2004年6月27日日曜日

5_36 過去を見る力3:想像力

 過去をみる力として、事実と推定を区別すること、論理性が大切という話をしてきました。今回は、最後に中でもいちばん大切なものの話をしましょう。

 「過去を見る力」を考える素材として使ってきたのは、長さは10cmほどの恐竜の歯の化石でした。この化石は、白亜紀後期の地層から見つかり、歯の先端には細かなぎざぎざがついていというものでした。
 「過去を見る力」手順は、この化石に関する事実をはっきりと見極めておきます。そして、必要に応じて、いろいろな測定や分析をして、証拠というべき情報の数を増やしたり、精度をあげていきます。そのような証拠に基づいて、論理を積み上げていきます。そして、いくつもの可能性の中から、自分がいちばんもっともらしいと思える論理を作り上げていきました。
 さて、ここからが大切なところです。これまでは、科学的な手続きに則っておこなってきました。科学的手法とは、それなりの個性は出せるかもしれませんが、いってみれば、誰でもできるものです。それが、科学的手法のいいところでもあり、悪いところでもあります。
 自分しかもてない、「過去を見る力」として、想像力があります。過去を見るためには、証拠も論理性も必要ですが、今まで科学的な取り扱いでは注意を払ってきた、推定や推理を大いに利用していきます。
 今まで使ってきた素材である、恐竜の化石を使って、想像をしてみましょう。
 この化石の恐竜の歯だと推定できます。そして歯の先端にあったぎざぎざは、肉を切り刻むのに適しています。つまり、肉食恐竜の歯だと考えられます。ひとつの歯の長さが10cmほどもあることから、この歯を持っていた恐竜は10m以上の大きさの体を持っていたでしょう。10mを越える白亜紀後期の肉食恐竜としては、ティラノザウルスが有名です。たぶんそのような体格の恐竜だと想像できます。
 ティラノザウルスのような大きな肉食恐竜がいたということは、彼らの食欲を満たすために、草食恐竜もたくさんいたはずです。草食恐竜にもいろいろな種類がいたはずです。草食恐竜が肉食恐竜から逃れる戦略は、現在の哺乳類と比べることで、推定できます。戦略として、あまり大きくならずに、すばやく行動する能力を身につける方法、食われないほど大きくなってしまう方法などがあるでしょう。
 小さな恐竜は、やはりティラノザウルスに食べられるでしょうから、たくさんの卵を産んで、数多く生まれることで対処したはずです。恐竜の子孫である鳥類をみていると、親が卵を守ったり、群れで生き残る戦略をとるものもいたはずです。
 大型草食恐竜は、大きくなれば、ティラノザウルスもなかなか襲えなかったでしょうが、小さな子供は、やはり狙われたはずです。でも、小さな草食恐竜と比べれば、少ない卵を生んでも、親が卵や子供を守ればよかったはずです。そのためには、大型草食恐竜は、家族や群れをつくって暮らしたはずです。
 いろいろな草食恐竜たちが、たくさん生活していくためには、食料となる植物が豊かでなければなりません。また、変温の恐竜たちが暮らしていくには、気候も穏やかでなければなりません。そのような穏やかな気候は、植物の生育にも適していたはずです。
 このような想像から、白亜紀後期の生物たちの暮らしぶりや環境が再現されていきます。そして、そのような物語を人に説明すると、わかりやすく理解しやすいものとなっていきます。上の想像は、すべてが根拠があるわけではありません。人によってストーリーは違うでしょう。でも、でたらめなストーリーでもありません。それなりの必然性もあります。まったく空想ともえいません。このような科学的想像は、フィクションと科学の狭間にあるものです。
 科学者たちは、論文には書きませんが、このような想像を楽しんでいるのです。そのような想像中から、論理性のあるものだけが、科学の成果として世に出るのです。でも想像することは、科学をすることの大きな楽しみでもあり、そこから優れた発想も生まれるのです。

