2009年3月26日木曜日

1_80 回廊の閉鎖:メッシニアン塩分危機5(2009.03.26)

 メッシニアン塩分危機は、なぜ起こったのでしょうか。その原因を解明するには、今は亡き回廊が、なぜ消えたのかを、解き明かさなければなりません。その謎解きは、簡単ではありません。まだ、確定したモデルはできていませんが、代表的なものを紹介しましょう。

 前回、メッシニアン塩分危機が起こる前は、今のジブラルタル海峡ではなく、もっと広い海峡(回廊と呼ばれていました)があったと紹介しました。その回廊は、2つもあり、大西洋と地中海をつないでいたこという話もしました。そのような広い回廊が、メッシニアン塩分危機の直前に閉じたのです。海水の流入なくなったことが、メッシニアン塩分危機を引き起こしたのです。
 ではなぜ、その回廊が閉じたのでしょうか。
 実はまだ、完全には解明されているわけではありません。しかし、いくつかの重要な原因は、突き止められててきました。大きく2つが、原因の候補として挙げられています。第一の原因は海水面の低下、第二の原因が構造的な運動です。
 第一の海水面の低下とは、気候変動によって氷河期になることによって起こります。氷河期とは、全地球的に寒冷化が起こり、水が陸域に氷として蓄積されることを意味します。陸にたまった氷の分だけ、海水は減少(海退といいます)します。実際にその頃、全地球的な寒冷化が起こっていたことはわかっています。
 氷河期によって起こると推定される海水準の低下は、メッシニア期の初期では、60m程度と見積もられています。私たちの感覚からすると、とんでもない海水準の低下です。しかし、それでも回廊を閉じるには十分でなく、この程度では、まだ海水が出入りできたと考えられています。この状態では、現在の黒海のような環境にしかならないようです。つまり、この第一の原因だけでは、メッシニアン塩分危機を説明できないということになります。
 そこで第二の構造的な運動が重要になります。構造的な運動とは、地殻変動のことです。前々回説明したように、地中海はユーラシア大陸(ヨーロッパ)とアフリカ大陸が衝突している場所です。衝突が完了すれば、インドのユーラシアの衝突のように、海が完全に消えてしまいます。しかし、地中海は、まだ残っています。
 衝突前にあった、さまざまな地質体や、構造運動によって形成された地質体などが、地中海周辺に形成され、非常に複雑な地質環境となります。海が消えていくための沈み込み帯、それに伴う火山帯(アフリカ北岸やイベリア半島東岸)ができます。また、衝突によって生じた山脈(ピレネー山脈やアルプス山脈)、あるいは分離した陸地(バレアレス諸島、サルディニア島、コルシカ島)なども形成されていきます。地中海は、非常に複雑な地質環境となります。
 リフィーンとベティクと呼ばれる二つの回廊は、沈み込み帯自体が衝突してなくなり、その結果、1kmのオーダーで周辺地帯で上昇が起こったと考えられています。それが、回廊を閉じる原因になったというのです。
 現在でもまだ結論は出ていませんが、海水準上昇と地殻変動の2つの原因が複合しているのではないか、と考える研究者が多いようです。

・大学での送別会・
3月もいよいよ残り少なくなりました。
大学は卒業式も終わり、
あとは移動する教職員のための送別会が残されています。
定年退職する人、他のところに転出する人。
それぞれの思いがそこには生じます。
新入生を迎える前に、
受け入れ側である大学が変化をする時期です。
私は、変化なくそのままです。

・家族旅行・
このメールマガジンがお手元に届く頃には、
私は、調査兼家族旅行の最中です。
今回は、紀伊半島をめぐる旅です。
もちろん私は、各地の地質名所を巡る調査をする予定です。
幸いなことに地質名所と観光名所はかなり重複します。
ですから、家族で巡っても、飽きられはしないので
大丈夫だと思います。
もちろん、あまり観光客が行かないようなところへも
いくことになるでしょうが。
ルートは、関西空港から名古屋中部空港へと抜けるつもりでした。
しかし、次男のたっての希望で、
伊賀上野に最終日によることになりました。
それは、忍者村にいくためです。
次男は、今は忍者に凝っていて、
北海道の伊達にある時代村の忍者屋敷に感動して、
忍者の本場である伊賀上野を
ぜひ訪ねたいというリクエストに応じたものです。
そのため、帰りは関西空港に戻ることになります。
乗り捨てでないので、その分費用は助かりますが、
結構ロスの多いルート選択となりました。

