2002年8月29日木曜日

4_20 秋吉台:山口1

 8月17日から21日まで、学会で山口県にいきました。そして、そのとき、秋吉台を訪れました。もちろん、秋芳洞も訪れました。よく考えたら、山口は来通り過ぎただけで、ゆっくり滞在したことはありませんでした。ですから、今回は、少し山口を見てきました。


 山口では、秋吉台と秋芳洞をぜひ見たかった。それが、今回かなえることができた。なぜ見たかったかというと、石灰岩の地形として有名であることと、秋吉台の地質が、世界に知られることになった地でもあるからです。
 秋吉台を世界に知らしめたのは、小沢儀明(おざわよしあき)でした。東大の学生であった小沢は、卒業研究として秋吉台を調査していました。その卒業研究から、大発見が生まれたのです。
 大正当時、秋吉台は今ほど道や人家もなかく、自力ですべておこなわなければなかったはずです。大草原の中を、その学生は黙々と調査していたのでした。地質調査では、石灰岩のなかに含まれている化石を調べることも重要なことです。そして、化石を見分け、どのような時代かを決めていくことも重要です。
 そして、小沢は、重要なことを発見しました。それは、地層の上にある化石が、古い時代でもので、下になるほど新しい時代の化石でした。つまり、「地層累重の法則」というもので、地層は下ほど古く、上ほど新しいという原則が、地質学にはあったのです。それに、反する現象が見つかったのです。
 どう解釈するかというと、もともとは地層累重の法則にしたがって堆積した石灰岩が、現在の地に来るときに、逆転したのです。
 小沢は、その卒業論文の成果を、秋吉台の逆転構造として発表しました(1923年発表)。そして、その業績が認められて、学士院恩賜賞を受賞しています。しかし、海外での研修から帰国した直後に、なんと31歳の若さで夭逝しました。その短い10年ほどの研究生活で、40篇もの論文を書いています。
 小林貞一は、秋吉台の逆転を起こした地殻変動が、日本列島の古生代の重要な地質変動であることを認め、小沢の発見を記念して、「秋吉造山運動」と名づけました。
 その後、秋吉台の構造については、その重要性から、何人も地質学者が検討を加えてきました。そして、モデルもいろいろなものが提示されました。何転かしましたが、逆転の構造が解明されています。
 秋吉台科学博物館の学芸員たちの研究で、より精度よく、逆転で構造が再現されています。それは、太田正道の詳細な地表踏査(1968年発表)と、学芸員たちの自力による、250mにおよぶ学術ボーリングで、今のところ決着をみています。
 逆転の地層は、秋吉台の北半分を占め、標高の高いところに、一番古い石炭紀の石灰岩、一番にペルム紀の地層がでています。そして大きな衝上(しょうじょう)断層で、接して、逆転していない地層が南半分にあります。南半分では、標高の高いところがペルム紀の石灰岩で、低いところとが石炭紀の石灰岩です。
 今では「秋吉造山運動」も研究の積み重ねによって、そのもつ内容も変化してきました。しかし、その重要性は、今でも、保っています。

・自力のボーリング・
太田は、学芸係長をしていました。
太田は、この秋吉台の地質構造を誰が見ても納得するためには、
どうすればいいのかと考えていました。
自身、地表踏査はできる限り詳細なものをしました。
そして、最終的に出した結論は、ボーリングをすることであった。
ここでいうボーリングとは、
土木工事をするとき地下に穴をほりながら、
どんな地層やあるかを、直接資料を掘り抜いてとってくるものです。
ボーリングは、一箇所に穴を開けるわけですが、
しかし、それは、見えない部分を連続的に資料を集めることができます。
ですから、地下の地層や構造がどうなっているかを知るために、
非常に有効な調査方法なのです。
秋吉台の学術ボーリングでは直径4.5cmの棒状の岩石が掘りぬけました。
しかし、ボーリングは非常に費用のかかるものです。
秋吉台科学博物館は費用はそんなにありません。
ですから、中古のボーリング装置を何年もかけて買い揃えていきました。
そして、学芸員が、ボーリングの操作を習い、
ボランティアの人たちと一緒に掘りました。
1970年に逆転している地層から掘り始められ、
1972年には250mも掘り抜きました。
そこは、逆転していない地層にまで達していた。