・科学的想像・
科学的想像は、フィクションと科学の狭間という言い方をしましたが、
サイエンス・フィクション、つまりSFもこの仲間でしょう。
科学者がおこなっているか、
小説家がおこなっているかの違いかもしれません。
想像力の豊かな科学者には、優れたSF作家もたくさんいます。
ですから、科学的想像を楽しむことはいいことです。
科学的想像を科学に向けると科学的論文になり、
物語に向けるとSFになります。
同じ能力ですが、アウトプットの方法が
違うだけなのかも知れません。
もちろん、論文をつくり上げる論理性と
SFをつくり上げる構成力など
それぞれ違った能力は必要でしょうが。

・プログラムその後・
前回のメールマガジンで
プログラムをしているという話をしました。
そのプログラムは先週末に完成しました。
大きく2つのファイル群がありました。
ひとつは64個からなり、
もうひとつは約1,000個のファイルからできています。
一個のファイルの大きさは、約5Mbです。
64個のファイルの変換は、一晩で終わりました。
ところが1,000個のファイルは、
現在使っている一番早いパソコンである、
Pentium4、2.8GHz、1GbのRAMの仕様で、
丸3日かかりました。
これは、誤算でした。
金曜日の夕方スタートすれば、
月曜日の朝には終わっていると推定していたのですが、
月曜日の夕方までかかりました。
でも、大量のファイル変換は
一度すればいいので、これで大丈夫です。
あとは、個別にファイルをいくつかくっつけることがありますが、
そのプログラムも完成しています。
これは、一晩動かせば、朝には結合が終わっています。
ですから、以後は変換に手間取ることはありません。
久しぶりのプログラムでしたが、楽しむことができました。
それなりの苦労はありましたが、
できたときに楽しみはひとしおです。
ころからも時々プログラムも楽しみましょうか。

2004年6月17日木曜日

5_35 過去を見る力2:論理性

 地球の歴史を調べるときに、事実と推定に注意することが大切であることを、前回紹介しました。でも、過去を調べるときにもっと大切なものがあります。そんな大切なものをみていきましょう。

 前回、「10cmほどの恐竜の歯の化石」を例にして、事実と推定について見ていきました。
 事実とは、「化石」と呼んだ「過去のもの」という「実物」が存在しているということです。さらにその過去の実物から、誰がやっても同じものを読みとることできる情報も事実とされます。ですから「10cmほど」という情報も、事実になります。その事実は、測定方法や目的によって、精度はいろいろになりえます。必要とあれば、「10cmほど」ではなく、「10.01cm」などのように、精度をあげることもできます。このような実物とその情報という事実が、過去を見ていくときの、すべての出発となります。
 もちろん、人によって、「過去の実物」から読みとる情報はいろいろなものがあるでしょう。詳しく知りたい研究者は、いろいろな方向の長さを正確に測定するでしょう。角度も測り、成分も分析することもあるでしょう。でも、このような測定や分析は、他の研究者がその気になれば、実物さえあれば、同じ情報を読みとることが可能です。
 このような事実は非常に客観的なものといえます。事実はこのような客観性を備えていることになります。
 さて、このような事実から次におこなわれるのが、推定であります。いろいろな推定がありますが、科学者や論理性を重んじます。なぜなら、論理性こそ科学の重要な営みだからです。「過去の実物」から「化石」だと推定することは、ある論理性に基づいています。そして、その「化石」を「歯」と推定するときにも、論理性が必要です。さらに、「恐竜の歯」という推定にも、論理が必要です。こんなにも論理を重ねていくと、ふと大丈夫かなという不安を持ってしいます。
 数学は、まさに論理を積み重ねた上に構築された体系です。ですから、論理を積み重ねることは、科学の世界ではごく当たり前におこなわれています。しかし、数学と自然科学の論理には、性質の違いがあります。それは、数学における多くの体系では、論理はすべての場合を調べあげられています。そこには、例外は認められません。例外も論理に組み込まれていますので、例外とはいえなくなっています。
 ところが、自然科学の世界では、すべての因果関係を、私たちはまだ解き明かしていません。つまり、読みとる論理すら、完全ではないのです。さらに過去の歴史を扱うような科学では、一度きりしか起こったことの出来事を、断片的な事実から、読みとらなければなりません。その断片的な証拠は、すべての場合を網羅しているわけではありません。ですから、どんなに論理を精緻にしようとしても、限界があります。
 自然の歴史を扱う自然科学では、「ある程度」の論理性しか確保できません。事実に基づいていても、「ある程度」の論理性になるので、研究者ごとに、いろいろな論理が提示されることがあります。
 例えば、ある研究者は、その歯の持ち主の恐竜をある論理によってティラノザウルスだと推定し、別の研究者はスピノザウルスだと別の論理で判断するかもしれません。いやいや、それは肉食恐竜じゃない草食恐竜だという論理を提示する研究者もいるかもしれません。
 論理性は必要ですが、論理的だからといって「正しい」とは限らないのです。科学者も人間ですから、どのような論理をとるのか、あるいはその論理をどのような提示をするのかは、好みや癖、心情などが反映されます。自由な発想をする研究者は大胆な論理を提示するかもしれません。慎重な研究者は、自分の良識が許す範囲までの論理しか提示しないでしょう。疑り深い人は、反論の可能性があるような大胆な論理は提示しないでしょう。これは研究者の個性によります。
 慎重だからといって、その論理は正しいとは限りません。大胆な論理だからといって、間違っているとは限りません。これが、自然科学の難しさでもあり、面白さでもあります。