2009年3月19日木曜日

1_79 広い回廊:メッシニアン塩分危機4(2009.03.19)

 地中海と大西洋がつながっているところは、ジブラルタル海峡と呼ばれています。この海峡は、狭く、海路交通の要所となっています。アフリカとヨーロッパの接点でもあります。そのため、政治、宗教、軍事などの要ともなっています。このジブラルタル海峡は、メッシニアン塩分危機以降にできたものでした。

 現在の地中海は、ジブラルタル海峡を通じて大西洋とつながっています。地図をみると、その海峡は細く狭いものであることが、よくわかります。対岸が近くにあり、肉眼でも見ることができます。海岸には、渓谷のように急な崖となっているところもあります。
 ジブラルタル海峡の海底地形は、水深が286mと深いのですが、幅が14km~44kmで、長さが60kmにわたって延びています。海水がなければ、まるで狭い回廊のような場所に見えるはずです。
 海水があってもジブラルタル海峡が狭く感じます。それは、地中海に面して、アフリカとヨーロッパの両側に、大きな山地があるためではないでしょうか。海峡の入り口にあたる岩崖を、「ヘラクレスの柱(2本柱とも呼ばれます)」といいます。2本の柱に見えるほど、切り立って見えるということです。
 海岸沿いで山を形成しているのは、ユーラシア大陸(ヨーロッパのスペイン)側では、ジブラルタロックと呼ばれる標高425mの岩山です。アフリカ大陸側には、モンテアチョ山(Monte Hacho)とヘベルムサ山(Jebel Musa)があります。モンテアチョ山はセウタという町にあり、ヘベルムサ山はモロッコにあります。ヘラクレスの2本柱に当たるのは、セウタにあるモンテアチョ山の方です。
 セウタは、モロッコの東にあるスペインの飛び地の領地になっています。地中海の出入り口に当たるこの地は、昔から海洋交通の要所となっています。したがって軍事の要所ともなります。まして、そこに眺めのよい山地があれば、要塞などの軍事施設としても最適となります。じっさい軍の施設が設置されています。
 ジブラルタルは、アフリカとヨーロッパの接点ともなっており、宗教や政治、軍事においても複雑な場となっています。
 さて、メッシニアン塩分危機が起こる以前、まだジブラルタル海峡が形成されていませんでした。地中海は別の地域で大西洋とつながっていました。つまり現在は陸地となっているところが、大西洋との海水交換の道、回廊としてありました。
 回廊は、現在の南スペイン(Betic回廊と呼ばれています)と北西アフリカ(Rifean回廊と呼ばれ2つの海路が開いていました)との2箇所で、大西洋とつながっていたと考えられています。回廊という名称がついていますが、今のジブラルタル海峡よりもっと広い海峡となっていたようです。
 地中海の海底や周辺の陸地の地質を調べていくと、そのような過去の回廊があったのがわかってきました。メッシニアン塩分危機のときに、ジブラルタル近辺では、海水が干上がっていれば出来たはずの蒸発岩類が見あたりませんでした。そして、海があった痕跡を探すと、ジブラルタル海峡以外のところに2箇所も見つかったのです。
 広い回廊が2つもあったのに、なぜか回廊が閉じて、海水が入らなくなりメッシニアン塩分危機が起こったのです。その理由は、次回としましょう。

