2005年10月27日木曜日

1_52 新生代1:時代区分(2005.10.27)

 地質時代シリーズです。いよいよ新生代になります。まずは、新生代の概要から紹介しましょう。

 新生代は、現在、古第三紀と新第三紀の2つに分けられています。古第三紀は6550万年前から2303万年前の間の時代、新第三紀は2303万年前から現在でです。
 さらに、新第三紀は、古いほうから暁新世(6550万年前~5580万年前)、始新世(5580万年前~3390万年前)、漸新世(3390万年前~2303万年前)に区分され、古第三紀は、中新世(2303万年前~533.2万年前)、鮮新世(533.2万年前~180.6万年前)、更新世(180.6万年前~1.15万年前)、完新世(1.151万年前~現在)に区分されています。
 ここまで読まれた方は、新生代は、まず、第三紀と第四紀に分かれるのじゃないの、と思われたでしょう。実は、国際的に地質年代区分を考える会議で、以前にあった第三紀と第四紀の区分は、2004年に正式に消えました。
 上で述べた古第三紀と新第三紀は、仮の日本語名称です。古第三紀は英語ではPaleogene、新第三紀はNeogeneとして決められていますが、正式日本訳はありません。第三紀(Tertiary)という名称が消えたのですから、第三紀に新旧をつけて区分するのはおかしいことになります。しかし、ここでは旧名称のまま使いました。日本語訳を正式に決めるのは、日本地質学会ですが、学会でも議論や提案はありますが、まだ決定はされていません。
 第四紀という言葉は、地質学だけでなく、いろいろな学問分野で使われています。学会名にも使われています。ですから急になくすことはできず、まだ名称としては残っています。しかし、国際的には、時代区分としては使わない方がいいとされています。一応あちこちで使われているので、新第三紀の一番新しい時代の呼び方として、260万年前~現在間を第四紀として暫定的に残されています。
 時代区分はここまでにして、新生代の概要をみておきましょう。
 中生代の末の大絶滅(K-T境界の事件)が起きました。また、中生代が温暖な時代であったの対して、新生代は寒冷化が起こりました。それら2つの原因によって、生物に大きな変化がありました。
 新生代の特徴を挙げると、
・哺乳類の多様化、大型化
・被子植物の多様化
・寒冷化
・人類の誕生
となるのでしょう。
 これについては、次回以降で詳しく紹介しましょう。

・新メールマガジンの発行・
新しいメールマガジンを発行します。
これは、「Terraの科学(Part2)」というものです。
Terraに関する広範な内容を
深くそして多様な見方で紹介しようと考えています。
Terraとは「地球」という意味ですが、
この講義ではもっと広く地球に関係するすべてものととらえます。
広くしかし深くTerraを見ます。
奇抜にでも納得できる見方を示します。
大人も考えさせられ、子供にも分かる内容にします。
Terraに関する永遠の疑問にも答えることもできます。
ぜひ、興味のある方はホームページをのぞいてください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、メールマガジンも発行しますので、登録する方は、
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
でお願いします。
「地球のささやき」のようなエッセイではなく、
大学で私が実際に行っている講義を同時進行でお送りします。
大学生レベルの内容ですが、
小学生や中学生でもわかるものを目指しています。

そころで、Part2というからには、Part1があるはずです。
実は、以前、2年間に及ぶ毎週の「Terraの科学」を行いました。
今度は、Part2として、
・メールマガジン
・ホームページ
に加えて、
・音声と動くカーソルによる講義のファイル
も同時にお送りします。
より本物の講義に近いものになります。
内容はPart1と重複することあります。
しかし、多くの点で進歩していると思います。
受講する人は、専用プレーヤーをインストールする必要があります。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/player.html
一度インストールしたら、
あとは、ダウンロードしたファイルをダブルクリックするだけで
自動再生ができます。
ソフトのバージョンアップも自動でおこえます。
詳しくはホームページを参照ください。

・人との出会い・
新しいメールマガジンの講義ファイルは、
PC Letterというソフトを使って作成しています。
私がこのソフトを初めてインターネットで出会ったときは、感動しました。
それは、2005年の4月8日のことでした。
伝えたい内容を、直接にわかりやすく、伝えられるものであること
非常に有効であることを感じました。
まさに「百聞は一見にしかず」を身をもって経験しました。
このPC Letterというソフトを、私は自分が現在取り組んでいる
ITを用いた科学教育に利用できないかと考えました。

