2003年12月25日木曜日

2_27 塩分地獄

(2003年12月25日)
 生命は、地球の思わぬ変化に直面しました。それは、海水の塩分濃度が急激に上がるという事件です。それは、海水のマントルへの逆流という事件に伴って起こったものです、生命は、そんな事件にも対処してきました。

 地球ができたてのころは、岩石もとけてマグマの海ができるほどの高温の状態でした。しかし、地球はその後、ずっと冷え続けてきました。それは、絶対3度という宇宙空間に地球がおかれているためです。地球という暖かい物体が、周りの冷たい空間に熱を放出して冷めているわけです。温度が下がることによって、地球にはさまざなま変化が起こります。
 地球の熱は、対流という作用で地球内部から外に向かって移動します。対流といっても地球の内部は芯が鉄(核と呼ばれているところ)、その周りが岩石からできていますから、鉄が核の中で対流し、その外にある岩石も、鉄からの熱を受けて暖められて、対流します。そして岩石は、地表で熱を放出します。このような岩石の対流を、マントル対流と呼んでいます。岩石も温度と圧力が高いところでは、流れるように移動していくのです。
 マントル対流のいちばん大きな出口が、海底の山脈、海嶺とよばれるところです。海嶺では、海洋地殻がつくられ、そして海洋プレートとして海底を移動してきます。十分に冷えた海洋プレートは、海溝でマントルに沈みこんでいきます。沈み込んだ冷たい岩石は、マントルを冷ますという作用をします。
 地球は冷めてきています。地球ができてすぐのころは、冷めることによってさまざな事件が起こりました。マグマがさめて岩石に変わり、大地ができました。水蒸気がさめて液体の水となり、雨が降り、川ができ、海ができました。
 その後も地球は冷めてきていますが、大きな変化が見られませんでした。しかし、ひとつ大きな事件があったことを、私たちは読み取ることができるようになりました。
 それは、沈み込む海洋地殻の中で起こりました。鉱物には、水を結晶の中に含んでいるもの(含水鉱物といいます)があります。海洋地殻の中にもそんな含水鉱物があります。マグマから海洋地殻ができたときは含水鉱物はできていませんが、海洋底で変成作用を受けると、含水鉱物が形成されます。その水はもちろん海水からもたらされたものです。地球は熱かったときは、海洋地殻の含水鉱物は、海洋地殻がもぐりこむときにはすべて分解されて、抜け出ていました。つまり、海洋地殻が海底で取り込んだ水分は、また、地表に戻っていたのです。ですから、海水には変化はなかったのです。
 地球の温度が冷めてきてきたことで、あるときから変化が起こりました。プレートがもぐりこむとき分解されていた含水鉱物の一部が、分解されずに、マントルまでもぐりこむようなことが起こりはじめたのです。水が、マントルに入り込むということが始まったのです。この事件は、海水のマントルへの逆流と呼ばれています。
 7億5000万年前ころから、含水鉱物がマントルへ入り込み始めたと考えられています。7億5000万年前から5億5000万年前ころにかけて、海水は、じょじょに減っていきました。約2億年間、水の逆流がおこったのです。そしてやがて逆流は平衡に達したと考えられています。もぐりこむ量と海嶺やその他の火山から放出される量が同じ程度になったのです。現在もその平衡状態をたもったままであると考えられています。
 鉱物に含まれる水は、重量にして数パーセントで、岩石にしても0.数パーセントに過ぎません。しかし、海溝は広く、長く、地球は長い時間を活用します。
 海水のマントルへの逆流によって、深さ600m分の海水が、マントルに入ったと考えれます。海水とはいっても、鉱物の中の水分(H2O)として入りますので、塩分は海水の残ります。つまり、海水から水分がなくなると少ししょっぱくなるのです。
 また海水が減れば、陸地が広がります。逆流がはじまるまでは、陸地は地球の表面積の10から20%くらいだったのが、現在の30%くらいにまで広がったと考えられます。広がった大陸地殻では、大河ができ、急激に侵食されはじめます。岩石の中の水に溶けやすい成分が、大河によって海水に加えられます。その結果、海水にとけている成分が急激に変わります。中でも、海水の塩分濃度が大きく変化した考えられています。
 これは、生命にとって由々しき環境変化です。それまで薄かった塩分が、急激に濃くなったのです。すると、細胞の中の水分は、海水と平衡を保つために、抜けていきます。つまり、細胞は脱水症状を起こし、干からびていきます。それは、死を意味します。
 この塩分濃度の変化には、2億年という長い時間がかかります。ですから、生物にも十分な時間を与えられていたのです。時間をかけて、塩分濃度の変化に対応したと考えられます。
 そして、今生きていている生物は、この塩分濃度の海に対応できた生物の子孫なのです。もちろん私たち人類もその仲間です。そして私たちの細胞や血液の塩分濃度も、そのころから現在まで続いている海水の濃度を持っているのです。