・衝上断層・
衝上断層とは、断層の一種です。
「衝上」の「衝」とは、「強い勢いでぶつかる」という意味です。
ですから、「衝上」とは、ぶつかって持ち上げられる断層という意味ですが、
地質学では、別の意味も加味されています。
原義にあたるものは、地層や岩石が両側から力を受けて、
圧縮されるような力が働いてできる断層になります。
それは、術後では、逆断層というものです。
衝上断層は、さらに、低角度(45度以下)の逆断層という
制限がついたものをいいます。

2002年8月22日木曜日

4_19 アパラチアの片隅で:カナダ3

 カナダのニューファンドランドは、アパラチア山地の東端にあたります。そんな生い立ちが、ニューファンドライトで垣間見ることができました。そして、ニューファンドランドは、ヨーロッパと北アメリカ大陸の架け橋でもあるのです。


 まず、アパラチア山脈の話をする前に、山脈はどうしてできるかを見ておきましょう。山脈は、プレートテクトニクスの考えでは、プレートがぶつかるところです。プレートがぶつかるところとしては、アンデス山脈のように、海にプレートが沈み込む海溝をもち、陸には山脈があるコルディレラ(cordillera)型と呼ばれるものと、ヒマラヤやアルプスのような大陸同士の衝突した境界上にある衝突(collision)型があります。アパラチア山脈は衝突型です。
 しかし、古生代にできた古い時代の造山帯は、その山々も侵食のために低くなっています。ニューファンドランドは、氷河に覆われたために、さらになだらかになっています。まさに、たおやかな山々です。
 アパラチア山脈は、北アメリカ大陸の東部にある大山脈です。地名はチョクトー・インディアンの言葉(向こう側の人々という意味のappalachee)に由来しているそうです。
大西洋岸沿いにアメリカ合衆国アラバマ州北部から、カナダのケベック州をとおり、ニューファンドランドまでのびています。全長は約2400km、幅は150~500km、標高は450~2000mです。
 アパラチア山地をつくっているのは、原生代後期から古生代デボン紀にかけての堆積物です。堆積物の中には、石炭紀層の地層には大量の石炭が見つかっていて、100年以上にわたって北アメリカ採炭量の約3分の2を供給してきました。また、オフィオライトと呼ばれる、海洋地殻の断片も混ざっています。また、そこに貫入する原生代最末期から石炭紀後期にかけての4回の活動時期を持つ花崗岩があります。花崗岩の貫入によって、その周辺には変成岩が形成されています。
 山地の形成期は、オルドビス紀にはじまり最盛期は二畳紀でありました。大西洋がまだなかった時期のなので、ヨーロッパとつながってました。ですから、ヨーロッパにも同時期の造山運動があります。ヨーロッパでは、古生代前半のカレドニア造山帯と古生代後半のバリスカン造山帯が、異なる場所に分布します。北アメリカ大陸ではアパラチア山脈一帯に、カレドニア造山運動とバリスカン造山運動が重複しておこっていますが、総称してアパラチア造山帯とよんでいます。
 ニューファンドランドの東部は、地質区分では、アバロン地区と呼ばれ、堆積岩と花崗岩を主体としたものです。
 ニューファンドランドの地質ですが、アパラチア造山運動によってできたものです。ニューファンドランドは、その典型とされています。アパラチア造山運動とは、6億から3億年前にかけておこった山をつくる作用です。プレートテクトニクスでは、プレートが沈み込んでなくなり、今は陸地となっているところです。ニューファンドランドの西は北米大陸の端で、そのあいだにはイアペタス(Iapetus)と呼ばれる海があり、東側にはイアペタスの東端にあたります。
 アパラチア造山運動とは、イアペタスという海が、プレートの沈み込み(収斂(しゅうれん)といいます)によってなくなるときできた、陸地です。ですから、今は亡き海の証拠がいろいろ見つかります。