・融合の試み・
先日、旭川を再訪しました。
今回は、地図のメーカの本社を訪れるためです。
旭川には、技術や開発の本部もあり、
技術者たちと面会して、議論するためです。
分野の違うものを融合させることはできないか
ということについて話し合いました。
彼らのもっている地図に関する各種の技術とデータ、
私のもっている地質学の専門知識やデータと
その専門的内容を市民にわかりやすく表現する技術を
なんとか融合させたいというのが始まりでした。
何をするかは、これから考えていきます。
以前、衛星画像をつかって、同じような試みを
このメールマガジンを通じておこないました。
再度同じことをするかどうはまだ未定です。
お互いの専門から、思わぬ発見が生まれるかどうかです。
メーカはそれを商売に使うもよし、
私は、その成果を論文にもするもよしです。
この件に関する限り、お互いに自由に
利害抜きに癒合していきましょうというのが、目的です。
さて、どのようなものができるかは、
これからの楽しみです。
数ヶ月かけて、練り上げていこうと思っています。

・プログラミング・
最近プログラミングをはじめました。
20年ほど前は、Fortran、Pascal、Basicなどを用いて、
プログラムを自作していた時期がありました。
それは、自分の目的にあったいいソフトがなかったからです。
しかし、その後、自分が利用できるソフトがいろいろでてきてからは、
自作のプログラムを作ることはなくなりました。
しかし、最近、大量のデータを変換する必要に迫られました。
そのためにプログラムを作成する必要がでてきました。
私は、プログラムを20年近くおこなっていません。
できれば、コンパイラタイプで、馴染みある言語がいいので、
Visula Basic、Delphi(Pascal)などが候補になります。
大学の講義では、Delphiを採用しています。
とりあえず無料の言語を探したら、
コンパイラタイプのActive Basicというのが見つかりました。
それもなかなか優れもので、開発者自身による解説書もありました。
それに、開発者個人ですが、ホームページで、サポートをしています。
とりあえず、Active Basicでプログラムしています。
久しぶりなので、プログラミングはなかなか大変です。
先日の土・日曜日に、なんとかファイルの変換部分だけはできたのですが、
大量のファイルを自動で処理する方法に現在苦労しています。

2004年6月10日木曜日

5_34 過去を見る力1:事実と推定

 過去を調べるときに重要になるのは、何だと思いますか。多くの人は、証拠や科学的分析などを考えるでしょう。でも、それらの扱いには注意が必要です。実は推定なのにあたかも事実かのように思ったり、事実なのにあやふやに思えたりすることもあります。そんな陥りやすいワナを紹介していきましょう。

