2005年1月27日木曜日

4_52 屋久島2:屋久杉の島

 屋久島は、世界遺産と屋久杉、そして最近では宮崎駿監督の映画「もののけ姫」のモデルとなった森として有名です。そんな屋久杉の森を見ました。屋久杉と屋久島の地質には関係があるのでしょうか。

 屋久島は、1993年に白神山地とともに、日本で最初に世界自然遺産として登録されました。屋久島の森は、亜熱帯から亜高山帯にかけての植生の垂直分布が見られること、多くの固有植物や北限・南限植物が自生していること、絶滅危惧種の野生動物が生息していることが特徴で、登録の理由となっています。中でも屋久杉が重要な要因となっています。
 杉は、日本固有に樹木で、その南限が屋久島にあたります。南限の屋久島で、1000年を超える杉が育っています。一般に杉の寿命は300年ほどなのですが、屋久杉が長寿なのは、なぜでしょうか。それは、自然環境と屋久杉自身の性質によるものです。
 屋久島では、樹齢1000年を超えるものを屋久杉といい、1000年以下のものを小杉、植林されたものを地杉と呼ぶそうです。もちろん、これは、学名ではありませんが。
 屋久杉は、標高600mあたりから見られはじめますが、900mからだんだん多くなり、1600mまでが屋久杉の森となります。1200m前後に大きな杉が多く残されています。しかし、屋久杉だけでなく、いろいろな針葉樹が混じり、下にはツバキなどの常緑樹も生えています。
 屋久島は緑の濃いところになっていますが、山域は花崗岩を主とする地質なので、植物にとっては過酷な環境となっています。なぜなら、花崗岩地帯は、栄養分が少ない上に、栄養を保持しにくいからです。
 花崗岩は、風化に比較的弱いために、花崗岩地帯は、岩石の地肌がそこここに見えるような、特有の地形となります。屋久島は、それに加えて、地殻変動が激しく、雨も多いので、険しい山となっていきます。
 花崗岩は、気温の変化によって主な構成鉱物である長石と石英の膨張率の違いにより、粒子の間に、隙間ができやすく、その隙間にしみこんだ水の凍結、膨張などにより、ばらばら砕けていきます。このような風化によって、マサ(真砂とも書かれます)とよばれる砂ができます。花崗岩の中を流れた川が運んだ砂は、白いきれいな砂浜となります。屋久島の海岸は、世界でも稀なアカウミガメの産卵場所となっています。
 マサとなった花崗岩は、水をあまり貯めることができません。また、岩石の成分にも珪酸分が多く、風化しても植物にとっては栄養の乏しい土壌にしかなりません。したがって、植物が大きく成長するには、長い時間が必要となります。成長が遅いと年輪の幅は狭くなり、硬い木となって、大きく成長するのに十分な強度を持ちます。
 屋久杉は、内部にできる樹脂の量が、普通の杉の約6倍にもなります。杉の樹脂には、防腐・抗菌・防虫効果があるため、屋久杉は長い年月の間、腐らずに生き続けられます。
 このような特徴が、人間には重宝されました。つまり大きな屋久杉は木材としも有用で利用されてきたわけです。人は屋久杉を切り倒していきました。大きな木を求めて、山深くまで入っていきました。木材を運ぶ鉄道も敷設されました。こうして1000年を超える屋久杉は大部分を切られてしまいました。しかし、山の険しいところに少ないながら、まだ残されていました。それが、現在の屋久島を象徴する木となっています。屋久杉にとって、地質や気候よりも、人間の伐採という行為が一番の過酷な条件だったのかもしれませんね。

・屋久島の気候・
私の行ったのは、屋久島の冬のシーズンです。
屋久島は南になる島なのですが、
標高が高いところでは、雪も結構降ります。
私が着く2日前にも雪が降ったそうです。
1月上旬に全国的に雪を降らせた低気圧は、
屋久島にも雪を降らせたのです。
せっかく北海道から、
南の暖かい島に来たつもりなのに、
とんだ誤算でした。
ある資料によると、
屋久島の最高峰宮之浦岳は、
札幌の同じほどの平均気温になるといいます。
屋久島には本当に多様な気候があることを
肌で感じることになりました。