2002年8月15日木曜日

4_18 霧に霞む境界:カナダ2

 今回のニューファンドランド訪問の一番の目的は、先カンブリア紀-カンブリア紀の地層境界(以下V-C境界と呼びます)を見ることでした。ここ何年か、私は、V-Cの境界の地層を見ています。では、現場で書いた文章を紹介しましょう。


・境界にて(ライブ)・
 このエッセイを、目的の露頭の前で書いています。寒いし、車の中ででも書けばいいのでしょうが、あえて、現場で書いています。
 昨日に続いて、今日も、このV-C境界の露頭の前にきました。今日も霧がかかって、灯台では、灯台守のおじさんが、霧笛を鳴らしています。昨日よりは、風が弱く、過ごしやすくなっています。
 その露頭の下に、崖にへばりつくようにして草が、3本、生えてのを、昨日、来たときには気づきませんでした。取り憑かれたように石を見ているときは、それ以外のものが目に入らないのです。こんなことでいいのでしょうか。もっと、広い視野、視点、観点、そう、パースペクティブを持たなくてはいけないのでは、と思ってしまいます。
 そこは、なんの変哲もない、いや、かつてはごみ捨て場の脇の汚い海岸の崖です。そこが、世界で、V-C境界の模式地(もしきち)とされているところなのです。模式地というのは、世界で、もっともその地層および地層境界がよく観察できる、典型的な地点だということです。英語では、stratotypeと呼んでいます。
 V-C境界は、かつては、あまりいい露頭がありませんでした。しかし、近年になって、中国の澄江(ちぇんじゃん)や、ロシアのウラル地域、グリーンランドなど、世界各地で、V-C境界の典型的な地層が発見されました。カナダのニューファンドランドのフォーチュン・ヘッド、この地もそうでした。
 模式地となるためには、まず、地層が、時間的にも空間的にも途切れることなく、連続的に出ていなければなりません。そして、その時代を決定づけるような化石をたくさん含んでいなければなりません。さらに、そのようなことを決定付けるためには、地質学者が、その地できっちりとした研究がされていなければなりません。
 いまや、ニューファンドランドが、V-C境界の模式地となっています。それは、もちろんきっちりした研究がなされています。ナルボーンほか(G. M. Narbonne et al., 1987; 発音は不確かです)の論文が、その役割を果たしました。
 フォーチュン・ヘッドは、アプローチのしやすさもあるのですが、地層が海岸線沿いで、非常にわかりやすく整然とみることができます。車できて、海岸に降りれば、すぐその露頭の前にたつことができます。
 ここの境界は、非常に地質学的には大きな境界です。しかし、地質学的時間は、断絶することかなく、継続しています。地層としても、V-C境界の下の地層は、やや緑色を帯びた灰色のシルト岩かあるいは頁岩とよばれる(砂岩より粒の細かい堆積岩)からできています。そしてV-C境界の上の地層は、やや白っぽい砂岩です。
 この砂岩より上からは、カンブリア紀の化石がではじめます。地層の堆積環境として連続しています。
 つまり、一般の地層区分では、岩相(岩石の種類)境界とはしないような境界なのです。
 でも、時代区分がおこなわれています。それも、地質学では第一級の境界です。V-C境界は、物質や時間境界があるわけではなく、古生物によって決定された、人為的境界な、時代境界なのです。地質境界とは、物質境界、時間境界、境界がなくても、人為的な時代境界を引いたものあります。それは、時と場合によって、どれかを重視して境界がひかれます。つまりは、すべては人為的、恣意的なのです。このような地質境界とは、地質学的には意味があるんですが、はたして、境界として普遍的意味があるのか疑問です。