・若者の適応・
北海道では、今年は、雪の降る間隔が長いようです。
ですから、札幌のような都会では、ヒートアイランドの影響でしょうか、
道路の雪が溶けてしまって、自転車で走れるようです。
でも、私が住む町外れは、そんなには暖かくありません。
つるつるのスケートリンクのようなアイスバーンになっています。
私は越してきて2度目の冬ですから、こんな道は不慣れで、
おっかなびっくり歩いています。
もちろん地元の人もすべって転んでいます。
しかし、中には、こんな道を平気な人たちもいます。
若者たちです。
私は、早朝、研究室に向かうのですが、
6時過ぎのあだあけていない暗い中、
アイスバーンをこわごわ歩いています。
そんな横を、二人の若者が、冗談交じりの会話しながら
早朝のジョギングをしてました。
特別な靴を履いているわけではありません。
普通のスノトレです。
もちろんすべるのでしょうが、すぐに体勢を立て直せるのでしょう。
アイスバーンをものとせず走っていました。
あるときは、寒さをものともせず、
すべる道をスケートのように滑りながら
学たちは、遊んでいるのです。
私は、すべるのは靴が改良されないからだ、
と技術の進歩が必要だと考えていました。
しかし、なんのことはない、若者たちは、適応していたのです。
与えられた環境を自分の能力だけで乗り切り、
そしてそんな環境を楽しんでたのです。
歳をとるというこは、体力以上に
適応力の衰えを伴うものなのかもしれません。
アイスバーンで走ったり、遊んだりして適応している若者をみて、
将来への明るさを感じました。
それと同時に、自分が適応できない側になっているという失望も感じました。

・ネタ・
さて、この号が今年最後です。
早いものです。
2000年9月20日が第1号の発行です。
それから、3年3ヶ月がたったわけです。
その間、休むこと毎週発刊することができました。
よくネタが尽きないと自分でも不思議ですが、
このメールマガジンを、私は、楽しんで書いています。
地球や宇宙には、いろいろな面白ことがいっぱいあります。
それは、昔の人が発見したことでもあるし、
現在進行中の研究でもあるし、
あるいは、私が思いついたこともあります。
一回の分量もちょうどいいようです。
なにか思いついたことを、一気に書けるからです。
でも、考えてみると、まだまだ書きたいことがいろいろあります。
私自身、地球のことで知らないことも、まだまだたくさんあります。
そして、そんなことを学びながら、私自身研究を続けています。
そんな学びや研究の中から面白いなと思ったことを話題にしています。
ですから、研究に終わりがないように、
このメールマガジンのネタ、話題にも終わりがありません。
もし、終わりがあるとすると、私の能力、
おかれている環境によるものでしょう。
できれば、そんな日の来ることがなく、継続できればと思っています。
でも、こればかりは、予測できません。
環境変化とは、予期できないものです。
願わくは、若者のようにいくばくかの適応能力を
残していることを祈るのみです。
では、最後になりましたが、よいお年をお迎えください。