どんなに良いソフトでも金額的に高ければ利用することができません。
それと、このソフトの仕様のままでは、
私のやりたいことができないと感じていました。
ですから、安くてな、おかつ仕様の改造可能かどうかが問題となりました。
調べてみるために、ソフトの製作者にコンタクトすることにしました。

まずは問題の価格も個人のポケットマネーで払える程度でした。
とりあえずは導入可能であることが分かりました。
こんなすごいソフトの製作者は、
なんと北海道の襟裳岬に近い浦河町にある
三栄堂という小さな電気屋さんを営む三上博正とその甥子さんでした。
地方からもいいものが生まれるという証拠を見ました。
早速私は、このソフトの試用をお願いしたところ、
快くソフトを提供いただきました。

ところがこのソフトはインタネットを利用するため
大学のセキュリティと私のセキュリティソフトのトラブルのため、
なかなか動くようになりませんでした。
普通なら、トラブルが長く続くようなソフトは
すぐにあきらめてしたでしょうしょう。
しかし、このソフトが自分のやりたいことを実現してくれそうなので、
何度もめげそうになりながら、
なんとか動くようにしたいと粘っていました。
三上さんにも何度も連絡を取り
対処の方法をお尋ねしました。

三上さんたちも大学にまで2度も出向いてくれました。
その結果、やっと動くようになりました。
作る側になって、このソフトのもつ潜在能力をますます感じました。

そして、あつかましくも、私は自分のやりたいことを説明して、
それに使えるようにソフトの仕様の改良をお願いしました。
そんな希望に対しても三上さんは快く応じてくださいました。
それが今回のメールマガジンをはじめるきっかけとなりました。

大学の研究費を工面して、心ばかりですが、ソフト改良代としました。
まだ、このソフトはバージョン1になっていません。
日々改良されているということです。

このような好意に対して私のできることは、
やはり私にできることで最大限の誠意を示すことです。
私がもともとこのソフトに魅力を感じたのは
科学教育に利用することです。
ですから、このソフトを利用して
質のいいコンテンツをつくり上げることだと思います。
それが最終的に、このソフトのよさを宣伝することになるのだと思いました。

私は、三上さんとの出会って良かったと思っています。
なぜなら、自分と同じように
地方で独力でがんばっていることに共感を覚えたからです。
そして良いものは、都会でも地方でもハンディはないということです。
優れているものは、都会の大手企業が宣伝費と使えば
利用者を爆発的に増やすことできるかもしれません。
たとえ人数が少なくても、
本当に必要としている人には、本当に使っている人には、
その良さはきっと分かるはずです。
私が地方で孤立無援で新たしい学問である
地質学や科学教育、地質哲学にがんばっていけるのは、
そのような背景があるからです。
いや、そのような背景があるのなら
雑音や雑用、誘惑の多い都会より、
田舎のほうが開発環境がいいかもしれません。
私と三上さんは分野や手法は違うのですが、
考え方に共通するものがあります。
本当にいい出会いがあったと思っています。

2005年10月20日木曜日

4_65 古戦場の静内川へ

 10月の連休に北海道の静内川に出かけました。丸一日、静内川を遡りながら調査をするつもりでしたが、残念ながら目的は果たせませんでした。そのときに感じたことを紹介しましょう。