・解説・
 以上、V-C境界にて、書いたものです。補足しておきましょう。
 V-C境界は、チャペル・アイランド層の中にあります。チャペル・アイランド層は、5つに細分(member、部層)されています。V-C境界は、Member2の下の方(全厚さは430mあり、その下から2.4mのところ)にあります。
 先カンブリア紀の地層では、化石はまれですが、灰色から黒の部分からいくつか特徴的な化石や印象化石がみつかっています。それには、微貝化石(small shelly fossil)とよばれる化石も見つかっています。このような時代を示す化石の証拠から、この地層は、先カンブリア紀の最末期の時代のものだとされています。
 V-C境界の地層は、中粒砂岩で、その少し上には、塊状のシルト岩があり目立ちます。でも、その砂岩だけが、地層の違い、そして特徴となっています。その境界より上からは、カンブリア紀の化石が見つかりました。化石の証拠がなければ、ここにV-C境界あるなどと、誰にもわかりません。それは、野外で肉眼で見られる数cmほどの大きさの化石です。
 先カンブリア紀の地層は、潮汐の影響をうける場所でたまりました。カンブリア紀になると、川や氾濫原、扇状地でたまった地層になります。
 中国北京周辺でみたV-C境界付近の地層も、やはり海岸から河川の氾濫原付近の地層でした。なにか類似性があります。

memo 灯台守/霧笛を近くで聞きながら/ごみ/ライブ
・灯台守・
初日のことです。
フォーチュン・ヘッドでV-C境界の地層を見て、
その上の地層が出ている方向に沿って歩いていくと、
灯台の近くにでます。
すると、待ち構えたように、おじさんが、話しかけてきました。
そのおじさんは、この灯台守だそうです。
9時から6時まで、土曜日も日曜日も休みなく、
ここにつめているそうです。
それは、フォーチュンから、すぐ近くの島(フランス領)へ
フェリーが出ているせいでしょうか。
灯台が重要なようです。

それに、ここはすぐに霧がでるようです。
ですから、霧笛をならして知らせる必要があります。
その霧笛をならす役目があるのでしょうか。
非常に気のいいおじさんで、
私が、地層を見に来たといったら、
論文や新聞記事などの資料を、
ひとセットくれました。
ボールペンとバッチもくれました。
いらなかったのですが、断るのも悪くてもらってきました。
車に、もどると、おじさんのメモとパンフレットが
車のワイパーにはさんでありました。
メモには、こう書いてありました。
"If you need more info
Please come see the Light Keeper at the Light House"
「もし、もっと情報がほしければ、
灯台の灯台守に会いに来てください」
そして、私は、翌日、再度、V-C境界を、みに戻ってきました。

・霧笛を近くで聞きながら・
フォーチュン・ヘッドは地形と気象の関係でしょうか、
霧が出やすいようです。
2日間、V-C境界に通ったのですが、
両日とも、霧で、霧笛が近くで鳴っていました。
風向きでしょうか、霧笛の音が近くで聞こえたり、遠くで聞こえたりします。
初日は、風が強くで寒く、じっとしていれませんでした。
2日めは、風がなかったのですが、やや肌寒い程度でした。
ですから、Tシャツ、長袖のYシャツ、トレーナー、ヤッケ
を着てちょうどでした。
V-C境界のあるフォーチュン・ヘッドから、離れて国道にでたとたん、
霧から抜けでて、北国の快晴の強い日差しの中でした。

・ごみ・
フォーチュン・ヘッドが地質学的に
非常に重要であることがわかりました。
そのために、1994年に、この地はEcological Reserveに指定されて、
保護されいます。
もちろん、岩石の採集も禁止されています。
そして、今年から、この地域の保全がされています。
まずは、ここにくるための道路の保守です。
ここは、かつて、町のごみ捨て場であったのです。
それが、聞くところによると、今年から、
順次、きれいにされていくそうです。
非常にきれいな海岸線で、
地層を見るのにもいい環境なのですが、
ごみがどうしても目に付いてしまいます。
はやく、撤去されることを祈っています。