2003年12月18日木曜日

2_26 酸化地獄

 約20億年前、生命は未曾有の危機に襲われます。地球史上最大の絶滅になったはずです。しかし、その危機を乗り越えた生物は、大きな飛躍をすることになったのです。

 生命の絶滅は、それまで生きていた生物がいなくなることによって、その絶滅の規模が考えられます。絶滅した生物の種類数などの統計によって、その絶滅の程度がわかります。あるいは、その後に出現した新しい生物の種類数でも、絶滅の程度が推定できるかもしれません。しかし、絶滅した生物の種類数も、その後の出現した生物の種類数もわからないときは、絶滅の規模は想定できないのでしょうか。
 そのような情報がなくても、大絶滅があったであろうことが想定できるときがあります。それは、大規模な環境変化があったときです。近年話題に上っている地球環境問題などの比ではなく、とてつもない環境変化が起こった場合です。
 約20億年前、その大異変が起こりました。28億年前に起こった激しいマグマの活動によって、陸地がたくさんできました。それまで地球の表面には、列島程度の大きさの陸地はたくさんあったのですが、あまり面積として多くなかったと考えられています。ところが激しいマグマの活動によって、大陸と呼べるような陸地がいくつもできました。すると、陸地の周辺にはたくさんの浅い海ができました。
 浅い海には、太陽の光が届きます。そんな環境に適応した生物として、光合成をする生物が生まれました。そんな生物がつくった岩石としてストロマトライトというものがあります。ストロマトライトとは、シアノバクテリアがコロニーをつくって住んでいた場所にできた地層のことです。このストロマトライトが20億年ころに大量に見つかります。つまり、浅い海には、光合成をする生物が大繁栄をしたことを意味します。
 光合成生物が大繁栄するということは、大量の酸素が作られるということです。それまで地球上には、酸素がありませんでした。二酸化炭素と窒素を主成分とする大気を持っていました。ですから、海水にも酸素が溶け込んでいませんでした。ところが光合成をする生物の大量発生によって、今までない酸素が大量に海水中に放出されたのです。
 酸素がそれほど多くないときは、環境にそれほど影響はありませんでした。酸素は、海水中に溶け込んでいた鉄のイオンを酸化することによって、消費されていました。鉄イオンがある限り、海水中の酸素はできてすぐに使われてしまうので、それほど増えることありませんでした。しかし、やがて海水中にとけている鉄が使い尽くされるときがきます。その時、大きな環境の変化が訪れます。
 酸素は、生物にとっては有害なものです。体の中に入ると、体の成分が酸化されて別のものになっていきます。そうなると生存ために必要な機能が失われます。もちろん、そんな生物は死んでしまいます。
 海水中に酸素が増えていくということは、今まで海で生きていた生物は、今までの生き方では、もやは生きていけないことを意味します。生き延びていけるのは、酸素を解毒できる生物だけです。一番最初に酸素を克服した生物は、細菌の仲間(好気性細菌)だと考えられています。酸素をうまく解毒し、利用することもできるような生物が誕生したのです。
 あるとき、そんな好気性細菌が他の生物と共生をします。つまり、酸素を苦手とする生物(嫌気性生物)が、自分の体の中に、好気性細菌を取り込みます共生の始まりです。好気性細菌は嫌気性生物の体内の酸素を解毒します。嫌気性生物は住みやすい環境と栄養を好気性細菌に与えます。葉緑素をもつ光合成生物はやがては植物に、葉緑素を持たない生物は動物になっていきます。好気性細菌は、今では細胞内のミトコンドリアとして、多くの生物が持っている組織となっています。
 このような共生関係が果たせなかった生物は、死ぬか、酸素のない限られた環境でしか生きていけません。このような形成関係を結べる生物は少数派だったでしょう。ですから、ほとんどの生物は、この環境変化に耐え切れず、絶滅したはずです。
 酸素の形成は、地球史上もっとも大きな環境変化がおこったのです。それは、酸化地獄とも呼んでいいほどの環境の激変でした。それに伴う絶滅は、地球史上最大のものだと考えられます。20億年前の生物の化石は少なく、種類数も充分把握できていません。ですから、どの程度の大絶滅があったはわかりません。
 酸素を利用しない生物がブドウ糖(1mol)から作り出せるエネルギーは50kcal程度なのに対し、酸素を利用する生物はミトコンドリアの働きによって700kcalものエネルギーを作り出せます。エネルギーで見ると10数倍も効率がよくなったのです。酸化地獄をなんとか生き延びた生物は、その副産物として大きなエネルギー効率を手に入れたのです。私たちの祖先もその生き残り組みでした。生物とは逞しいものです。

