2009年4月30日木曜日

4_87 円月島:南紀4

 南紀シリーズも4回めとなります。振り返ると白浜が中心になってしまいまた。白浜周辺は第三紀の堆積岩からできているのですが、堆積岩の構造や性質がいろいろ見られる所が多く、地質学的にも興味深いところです。今回の旅で白浜の地質の見所すべてを巡ったわけではありません。見残して心残りのところもいくつかあるのですが、南紀シリーズも今回が最後となります。今回は南紀の旅の最後として、侵食作用による造形を紹介しましょう。

 白浜の温泉街を北に向かって通り抜けて、番所の崎の方に向かって海岸沿いを走ると、円月島と呼ばれている島が見えてきます。この島は、もともと「高嶋」と呼ばれているのですが、1887年ごろにこの地を訪れた漢詩人の津田香巌が、円月島と命名し、現在に至っているそうです。島は、1974(昭和49)年に、町指定の名勝となっています。
 円月島は、南北に長く(130m)、東西に薄く(35m)、高さ(26m)もかなりあります。ふたこぶラクダの背のような形をしています。
 現在島として残っているのは、海になっている部分よりは、風雨や波の浸食には強かったのでしょう。しかし、島として残ったところも、中央が侵食に弱かったためのでしょう、ラクダの背のように浸食されてしまいました。
 この島は、白浜周辺をつくる地層と同じものからできてます。新第三紀中新世(1500~1600万年前)の田辺層群白浜累層の堆積岩です。しかし、礫岩を主としているために、もろく、波による浸食を受けやすくなっています。
 ラクダの背の真ん中の一番くぼんだところが、さらに波の浸食を受け、丸い穴(高さ9m、幅8m)があいています。海蝕洞(かいしょくどう)と呼ばれる浸食地形になっています。
 この島の穴の開いたラクダの背のような形状は、自然の妙なのでしょうが、海に浮かぶと不思議で奇異な形に見えます。丸みを持った、たおやかさに見入ってしまう魅力があります。前に紹介した白良浜や千畳敷とともに、白浜の観光名所となっています。
 岩石が弱いため、現在も浸食が進行しています。2008年10月1日に南側の岩が、高さ13m、最大幅9m、厚さ1.4mにわたって崩落しました。2005年にも、北側でも幅8m、高さ9mにわたって崩落しています。いずれも、浸食に弱い岩石であるために、起こった崩落です。浸食が、この円月島をつくり、そして浸食が円月島をこれからも変えていきます。やがては、丸い穴はなくなり、島が2つに分かれてしまうかもしれません。これが自然の摂理です。
 しかし、人は、現状のまま変わらぬ景観があることを願います。1939年に穴の上部に亀裂が発見され、それが拡大していることが判明したのですが、自然のままにしておこうと、現状維持のままにされました。しかし、2005年と2008年の2回にわたって崩壊がおこっため、「やがて海蝕洞はなくなり、夫婦岩のようになってしまう」という心配の声が起こりました。町では、今後、観光資源としての重要性を考え、崩落防止の対策を考えていくことになったそうです。
 技術をもってすれば、人間の時間スケールで考えれば、現状の景観を維持できるかもしれません。しかし、地質学的な時間、地球時間で考えると、自然の摂理として、浸食は進むでしょう。ここには、自然の営為と人為、観光資源と自然保護、いろいろ複雑な問題が絡み合っています。あまり不自然な景観にだけはならないことを願っています。

・行きたいところ・
このようなエッセイを書くとき、いろいろ調べます。
もちろん調査に行く前にもそれなりに調べます。
すると、行ってきたところ以外にも
堆積作用の珍しい形態がいろいろあったことに気づきます。
もちろん、知っていたのですが、時間の都合や交通事情で
いけなかったところもいくつもあります。
それをエッセイを書きながら悔やむことになります。
本来なら、もっとじっくりと時間をかけて巡れればと思います。
だから、別の機会にまだ行こうと思うことになります。
これは、出かけるたびに、感じることです。
そうなると、行ったところへまた行きたくなります。
日本中行きたいところだけになります。
でも、出かけたいところがないよりはいいと思います。
今度時間があったら、あの近くにいったら、見たいところを
いくつも持っていることは、幸せなのことなのか知れません。