・ライブ・
メールマガジンでは、ライブはありえません。
でも、実際に、現場でエッセイを書いていくという行為は、
もしかすると、科学エッセイのライブといえるかもしれません。
まるで、私が、読者とともに、
ニューファンドランドのフォーチュン・ヘッドのV-C境界の前に立ち、
語りかけているような状態になったでしょうか。
そうなったしたら、このエッセイの試み大成功です。
感想をお待ちしています。

2002年8月8日木曜日

4_17 織り込まれた時間:カナダ1

 カナダのニューファンドランドというところを訪れました。1982年、20年前に恩師と一緒に来たことがある思い出の地でもあります。思い出の地といっても、再訪してみて、あまりにも覚えてないので、非常に新鮮でした。あまり日本の観光客は訪れないところです。そんな、ニューファンドランドを紹介しましょう。


 カナダの東端にニューファンドランドという島があります。島といっても、大きさは、東西も南北も約500kmに達する大きなものです。面積は、11万平方メートルで、北海道の1.3倍あります。人口は54万人です。時差は、日本より11時間30分遅れです。
 ニューファンドランド(Newfoundland)とは、「新しく見つかった地」という意味です。ニューファンドランドの名称が、イギリスの記録に最初にあらわれたのは1502年で、もともと北部大西洋で、新たに発見された地域、すべてを指していたそうです。
 1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、1497年にジョン・カボットがニューファンドランド島に到達しました。このあたりまでは、世界史に詳しい人なら、ご存知でしょう。じつは、ニューファンドランドは、それより500年も前に、ヨーロッパ人に、発見されているのです。このような歴史は、この地にくると、当たり前のこととして、語られているのですが、日本では、ほとんど知られていないことです。
 約1000年前に、ヴァイキングが、ニューファンドランドの北西の半島に定住しています。それより先行して、いまから約2000年前に、古エスキモー(Palaeo-Eskimoと呼ばれています)の定住の歴史があります。さらに古い歴史として、北米大陸には、約9000年前のモンゴロイド(インデアン)のユーラシア大陸から移動があります。以上は、ニューファンドランドにおける人間の歴史でした。つぎは、大地の歴史をみていきましょう。
 ニューファンドランドの州都は、セント・ジョーンズ(St. John's)です。最初に、セント・ジョーンズのシグナル・ヒルと呼ばれているところの大地の歴史(地層)を見ることにしました。
 シグナル・ヒルでは、陸から陸の近くの海でたまった堆積物の地層がみられます。この地層は、先カンブリア紀(ここでは原生代末期のもの)からカンブリア紀にかけてできたものです。
 一番古いものは、6億3500万年前陸からきた火山灰を含む緑から灰色の海岸や海岸から少し離れたところにたまった砂岩で、つぎに川の平野でたまった赤い砂岩、そして一番新しいものが、5億4500万年前の川の扇状地でできた赤い色をした礫岩がらできています。つまり、海中から陸上で形成された地層がみられます。
 このような岩石の組み合わせは、日本でもよくみられる地層の種類です。でも、岩石の時代が、日本では見られない、大変古い時代のものです。ですから、非常に固い岩石となっています。まさに「時代を感じさせる」地層でした。
 シグナル・ヒルは、最初は、要塞の地であり、後に電波塔として役割を果たしていました。そして、今は、観光名所として役割を果たしています。シグナル・ヒルには、多くの観光客が訪れます。カナダ国立史跡にも指定されています。
 そして、私が歩いたのは、2kmほどのトレイル(遊歩道)です。多くの人が歩いています。眺めは最高です。このトレイルは、今年から始まる予定の地質巡検のコースにもなっています。この巡検は、まだ始まっていませんでした。地質調査所でパンフレットを手に入れたので、地質巡検のコースにそって、一人でそのパンフレットを手がかりに歩いたのです。私は、石を見たり、写真を撮ったり、景色を見たりして、ゆっくり歩いたので、3時間ほどかかりました。多くの人は、1時間ほど歩いてしまいます。
 さて、私は、このトレイルで、現在のこの美しい景観に至るまでの、大地の歴史から人間の歴史までの、さまざまな時代、時間を感じつつ歩きました。ほかの人たちは、どんな感想を抱きながら歩いたでしょうか。

