズを続けていこうと思います。
シリーズは、調べればいろいろと新しいことがわかってきて、
書き出すと長くなってしまいます。
でも、この「地球のささやき」は6つに分けて進めています。
それらを万遍なく書いていきたいと考えています。
もちろん、シリーズのようものは継続的に、
最新情報は、そのときにすぐに取り上げるようにしていきたいと思います。

・予兆現象・
Matさんから不思議な雲を見つけたという報告がありました。
それはもしかしたら、地震雲ではということでした。
私はそれに対して、次のようなメールを書きました。
「まず、地震雲については、私の専門とするところではありませんので、
その上での話とご了承ください。
現在のところ、地震雲と地震との完全な関連は、
まだ理論的には確立されていないはずです。
それは、地震の予兆に関しては、
残念ながら、完全な証拠が得にくいからです。
なぜなら、予兆現象に関する証拠は、
すべて後追いで提示され、記録されていくからです。
つまり提示される証拠に偏りがあるのです。
例えば、ある日何ごともなかったとき、
変な現象を見たと名乗り出る人は少ないでしょうし、
もし何もなければ、その現象は忘れ去られるでしょう。
でも、巨大地震があったときには、私はこんな現象を見た、写真を撮った、
という人がたくさん名乗り出て、証拠らしきものもたくさん集まるでしょう。
でも、それらの証拠が本当に予兆として特別な現象かどうかは、
注意が必要です。
何もないときにこそ、データを集めて、
特別な現象があったときと、比べることが重要になります。
もちろんそのような研究をなされている方もいるでしょう。
しかし、次の問題として、そのような予兆らしきものが、
地震とどのような関連があるかということを
論理的に証明にしなければなりません。
こと災害に関しては、不用意な仮説、あるいはあいまいな仮説を
研究者としては一般市民に向けて、安易に提示すべきではないでしょう。
人心を惑わすことは、不用意にすべきではないと思うからです。
それは研究者の倫理でもあります。
とりあえずは、学会でその説の正当性を、
多くの専門家の中で議論していくべきでしょう。
そのような意味で、地震の前兆現象は、
必ずしも、確立されているものではありません。
でも、今後、十分検討されるべきでしょうが。」
と答えました。
皆さんは、どうお考えになりますか。

2005年5月26日木曜日

4_59 白神岬:春の渡島半島3

 北海道の最南端にある白神岬を訪れた日は、風の強い日でしたが、晴れていました。運良く青森県を眺めることができました。しかし、私は、遠くより足元の石を眺めることに、たくさんの時間を使いました。

 道南にある渡島半島は、南側で東西2つに分かれています。東側は亀田半島、西側は松前半島と呼ばれています。北海道の最南端は、松前半島の松前町にある白神岬です。白神岬は、青森県の下北半島より南にあります。JRの津軽海峡線は、青森県の津軽半島から青函トンネルでこの白神崎の東側を通り、知内(しりうち)町で陸に顔を出します。
 白神岬に向かう国道228号線は、トンネルと覆道の連続する道です。覆道の途切れたところに駐車場があり、白神岬という石碑があります。天気さえよければ、津軽海峡をはさんで津軽半島、下北半島、そして北海道の亀田半島も見ることができます。私が行った日も天気がよく、少々霞んでいましたが、遠くまでよく見ることができました。ゴールデンウィークでもあったので、多くの車が止まり、海越しに遠くの景色を眺めている観光客が後を絶ちませんでした。
 さて、この白神岬は、ちょっと変わった石がみられます。私は、景色をほどほどにして、石を見にきました。駐車場の一番奥に海岸に下りる階段があります。そこから海岸に下りると、岩礁があり、岩石が出ているので、見ることができます。ここには、ほとんど人は来ません。
 海岸の岩礁には、地層が見られます。この地層は、何種類かの石が複雑に入り乱れています。よく見るとぐにゃぐにゃに曲がったり、違った種類の石が入り混んで、混在しています。それぞれの石の境界は複雑ですが、はっきりとしています。階段付近にはチャートと呼ばれる深海底でたまる石があります。黒っぽいもの、白っぽいもの、緑がかった灰色のものなど、いろいろな色のチャートがあります。少し離れると緑色の玄武岩、泥岩と砂岩の繰り返しの地層もあります。
 でも考えると、これらは不思議な石の組み合わせです。玄武岩はマグマが固まったものです。チャートは深海底にたまった生物の死骸が固まってできたものです。泥岩と砂岩の地層は陸から運ばれた土砂がたまったものです。
 もう少し詳しくいうと、玄武岩は、海底の中央海嶺でというところで、海底火山によってできました。チャートは、中央海嶺から離れた海底で静かに、玄武岩の上にたまったものです。泥岩と砂岩の地層は、陸の近くで河川によって土砂が運ばれてくるような大陸棚でたまったものです。
 いろいろな場所でできた石が、今や、がっちりとくっついて固まり、今の海岸で見られるのです。これらの石が、硬く固まっているということは、どこかで出会い、地下の深いところで固められたということになります。海でできた石と陸の近くでできた石が出会い、固まるような場所、それは沈み込み帯と呼ばれるところです。
 陸近くの大陸棚と、海から来たプレートが沈み込む海溝のあるところが沈み込み帯です。海洋プレートの上部は玄武岩でできています。海洋プレートが海嶺から海溝まで長い時間移動している間に、生物の死骸が玄武岩の上にたまり、チャートという岩石ができます。海洋プレートが沈み込むときに、マントルまでいかずに、一部が陸側に剥ぎ取られてることがあります。剥ぎ取られた海洋プレートの一部は、大陸側の岩石の中にまぎれこんでいきます。このようにしてできた石の混合物からできた地質体を、付加体(ふかたい)と呼んでいます。
 付加体の形成は、地殻深部での出来事なので、圧力の高い状態で起こります。そこでは、石が割れることなく変形したり、条件によっては割れてくっついたり、複雑な状態になって固まっていきます。このような付加体が白神岬には顔を出しているのです。その付加体ができたのは約2億年前のことだと考えられています。
 波が洗う岩礁に、地球の歴史が読み取れるのです。私は、今の景色にそんな過去の歴史をダブらせながら白神岬を眺めていました。