・南紀シリーズ・
今回で南紀のシリーズが、終わりとします。
他にも見たところがいくつかありますが、
それは、月刊メールマガジン「大地を眺める
のほうで、いくつか紹介します。
興味のある人は、そちらを参照してください。

・ゴールデンウィーク・
皆さんは、今週末か始まるゴールデンウィークはどうされますか。
普通の人は、5連休となります。
私は、土曜日に振り替え授業があるので、
4連休になりますが、あまり遠出はしないつもりです。
天気を見ながら、日帰りで近隣の人出の少なそうなところへ
行こうかと考えています。

2009年4月23日木曜日

4_86 千畳敷の堆積構造:南紀3

 南紀白浜に千畳敷と呼ばれる岩場があります。起伏に富んだ広い岩場で、うろうろしてみるには最適の場所です。千畳敷は、堆積岩の地層が広がっているところです。地層のその構造を詳しく見ると、どのようなところでできたかをうかがい知ることができます。

 南紀白浜の白砂の白良浜がある鉛山湾を南に回りこんで、西に突き出た瀬戸崎という岩場があります。そこは、千畳敷とよばれている観光名所となっています。本当に畳、千枚分の広さがあるかどうかは知りませんが、地層がきれいにでているところをあちこち散策できます。
 千畳敷という名称はよく耳にしますが、青森県の西の海岸にある千畳敷ということには、私も行ったことがあります。調べると、千畳敷と呼ばれている地名は日本各地にけっこうあるようです。
 木曾駒ケ岳の千畳敷カールや、福井県小浜市の第三紀中新世の砂岩の千畳敷、兵庫県香住町の広い波食台の千畳敷、函館山南部の平坦な台地をつくる溶岩の千畳敷、島根県仁多郡仁多町の花崗岩(粗粒黒雲母花崗岩)の大きな岩塊の千畳敷など、他にもいっぱいあります。実際には、それほど広くはない千畳敷もあるようですが、回りのものと比べると広々としていると千畳敷と表現されているようです。千畳敷は、実際の広さではなく、広さの比喩として用いられているだけです。
 南紀白浜がある湯崎半島では、地層が馬の背状に曲がる(背斜(はいしゃ)と呼ばれています)軸が東西に伸びています。背斜の軸の海側で、隆起が起こったため、海岸は何段にも絶壁ができました。この背斜軸に沿って、鉛山湾を中心して高温の温泉が湧き出しています。
 白浜の千畳敷をつくっている地層は、田辺層群白浜累層にあたります。砂岩や礫岩、泥岩からできています。地層の中には、いくつかの海岸近くで形成された構造を見ることができます。
 分かりやすいものでは、砂岩層の上面にリップルマークがみられます。リップルマークとは、漣痕とも呼ばれ、水流による波の模様が海底の土砂にできたものが、そのまま化石のように保存されたものです。リップルマークは深海でも水流があればできますが、千畳敷で見られるリップルマークは、波の頂部がとがり、谷の部分が丸くなっていて、その波が頂部を軸にして左右対称の形をしていることが特徴です。これは、ウェーブリップルと呼ばれるもので、沿岸で繰り返し打ち寄せる波の作用によってできたものです。
 また、ハンモッキー斜交葉理や大規模な斜交層理がみられます。これらの構造は、激しい波によって浅い海底できたと考えられています。波浪によってこのような模様ができる限界の水深は、波が穏やかなときは15~30mで、激しい波浪のときは50~80mといわれています。いずれにしても、千畳敷の地層は、比較的浅い海に堆積したことを示しています。地質学的には、浅海の外浜から陸棚のようなところだと推定できます。もちろん、地層ができた新第三紀中新世(1500~1600万年前)のころの海ですが。
 南紀白浜は、一方では白い砂浜の海岸が広がっていると思うと、すぐ近くには岩場の絶壁があります。そして、そこに温泉もあります。硬軟おりまぜた観光要素が白浜の魅力となっています。