・セウタ・
「ジブラルタル」という名前は、
「ターリクの山(ジェベル・ターリク)」から由来しているそうです。
「ターリク」とは、イベリア半島に進入した
アラブ人の首長ターリク・イブン・サイードのことだそうです。
古くから、文明の交差する場所であったことが、
ジブラルタル自体の名前からも伺えます。
現在スペインの飛び地領であるセウタを、
モロッコは地続きである自国への編入を求めています。
セウタの歴史を見ると、
カルタゴ人やローマ人、ヴァンダル人、西ゴート族、
キリスト教とイスラム教、
ポルトガルやスペイン、モロッコなど、
さまざま組織が支配を巡って争ってきました。
セウタを例にしましたが、
ジブラルタルは、非常に重要な拠点であるために
このような複雑な歴史があるのです。

・ドル・
アメリカ合衆国のお金の単位は「ドル」です。
「ドル」の単位を、$と表記します。
ただし、$は正式には、
2本の縦線が使われることになっています。
なぜ、2本線が引かれているのかというと、
「ヘラクレスの2本柱」を表すという説があります。
スペインの貨幣は、ジブラルタル海峡から大西洋を渡り、
アメリカ大陸でも使われていた時代がありました。
その時のなごりで、ジブラルタル海峡の象徴として、
Sに「ヘラクレスの2本柱」を意味する
縦の2本線を加えたといわれています。
本当の由来は知りませんが、
このような由来もなかなか面白い説ですね。

2009年3月12日木曜日

1_78 地中海誕生:メッシニアン塩分危機3(2009.03.12)

 メッシニアン塩分危機は、地中海の成因と深い関係があるという話を前回して、終わりました。今回は、その地中海の誕生にまつわる物語を紹介します。

 そもそも地中海は、どのようにして形成されたのでしょうか。実は、地中海は、もともと非常に大きな海洋だったものが、今のような大きさに縮小してしまったものです。そのような縮小の過程で、メッシニアン塩分危機が起こったのです。
 地中海は、もとはテチス海(Tethys Sea)と呼ばれ、古生代から新生代のパレオジン(以前は新第三紀と呼ばれていた時代)にかけて存在した大きな海でした。その大きさは、時代ごとに変化しましたが、大陸に囲まれていることがテチス海の特徴でした。ですから、テチス海の話をするには、その時代の大陸配置を理解する必要があります。ただし、過去の大陸を復元するのは、大変な作業で、科学者によってもいろいろな考え方があります。以下の話は、"The Concise Geologic Time Scale"に基づいて紹介していきます。
 まず、古生代から話をはじめましょう。古生代の最初の時代は、カンブリア紀です。その時代には、ゴンドワナという巨大な大陸が一つありました。その他に3つの小大陸(ローレンティア、バルティカ、シベリアと呼ばれています)が、ゴンドワナの近くに集まって存在していました。その他の部分を占める大きな海洋は、パンサラッサ海と呼れていました。ゴンドワナと小さな大陸の間には、イアペタス海と呼ばれ海がありました。
 オルドビス紀になると、小さいな大陸は配置を変えていきます。パンサラッサ海とゴンドワナ大陸という大きな構図はそのままに、小さな3つの大陸の配置が変わっていきます。そのため、イアペタス海は小さくなり、新たに古テチス海と呼ばれる海ができます。
 大陸の配置は変わり、シルル紀からイアペタス海は小さくなり続け、古テチス海は、大陸配置の変更によっていろいろな形をとっていきます。デボン紀には、いくつもあった小さな大陸がゴンドワナ大陸に向かって集まりはじめ、イアペタス海はなくなります。そして、石炭紀を経てペルム紀には、一つの大きな超大陸パンゲアになっていきます。その間、古テチス海は、パンゲア大陸の内海として存在し続けます。そしてペルム紀には、古テチス海の片隅に、パンゲア大陸に抱かれるようにして、テチス海が形成されていきます。
 中生代の三畳紀になると、古テチス海は狭まり、テチス海が広がりだします。ジュラ紀には古テチス海が消え、テチス海だけになります。また、テチス海は、拡大しながら、内湾から外海の環境になります。テチス海とパンサラッサ海がつながったとき、パンサラッサは太平洋と呼ばれるようになります。この頃、パンゲアは分裂を始めローラシアとゴンドワナに分かれ始めます。白亜紀になるとローラシアとゴンドワナはさらに分裂をはじめ、大西洋が形成されていきます。そして、テチス海は縮小していきます。
 新生代になると、ユーラシア大陸に、アフリカ大陸とインド大陸の衝突して、間にあったテチス海が閉ざされ、その大部分が消えてしまいました。テチス海は、地中海や黒海、カスピ海、アラル海などが、その名残として今も少しあるだけです。
 ユーラシア大陸(ヨーロッパ)とアフリカ大陸、ユーラシア大陸(アジア)とインド大陸という大陸同士の衝突は、現在も継続しています。衝突の場には、山脈が形成され、今も上昇を続け、地震も頻発します。ところによっては火山も形成されています。
 テチス海の名残である地中海は、アフリカ大陸とユーラシア大陸の衝突が続いているところにあたります。ですから、今後も、地中海は閉じていく海になっていくはずです。メッシニアン塩分危機は、その前触れともいうべき事件だったのかもしれません。