・科学のロマン・
白神岬に立つと、かつての地下でおこった激しい運動を感じます。
大地の、ゆっくりとはしていたでしょうが、
激しい営みがあったことが、複雑に入り混じった石から想像できます。
これは実際に誰かが見たわけではなく、
地質学という科学が解き明かした
もっともらしい説を私が信じているからです。
その科学を信じる心が、ここでは大地のダイナミックな営みが起こったと、
私にそんな想像をもたらしたのです。
実際のところ、本当かどうかはわかりません。
私は科学を信じているから、そのような想像ができたのです。
でも、それが本当かどうかはわからないと、言えるところに、
更なる、科学の進歩があるのでしょう。
しかし、私は、そこにこそ、科学のロマンを感じるのですが。

・花見・
北海道も先週末の土曜・日曜日が暖かい日で、春を満喫できました。
一家で、小学校の父母会主催による花見に参加しました。
宮司さんが父母におられるので、
神社の境内を貸しきっての、昼からの花見大会です。
学校先生たちも参加していました。
その神社の参道は桜並木になっています。
紅白の幕を張り巡らし、他の氏子さんも一緒に花見です。
みんなでジンギスカンを食べました。
また、ジンギスカンを食べ終わるころ、
花見に参加していた子供たち20名ほどは、
近所の家の棟上式で餅まきがあるので、
子供全員が、数台の車に便乗して餅拾いにいきました。
うちの子たちも、いっぱい餅や、お菓子をもらってきました。
地元の祭りに参加しているという気がします。
その後、酔っぱらった大人たちは、カラオケ大会に突入しました。
我が家は、そこで終わりにして、近所の温泉にいきました。
夕食は子供たちがもらってきた紅白の餅を
いろいろに調理して、お腹いっぱい食べました。
子供たちは、拾ってきたおやつも食べました。
春を満喫した一日でした。

2005年5月19日木曜日

4_58 メノウ:春の渡島半島2

 ゴールデンウィークの前半に、渡島半島を訪れました。海岸沿いでは風の強いところが多く、ヤッケが必要なときもありましたが、幸い天気に恵まれて、春めいた暖かい日の渡島半島を見て回りました。渡島半島の東側を回ったときに、黒岩というところがありました。今回は黒岩の話をしましょう。

 八雲町の町から北の方に10kmほどいくと、海岸線に山が迫ってきます。国道とJR函館本線が交差するあたりに、黒岩と呼ばれる集落があります。そこに、黒岩奇岩と呼ばれるところがあります。
 黒岩自体小さな町なので、注意していないと通り過ぎてしまいそうなところです。黒岩奇岩は、名所とされて、地図にも出ているのですが、目立たないために、見落としてしまいそうです。また、行こうと思っても、民家の庭先のような狭い道を通っていくので、ここでいいのかな思いながら進まなければなりません。着くと、小さな看板があり、トイレもあり、一応観光名所というべき目印があります。
 コンクリートの堤防を越えて、海岸にでると、なるほど奇岩とも呼ぶべき、ごつごつした岩礁が見えます。砂浜の中に、まさに忽然とあらわれます。あづまやがあり、その横には、赤く塗られた鳥居と、隣の岩の上にある祠(ほこら)に行くために赤い欄干の橋があります。名所らしい装いをもっています。
 この奇岩は、流紋岩という火山岩からできています。流紋岩という火山岩が観察できます。この流紋岩は不思議なつくりをしています。場所によっていろいろな姿に見えます。
 全体としては、ごつごつした岩ですが、場所によっては、いかにもマグマの固まったように見えるがっしりとしたところや、流紋岩という名前の起こりである流れるような模様のところあります。時には、枕状溶岩かのような放射状の割れ目もあります。数cmからこぶしくらいの大きさで丸い形をした石がたくさん含まれているところがたくさんあります。その様子は、一見すると、礫岩のように見えます。
 この火山岩は、マグマが海底で噴出したとき砕かれてできたものです。水中で壊されたものなので、ハイアロクラスタイトと呼ばれるものです。ときどき、白色や灰色、透明感のある丸い粒や脈のようなところがあります。これは、メノウです。大きいものや小さいもの、形も色も、いろいろあります。
 ここのメノウは、岩石がまだ熱い状態のときに、マグマと一緒に熱水も上がって来てできたと考えられます。熱水の中には二酸化珪素(SiO2)という成分も含まれていて、それがメノウをつくったと考えられます。二酸化珪素はメノウの主な成分です。
 メノウが見つかっても、うまく割れそうにもありません。私は、砕けた破片をひとつ拾ってきました。でも、よく見るとあちこちで、メノウを採ろうとした形跡があちこちにあります。もともとはきれいであったであろうメノウが、採集できずに砕かれて無残な形として残されています。
 黒岩奇岩の流紋岩とメノウは、看板にも書かれていませんから、一般の観光客にはわからないはずです。しかし、ここのメノウのことは、地質のガイドブックに紹介されているので、調べればすぐにわかります。私もそれを見て、ここに来たのですから。メノウに興味のある人たちが、取りに来るのかも知れません。あるいは私のような地質学者が採集するのかもしれません。
 私が訪れた春の黒岩奇岩には、ゴールデンウィークだというのに観光客は誰もいませんでした。近所の人が、何組か散歩に来ていました。多分この地域の人たちにとっては、身近で愛すべきところなのでしょう。そして、ここは祠もあり、大切に今も守っているところに違いありません。静かな観光地にも、いろいろな物語があったのようです。