・落書き・
千畳敷におりようしたら、
落書き禁止の看板が目に付きました。
理由は岩場に出るとすぐにわかりました。
岩場をつくっている地層がやわらかい岩石であるため、
石ころなどでこすると、簡単に傷がつけられ、
文字も書けてしまうのです。
そこに落書きをする輩がでてくるわけです。
旧跡名跡であっても、ところかまわず落書きをする人がいます。
実際には、私が訪れたときにも、人目を気にしながらも
落書きをしようとしている人を見かけました。
私は、このような落書きに及ぶ行為をみて、
2008年2月の岐阜市立女子短期大学修学旅行で学生が
イタリアの世界遺産のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の壁に
落書きをして大きくマスコミが騒いだ事件を思い出しました。
私は子供を連れていたので、
こんな現場を見せたくありませんでした。
しかし、現実に起こっていることはどうしようもありません。
子供たちには、あんなことをしないようにと、
大切な遺跡に落書きをして大事件となったことがあることを紹介して、
戒めとしましたが、本当に伝わったでしょうか。
少々心配ですが。

・体が発する声・
いつものことですが、春は眠くなります。
特に授業が始まって1、2週目あたりが
疲れのピークになり眠さも増します。
私の場合は、朝方なので、夕食後が猛烈に眠くなります。
そんなときは、睡魔に負けてあっさりと寝てしまいます。
すると朝が早く起きてしまい、
夜がますます眠くなります。
悪循環ですが、あまり抵抗しないようにしています。
体が要求するのに可能な限り、従うようにしています。
これは、時期的にそのようなときだと思うからです。
時差ボケならぬ季節ボケでしょうか。
若いときのように無理が利かないので、
体が発する声をよく聞くようにしています。

2009年4月16日木曜日

4_85 白砂の白良浜:南紀2(2009.04.16)

 南紀の旅の2回目は、白浜の白良浜を紹介します。白浜は、関西では有名な観光地です。しかし、白浜は、結構遠くて、関西在住の人でも、いったことのない人も多いのかもしれません。私も、今回が始めての訪問でした。白浜を象徴するような白い砂浜を見てきました。

 南紀白浜は、関西では有名な観光地です。しかし、私は今までいったことがありませんが、今回の南紀の旅で、はじめて訪れることができました。白浜の中でも白良浜(しららはま)と呼ばれるところは、感動をするような海岸です。白良浜は、丸い弧を描いたような海岸線(鉛山湾)に、長さ700mほどにわたり白い砂浜が続いています。まるで、海外のリゾート地の海岸を思わせるような砂浜が広がっています。
 白い砂は、石英を主成分としています。波にあわられ、円磨された砂となっています。かつては、ガラスの材料にも使われていたほど淘汰のいい砂です。ところが、白良浜以外の周辺の海岸は、特別に石英が多い、白い砂浜ではありません。白良浜は、白い砂浜になるための限られた条件を満たしていたためにできたのです。
 その条件の一つは、砂の供給源(後背地と呼びます)に石英がたくさんあったことです。後背地は、湯崎半島全体となります。半島は、新第三紀中新世(1500~1600万年前)に形成された田辺層群の中の白浜累層と呼ばれる地層から成り立っています。白浜累層は、砂岩と泥岩の繰り返し(互層と呼びます)や、礫岩、泥岩などからできています。それらの地層から石英が供給されることによって白い砂浜ができます。
 その供給経路は、その石英の多い地層の中を流れ、白良浜に流れ込む川となります。白良浜に流れ込んでいるのは、寺谷川です。ところが、この寺谷川は、コンクリートに護岸されているため、供給源としての役割を果たさなくなりました。結果、砂浜は、波の浸食作用で砂がなくなっていきました。白良浜の白砂は、重要な観光資源です。それを守るために、対応策がいろいろととられました。
 ひとつの対応策として、砂を補給するという方法がとられています。しかし、石英だけからできた白い砂はそうそうありません。遠いのですが、オーストラリアの西海岸から持ち込まれています。1989年から2005年まで、7万立方メートル以上の砂が持ち込まれたそうです。
 他の対応策として、海底に石やブロックを入れて堤防(潜堤といいます)を波による流出を防ごうとされました。しかた対策むなしく、砂の流出は止まっていません。現在、海面上に堤防が建築中です。これは海岸の砂の流出対策かどうかわかりませんが、この人工的な堤防が白砂の海岸では異質な存在に見えました。
 白良浜は、もともとは自然にできた白い砂浜だったのです。ところが、現在では、人が手を入れなければ砂浜が維持できない状態となっています。堤防だけでなく、砂自体が、人工的に補われたものです。しかし、これが、白浜という有名な観光地の現状でもありました。できれば、自然状態でこのような浜が残ればいいのですが、都市化した観光地では、なかなか難しい問題です。
 国民の祝日「海の日」を記念して、1996年に運輸省(当時)認定を受けた「日本の渚・中央委員会」が、関係公官庁の後援を受けて「日本の渚・百選」を選定しました。「日本の渚・百選」は、自然の海岸だけを選ぶのではなく、環境保全などの対策や、生活者との深い関わり合いをもっていることも考慮されて選ばれています。ですから、人工的に維持されている白良浜も、「日本の渚・百選」に選ばれています。
 白良浜は白浜でも有数の観光名所なので、平日にもかかわらず、駐車場がいっぱいで、車を停めることができずに困りました。仕方なく、白浜周辺の他の名所を見ることにしました。その日は白浜に泊まることになっていたので、夕方になって白良浜にいくと、公営の駐車場が空いていて停めることができました。夕刻の浜辺を、散策することができました。そして、白砂の行方に思いを馳せました。