・スペック不足・
昨年新しいデスクトップのパソコンとして
Windows VISTAを購入しました。
予算の都合で、理想のスペックのものは購入できず、
しかたなく予算に見合ったスペックの低いものにしました。
ところが、ハードディスクの容量不足が、すぐに発生しました。
予期していたことですが、まめにファイルを整理していけば、
大丈夫かと思っていました。
ところがいくら整理しても、すぐに容量が足りなくなります。
購入したタイプのコンピュータでは、
ハードディズクは250GBが最大の容量でした。
これが一つ目の間違いです。
二つ目の間違いは、VISTAにしたことです。
VISTA対応のソフトをいくつか導入したのですが、
遅すぎて使い物にならず、
古いバージョンに戻してしまいました。
これでは、何のためにVISTAにしかわかりません。
また、ハングアップすることはないのですが、
いつもエラーを出していますので、
使用上、不安が付きまといます。
だから、安定しているXPにバージョンダウンした
デスクトップに買い換えようかと考えています。
価格の関係で望む機能を削ったのが、
失敗の原因だったような気がします。
少々無理をしても、必要なところには、
十分なスペックを持っていたほうが
結局は長持ちすることになりそうです。
一つ前のデスクトップは十分なスペックもっていたので、
4年ほど使うことができました。
パソコンとして十分長く使っていると思います。
まあ、新しく購入するにしても、来年度になるのですが。

・卒業と入学のはざま・
いよいよ卒業のシーズになります。
早い大学では、今週が卒業式になっています。
わが大学は来週が卒業式です。
卒業式は、本来なら大学内で挙行するのがいいはずなのです。
ところが、卒業生が1000名、そのほかに大学院生と父兄も参加します。
そんな大人数では、大学の施設では収容しきれません。
ですから、大きな会場を借りて卒業式を行います。
教員もそちらに出向いていきます。
卒業式の話をしましたが、現在、入試はまだ継続中です。
二次入試の試験は終わりましたが、
現在、集計中で、来週、その発表があります。
大学は、終わりと始まりのはざまにあります。

2009年3月5日木曜日

1_77 異変の履歴:メッシニアン塩分危機2(2009.03.05)

 地中海の海水が干上がるというメッシニアン塩分危機が、中新世末期に起こりました。その時、今の穏やかな地中海から想像もできないほどの激変が起こりました。多くの海洋の生物は絶滅したはずです。沿岸地域の環境にも大きな影響を与えたはずです。その影響の全貌はまだ解明されていませんが、概要はわかってきました。異変の履歴を紹介していきましょう。