・科学が教えてくれること・
流紋岩の中には、時々透明できれいなメノウが時折あります。
このようなごつごつとした岩の中に、
自然の美しさが隠されているのです。
その理由を科学は探ることができ、
そして解明できるのは、すばらしいことです。
私が見たところ、きれいなメノウは、あまり見当たらず、
あっても誰かが採ろうとしてしくじったのでしょうか、砕かれています。
奇岩を身近な自然と感じている人。
奇岩を信仰対象とする人。
奇岩より自然の神秘を見る人。
奇岩を科学の対象として見る人。
奇岩を観光資源とする人。
奇岩を寂れた観光地と見る人。
自然の造詣を我が物にしようとする人。
それをいろいろ思い巡らしながら見守る私。
いろいろな見方ができることを、
この黒岩奇岩から感じることができました。

・心で感じること・
八雲町で黒岩奇岩は、朝日の名所だそうです。
考えてみると東向きの海岸であれば、
どこでも朝日は海岸線から昇るのが見えるはずです。
あえて、ここが、名所とされるのは、多分、
この黒岩奇岩や鳥居や祠のシルエットを前景にして
朝日をみると幻想的な景色になるのかもしれません。
私が訪れたのは、午前中で陽は高く上っていました。
科学は、この奇岩の由来が
流紋岩のマグマであることは説明してくれます。
しかし、砂浜の海岸に忽然と現れる不思議さは説明してくれません。
そして、奇妙に思える気持ちだって説明してくれません。
そんなことは、科学の領分ではないのでしょう。
ただ、そのその不思議さを心で感じればいいのだけなのでしょう。

・砂鉄・
ここの砂浜には黒っぽいところと、
普通の砂のところがあります。
黒っぽいところは、砂鉄がたくさん含まれています。
黄色っぽいものや緑色っぽいものは、輝石です。
砂鉄とは磁鉄鉱のことで、
火山岩の中に含まれていたものが、集まったものです。
内浦湾一帯の海岸には砂鉄がたくさんあり、
かつては砂鉄をとっていたことがあります。
そんな思いで、ここの砂を、2種類持ち帰りました。

2005年5月12日木曜日

5_42 活火山

 かつて火山の区分には、活火山、休火山、死火山という3つがありました。しかし、活火山以外の、休火山、死火山という用語は使わなくなりました。まさに、死語となりました。しかし、活火山という語は現在新たな定義で使われています。活火山という言葉を考えてみました。

 火山噴火予知連絡会が、国際的な研究動向にあわせて、平成15年1月21日に、活火山を「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」という定義に改定しました。その結果、それまで86個あった活火山が、108個になりました。正式に死火山や休火山が消えたのは、2年ほど前のことなのです。
 火山噴火予知連絡会というのは、火山噴火があるとニュースでよく聞く組織の名称ですが、「噴火予知に関する研究・開発の促進、火山活動の総合判断、研究観測体制の総合的検討を行うために」昭和49年に設置されたものです。研究者と防災関係者、30名以内で構成されています。
 平成15年まで火山は、歴史的な記録がある2000年前くらい目処にして、活動期録があるものを「活火山」、活動記録がないものを「死火山」、活動記録があるが現在火山活動をしていない火山を「休火山」と呼んでいました。しかし、このような区分は、人間のライフサイクルと比べると十分はスパンをとっているように見えましたが、火山のライフサイクルは、数100年単位ではなく、数1000年、数万年単位となることから、このような区分は適切でないことがわかってきました。
 そのような問題は、1979年(昭和54年)に、「死火山」とされていた木曽御嶽山が水蒸気爆発を起こしたことが、契機となり表面化しました。それまでの火山の区分が誤解を与えること、現状にそぐわないこと、その後の研究の進展によって、多くの火山は2000年以上の活動周期をもつこと、などの理由から見直しがされたのです。
 現在、火山噴火予知連絡会では、活火山の定義は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」とされています。しかし、これにも問題がないわけではありません。火山のライフサイクルを考慮して、1万年という期間を設けたのですが、それで十分という保障はありません。
 しかし、防災という側面を考えたとき、現段階で噴火の危険性がある程度判定できるものとして、「活火山」という用語は必要となります。防災のための監視を、どの火山で、どの程度すべきかを示唆してくれるからです。
 その防災のために「活火山」は、A、B、Cの3つのランクがつくられ分類されています。ランクは、「過去100 年間に組織的に収集された詳細な観測データ」によって計算された100 年活動度指数と、「過去1万年間の地層に残るような規模の大きい噴火履歴(活動頻度,噴火規模及び活動様式)」によって計算された1万年活動度指数から、分類されています。
 ランクAは13火山、ランクBは36火山、ランクCは36火山、対象外として23火山があります。また、各火山のうち、12の火山では、0から5の6段階の「火山活動レベル」を、それぞれの火山で気象庁のホームページで常時掲載されています。
 火山活動というのは比較的理解しやすい概念です。地下にあったマグマや火山性ガスが地表で活動をはじめたものが火山活動です。火山活動によって形成された山が火山です。しかし、活火山はどうも一筋縄ではいきません。活火山は、一応上記のような定義はできますが、活火山に上げられたから今後噴火するかどうかはわかりませんし、今まで活火山とされていない火山でも噴火するものがあるかもしれません。あるいは、まったく今まで火山と関係のなかった地域で火山活動が起こることこともありえます。
 たとえば、富士山も、最初から高い山があったわけではなく、あるときから火山活動を開始して、現在のような火山になってきたはずです。あるときに始まりがあるのです。ですから、活火山とは、言葉上の定義ができたとしても、それで十分といういうわけではありません。もちろん防災の面からもです。
 これが、私たちの知識の現状なのかもしれません。火山噴火の予知は、だいぶ進んできました。特に火山観測網が十分なところでは、噴火の前にはさまざまな予兆的現象が記録されていきます。しかし、活火山は、どれほど監視しても、いつどこでどれくらいの噴火が起こるかを正確に予知できるとは限りません。
 活火山という言葉から、いろいろなことを考えてしまいました。