 四半世紀も前になりますが、私が卒業論文で調査をした地が、日高山脈のカムイエクウチカウシ山に源流をもつ静内川でした。カムイエクウチカウシ山の標高は1979mです。奇しくも、その1979年に私は、この静内川流域で3ヶ月間滞在して地質調査をしました。
 当時、高見ダム建設の真最中で、ダム予定地付近では、大規模な土木工事がおこなわれていました。山奥なので、街まで2、3時間かかります。通っていては時間のロスとなります。ですから、労働者たちは住み込みの飯場で生活をしていました。大変な数の労働者なので、多くの飯場があり、ガソリンスタンドも店もあり、ちょっとした村ともいうべき場所が出現していました。私は、そんな飯場群の一番上流のところに3ヶ月間、お世話になって、寝泊りすることにして、調査をしました。
 いくらたくさんの人がいるといっても、工事現場のダムサイトから離れるとそこは、日高山脈の奥地です。ですから、人跡のほとんどない沢を、一人で黙々と調査しました。最初は一人で沢を歩くとが怖かったのですが、しばらくすること、一人で歩くこと、一人で調査することの楽しさが分かってきました。ヒグマやエゾシカ、エゾクロテンなどに出会うと恐ろしくもあり、楽しくもありました。
 そして、この3ヶ月に及ぶ野外調査が、私に地質学のすばらしさを教えてくれ、一生の仕事として今も縁があります。
 私にとって古戦場ともいうべき静内川を再訪するために、10月の連休にでかけました。私は、今、地質学と哲学、教育学の狭間をテーマにしてい研究しています。それをライフワークにしようと考えています。しかし、成果がなかなかあがりません。そんな自分自身を見つめなおすために、私にとって学問を目指す原点となった地にもどろうと考えました。そして、そこで感じたことを、今後の自分のライフワークの参考にしようと考えていました。
 静内川沿いには、かつて日高横断スーパー林道の予定地があります。日高横断スーパー林道を造るか造らないで議論があり、結局は造らないという結論になりました。その道を行けば、自分の調査したところが一日で見て回れるはずでした。自分の書いた卒論を読み返して、携えてでかけました。
 実際に行ってみると、高見ダムより下流にある静内ダムで通行止めとなっていました。落石が危険なためと書いてありました。私が調査した地には、残念ながら、入ることができませんでした。未練があったのですが、静内ダムより下流の川原を調査しならが、帰途に着きました。
 調査地より下流の川原で、自分の調べていた石ころを手にしながら、見ることのかなわなかった上流の調査を思いました。そして、過去を振り返ることはないのだ、未来をみて進むことを考えればいいのだと悟りました。
 静内川の下流近くの川原を調査しているとき、本流から分かれた小さいな流れにサケが遡上して産卵している場所を見かけました。今まで、秋に北海道の川を調査すると、サケの遡上は良く見かけました。しかし、産卵をする光景は始めてみました。感動してしばらく立って見入っていました。
 産卵に適した場所を何度も回りながら泳ぐメスの周りを、ガードするように一匹のオスが回っています。時々来る別のオスを追い払いながら、傷だらけのオスがメスを守ります。メスは砂利の川底を時々尾びれで掘り返しています。オスは、時々メスに産卵を促します。そんな繰り返しが延々と続いていました。実際の産卵するまでには長い時間がかかるようなので、30分ほど見ていたのですが、あきらめて帰りました。
 流れる時間には攻し難きものがあります。私はそんな過去を顧みるために静内川の古戦場に戻りました。結局はいくつくことができませんでしたが、サケの産卵現場をみて、それでいいのだと思いました。
 産卵現場の少し川下には多数のサケの死体がありました。それを食べる鳥たちがたくさんきていました。サケは死してなお、自然への恵みとなります。自然の生き物は、このように時の流れの中で、自分の役割を果たして死んでいきます。私も、自分の選択を信じて、時の流れに乗り、過去を振り返ることなく、前を見て進もうと考えました。

・川らしい川・
静内川は二級河川です。
もちろん治水工事は各所でなされています。
しかし、いい川原があれば、
そこに行くことができました。
ある沢の合流の出会いでは、
広々とした川原が広がっていました。
非常に気持ちのよい川原でした。
別のところでも広い川原があり、昼食をとりました。
久しぶりに川原らしい川原をいくつも見ました。
こんな当たり前の自然の川原を
北海道でも今までなかなか見ることができませんでした。
そのためストレスがたまっていたのですが、
今回の静内川で、川らしい川を見て
今までのストレスを晴らすことができました。
やはり静内川は私にとって
新たな心がまえを与えくれました。

・古戦場へ・
なぜ古戦場へいくことを思い立ったのかというと、
それは地質学者の巽好幸さんが書かれた
「安山岩と大陸の起源 ローカルからグローバルへ」
という本の最後に、こんな言葉が書かれていました。
「もっとたくさんの課題があるに違いない。
人生は無限に続く訳ではないのだから、
より効率的に、そしてしっかりと物事を進めていくために、
少し冷静になって考えてみたいと思っている。
そのためにも、私はこの本を抱えて、
もう一度小豆島を訪れるつもりでいる。」
小豆島は、巽さんが卒業論文で調査されたところです。
私もこの言葉に刺激されたのです。
一流の研究者と私とでは、
やはり能力も行動力も違うのでしょう。
私には、天も味方しませんでした。
でも、古戦場の川は、過去より未来を、
今流れている時間を精一杯に生き抜くことの
大切さ教えてくれました。