・屋久杉の寿命・
山には雪が一杯ありましたが、
観光客の行くような道路は
除雪がしてありました。
ですから、予定通りに山の奥にも入ることができました。
しかし、昨年の台風のせいでしょうか、
いたるところで、土砂崩れを見かけました。
土砂崩れによって倒れた木もありました。
もしかすると土砂崩れによって、
長寿の屋久杉にも被害はあったかもしれません。
屋久杉がいくら長生きをしようと、
やはり自然の摂理には逆らえません。
自然の摂理には、屋久杉の1000年の単位ではなく、
何万年、何億年という長い単位の地質の摂理もあります。
地質が屋久杉を育て、地質が屋久杉の命を絶ちます。
これも自然の摂理でなのです。
人が屋久杉の命を断つことと、摂理で命がなくなるのと、
どちらが自然なことでしょうかね。
どちらが寿命を全うしたといえるのでしょうかね。

2005年1月20日木曜日

4_51 屋久島1:花崗岩の島

 2005年の正月明けは、屋久島と種子島に出かけました。屋久島に2005年1月5日から8日までいました。屋久島は、海上にひときわ高い山として聳え立ちます。それは隣の種子島(約280mが最高度)と好対照です。まずは、屋久島の話を2回にわたって紹介しましょう。

 屋久島は周囲約130kmで、面積約500平方km(種子島より少し広い)の丸い形の島です。屋久島は世界遺産に登録されているので有名です。亜熱帯から亜高山帯にかけての植生の垂直分布が見られ、ヤクスギがあることでも有名です。植生が垂直分布をするというのことは、屋久島の標高が高いということを意味しています。宮之浦岳は標高1936mもあり、屋久島で一番高いのですが、九州でも一番の標高を誇っています。
 屋久島は円錐形の形をしています。このような形は、地質の特徴によるものであります。屋久島の大部分は、花崗岩という岩石が占めています。花崗岩とは、マグマが地下でゆっくりと固まった深成岩です。屋久島の花崗岩は1300万~1400万年ほど前(新第三紀の中期第三世と呼ばれる時代)にできたものです。
 屋久島の花崗岩は、長石、石英、そして黒雲母からできているもの(詳しい分類でいうと黒雲母アダメロ岩と呼ばれるものです)です。特徴として、粒子が粗い結晶からできているのですが、中でも、長辺が10cm以上にもなる角柱状の大きな長石(正長石と呼ばれる鉱物です)がみられます。島の中央にこのような粒子の粗い花崗岩があり、周辺部では粒の細かい花崗岩になります。
 屋久島でみられるような花崗岩は、日本列島では新しい時代にできた花崗岩の仲間です。このような新しい時代の花崗岩は、紀伊半島から四国南部、九州南部にかけて、点々ですが、約1000kmにわたって見つかります。西南日本外帯と区分されている地帯です。
 これらの花崗岩は、少々変わっていて、キンセイ石を含んでいるのが特徴です。このような特徴を持つ花崗岩は、Sタイプ花崗岩と呼ばれています。Sタイプ花崗岩は、日本列島では、西南日本外帯と北海道の日高帯にしか見られません。このようなSタイプ花崗岩のマグマは、早く移動する熱いプレートが、低角度で沈み込んだとき、上にあった堆積物が溶けてできたと考えられています。
 花崗岩をつくったマグマは、地下12kmほどの深さで岩石として固まり、固まった後、比較的比重が小さいので、上昇してきて、やがて海面より高くなりました。上にあった地層のほとんどが侵食されて、島の大部分が花崗岩の島となったのです。この花崗岩は、地下12kmで固まったものが、現在最大約2kmの標高まで持ち上げられています。ですから、1400万年で約14km浮上したのですから、平均すると年間約1mmのスピードで上昇したものだと考えられます。これは、かなり速いスピードでの上昇といえます。
 花崗岩のマグマが固まるとき周辺にあった地層は、四万十層群(屋久島では熊毛層群と呼ばれています)よばれるものです。四万十層群は、日本列島の関東から東海、近畿、四国、九州から続くもので、砂岩や泥岩の地層からできています。花崗岩のマグマが四万十層群に入り込むときに、熱いマグマで焼いて変成作用(接触変成作用)を及ぼしています。このような変成岩をホルンフェルスといいます。四万十層群は、現在も屋久島の周辺部に残されています。その内側にはホルンフェルスの部分があります。
 島の内部の大部分は花崗岩で、周辺に堆積岩が少しあるという構造が、屋久島の地質となっていて、これが屋久島の特徴をつくっているのです。