 今回のエッセイは、気象庁のホームページと、山里 平さんの
http://homepage3.nifty.com/hyamasat/levelrank.html
を参考にさせていただきました。

・休火山・
前回のエッセイで「休火山」という言葉を
不用意に使ってしまいました。
Aihさんから、その指摘を受けました。
この「休火山」という言葉は、
上で書いたように今では使わないのです。
以前に私もこのことをどこかで書いたことがありました。
まったくもって、私の不注意でした。
反省の意味をこめて、このエッセイを書きました。
申し訳ありませんでした。
改めてお詫びします。

・研究者の苦悩・
火山の定義はできます。
過去に活動した火山も、その定義に入れることができます。
しかし、古い火山の多くは、もはや活動しません。
では、活動しない火山と活動する火山は、
どこで線を引けばいいのでしょうか。
現状の科学では、線を引けません。
自然はそれほど単純ではないようです。
したがって、活火山の認定は、
人間への危険性という点に配慮して考えられます。
過去の火山の研究から、
「1万年」というタイムスパンを
火山活動のひとつの目安としたわけです。
しかし、その「1万年」という区切りは、
経験則とでもいうべきもので、科学的根拠はありません。
ですから、活火山として認定されてないから
活動しないという保証はないのです。
そこが困ったところです。
学術的には火山として
たとえば、いつごろからいつごろまで、
どのような活動して、現状はどうなのかを示せば、
用が足りるかもしれません。
しかし、人間生活への影響を考えると、
そう大雑把なことではすまなくなります。
学問が現実に、人間生活に応用、適用されるときの
苦悩がそこには、感じられます。
そして、研究者の苦悩も見え隠れしているように思えます。

2005年5月5日木曜日

4_57 柱状節理:春の渡島半島1

 ゴールデンウィークの前半に道南に出かけました。今回は、渡島半島をぐるりと一周しました。そのときに見た地質現象と感じたことを紹介しましょう。

 春の渡島半島の海岸沿いを、3泊4日で一周しました。北海道南部の渡島半島にあたる地域は、道南とも呼ばれる地域です。私は、以前にも渡島半島は何度か回っています。今回は、海岸線の調査として、全道をつなぐために、渡島半島を一周することにしました。
 時計回りに半島を巡りながら調査をしました。噴火湾沿いに海岸を走り、渡島半島先端の東半分の亀田半島をめぐり、函館湾、そして渡島半島先端の西半分の松前半島を回りました。幸い天気に恵まれて予定通り調査を進めることができました。
 渡島半島は活火山や休火山などが各地にあり、火山岩やその砕かれた岩石などを、いろいろな火山岩の形態を見ることができました。
 ほぼこの今回と同じコースを、反対周りに、以前、まわったことがあります。もう30年近く前になります。巡検とよばれる地質見学旅行で、当時私は大学の2年生として、先生に連れられて、このコースを巡りました。そのときの記憶はそれほど残ってないのですが、いくつか思い出されるものがあります。そんな記憶を、今回は思い出しながらまわることになりました。
 現地を見るまでまったく記憶から消えていたところが、現地にいってみると、思い出されることがありました。それまで一度も思い出すことがなかったのに、現地に行った瞬間に思い出すのです。30年近く前の記憶だというのに不思議なものです。
 そんなひとつに柱状節理がありました。実は、その柱状節理の崖の光景だけは鮮明に覚えていたのです。しかし、その柱状節理を、渡島半島のどこで見たのか正確に覚えていなかったのです。実は渡島半島の東側の海岸で見たのではないかと勘違いしていました。しかし、この乙部町の柱状節理を見た瞬間、「あ、ここだ」と鮮明に記憶が蘇りました。
 友人が立っていた光景、先生が説明されていた姿(内容は申し訳ありませんが覚えていません)も、道路わきで車が時々通るのも、同時に思い出しました。しかし、その景観の不思議さだけが記憶として残っていたのでした。
 乙部町の海岸沿いにみられる崖に、柱状節理がきれいに出ています。ここの柱状節理は、安山岩のマグマが岩石として固まったときに、できたものです。一般にマグマは、固まるとき体積が少し縮みます。その減った分が割れ目(節理といいます)となります。割れ目には、規則性があります。マグマが固まるときの形と冷えるときの冷え方によって割れ目のでき方が、いろいろな形状となります。長く柱状になって節理ができたものを、柱状節理といいます。他にも板状、方状、放射状などの形状ができることがあります。
 今回見た柱状節理は乙部町鮪ノ岬(しびのみさき)というところにあります。岬の付け根辺りに道路があり、道路はトンネルでその岬を潜り抜けます。岬は海に向かってゆるく傾斜して、海に入り込んだような形になっています。その傾斜はマグマの形を反映したものです。マグマが岩石の中に入り込んで(貫入といいます)冷え固まったのです。
 ここでは、柱状節理はマグマの真ん中部にできています。柱状節理の高さは、トンネル付近では10mほどの厚さがあります。上部と下部にも節理があるのですが、不規則な割れ目となっています。下部は海岸の波打ち際で海食台のようにみえます。
 不規則な節理の間に、整然とした柱状節理が岬の先端に向かって伸びています。まるで人工物のような不思議な景観をかもし出しています。この不思議な景観を30年近くたった今も、私は覚えていたのです。
 これが人工的なものだときっとこの不思議さは出てこなかったでしょう。自然の柱状節理と人工物との違いは、その不規則さです。柱の形は、だいたい5角形になってるのですが、どれひとつと同じものがありません。また、5角形だけでなく、4角形、5角形、6角形もあります。また、正4角形、正5角形、正6角形になっていものは、ひとつもありません。でも、全体としてみると整然と柱が密集して並んでいるように見えます。
 こんな不規則でいて、全体として規則的に見えるものなど、果たして人工的につくることができるのだろうか、ついつい考えてしまいます。もちろん乱数やカオスなどを発生させればできるでしょう。でも、人工物はきっと何のためということが前提にあるでしょう。
 しかし、ここの柱状節理は、自然がつくった、ただあるがままの造形です。そこには存在意義を問うこともありません。意義と問うのは人間の側で、自然には正確につくらなければならない必然性もありません。そんことを考えていくと、自然の不思議さがますます増してきます。多分私は、この柱状節理は一生忘れ得ないものとなったでしょう。そして、その場所も今度は覚えていることでしょう。