2005年10月13日木曜日

4_64 石狩川の源流へ

 9月下旬の連休に、石狩川の上流を目指しました。石狩川の源流である石狩岳に、できるだけ近づきたいと考えて出かけました。

 北海道を代表する石狩川は、アイヌ語が語源だとされています。いくつかの説があるようですが、「非常にまがりくねった川」を意味する「イ・シカラ・ペツ」というアイヌ語が語源だといわれています。
 石狩川の源流は、標高1967mの石狩岳です。石狩岳は、大雪山系から東に延びる石狩山地の中にあり、主峰ともいうべき位置にあります。石狩岳に端を発した石狩川は、大雪山を反時計回りに流れながら、旭川、深川、滝川、岩見沢、江別を抜け、石狩で日本海に出ます。全長268kmに及ぶ大河です。
 長さでみると石狩川は、日本では3番目の長さで、北海道では一番長い川です。日本で第一位が367kmの信濃川、第二位が322kmの利根川です。ここに示した川の長さは、現在ものです。
 石狩川は、もともとの人手が入る前の状態では、語源どおり、激しく蛇行していたため、356kmもありました。第一位の信濃川に次ぐ長さでした。しかし、明治から開拓が始まると、治水事業として、蛇行を短絡してまっすぐにする工事がおこなわれました。その結果、88kmも短くなりました。現在も治水工事は続いています。
 私は、北海道に13個ある一級河川を調べています。中でも石狩川が長く、自宅の近くにあるので、よく調べています。しかし、なかなか源流へは出かけることができませんでした。そこで、思い切って今年の9月下旬の連休にでかけました。
 連休の初日は雨でした。調査もできないで、層雲峡でうろうろしていたのですが、夕方近くになって雨が上がったので、下見をかねて、石狩川源流に向けて出かけました。層雲峡を抜けて、石北峠に向かう国道39号線から左に別れ、次いで三国峠に向かう国道273号とも分かれ左に進みます。そこからは林道です。
 下見のつもりで途中までいって、いい川原を見つけたので調査をしました。その日は暗くなったので、それより奥に行くことなく帰りました。翌日は大雪山の黒岳に登る予定だったので、翌々日にもう一度、もっと上流まで調査に入るつもりでした。
 翌々日に再度出かけたとき、驚きました。上流に入る林道は通行規制がされていました。大雪山の山腹に大雪高原温泉があるのですが、そこまでマイカーがたくさん入り、事故も起こるのでしょう。国道脇の駐車場にマイカーをとめて、そこから先はバスで温泉までいくことになります。
 下見に行った日は、天気が悪く観光客もいないので、通行規制が解除されていていたようです。通行規制を知らせる看板があったのですが、解除という張り紙がしてあったので、もう規制の期間は終わったのだろうと思い込んでいました。
 調査するつもりの日は、天気もよく、駐車場には多くの車やバスがとめてありました。バスで温泉に行ったのでは、調査になりません。ですからあきらめました。でも、いつの日にか、石狩川の源流の調査をしてみたいものです。

・源流へ・
私が石狩川の源流の調査を渋っていたのは、
層雲峡が有数の観光地で、
なかなか安い宿が取れないのと、
人が多いことが理由でした。
石狩川源流への旅は、
9月23日から25日の連休でした。
早めにペンションを予約しておき、出かけました。
予想通り紅葉シーズンで
多くの観光バスが層雲峡には来ていました。
源流へはいけなかったのですが、
上流の各所で調査はしました。
しかし、できればなんとか再度出かけて
念願の源流をたどりつきたいものです。

・渡り鳥・
山の上の方は9月下旬ですが
紅葉が始まっていました。
私が登った黒岳には、
9月20日には初雪が観測されていました。
先日朝大学に着くと
空からカモの鳴き声がしました。
見上げると快晴の秋空を
南に向かって渡り鳥が飛んできました。
彼らは季節の変わり目を忘れることなく
移動を続けています。
季節や自然は人の思いとはかかわりなく流れていきます。