・雨の島・
屋久島には4日間いましたが、
実際には2日しか見学時間が取れませんでした。
ですから、見たいところの半分も見ることができませんでした。
島の南半分がほとんど見れませんでした。
広いせいもあるでしょう。
あるいは、歩いてみるところが多いせいもあるでしょう。
でも、一番の理由は天候のせいでもあります。
天気が悪いのです。
雨が多いのです。
「1月に35日雨が降る」というほど、雨が多いようです。
私たちが滞在した4日間のうち、
一日は終日雨で、あとはほとんど曇りでした。
太陽が見えるたのは、ほんのつかの間です。
特に山では、雨がよく降りました。
屋久島は、雨の島です。

・はじめての味覚・
今回の旅行は、家族4人で行きました。
私はもちろん調査をするのですが、
費用を節約するために、旅館ではなく、
できるだけ安い宿泊施設として、
ロッジを借りて自炊をしていました。
このロッジは、まだできて1年も経っていない新しいもので、
自炊可能な、二階建ての快適なロッジでした。
そのロッジの持ち主は、漁師さんで、
最後の夜には、獲れたてのトビウオとサンマの刺身を
持って来てくださいました。
いずれの魚も、刺身は初めてだったので、最高でした。
家族で、はじめての味覚を楽しみました。
屋久島はトビウオが名物らしく、
昼食に入った食堂でも、トビウオのから揚げを食べました。

2005年1月13日木曜日

1_38 原生代3:全球凍結(2005年1月13日)