・道南の黄砂・
道南は天気がよかったのですが、
初日の夜に黄砂とともに雨も降りました。
雨の黄砂のつくるまだら模様は、これまら不思議な模様でした。
窓ガラスは拭いたのですが、
旅行中ですから車を洗うこともできず、
黄色いまだら模様のまま走り続けました。
この時期、北海道でも道南の方では
よく黄砂は見られるらしく、
地元の人は驚かないようです。
私の住む札幌近郊ではまれに降ることありますが、
珍しい現象となります。
桜より先に、大陸から春の便りが来ました。

・子供の見方・
今回の調査は家族連れで行きました。
乙部町の柱状節理のある場所で、
子供に「柱は何角形か」聞いたら、
一生懸命子供が数えて「11角形」と答えました。
大きな割れ目も小さな割れ目を区別せず数えたのでしょう。
私としては、5角形か4角形と答えてもらいたかったのですが、
実際に近づいて数えてみようとすると、
確かに正多角形ではなく、いびつな形をしています。
ですから、4、5とか6とはっきりとしたものもありますが、
不規則な多角形もたくさんあります。
さすがに11角形は、細かい角も数えすぎかもしれませんが、
先入観を持ってみているせでしょうか、
あるいは知識を優先しているのでしょうか、
はたまた、ざーっと見ているせいでしょうか
5角形が多いような気がします。
こんな柱状節理は、私のように子供の記憶にどれだけ残るでしょうか。
こればかりは親の思い通りにはいかないはずです。
子供の自身の記憶ですから。

2005年4月28日木曜日

6_41 地球と環境

 地球環境問題という言葉をよく耳にします。しかし、私は、この地球環境問題という言葉に、いつも、なにか違和感を感じながら聞いています。なぜ変に思うか紹介しましょう。

 「地球環境問題」という言葉をよく耳にします。この「地球環境問題」という言葉の意味は、私たちは漠然と「地球全体にかかわる環境の問題」と考えています。今回は、この「地球環境問題」について考えていきます。地球環境についての問題を、科学的な立場で考えるのではなく、単に言葉の意味についてみていきます。
 「地球環境問題」という言葉を考える前に、この言葉、「地球」、「環境」そして「問題」という3つの単語が修飾し合いながら構成されています。ここでは、単語の意味を順番にみていきます。
 まず、「環境」について調べていきます。調べるといっても、最初いいいましたように、言葉の意味についてく考えていくので、国語の辞書をひいてみることにします。
 私の持っているの辞書は、岩波国語辞典第2版で、1973年に印刷された古いものですが、言葉の意味を調べるのに支障はありません。その辞書によると、「環境」とは、「あるものをとりまく、まわりの状況。そのものと何らかの関係を持ち、影響を与えるものとしてして見た外界」と書いてあります。
 つまり、「環境」とは、「あるもの」を取り囲んではいるのですが、「あるもの」の「外界」にあるのです。「あるもの」に対して、影響は与えるのですが、「あるもの」は含まれないのです。これが、重要な点です。
 この意味をよく理解して、「地球環境」を考えていきましょう。地球環境を、辞書の「環境」にあてはめていくと、「あるもの」が「地球」に限定されているとみなせます。ですから、「地球環境」の言葉の意味は、「地球と何らかの関係を持ち、影響を与える状況やもの」ということなります。これが、環境本来の意味からでてくる解釈となるはずです。
 しかし、すぐ気づかれたように、これは、私たちが使っている、地球環境という意味とは違います。地球環境とは、地球と地球を取り囲んでいる総合的なものというのが、日ごろ私たちが使っている意味のはずなのです。どうも違った意味合いを持っています。
 もし、原意のままで解釈すると、地球に影響を与える地球外ものが環境となります。地球外空間が地球環境となります。規模からいって、地球に影響を与える外界のものとしては、月や太陽、そして他の惑星が代表的な環境様要素と考えられます。しかし、私たちは「地球環境」に、降り注ぐ太陽光は考慮しますが、太陽や月の運行を地球環境として、考えているわけではないようです。どうも原意のまま適用すると、うまくいきません。
 原意をくんで、今使われている地球環境というものになるように、解釈てみるとどうなるでしょうか。地球とは、岩石からできている固体部分を意味していて、固体より外側は、地球に含まれないという意味だとします。このような固体部分を固体地球と呼ぶことがあります。つまり、海洋や生命圏、大気、そして、柔らかい土壌などは、固体地球からしたら外界にあります。つまり環境です。地球環境とは、固体地球より外側のことを意味していることなります。
 固体地球とそのまわりの環境というのも、どうも、こじつけのような気がしてきます。「地球環境」とは、どうも地球表層の自然そのものを意味しているようです。私たちは、地球の表層部分だけ、それも生命、あるいは「人類に深くかかわりのある自然」だけを、「地球環境」と呼んでいるようです。これは、「地球環境」という言葉の原意とは、明らかに違った意味合いを持ってきます。
 もしかすると、「地球環境」には、「あるもの」が別にあるのかもしれません。たとえば、「自分」、「家族」、「自分の会社」、「わが国」、「人類」などがあるような気がします。もしそうなら、地球環境は「ヒトと深くかかわりのある自然」と読みかえられます。
 話を進めましょう。「地球環境」に「問題」ということが付くと、どうなるでしょうか。「地球環境」という言葉が、もし上で解釈した「ヒトと深くかかわりのある自然」のことだということになると、「地球環境問題」とは、私たちが日ごろ使っている意味とは少々色合いが違ったものになってきます。地球環境問題とは、漠然と地球全体の問題というようなものではなく、「ヒトに深くかかわりのある自然」に関する問題ということになります。他の生命、あるいは大気や海洋、あるいは地球全体にとってより、人類にとっての自然が問題にされているということになります。
 ここまで話を進めてきて、がっくり来ませんでしたか。「地球環境問題」とは、何のことはない、人類が、まずは自分たちに良かれと思えるような解決をしたいという、エゴがみえみえの内容になってきました。
 もし「ヒト」が上で言ったように、「自分」、「家族」、「自分の会社」、「わが国」などに置き換えられるとるすと、企業の倫理や京都議定書、環境保護運動、どれもレベルが違うだけで、どれもエゴになるだけで、所詮人類のエゴにひとくくりにできるようなものに見えてきます。
 今のところ残念ながら、「地球環境」という言葉は、善意ある行動として定着してしいます。でも、これがより広い全地球や自然全体に対して配慮されていくことを祈ります。