2005年10月6日木曜日

4_63 西予市再訪

 何度目の城川でしょうか。このエッセイでも何度か紹介したのですが、またまた愛媛県西予市城川町に来ました。再度西予市の紹介と私がたびたび訪れる訳を紹介しましょう。

 西予市の中でも特に城川町にはたびたび来ています。今年も2度目となります。2005年9月16日から22日までの6日間、西予市と周辺の地質調査をしました。
 2004年4月に城川町は市町村合併によって、近隣の5つの町が集まって西予市になりました。私はそれまで、城川町立地質館の設立の協力、資料収集の援助、そして普及活動の実施などで毎年のように城川町に通っていました。城川町から西予市というものに新しく行政単位が変わりましたが、地質館は存続しています。
 近年では、地質館を中心とした地質学の普及をいろいろな手法を試みてきました。特に遠隔地での連携教育を目指して新しい試みをしています。西予市の地質館になったことによって、地質館の扱うべき地域が今までの城川町から西予市全域へと広がりました。そのため、今まで城川町で行っていた地質の教育素材を西予市全体に広げるための調査を昨年から始めました。
 今回でまだデータのない市町村で調査をして、教育素材を集めることが目標でした。できれば、今年で調査を終わらせて、来年には拡大したホームページや普及活動に入りたいと考えています。
 長年の付き合いで城川にたびたび来ているのですが、それ以外にも訪れる理由があります。それは、城川町が地質学的に重要で面白い地域であるからです。
 黒瀬川構造帯とよばれる地帯が城川を通っています。黒瀬川構造帯は、秩父帯と呼ばれる地層の中に、紀伊半島から九州まで点々と分布する変わった岩石群から構成されています。
 黒瀬川構造帯の岩石群は、古生代から中生代にかけての列島を構成したいたものだと考えられています。この列島を黒瀬川古陸と呼んでます。現在の日本列島と似たような岩石種からできます。
 シルル~デボン紀の堆積岩(岡成(おかなろ)層群と呼ばれています)、角閃岩や片麻岩と呼ばれる変成岩(寺野変成岩)、圧力でつぶれた花崗岩の仲間(三滝火成岩)、マントルを構成していた岩石(超塩基性岩で現在は蛇紋岩になっています)などがあります。
 これらの岩石の岡成や寺野、三滝という名称は城川にある地名です。また黒瀬川という名称も城川にある川の名称です。日本でもかなり古い時代のシルル紀の化石が、城川町で見つかっています。ですから、地質学的に重要なところなのです。
 また秩父帯の南側にある四万十帯の境界は、仏像構造線と呼ばれているのですが、これは中央構造線に次ぐ大きな断層帯です。それも西予市内で見ることができます。大きな断層帯の本当の断層はなかなか露頭でみることができません。たいていは地形に現れてるだけで、衛星画像や航空写真では判別できるだけです。西予市でも断層がつくる崖(断層崖といいます)となっていて、露頭がほとんどありません。しかし、今回の調査で、1箇所ですが断層を確認できました。
 自分たちの住んでいる地域が、地質学的に面白いところであるということを、案外地元の人は知りません。古い化石が市内の結構あちこちで見つかり、仏像構造線が見えるとこがあり、構造線によって市内も特徴的な地形ができるこをあまり知りません。そんなことを伝えて理解してもらうことが、目標であるのです。そしてそんな情報を外に向けて発信していくモデルケースとしていきたいと考えています。

・ホッとするところ・
城川町は私にとって第二の故郷のような気がします。
山林に囲まれた清流の里に来るとホッとします。
馴染みのある地だからでしょうか。
自然がかもし出す環境からでしょうか。
自分の子供時代に過ごした景色に似ているからでしょうか。
わが大学の教員は、5年以上勤務すると
申請が通れば1年間研修に出ることができます。
一般にはサバティカと呼ばれるものです。
私はサバティカでの1年間を
ここで過ごそうかと考えてくらいです。
しかし、現実はなかなか厳しく、私の希望通りにいかないようですが。

・第二の故郷・
上で第二の故郷という言い方をしましたが、
何をもって第二の故郷というのでしょうか。
第一の故郷ははっきりしています。
生まれ育ったところです。
もしまだ親や親族がいるなら
第一の故郷はまだあることになります。
では第二の故郷とは、二番に長く住んだところでしょうか。
その定義では城川町は私の第二故郷ではありません。
第一の故郷とは私の場合は、生まれて20年近く過ごし、
そして親も親族もまだ暮らしている京都になります。
もし第二の故郷を二番に長く過ごしたところとなる、
私の場合、神奈川11年、札幌10年、鳥取5年となります。
神奈川も札幌も鳥取も、いずれも数年毎に点々と転居していました。
それにその地が好きで住んだのは
神奈川県湯河原の4年間と現在の江別が3年半です。
でも、暮らした時間が短いので故郷という実感がわきません。
もし第二の故郷とは心からそう思えるところとしたら、
私のような場合でも、
城川を第二の故郷としていいのではないでしょうかね。