 昨年からの続きの地質時代シリーズの原生代の3回目です。今回は、全球凍結という事件について紹介します。

 原生代の終わりころに、赤道の海までも凍る激しい氷河期が地球を襲いました。その頃の地球を宇宙から見ると白い雪球のように見えるので、スノーボールアースあるいは全球凍結と呼ばれています。
 カリフォルニア工科大学クリチュヴィンクが、スノーボール仮説と名づけました。もともとこの仮説は、8~6億年前に見つかる縞状鉄鉱層を説明するために提示されたものですが、この説は忘れられていました。ところが、1998年、ハーバード大学のポール・ホフマンは、ナミビアの地層の調査と炭素の同位体組成から、この時期、大規模な氷河期あり、生物活動が停止したと考え、全球凍結説を唱え、広く研究者に認められるようになりました。全球凍結説を紹介していきましょう。
 全球凍結の証拠は、氷河堆積物や氷河地形などとして、原生代の終わりに各地で見つかります。
 氷河堆積物とは、氷河によって運ばれた堆積物のことです。氷河によって形成される岩石には、ティライト(氷礫岩)、ヴァーブ、ドロップストーンなどがあります。ティライトとは、粘土や砂岩の中に、大小さまざまな角礫をふくむ岩石で、普通の堆積作用ではできないつくりを持ちます。大陸氷床の下流に形成されます。ヴァーブとは、氷河の末端にできる湖の中で季節変化によってできる縞模様をもつ堆積岩です。ドロップストーンとは、氷河で運ばれた大きな石が、縞状の堆積物の中に落ち込んだつくりを持っているものです。
 氷河地形には、岩石につけられた氷河の傷跡の氷河擦痕(さっこん)やモレーンなどの氷河によって形成されたものがあります。
 氷河堆積物や氷河地形から、7億5000万年前から5億8000万年前までに、少なくとも2回の氷河期があったことがわかってきました。スターチアン氷河期(7億6000万年~7億年前)とヴァランガー(マリノアン)氷河期(6億年前)と呼ばれています。
 10億年前にできた超大陸ロディニアが、8億年前には分裂はじめます。分裂をたじめた大陸は、氷河期のころ、赤道付近にありました。現在、赤道付近で氷河は、標高5000m以上でないと形成されません。しかし、5000m以上の陸地は、そんな広く分布することはありません。ですから、7~6億年前の地球全体が、非常に冷たかったことを意味しています。
 ホフマンの説に基づいて、全球凍結のようすを紹介しましょう。
 7億7000万年前まで赤道付近にあった超大陸ロディニアが分裂をはじめ、6億年前には大陸は小さく分裂し赤道付近に広がりました。
 赤道付近の大陸では、雨がたくさん降り、大陸が侵食されます。激しい雨は、大気中の二酸化炭素を溶かし、大陸から持たされたイオンと結びついて、炭酸塩の沈殿物をつくります。二酸化炭素の急速減少によって、温室効果が下がり、地表の温度が急激に下がります。その結果、大きな氷が極地域の海にできます。広く白い氷は、太陽の光をたくさんはね返してしまい、地球を暖めるために使われなくなります。白っぽい地球は、寒冷化に拍車をかけ、この連鎖が悪循環をうみ、全球凍結へと向かいます。このような状況は暴走冷却と呼ばれます。
 暴走冷却によって、地球は一気に寒冷化を迎えます。これが全球凍結期となります。地球は、一番寒い季節を迎えます。全球凍結期の平均気温は-50℃、海面は1kmを越える厚さの氷に覆われていました。氷に覆われた海洋は、今まで海洋がおこなっていた役割を果たさなくなります。それまで、太陽光と地球の自転で、地球表層の温度を平均化する役割を果たしてきたのですが、その働きを、海洋はしなくなったのです。
 海洋から、大気への水蒸気の供給はほとんどなくなると、雨が降らなくなります。大気は、乾燥していき、氷に覆われずにかろうじて残っていた陸地も、冷たく乾燥した砂漠となっていきます。
 そんな全球凍結の時期もやがては終わります。火山活動は全球凍結期にも続いていました。火山活動によって二酸化炭素は、地球内部から定常的供給されていきます。その二酸化炭素が、雨が降らないことで、大気中にたまっていきます。全球凍結期が1000万年以上も続きますが、その間火山活動が続くと、大気中の二酸化炭素の濃度は、1000倍になります。
 大気への二酸化炭素の濃集によって、温室効果が促進され、暖かくなります。暖かくなっていくと、海の氷が融けて、やがて赤道付近では、海が顔を出します。急激に暖かくなることによって、海から大量の水蒸気が発生します。水蒸気も温室効果をもたらしますので、さらに激しい温室効果が生まれます。その結果、寒冷化のゆり戻しのような激しい温暖化がおきます。温暖期の平均気温50℃と推定されています。
 海水のマントルへの逆流、2度の全球凍結などの過酷な環境変化が、原生代の終わりの地球を襲います。しかし、その前後に生物は大きな進化を遂げます。事件の直前12~10億年前には、多細胞生物が出現しました。事件の直後、生命の大爆発とよばれるカンブリア紀へと突入します。それについては別の機会にしましょう。

・地質時代シリーズ・
地質時代シリーズも半分ほど終えました。
生物もそれなりの役割を果たしてきました。
しかし、これからは生物が活躍する時代です。
顕生代と呼ばれる時代です。
多くの多様な化石によって彩られる時代であります。
それらの時代を知るために化石は重要な証拠となってきます。
お楽しみに。

・屋久島と種子島へ・
正月明け、1月4日から11日まで、
私は、屋久島と種子島の調査に出かけました。
北海道から屋久島まで3回飛行機を乗り継ぎいで行きます。
家族も一緒の調査旅行ですので、費用もたくさんかかります。
その様子はいずれメールマガジンで紹介します。
10月末以来の久しぶりの調査でした。
調査もさることながら、
いい空気をすってリフレッシュしてきました。

・新しいメールマガジンの発行・
前にもお伝えしましたが、新しい月刊メールマガジンを発行します。
1年間、暖めた企画で、「大地を眺める」というものです。
大地の景観を、地形や地質のデータから眺めたら、どう見えるか、
毎回、日本の各地を題材にして見てきたいと考えています。
固いものではなく、読みやすいエッセイで綴ろうと考えています。
地形を鳥瞰しながら、大地の造形に隠された仕組みに、目を向けます。
1月15日に第1号を発行するつもりです。
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/index.html
から申し込めますので、よろしくお願いします。