・PCレター・
新しい試みをするのに有効なソフトウェアに出会いました。
PCレターというソフトです。
私は一人でいろいろE-learnigを試みてきました。
でも、一人では限界があることもあります。
動画、音声などは、なかなか使えません。
大学のストリーミングの配信システムを考えても、
これは、大掛かりのものになって、
個人が気軽にできるものではありません。
でも、このPCレターはそれを実現できるような仕組みを持っています。
もちろん価格も安くなっていくでしょう。
しかし、ソフトはまだ未完成のようで、
他の10数名ユーザには問題なく使えるのですが、
なぜか、私だけが、うまく使えません。
大学では3台、自宅では1台のパソコンで試したのですが、
どこもうまくいきません。
原因はよくわかっていません。
作成者と協力していろいろ試しています。
いいソフトであるだけに、
私のところでうまく動かないのが残念でなりません。
このソフトは、北海道の浦河在住の電気屋さんが開発したソフトです。
詳しく言うと長くなりますので、
別の機会にしましょう。
興味のある方は、次のURLをご覧になってください。
http://pcltr.com/blog/

・ゴールデンウィーク・
ゴールデンウィークの予定はどうなっていますか。
休みの日が、前半と後半に分かれています。
一日でも休みが取れる人は、1週間近い休みとなります。
私は、前半の休みを調査に出かけます。
函館、松前のある道南をめぐります。
例によって家族連れです。
天気が心配ですが、28日の午後から出かけます。
後半は、家族でいろいろやろうかなと思っていたのですが、
どうもコンピュータの調子が悪いようなので、
再フォーマットをしなければならないかもしれません。
ソフト、データ、ネットワークの再構築には、
2、3日かかるかもしれません。
また、ダウンロードで購入したソフトは、
もしかするとトラブルを起こすかもしれません。
ですから、再構築後もどうなるかわかりません。
平日は講義がありますので、
講義用サイトの更新、
eメールによるレポートが大量に送信され、
それに対して返事を書かなければなりません。
ですから、もしメインのコンピュータがダウンすると
おおごととなります。
今も不調ですが、まだ、だましだまし使っている状態です。
しばらく格闘が続きそうです。

2005年4月21日木曜日

4_56 恐竜展2:恐竜展2005

 春休みに、東京で2つの恐竜展を見に行きました。2つ目に訪れたのは上野にある国立科学博物館でおこなわれている「恐竜博2005」でした。今回は、「恐竜博2005」を紹介しましょう。