・人工と自然・
人工の砂浜だとわかっていても、
やはり白砂の海岸は見事でした。
さすがに「日本の渚・百選」に選ばれているだけのことはあります。
現在では人手によって維持されていますが、
かつては、自然のままの白砂が広がっていたのです。
それを思うを自然の偉大さを感じます。
ここ20年は、人工的に多くの労力を使って
白砂の浜が維持されています。
そもそもは陸側に住む人間の都合で後背地から
新しい砂が供給されないことが、
砂浜消失の大きな原因だったはずです。
しかし、そこは人間が住んで暮らし、
観光産業を営まなくてはなりません。
どこか論理矛盾しているような行為をしているように見えます。
でも、人工の砂浜を守る努力は、
今後も続けなければなりません。

・雨不足・
北海道は4月になって、
雨がほとんど降らない天気が続いていました。
晴ればかりではないのですが、
曇っても雨が降りませんでした。
もちろん晴天の日も多かったのです。
今週中ごろになって雨が降りだし、
雨不足の心配はなくなりました。
北海道は、春は雪解けの時期なので、
農業用水は飲料水の心配はないはずです。
でもはやり、雨が降らないと
心なしか、木々の元気がないように見えます。
私は、雨の日も好きなのですが、
春はやはりぬけるような快晴の日がいいです。
4月の前半は晴れが多く、春を満喫していたのですが、
ここらで一休みでしょうか。
雨の情緒を楽しみましょう。

2009年4月9日木曜日

4_84 日ノ御崎から付加体の旅へ:南紀1(2009.04.09)

 北海道は暖かかったとはいえ、まだ雪解けが終わったばかりです。花の季節はもう少し先です。春の南紀に出かけました。南紀では、咲きはじめた桜をいっぱい見かけました。南紀では、付加体を見る旅となりました。その様子をシリーズで紹介していきます。