 ここに恐竜の歯の化石があるとしましょう。この化石は、白亜紀後期の地層から見つかりました。長さは10cmほどあます。歯の先端には細かなぎざぎざがついています。この化石を素材にして少し、考えていきましょう。
 ここまでの記述には、推定と事実がまじっています。どれが推定でどれが事実かわかりますか。推定は、「恐竜の歯の化石」と「白亜紀後期」で、「10cmほど」と「歯の先端には細かなぎざぎざ」が事実です。あれっ、逆だと思われたのではありませんか。科学的に見える「恐竜の歯の化石」と「白亜紀後期」が推定にあたり、「10cmほど」というおおよその数値や、「ぎざぎざ」という感覚的で抽象的な言い方が事実になるとは、すこし意外な感じがします。
 よく考えていきましょう。事実とした「10cmほど」というのは、長さのことです。「ほど」とは、数値の精度を示す表現です。ですから、10cm前後の長さで、1cm程度の誤差を含んでいるという意味です。でも、この数値は計測可能ですから、事実といえます。必要とならば、精度よく計測することもできます。また、「ぎざぎざ」は形を表す言葉です。専門的ではないかもしれませんが、形態という事実を表現しているものです。必要とあれば、細かく記述することも可能です。
 ところが、推定とした「恐竜の歯の化石」は、まず、「化石」かどうかを、判定するためには、論理を用いて考えていかなければなりません。「化石」となれば、それは過去の生物の一部であったことになります。その生物が「恐竜」で、「化石」が「歯」であったかどうかは、似たような多くの類似物の「古生物」や「化石」などから、論理を組み立てることによって得られた推定となります。「白亜紀後期」も、何かの根拠となる「化石」などから論理によって推定されるものです。時代区分自体、人間が人為的につけた時間区切りに過ぎません。ですから、人的区分に実際にあったであろう過去の時間をあてはめるための論理をあらかじめ用意しておき、その論理にあうかどうかの判定の後、時代が推定されていきます。まどろっこしのですが、それが時代を決める論理の手続きとなります。
 化石も時代も、いずれの推定も、科学者たちが長い努力の末たどりついた論理によってです。多くの人がその推定を受け入れているために、あたかも「事実」のように扱われますが、実は、いくつもの論理を積み重ねた「推定」なのです。このような推定を何重にも重ねていくと、その信憑性はだんだんあやふやになっていきます。
 それと比べて、長さや形態は、化石というものさえあれば、誰でも、計測や確認ができるもっともシンプルな事実です。観測の精度をあげたれば、いくらでも詳しいデータを読みとることができます。これが事実と推定の大きな違いです。
 推定と事実は、簡単に見分けられそうに思えますが、じつは、意識をしていないと、ついつい推定を事実も思ったり、事実を推定だと思ったりしてしまうことがあります。今回の例のように、事実と推定が逆転している状態が常識となっていると、思わぬワナにはまってしまうことがあります。注意が必要です。

・動物園・
前日の休日に、旭川の旭山動物園というところに
家族でいってきました。
他の動物園は、伸び悩む中で、
この旭山動物園は、来園者数が伸びていることで有名です。
規模はそれほど大きくないのですが、
あちこちに工夫を凝らしています。
日本で一番北の動物園でという謳い文句で、
時間は短いのですが、冬場も開園しています。
そして、新設の施設は、冬場でも見られるような屋内施設にし、
それも動物を不思議な普段見られないような状態で
見ることができるように工夫されています。
たとえば、白熊の館には、ドームが2つあり、
そのドームが白熊の歩き回っているところに突き出ています。
白熊と鉢合わせすることもあります。
また、白熊のプールがあり、泳いでいるところを
水槽の横から見ることができます。
ひとつひとつはあちこちの動物園や水族館で
おこなわれているテクニックです。
それを、自分たち流にアレンジしています。
そこここに工夫の跡が見られます。
ボランティアでしょうか。
園内には多くの関係者が見受けられます。
手作りですが、いろいろな説明が付けられています。
そんなひとつひとつの関係者の姿と努力が見えるから、
リピーターが多いのでしょう。
さて、次は、札幌の動物園にいきましょうか。