 ティラノサウルス(Tyranosaurus)は、暴君とうい意味のティラノとトカゲとうい意味のサウルスという言葉を合わせてつけられた名前です。1905年に最初に記述されて、今年がちょうど100年目となります。そんな2005年にティラノサウルの中でも、もっと有名な標本である「スー(Sue)」というニックネームでよばれる化石が、日本で展示されることになりました。上野にある国立科学博物館でおこなわれている「恐竜博2005」が、それです。
 恐竜展2005の目玉の展示は、なんといってもティラノサウルス・レックスの「スー(Sue)」です。スーはアメリカ合衆国のシカゴにあるフィールド博物館が、紆余曲折をへて、入手して、展示しているものです。
 実物標本は、門外不出ですが、今回初めて実物標本が、一点(肋骨)だけですが、貸し出されました。また、アメリカではすでに公開されていたのですが、全身骨格の複製も、今回が日本初公開となります。「恐竜博2005」は、遠いせいでしょうか、北海道では宣伝されていませんが、地域によっては、いろいろなメディアで紹介されているのではないでしょうか。
 なぜ、この標本がすごいのかというと、実物化石として見つかった比率のためです。普通多くの動物化石は、断片や破片、よくても一本という形状で見つかるものが大部分です。まれに、いくつかの骨がくっついていることがあります。それは、ごくまれなことです。
 もちろんティラノサウルスの化石も、例外ではありません。一部しか見つからないがの普通です。ところが、この「スー」と呼ばれている標本は、もともとあった骨の90%以上が見つかっているのです。ほとんど丸ごと残っていると言っていいほどの率です。
 この化石の発見によって、新たなティラノサウルス像がいくつも作り上げられました。
 骨をスライスして年齢とともに成長してく様子をみていくと、スーは28歳まで生きてていたことが分かりました。また、10歳から20歳の間には、急速に成長して、最大では1年間で767kgも体重を増やしていたことがわかりました。そして、5トンの体重にまでなっていたことが推定されています。
 頭骨のCTスキャンから、臭いを感じる知覚神経の部分が非常に大きかったことがわかりました。その結果、スーの嗅覚は非常に発達しており、臭いで獲物を探していたと考えられます。
 骨のデータを用いたシミュレーションから、走るスピードが推定されます。時速20km程度であったと考えられています。しかし、体の大きさからすると、非常に敏捷だといえます。
 また、スーは体のあちこちに傷を負ったり、骨折していたところが治ったり、関節炎などの病気になっていたことなどが、骨に残された跡からわかります。これほど、傷を負いながら活きてきたということは、スーはかなりの老齢であったということが、現在の肉食野生動物から推定できます。ということは、ティラノサウルスの平均的な寿命が30歳程度であろうと考えられます。
 この「恐竜展2005」では、スーが目玉ではありましたが、「恐竜から鳥への進化」を最新の情報で紹介することが目的でした。1990年代から2000年代にかけて、多くの羽毛の生えた小型の恐竜化石が発見されました。これらの化石は、それまで考えられていた、恐竜が鳥類へと進化していったという説を証拠付ける重要なものとなってきています。
 科学博物館の展示はオーソドックスです。音声ガイドの貸し出しもありましたが、標本とそれを効果的に見せる演出、そしてパネルとラベルというごく普通に博物館でおこなわれている展示手法です。案内者はいなかったですが、実物の迫力が十分伝わってきました。それは大人だけでなく、子供にとっても同じだと思います。多くの子供が歓声が、それを、物語っています。恐竜は、いつの時代でも、子供たちのヒーローなのですね。

・かはく・
国立科学博物館は、通称「かはく」と呼ばれます。
私は、新館の一部できたときに、一度見学に行っていますが、
新館が全部が完成してからは、初めての見学となります。
実物標本の充実は、さすが国立科学博物館だと思わせるものがあります。
そしてなんと言っても規模が大きく、集客力があります。
古い展示場を知っている私には、いいところや悪いところが、
いろいろ見えました。
でも、新しくなったことによって、
私も常設展が初めての見学となり、楽しめました。

・スー・
ティラノサウルスの「スー」については、
いろいろな事件がありました。
発掘、クリーニングをおこなった民間研究所と
訴えた土地の持ち主、インディアンのスー族、
押収したFBI、いろいろな立場の古生物学者など
さざまな人が入り乱れ、
泥沼のような事件が起こりました。
最終的には、オークションに出されて、
フィールド博物館が競り落としました。
10億円という高値がつきました。
そのような高価なものは、
門外不出にしてもおかしくありません。
それも、やはりスーがあまりにも立派な
標本であったからでしょう。
そのいきさつは、もっとも詳しく、当事者でもある
ピーター・ラーソンとクリスティン・ドナンの著で
「SUE スー 史上最大のティラノサウルス発掘」
(ISBN4022500107)
に書かれています。
私は、現在、読んでいる最中です。

・恐竜が残った・
私たちは家族で、「恐竜展2005」に行ったのですが、
春休みなので、混雑がするだろうなと予想して、
平日を選びました。
なおかつ、9時開館なので、8時半頃にはいきましたが、
当日は天気もよく、長い行列ができていました。
午前中に特別展を見終わり、午後からは常設展をみました。
「かはく」の新館は、地下3階から地上3階まであります。
子供が興味をもちそうな階を順に見ていき、
2階は疲れて見ることができませんでした。
前日に見たも一つの恐竜の展示の疲れもあったのか、
この日も、へとへとに疲れてしまいました。
しかし、移動距離が短かったのと、
早めに見終わったので、ホテルで夕食前に一休みできました。
今回は、博物館だけを見ていたので、
疲れたのですが、いろいろな標本が頭にこびりついていました。
また、子供向けに化石のレプリカつくりもできました。
子供たちは、恐竜で頭をいっぱいにして
思い出も一杯にしてきたようです。