 春休みを利用して、家族で紀伊半島を一周しました。私は、和歌山や三重の伊勢志摩は来たことがあるのですが、一周するのは初めてでした。レンタカーで、できるだけ海岸線を走りたいと思っていました。
 ところが初日から、そうもいきませんでした。海岸沿いは狭い道が多く、時間がかかりました。予定の宿に着けそうもないので、大きな国道にルートを変えて、やっと一泊目の日ノ御碕までたどり着きました。
 今回の旅の目的は、紀伊半島の南半分、南紀と呼ばれる地域の海岸沿いを見て回ることです。南紀は、地質学的見ると、日本でも有数の地層が見られるところです。さまざまな地層の姿を、南紀で見る予定でした。
 その日、予約していた宿舎は、町並みを抜け、道路の突き当り、岬の丘の上にありました。人里から少々離れた、緑に囲まれ、海の見える、眺めのいい宿でした。ここから、南紀の旅行をはじめました。
 南紀には、四万十帯(地層の区分では累層群(るいそうぐん)とよばれます)に属する地層が見られます。四万十帯は、古いものから、日高川帯(地層の区分では層群(そうぐん)とよばれます。以下同じ)、音無川帯、牟婁(むろ)帯に区分されています。日ノ御崎では、四万十帯のなかでも、もっとも古い日高川帯の地層が見られます。
 日高川帯の地層は、砂岩や泥岩、あるいはその繰り返し(互層(ごそう)といいます)からできています。これらは、風化や侵食によって陸地の岩石が砕かれ、河川によって土砂が海底に運ばれ、固まったものです。いわば陸を起源とする(陸源といいます)物質によってできた堆積岩です。
 ところが、日高川帯の地層の中には、土砂だけでなく、火山岩やチャートなどが混じっています。
 火山岩は、海底で活動したマグマによってできたものです。溶岩が水中でつくる枕状の形が残っています。枕状溶岩と呼ばれるものです。また、枕状にならずに、溶岩流や岩脈として大きく固まったもの、あるいは壊れてしまったものなどもあります。このような火山岩は、海底をつくっているマグマと同じ性質を持っています。つまり、海洋底の本体の切れ端といっていいものが見つかっています。
 チャートは、海洋のプランクトンが死んで、その遺骸が海底にたまって固まったものです。チャートがたまるには、長い時間が必要です。その間、陸が近くにあれば、堆積物がチャートの間に挟まってきます。ところが、多くのチャートには、陸源物質をはさむことは、ほとんどありません。つまり、陸から遠く離れた深海底で、多くのチャートが形成されていることを意味します。
 日高川帯は、多くの陸源堆積物と、陸から遠く離れた深海堆積物、および海底の破片という、いろいろなものからできていることになります。このような地層は、プレートの沈み込みによって、海底にあった堆積物が陸にくっついた付加体と呼ばれるものです。四万十帯は、付加体によってできています。四万十帯は、西日本の海側の大地の代表的な構成物で、似たものが房総半島、関東、東海、四国、九州へと連続して分布しています。
 日ノ御崎では、桜が咲き始めていました。日ノ御崎に至る道でも、咲き始めた桜をいっぱい見かけました。北海道は暖かかったとはいえ、まだ雪解けが終わったばかりです。花の季節はもう少し先です。春の南紀で付加体を見る旅を紹介していきます。

・常識破り・
地層は、つぎつぎと新しい土砂が海底にたまっていきます。
ですから、先にできたものが下になり、
時代も古いということになります。
これは地層累重の法則という地質学では基本的な常識です。
ところが、この地質学の常識を、付加体は破ったのです。
付加体は、沈み込むプレートの作用で形成されます。
堆積物は、沈みこまれるプレートの下に付加されていきます。
すると、新しい地層が、前の地層の下に付け加わることになります。
この作用が連続すると、地質学的上にあるものが古く、
下のもが新しいという構造の地質体ができてきます。
このようなことが起こっていることは、
地層の含まれている微化石を丹念に調べる技術ができ、
それを付加体に適用してはじめてわかってきたことです。

・風邪・
3月25日に関西空港からスタートして、南紀をめぐり、
最後は三重県伊賀上野から奈良を通り抜けて、
31日には、関西空港に戻ってきました。
三重県伊賀上野に行ったのは、
次男が忍者が大好きなのです、
忍者発祥の地である伊賀にいきたいというので、
そのリクエストに応えたためです。
長男は鳥羽の水族館でした。
この間、次男がずっと鼻水をかんでいました。
行動には支障がなく
大事に至らなかったのでよかったのですが、
たぶんその風邪が私にうつったようです。
私は、最後の夜になった、
急に悪寒がしだし、ダウンしましたが、
翌日も車を運転していたのですが、
何とか大事にならず、自宅まで戻ってきました。
しかし、自宅で一気に風邪が悪化しました。
その風邪がまだ抜けてないのです。

2009年4月2日木曜日

1_81 滝の回廊:メッシニアン塩分危機6

 メッシニアン塩分危機は、地中海がジブラルタル海峡で、新たに大西洋とつながることで終わりを告げます。つまり、メッシニアン塩分危機を完全に解明するには、ジブラルタル海峡の形成の歴史を明らかにすることが最後の課題となります。しかし、その形成史も、実は謎に満ちたものだったのです。メッシニアン塩分危機のシリーズの最後として、ジブラルタル海峡の形成についてみていきましょう。