 前回、新生代中新世末期に、地中海の海水が干上がるというメッシニアン塩分危機があったことを紹介しました。メッシニアン塩分危機の実態は、地上の地質調査だけでなく、20世紀後半から、海洋底を掘削する調査(Deep Sea Drilling Program:DSDPと呼ばれる)が地中海の各地でおこなわれることによって、より詳細な解明がなされてきました。14箇所の海底で掘削が行われました。この掘削という調査方法は、一度に一つの地点でしか調査できない大掛かりなものですが、地下に向かって連続的な地質試料を回収することができます。それを実験室で精密に調べることができ、地上では得られない重要な情報をもたらします。掘削と並行して、音波や地震波を利用して海底の断面を調べていくことによって、広域の3次元的な海底堆積物の様子がわかってきました。
 それらの結果によると、地中海には、海水の蒸発によって形成された蒸発岩として苦灰岩や石膏が、広域にわたって堆積していることがわかってきました。もちろん前回紹介したように、地中海沿岸の陸地にも、海水の蒸発の痕跡は残されていました。
 メッシニアン塩分危機という事件の時間変化を、順を追ってみていきましょう。まだ議論の余地が多々あるようですが、概略は多くの研究者が同意しているものです。その様子を、Crippsが2005年にまとめたもの(http://ougseurope.org/newsletter/articles/messinian.asp)から、紹介していきましょう。
 まず、724万年前(あるいは6.88万年前)には、事件の予兆のような現象が記録されていました。シシリア島の地層に、泥灰岩と腐泥炭の互層があることから、大西洋との海水の交換が徐々に変化して、沿岸域の環境変化が起こってきたことが伺えます。
 596万年前から、塩分危機が始まります。この時期から地中海の海水の流入が、減るか完全に途絶えていきました。その結果、地中海全域で蒸発岩が形成されていきます。海底の地震波探査でみつかったM reflectorと呼ばれた反射面が、このとき形成されました。これは、海水準が100~200mほど低下したことを示しています。
 そして、559万から533万年前の間、地中海は大西洋から完全に切り離され、外海から海水が入ってこなくなりました。地中海の海水準は、現在の海底まで近くまで下がり、そこには塩湖が形成されていたと考えられます。この時期になると、地中海は、地層の堆積場というよりも、陸地として侵食の場となりました。もともとの海岸線は、巨大な渓谷になっていたことになります。それは、グランドキャニオンに匹敵する規模だと推定されています。
 533万年前には、再び、外界とつながった海の環境が戻ってきました。この年代は、中新世と鮮新世の時代境界ともなっています。
 塩分危機の時代は、地中海に外洋の海水が供給されていない596万から533万年前の63万年間になります。地質学的には、それほど長い期間ではないのですが、地中海という狭い海峡しかない内海であったため、その影響は大きなものとなりました。
 ではなぜ、海水の流入が止まったのでしょうか。それは、地中海が成因と深い関係があるようです。続きは、次回としましょう。

・キプロス島・
私は、1987年に地中海のキプロス島で
学会があったときに、地中海を間近に見ました。
キプロス島では、学会参加と共に
テチス海の海底を構成していた岩石群を見ることも
重要な目標でした。
その地質見学旅行で見た、地中海固有の澄んだ海の色と
乾燥した快晴の青空が強く印象に残りました。
さらに、古代ギリシア時代の遺跡やモザイクを見て、
乾燥した大地に残された人類の歴史に思いを馳せました。
それ以降、残念ながら地中海は見ていません。

・第一期生・
いよいよ3月となりました。
北海道も春めいた暖かい日差しが
注ぐ日も訪れるようになりました。
もちろん雪のたくさん降る日も、まだまだあります。
しかし、この暖かさは、春の到来を予感させるものです。
大学は、卒業と入試の季節です。
私の所属する学科は、今年はまだ卒業生がいません。
来年度やっと4年生が誕生します。
第一期生です。
あと一年、はじめてのことを新4年生とともに
築きあげていくことになります。
彼らとは苦楽を共にしたという気持ちが非常に強くあります。
彼らもこれから、進路を決定する重要な時期になります。
特に教員志望の学生にとっては、気の抜けない日々が続きます。
教員としては、彼らの努力をサポートしながら
成功を祈るしかありません。