2005年4月14日木曜日

4_55 恐竜展1:Dinasur Factory

 春休みに、東京に出かけて、2つの恐竜に関する展示を見てきました。ダイノソア・ファクトリーと恐竜展2005です。今回はダイノソア・ファクトリーを紹介します。

 林原科学博物館は、林原(はやしばら)という民間企業が、モンゴルのゴビで恐竜化石の発掘を長年にわたって続けています。これは営利を目的としない学術調査です。さらに多数の研究者を常勤職員としてやとって、10年以上かけて発掘成果を博物館として展示しようと考えています。林原科学博物館は、岡山駅前にできる予定で、現在準備されています。発掘の成果は上がり、博物館の準備は着実に進んでいます。
 準備の一環として、今回、パナソニックと共同して、東京の有明で、収集された標本がダイノソア・ファクトリーとして展示されてます。聞くところによると、展示のスタッフの研修もかねているようです。
 林原の持っている恐竜の標本と、パナソニックのもっている技術デジタル・ネットワーク技術が連動した展示となっています。
 私は、昨年夏、岡山で学会があったとき、準備中の林原科学博物館を見学することができました。説明では、主な標本はダイノソア・ファクトリーに行っているということでした。まだ化石を掘り出し(クリーニング)中のものがあって、それを見学したのですが、すごい標本がいくつもあったので、そのとき見れなかった標本を見てみたいと思っていました。それが東京に出かけた理由でもありました。
 さて、この展示を見た感想ですが、標本は予想通りに立派なものでした。貴重で、驚き、楽しめる標本がいろいろありました。子供連れで行ったのですが、子供でも楽しめるものでありました。そのひとつにFACTスコープというものがあり、子供は楽しんで使っていました。
 FACTスコープは入る時に渡され、首からかけます。そしてまず使い方の説明を受けます。これは携帯情報端末(PDAと呼ばれる)で、液晶画面と耳につけたヘッドホーンから説明がなされます。FACTスコープは、決められた場所にかざすことによって、その場で必要な情報が読み込まれて、ヘッドホーンからは音声が、FACTスコープの液晶では画像などの情報が示されます。
 これは、ユビキタスと呼ばれるネットワークシステムのひとつです。FACTスコープを利用することで、欲しい情報をネットワークから取り出せるようにすることを目指したものです。
 この最先端のユビキタスを目指したものは、どうも私にはもの足りませんでした。最初のうちは真新しくて、決められた場所に行くたびにFACTスコープを近づけては聞いていました。しかし、あまりにも説明が長く、自分の進むスピードと合わないので、データは読み取るのですが、やがて半分も聞かなくなりました。もちろん興味のあるところは、一生懸命に聞くことになります。でも、後半になって疲れてくると、ついつい聞き逃すことになってしまいます。すると、最初から聞かなくてはならなくなり、つらい時もありました。いっそ、きっちりとした説明パネルがあった方が、私には、もっと早く情報を得られたと思いました。
 でも低年齢の子供には、文章と図だけでは難しいようです。文字はラベルで名前を読むことがせいぜいです。子供にはそれがやっとのようです。ですから、FACTスコープのような道具を使って、子供でもわかりやすい説明が有効だと思います。
 うちの子供だちを眺めていると、このような装置を持ち、扱うことが面白く、最初の2、3箇所では、一生懸命説明を聞いていました。しかし、後になるほど、FACTスコープで情報を読み込み、FACTスコープの液晶画面を操作することに興味が行っていたようです。一種のゲーム感覚になっていくようです。
 子供たちが、最後まで興味を持ち続けたのは、実物標本と案内員との会話でした。道具は所詮脇役です。情報すら脇役で、過剰にあると必要のない、わずらわしいものにもなります。必要なときに、必要なだけ見られる工夫がもう少しあるといいと思います。恐竜を見に来た人には、恐竜を存分に見せること、そして足りない部分は人が補うこと、これに勝る展示手法はないと思いました。
 ダイノソア・ファクトリーにケチをつけたようですが、真意はそうではありません。ここの展示はすばらしく、案内員も親切でした。ですから、いい展示だったと思います。ただ、ほめるばかりが能ではなく、よくなかった点も指摘しておくべきでしょう。ですから上のような感想を書きました。お近くのかた、東京に出かける予定のある方、ぜひご覧になってはいかがでしょうか。すばらしい展示と、先端のIT技術、それらのコラボレーションをお楽しみになっていかがでしょうか。

・北海道の春・
東京には、3月30日から4月1日まで滞在しました。
桜のつぼみも少しほころびかけてきた頃でした。
海沿いの有明をうろうろしていたときは、
曇りで、風も強かったので肌寒かったです。
北海道より暖かいだろうと薄着をしてきたので、
少々寒く感じました。
東京は、もう葉桜となっているでしょう。
北海道では、桜はまだまだです。
今は、雪解けの真っ最中です。
ふきのとうが顔を出し始めたばかりです。
でも、太陽さえ出れば、春めいた暖かい日となります。
大学の若者たちは薄着です。
冬でも薄着なのですから、
もうジャンバーの下は、半袖のTシャツ
といういでたちのひとも見かけます。
私は、今でも厚手のジャンバーを着ています。
もちろん厳冬期の一番寒いときのものではないですが、
本州の冬に着ていたものです。
私は朝型の生活をしていますから、
朝6時頃には自宅を自転車で出ます。
曇りで風でもあると寒くなります。
ですから、いまだに厚着をしています。
もしかしたら、加齢によって
寒さに対する抵抗力がなくなったためでしょうか。
もしそうなら、上の言は、すべていいわけですね。

・都会では・
私たちは北海道の町外れに住んで、もう4年目になります。
もうすっかり田舎暮らしが身についてきました。
近頃では、札幌の町さえ大都会に思えます。
今回、東京で3日間、うろうろしました。
小さな子供づれだったので、
余裕を持って行動していたのですが、疲れました。
初日は、札幌-東京の飛行機での移動、
ダイノソア・ファクトリーの見学、
子供たちの大好きなLEGOの店で買い物、
そして上野のホテルへ
という行動でした。
いつもにない行動量となりました。
思っている以上に歩いていることもあるのでしょうが、
やはり人の多さ、あわただしさに、疲れました。
初日、ホテルに着いたときは、
家族全員へとへとになっていました。
食事をとるために、外に出ることもできず、
コンビニへ、私が弁当を買いに行く羽目になりました。
さて、一番の問題は、
子供たちに恐竜が思い出として、
心に残ったのでしょうか。
それとも、疲れた記憶でしょうか。
あるいは、おもちゃのLEGOの記憶でしょうか。
親としては恐竜であって欲しいのですが。