 メッシニアン塩分危機は、氷河期による海水準低下と、それまであった大西洋と地中海をつなぐ2つの回廊が地殻変動によって閉ざされたことが原因でおこりました。中新世のメッシニア期が終わる(533万年前)ととともに、メッシニアン塩分危機も終結します。そして時代は、鮮新世のザンクリーン期(Zanclean)になります。
 メッシニアン塩分危機によって生じた地中海沿岸の景観は、今の状態からはまったく想像もできないものです。今は水際で水を湛えている沿岸域がすべて、侵食の場となります。もともと海底であったところも、深い渓谷が各所にできました。
 地中海から1200kmも離れた、アスワンダムのある場所では、海水準より数100mも低いところに、花崗岩をうがってできた河川による侵食地形(ゴージュと呼ばれる箱型の渓谷)が見つかっています。また、カイロのナイル川の下2500mの地下にも、同じような河川の侵食地形が見つかっています。つまり、今体積の場となっている地域が、すべて侵食の場だったのです。
 メッシニアン塩分危機が終わると、地中海は、短時間で激しい環境変化が起こります。それは、地中海の海底堆積物から、突然、深海生物の化石が見つかることからわかります。
 氷河期が終わり、暖かくなると降水量が増えます。氷河の融解によって、海水準も上昇しはじめます。外洋である大西洋の海水準が上昇し、低地帯である地中海域が存在することになります。そこにじわじわと大西洋の海水が進入してくるというような、のんびりとした変化では、一気に深海に転じるという現象は説明できません。
 地質学的証拠を説明するには、現在のようなジブラルタル海峡が、一気に出来なければならないのです。地質現象としては、割れ目を一気につくるものとして断層がありますが、残念ながらジブラルタル海峡には、そのような断層は見つかっていません。断層ではない、別の地質現象を考えなければなりません。
 現在のジブラルタル海峡のあたりは、低地帯で、もともと大西洋の海水が何度も浸入していたところだという説があります。また、かつての回廊も同じように大量の海水を、時々通していたというのです。そのような説がでてきたのは、現在の地中海の海底に蒸発岩が厚くたまっているのですが、その間に深海の堆積物を挟んでいます。その堆積物をつくるには、何度かの海水の供給が必要となります。その海水の供給源の一つが、ジブラルタル海峡の低地帯であっと考えられたのです。
 ジブラルタル海峡における過去の地形や地震波による探査がなされました。すると、東向きの流れをもった流路や渓谷が形成されていたことがわかってきました。その渓谷が、現在の海峡のもとになったと考えられています。海水が地中海に満たされるには、数100年の単位で起こらなければなりません。地質学的にあっという間に起こったといえます。
 そこの現在のジブラルタル海峡の幅の流路で、地中海に海水を満たすには、膨大な海水が流れこまなければなりません。さらに、大西洋と地中海は、当時、その落差1kmほどもあったのです。ジブラルタル海峡は、まるで大きな滝(ヴクトリアの滝の100倍の規模)というべき海峡が出現したのです。
 でも、この説では、現在の286mというジブラルタル海峡の深い水深を説明できません。やはりこの水路周辺の200から100m程度の沈降は不可欠となります。その現象まで完全に説明している説は、まだないようです。
 科学者の説明はできていないのですが、今と同じような深海の地中海が、一気に復活し、現在まで継続しているのです。
 温暖で穏やかな地中海の水面をみていると、そのような異変の面影は見てきません。しかし、地中海の海底から見つかる蒸発岩や大量の微化石が、これまで述べてきたような出来事を物語っています。地質学者たちは、残されたかすかな痕跡から、異変を嗅ぎ取り、その物語を解明しつつあります。

・風邪・
発行が遅れて申し訳ありません。
旅行から帰ったら風邪でダウンしました。
旅行の最後の夜に風邪を引いてすごく不調でした。
翌日車を運転して飛行機に乗り、
自宅までまた1時間ほど運転して帰りました。
風邪はいったんピークを過ぎたように思えたのですが、
やはり翌日も体調不良で、医者に駆け込みました。
インフルエンザではなかったのですが、
その後、熱と悪寒に4日間襲われ
今日やっと復帰しました。
風邪をぶり返したようです。
新学期の最初の会議を
いくつか欠席してしまいました。
申し訳ないことをしました。

・もう春です・
北海道も、暖かい日、寒い日を繰り返しながら
春に向かっています。
道路の雪はもちろん消え、
田畑の雪もほとんどなくなりました。
私が帰ってきた3月31日は、北海道は肌寒く、
小雪が舞ってました。
帰宅後、家も冷え切っていたのですが、
一晩ストーブをつけたら温まりました。
それから数日は暖かくなり、
昼間は日の光の当たるところを避けなければ
暑いほど部屋の気温は上がります。
朝夕はまだストーブが必要ですが、
北国も、日に日に春めいてきました。