2003年12月11日木曜日

2_25 最初の生命

 約38億年前の地層からは、まだ生命は発見されませんでした。では、現在、多くの研究者が認めている最古の生命は、どこにいるでしょうか。そんな話題を紹介しましょう。

 堆積岩が最古の生命探しの重要な素材になります。ですから、38億年前の最古の堆積岩が、最古の生命探しの舞台となりました。でも、今のところ、何度も試みられましたが、まだうまくいっていません。最古の生命とは、どこから見つかったでしょうか。それは、やはり、堆積岩の中でした。それも、いろいろ問題のある堆積岩なのです。
 最古の生命は、西オーストラリアのマーブルバーの西にある約35億年前のダッファー層の中から、発見されました。1978年に、ダンロップ(J.S.R. Dunlop)が、直径数μmの球状の化石を数百個発見を発見しました。化石の形から、シアノバクテリア(藍藻類)と考えられました。
 その中には、2つや4つに細胞分裂しているものも発見されていました。また、同じ地域から、1987年にショップとパッカー(J. W. Schopf & B.M. Packer)が、タワー層とアペックス玄武岩層中のチャートから、球状のコロニーのような化石と繊維状の化石を発見しました。それもシアノバクテリアの化石と考えられました。
 その証拠となったのが、いちばんは形態(細胞)の特徴でした。でも、これは、必要条件ではありますが、これだけでは確実な証拠とはいえません。なぜなら、単細胞の形は単純で、生物の作用でなくも(無機的に)、そのような形のものは、できるかもしれないからです。ただし、細胞分裂しているような形態は非常に重要です。なぜなら、複雑だからです。
 ショップらは、形以外に、化学成分を証拠として示しました。バイオマーカーと呼ばれるものです。
 バイオマーカーとは、生物指標化合物ともよばれます。化学的に安定な炭化水素(炭素と水素の化合物)を、生物の指標として考えようというものです。炭化水素の炭素同位体は、生命起源の研究には、非常に有効であることがわかっています。ですから、この炭化水素という化学成分は、化石であるという証拠として利用できます。ただし、グリーンランドの38億年前のものには、バイオマーカーがみられたのですが、否定されました。それは、無機的にでもできるからです。慎重になるべきです。
 ここの化石は多くの研究者が化石であると認めています。ですから、多分、なんらかの生物であったことは確からしいのです。でも、どんな生物であったかに関しては問題があります。
 ショップらは、シアノバクテリアであるという見解を示しました。それは、形やそのサイズ、地層にストロマトライト状の構造がみえるなどのことから推定したものです。ストロマトライト構造とは、同心円状の縞模様で、シアノバクテリアがつくる構造のことをいいます。
 その化石がシアノバクテリアであるとなると、いくつか重要なことがわかってきます。それは、シアノバクテリアが光合成をする生物だからです。35億年前に光合成する生物がいたということは、生命の誕生はさらに遡ることになります。なぜなら、光合成という作用は、複雑な機能によっておこなわれます。ですから、最初に生まれた生命が、そのような複雑な機能をもっているとは考えられません。もっと単純な機能しかないものから、進化してきたはずです。そのためには時間が必要です。ですから、生命の誕生は35億年前よりさらに昔になるはずなのです。
 その後の日本人の研究者たちが、別の説を出したのです。彼らは、化石産地周辺の地層を非常に詳しく調査しました。そして、地層ができた環境を復元していったのです。すると、地層から復元でされたのは、中央海嶺の熱水噴出口周辺の環境だったのです。
 中央海嶺は海の深いところにあります。深海とは、数1000mの深さの海の底です。そんな深い海底には太陽の光は届きません。ですから、光合成をする生物はいたとしても、住めないのです。ショップらがストロマトライトと呼んだ構造も、層状のチャートの地層とされました。ですから、ショップらのシアノバクテリアの根拠がつぎつぎと崩されていったのです。
 では、いったいどんな生物だったのでしょうか。そこで登場したのが、そんな深海の熱水噴出孔に好んで住む高熱性嫌気性古細菌というものです。いや、そんなところで生きていけるのは、高熱性嫌気性古細菌の仲間だけなのです。そして、そこは、生命誕生の場としてもふさわしいところでもあるのです。
 なぜなら、まだ、当時の地表付近は危険でした。太陽の光は紫外線が強く有害です。海岸付近は、いつ変化するかわからない不安定な場所です。当時の地球で一番安定していて、安全なところは、深海底です。そして、海嶺の熱水噴出孔はエネルギーを大量に発生しているところです。熱水噴出孔からは、栄養もたくさん放出されます。こんなところは、初期のか弱い生物が発生し、暮らし、そしてゆっくりと進化していくにはいいところではありませんか。もちろん今でも、熱水噴出孔では高熱性嫌気性古細菌は暮らしています。
 生命は、誕生間もないか弱いうちから、自分たちにとって一番安全で最適な場所を選んで生きていく能力が備わっていたのです。いやそうしなければ、生き残れなかったのかもしれません。