Memo 距離感/地質学のネットワーク
・距離感・
大陸では、距離感が、日本とまったく違います。
ですから、気をつけないといけません。
今回のニューファンドランドでは、2箇所を見学する予定でした。
前半は、東端のセント・ジョーンズから日帰りで2日間通う予定で、
先カンブリア紀とカンブリア紀の境界の地層のあるフォーチュンというところ。
後半は、3泊4日で、島の西端のオフィオライトと呼ばれる岩石と
デボン紀の地層を見るつもりで
コーナー・ブルックというところに行く予定でした。

しかし、誤算でした。
フォーチュンまで、片道350kmです。日帰りをしようとすると、
毎日700kmを走らなければなりません。
初日諸般の事情から、
夜中12時にセント・ジョーンズをたち、
フォーチュンにいって、目的地の近くまでいて、
セント・ジョーンズに帰ってきたら、12時ころでした。
休み休みですが、往復だけで、12時間ほどかかります。
ですから、日帰りで、地層をゆっくりと見ることは
不可能なことがわかりました。
コーナー・ブルックまでは、片道700kmほどです。
ですから、3泊4日だと、なか2日間は地層が見れるはずです。

でも、今回の一番の目標は、
先カンブリア紀とカンブリア紀の境界の地層をみることです。
これを見ない来た意味がありません。
それが十分見れないのなら、来た意味がありません。
ですから、予定変更をして、
西部をやめて、フォーチュンの
先カンブリア紀とカンブリア紀の境界の地層に
集中することにしました。

・地質学のネットワーク・
私たちは、地質調査にくるとき、現場を見ることも大切なのですが、
資料を集めることも重要です。
今回、私は、
GEO Centerという地質の博物館とニューファンドランドの地質調査所、
メモリアル大学にいきました。
博物館では、たいした文献も資料も手にいられなくて、困ったのですが、
地質調査所にいって、地質図をもらい、
地質学者に紹介してもらい、
話をして、フォーチュンに関する情報を得ました。

そこを調べている地質学者は不在でしたが、
岩石を研究している研究者が、相手をしてくれました。
彼は、非常に親切で、
論文と巡検案内書(これは他では入手不可能)のコピーをくれました。

そして、文献を探している間、古生物学者が相手をしてくれたました。
彼は非常にシャイで、言葉は少なかったのですが、
私が、露頭のどの部分がわかるかと質問したら
インターネットで、フォーチュンに関するデータを集めてくれ、
その境界が、こことわかる情報を教えてくれました。
がんばれば、日本でも自分自身でも情報は得られたはずです。
もで、実際にはそのサイトにたどり着けませんでした。
地質調査所のホームページと地質図にはたどり着いたんのですが、
そんな地層境界の写真のでているサイトがあるとは知りませんでした。
やはり、これも現地にいったから得られた情報です。

ですから、私は、境界を案内者なく知ることができました。

大学は、夏休みで、書籍も入手することはできませんでした。
そして、大学の図書館のインターネットでしらべても、
シャイな古生物学者が教えてくれた情報以上のものは得られませんでした。
もしかしたら、私が得たものは、地質学という共通の職業をもつ、
人間同士のネットワークだったのかもしれません。
幸運でした。