2005年1月6日木曜日

6_40 科学と人と

 あけましておめでとうございます。新年最初の「地球のささやき」として、科学と人のあり方について考えてみました。

 前世紀である20世紀は、科学技術が非常に重要な役割を果たしました。科学技術は、私たちの生活を豊かにしました。これは、多くの人が認めることでしょう。
 一方、20世紀後半から21世紀にかけて、戦争、核、原子力、公害、環境ホルモン、地球環境破壊、食料危機などなど、挙げればきりがないほど、私たちの生存や生活を危うくするような場面も、生まれるようになってきました。科学や技術が、直接、あるいは間接的に関わりながら、それらを引き起こしました。
 科学は必要以上に進みすぎたと警句を発する識者もいます。しかし、性急に答えを出すべきではありません。少し考えていきましょう。
 科学や技術は、必要なものや情報も簡単に手に入れられるようになり、多くの人に豊かな生活をもたらしました。そして、その豊かさを背景にして、多くの文化、芸術も花開きました。科学は現代社会では不可欠なものとなりました。電話、コンピュータ、インターネットやネットワークに基づくシステムなどの恩恵は、誰もが、そして科学否定論者も受けているはずです。
 人の生存や安全を脅かすものには、一つの原因として、人が起こしていることがあります。戦争、核、環境ホルモン、地球環境破壊などが、それに当るでしょう。これは進みすぎた科学や技術がもたらした弊害だと考えられます。
 もう一つの原因として、自然、地球や宇宙の摂理が起こすこともあります。地震、台風、氷河期、隕石の衝突など、不可避なものが、それにあたり多々あります。昨年、日本は地震や台風などの自然災害に再三見舞われました。そんなとき、台風予測や地震予知などの精度を上げて欲しいと願ってしまいます。それは科学の進むことを望んでいるのです。
 このように科学のもたらす恩恵と被害を挙げていくと、どうも人とはわがままなものであるという思いに至ります。考えてみると科学とは、人の知的好奇心が生み出した産物です。科学を生み出すのも人なら、使うのも人なのです。
 科学というものは必ずしも形にはなっていない、概念です。科学という総体、概念で考えると、それは、一種の道具の延長とみなすことができます。つまり、道具をどう使うかは、人が考えることであります。道具には良い悪いはありません。使う側の目的によって、良くも悪くもなります。刃物や火薬がいい例でしょう。
 道具に難癖をつけるのは、まだまだ未熟者のすることです。弘法筆を選ばずとなれば、人は科学もうまく御するようになれるかもしれません。人はまだまだ進歩が足ないのでしょう。何も科学を扱うだけが人の進歩でありません。すべての面で賢くならければなりません。
 現代人は、果たして、ソクラテスやアリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ダーウィン、ニュートンなど、何世紀も前に達していた知性の高みを越えたのでしょうか。偉業をなした昔の人に、現代人は科学という道具を使っていますが、果たして知的に勝っているのでしょうか。はなはだ心細いものです。私たちはもっと賢くならければならなければなりません。
 科学や技術に頼りすぎることで、私たちの知性や能力が落ちていないでしょうか。ワープロは漢字を忘れさせました。電卓は計算能力を奪いました。車や電車は歩く能力を衰えさせました。エアコンは暑さ寒さへの適応力を奪いました。これでいいのでしょうか。私たち人類は、この道をこのまま進んでいっていいのでしょうか。
 そんなことを深く考える時期になっているのではないでしょうか。科学より知恵を進歩させることで、科学をより役に立つものにするべき時代になったのはないでしょうか。

・抱負・
あけましておめでとうございます。
昨年は、いろいろ自然災害の多い年でした。
今年こそは、穏やかな年になることを願っています。
私の今年の抱負を紹介しましょう。
私は、誰もやってない、誰も考えてない、
しかし子供でも楽しい地質学を目指して取り組んでいます。
今年はそんな地質学で新しい展開を迎えたいと考えています。
大変でしょうが、ライフワークとして、
ゆっくりとでもいいですから、
着実に進んでいこうと考えています。

・人類の課題・
日本は昨年、多くの災害にみまわれました。
そのとき感じたのは、
科学がもう少し進んでいればということです。
多くの人も、同じように感じたのではないでしょうか。
しかし、今回書いたように、
それは間違った方向ではないかということを思うようになりました。
科学が進むことも大切なのですが、
私たち人類がもっと賢くなるべきではないか。
それこそが、目指すべき人類最大の課題ではないかということです。
あまりにも金銭や経済、効率が重要視されています。
もっと知性や感性を磨くことに力を注いではどうでしょうか。
今まで忘れ去っていたのものが、
そこにはたくさんあるのではないでしょうか。