・キャンプ・
動物園は自宅から2時間弱で車でいけます。
ですから、充分日帰り可能なところです。
しかし、我が家は旭川の温泉に泊まりました。
それは、ある目的があったからです。
その目的とは、私の調査を兼ねているのですが、
キャンプ地を探すことでした。
候補地が、事前にありました。
以前調査で一度きていたところでした。
そこは、住んでいる江別から遠く、80kmほど離れています。
今回、私自身は調査をしたのですが、
家族は、しばらく河原で遊んでいました。
家内は読書をしていました。
私は、その河原がキャンプに適しているかどうかを
再確認したかったのです。
石狩川の河原なのですが、ほとんど人が来ることなく、
自然のままの河原があります。
今度、この場所でキャンプをしたいと考えています。
一般のキャンプ場はあまり好きではありません。
なぜなら、どのキャンプ場も人が一杯で
自然を味わえるものではないからです。
多くのキャンプ場は、芝生、電気、水道、トイレが完備されていて、
野外で人里から離れて自然に親しむというものではないように思えます。
私は、先生や先輩から、地質調査の手法を学ぶと共に、
人気のない自然の只中でおこなうキャンプの
醍醐味を教えていただきました。
自然は素晴らしいものであるとの同時に、
怖いものであることも教えられました。
夜には、昼間とまったく違った別の自然があることを、
自然の中でキャンプすることで気づきました。
自分たち以外に人工的なものがない、
夜は真っ暗なこと、そして星や月が明るいこと、
そんな当たり前のことに気づくことが大切だと思います。
子供たちが大きくなったので、
今年の夏はキャンプをしようと思っています。
子供たちにははじめてのキャンプです。
テントを家の中に張って、
子供たちだけで寝かせました。
できれば、最初のキャンプの体験は
本当の自然の中で、怖さと素晴らしさの両方が
味わえるものにしたいと考えています。
なんといってもはじめが肝心ですから。
再来週にでも、天気がよければ
その場所でキャンプをしたいと考えています。

2004年6月3日木曜日

3_32 ドロマイト

 前回の硬水と軟水に関連した話題で、ドロマイトという名前の石が出てきました。ドロマイトについてわからないという質問がありましたので、今回は、ドロマイトについて紹介しましょう。


 ドロマイトは、石灰岩の仲間ですが、石灰岩が炭酸カルシウム(CaCO3)という化学成分をもっているのですが、ドロマイトは、炭酸カルシウムは半分で、あとは炭酸マグネシウム(MgCO3)になっています。ドロマイトは、石灰岩のカルシウムが、マグネシウムに置き換わたものとみることができます。岩石の見かけも、石灰岩に似ています。
 ドロマイトは、フランスの地質学者のデオダ・ドゥ・ドロミュ (1750-1801)にちなんで名づけられました。石灰岩の炭酸カルシウムは方解石という鉱物で、ドロマイトをつくる鉱物はドロマイトとよばれます。岩石も鉱物も同じ名称なので、ややこしいのですが、日本語では、鉱物を苦灰石(白雲石とも呼ばれる)、岩石を苦灰岩として区別されています。ちなみに、イタリアのドロミテ・アルプスはドロマイトが多いことから名づけられたものです。
 ドロマイトのでき方は、ドロマイトが直接たまることはないと考えられています。石灰岩からドロマイトに変わっていくと考えられています。その作用は、石灰岩の炭酸カルシウムが炭酸マグネシウムに置き換わってできていくことになります。その交代作用は、石灰岩ができて比較早い時期に起こる場合と、長い時間をかけてできる場合とがあります。いずれにしても、ドロマイトは石灰岩といっしょにでることが、多くなります。
 海でできた石灰岩のカルシウム分が、特別な条件になると、海水中のマグネシウムと置き換わることが起こることがあります。熱帯の海で塩分濃度が高くなったとき、石灰岩のカルシウムとマグネシウムが交代することがあります。
 また、長い時間を経た石灰岩には、ドロマイトに変わっているものがよく見られます。ドロマイトは、石灰岩できた場所で起こるだけでなく、経てきた歴史によっても、ドロマイトに変わっていく作用がおこります。したがって古い時代の石灰岩は、ドロマイトに変わるチャンスが多くなります。
 海で形成された地層が、プレートテクトニクスの営みによって、プレートが沈み込む付近で大陸に付け加わります。このようにしてできた付加体の中の地層には、海で形成されたサンゴ礁や陸付近で溜まった石灰岩がよく含まれています。日本の多くの地層は付加体できています。付加体の中には、規模は様々ですが、石灰岩がたくさんのところから見つかります。付加体の石灰岩のあるものは石灰岩のまま、あるものはドロマイトに変わっています。
 日本では、栃木県の葛生地方が産地として有名で、全国の生産量(400万トン/年)の90%を占めています。石灰岩の産地は、栃木県の葛生のほかに、岐阜県、三重県、北海道(上磯町)、高知県、大分県などがあります。葛生のドロマイトは、2億年前に赤道付近の海洋島の周囲で形成されたサンゴ礁が起源だと考えられています。サンゴは動物の仲間で、石灰岩のカラをもっています。小さなカラがたくさん集まったものがサンゴ礁です。サンゴ礁は石灰岩からできています。葛生のドロマイトは、サンゴ礁の石灰岩が、海水のマグネシウムと交代したものだと考えられています。
 産地というからには、ドロマイトを採掘しているということです。ドロマイトは、工業用の素材として、いろいろと利用されています。ドロマイトは、溶けた鉄鉱石の中のリンやイオウなどの不純物を取りのぞくのに利用されたり、溶鉱炉の耐熱の壁材を保護するのに利用します。植物の栄養素として、窒素、リン、カリウムの3つが有名ですが、カルシウムとマグネシウムを含めて5要素といわれています。ですから、ドロマイトの成分が肥料としても利用されています。さらに、透明感があり、きれいな結晶は、宝石にされることもあります。