2002年8月1日木曜日

6_14 8月の誕生石

 暑い8月の誕生石は、メノウとペリドットです。宝石の輝きは、夏の暑さを忘れさせてくれるでしょうか。

 メノウは、一つの結晶からできているのではなく、石英の結晶がたくさん集まったものです。ですから、性質は、石英と同じで、化学組成はSiO2、モース硬度7、比重2.60です。
 模様がなく単色ものメノウを玉髄(カルセドニー、chalcedony)と呼び、縞模様があるものをメノウ(アゲート、agate)と区別して呼ぶこともありますが、多くは、両方をいっしょにして、メノウと呼んでいます。
 メノウは、瑪瑙という字があてられています。それは、原石の形が、馬の脳に似ているところから、馬脳すなわち瑪瑙とつけられたようです。
 メノウの模様が、景色や人物、動物、形にみえたりするため、古くから、形象石(lapides figurati)として、珍重されました。ヨーロッパでは大プリニウスは「博物誌」や、日本でも「和漢三才図会」に、メノウの模様に関する記述があります。
 メノウは、小さいな石英が集まっているため、結晶の間に隙間があります。その隙間に、人工的に化学成分を入れることによって、着色することができます。天然できれいな色をもたないものは、ほとんど着色されています。しかし、人工的につけた色も、安定しているため、天然石と同じ商品価値をもつものとして扱われています。
 着色は、炭素をもちいて黒色に、酸化鉄で赤色、酸化クロムで緑色、クロム酸で黄色、シアン鉄で、青色、酸化コバルトでコバルトブルーにされています。
 ペリドットは、鉱物名は、オリビン(olivine)で、日本名はかんらん石です。かんらん石は、オリーブ色(緑色)をした透明感のある鉱物です。
 英語のオリビンは、オリーブの実の色に似ていることから、付けられました。一方、日本語のかんらん(橄欖)石は、オリーブとは別種の植物である橄欖と誤訳され、それがそのまま鉱物名も「橄欖石」と訳されました。いまでは、字が難しいので、ひらかなで書かれることが多いようです。
 かんらん石は、モース硬度7~6.5、比重3.222~4.392で、岩石をつくる鉱物の中でも、重いものになります。
 かんらん石の化学成分は、(Mg,Fe)2SiO4です。この化学式で()の意味は、MgとFeを加えた合計が2になるという意味です。かんらん石は、鉄の多いもの(鉄かんらん石、fayalite、Fe2SiO4)から、マグネシウムの多いもの(苦土かんらん石、forsterite、Mg2SiO4)まで、いろいろな成分のものがあります。
 かんらん石は化学成分によって、色が少し変化します。マグネシウム(Mg)の成分が多いと、緑色になります。
 宝石としては、濃い緑色のものがいいとされています。最高級品質のものは、紅海のセント・ジョンズ島(ゼビルゲット、Zebirget島)と北ミャンマーからとれます。セント・ジョンズ島のものは、3500年以上も採掘され、ヨーロッパには中世時代、十字軍によってもたらされたといわれています。
 かんらん石は、マグマからできた黒っぽい岩石(玄武岩や斑れい岩など)によくみられます。しかし、白っぽい岩石にはほとんどありません。かんらん石は、地殻の岩石の中には多く含まれていない鉱物ですが、マントルの岩石は、半分以上がかんらん石でできています。ですから、マントルをつくる岩石をかんらん岩とよんでいます。
 かんらん岩は、マグマに取り込まれて地表に持ち上げられたり、大地の営みによってめくれ上がって地表にでることもあります。

memo
・メノウの模様・
石できれいなものや珍しいものは、
水石、珍石として日本では珍重されてきました。
メノウもその一つです。

「和漢三才図会」の「馬脳」の項には、
「其ノ中ニ人物、鳥、獣ノ形有ルモノ最モ貴シ」
とあります。

大プリニウスは「博物誌」第37巻の記述で、
「それは1個の瑪瑙で、
その表面に9人のムーサ(ミューズ)たちと
竪琴を手にしたアポロンの姿が見える。
ムーサたちはそれぞれ持物をもった姿で描かれているが、
これを描いたのは人間の手ではなく、
自然に生じた宝石の石理(いしめ)が、
そのような形に見えるのである」

石の切断面に
いろいろな物の形が見えるのがなぜかのかについて、
16、17世紀の博物学者によって
何度となく論議されてきたそうです。