・ジンギスカン・
本州では梅雨入りしているようですが、
北海道は、梅雨がありません。
いい気候の時期となります。
そんな天気のいい日の日曜日、
小学校で父兄の作業があり、
校庭の環境整備をしました。
小学校は、森のはずれの田園地帯にあります。
朝、カッコウの鳴き声を聞きながら
多くの父兄が集まり、作業をしました。
お昼は、皆でジンギスカンを食べました。
そしかするとそれが、目当てだったのかもしれませんが。
学校の中庭で、大きなジンギスカン鍋10台を並べて、
大規模なジンギスカン大会をおこないました。
業者にジンギスカンをすべて依頼してましたから、
火付けや片付けもお任せです。
だから、非常に楽しみながらのジンギスカンでした。
もちろん、おいしかったです。

・自分・
長いようで短い5月も終わりました。
5月は、4月のあわただしさと比べて、比較的落ち着いてくるはずです。
ところが私の場合は、
このひと月、いつものようにあわただしく過ぎました。
そんなひと月を振り返った慰め、あるいは言い訳のメモを書いたので、
紹介しましょう。
「何をなしたかは問うまい、振り返るまい。
それは自分が一番知っている。
それに満足感があるかどうかも
自分のみが知ることである。
反省は必要だ。
しかし、反省によって夢を捨てるようなら
反省などしないほうがいい。
反省して、明日からの前進につながればいい。
反省で、つらい思いのみ残るのであれば、
そんな反省はしないほうがいい。
生きていくことは大変だ。
しかし、生きていかねばならない。
そのために、努力をすることを怠ってはならない。
過大なる夢であっても、望むのであれば、
努力し、その結果、破れても後悔すまい。
できそうな希望を望み、
そんが果たせなくとも、悔やむまい。
そんな夢や希望を持ったもの自分。
果たせなかったもの自分。
すべて自分の中の営み。
その営みだけな確かのものである。
それを確かだと思える自分こそが、信ずべきもの。
生きていくということは、
自分自身をどれほど信じるかであろう。
たとえ自分が自分を裏切ったとしても、
自分は自分を許せるか。
夢を果たせなかった自分でも、信じ、
再度、夢を託せられるか。
同じ一生を共にするなら、
頼りない自分であっても、信じるしかない。
いつでも自分からはじまり、いつまでいっても自分である。
もしもそんな一生の相棒の自分が、
期待に応えてくれたら、
大いに褒めてやろう、喜んであげよう。
そんな日が来ることを、根気強く見守っていよう。」