2003年12月4日木曜日

6_34 科学する心を育む

 私が、北海道に転居して、はや2年が過ぎようとしています。この2年間に、私は北海道の各地を回りました。今までにはない日数を野外調査で過ごすことになりました。そんな野外の自然から感じたことを、最後のエッセイとして綴りましょう。

 野外調査から研究がはじまる地質学では、野外調査に多くの時間を費やします。しかし、多くの研究者は年齢を経るにしたがって、仕事が忙しくなったり、体力も衰えたりして、野外調査の日数が減っていきます。以前の職場では、私がそうでした。年間を通じて野外調査にでることは、海外調査を除くと、年間に数日程度でした。地質学とは自然の中にある地層や岩石を詳しく調べ、試料を採取して、それを室内で詳しく調べていくというもののはです。そんな調査を10年以上おこなってこなかったのです。そんな自分が、自然や地球について市民に語っていたのです。これでは、いけないと強く感じました。
 北海道にきて、私は自然に接することを心がけました。そのひとつの活動として、今まで怠っていた野外での地質調査を再開することにしました。私がいる大学は、文系の大学で、理系の教員も少なく、地質学をおこなっているのは私一人です。大学の理学部でおこなっているような地質調査からはじまる一連の研究をしていては、独創性が発揮できません。そこで、私は、特別な道具がなくてもできる野外調査を中心とした地質学をおこなおうと、テーマの模索を始めました。
 でも、テーマ決定よりも、まず最初にすべきことは、自分自身の自然への回帰でした。北海道の自然によりよく接すること、つまりは自分自身の自然に対するリハビリテーションに1年間を費やしました。北海道でのテーマ探しは、その後のことです。
 そして今年の春から、本格的に野外調査をはじめました。数えてみると、昨年12月から今年の11月末までの1年間で、私は55日間を野外調査に費やしたことになります。この調査時間は、地質学者として多いかどうかわかりません。多分、少なくはないはずです。もっと長時間、野外調査に費やされている方もおられるでしょうし、以前の私のように室内実験を中心にされている方もおられるはずです。なにを目的にするかの違いでもあります。私は、野外調査を研究手段として重視することにしました。
 私の野外調査は、テーマも変わっていますが(あとがきを参照)、やり方も変わっています。多くの研究者は、野外調査にでるとき、一人か、あるいは共同研究者、大学院生、学生などと一緒で、同業者ともいうべき地質学を研究する人と一緒に行きます。以前の私もそうでした。
 多分、自分の家族とともに出かけることは、ほとんどないでしょう。でも、私は、北海道に来てから、個人でおこなう野外調査では、可能限り家族を同伴するようになりました。もちろん、家族が一緒ではだめな野外調査もありますが。
 なぜこのようなことをしているかというと、それは、私の野外調査では家族が一緒でもできるような手法であることもさることながら、子供たちが私の研究していること面白く思えるかどうかを確かめる意味もあったからです。家族同伴の野外調査を昨年の12月から数えてみると、29日になります。この日数は家族サービスにしては度を越えています。家族サービスではなく、家族の言動や反応を観察することも、私の研究だと考えていました。家族の振る舞い、特に子供たちの自然に対する行動、好奇心の持ち方、私の説明に対する反応などを、ちらちらと観察していたのです。
 おかげで我が家の子供たちは、いろいろなところに出かけていきました。今年だけでも、四万十川、石狩川、留萌川、尻別川、後志利別川、沙流川、鵡川、十勝川などで、源流から河口までたどる調査に同行しています。5歳と3歳の男の子ですが、たいていのところへは、一緒についてこれました。次男が無理でも、5歳の長男であれば、たいていところは手を貸せば、崖でも藪の中でもついてこれます。かえって家内のほうが足元のおぼつかないときもあります。
 調査地点につくと、私は予定の調査をはじめます。調査は30分から1時間ほどかかります。その間、子供たちは川原で自由に遊びます。石や砂、泥、水などがあれば、子供たちも家内も楽しく遊んでいます。
 私が求めているのは、これです。知識などなくても、自然の中に連れ出せば、好奇心をいっぱいにして夢中になれるのです。自然は、好奇心を起こさせるもっとも手っ取り早い場であり、素材です。あとは、好奇心を探求する心へどう導くのか、あるいは科学する心を育むにはどうすればいいのか、これらが課題として残ります。これが、私の研究テーマのひとつなのです。
 逆に教えられることも、いろいろあります。十勝川の川原では、十勝石(黒曜石のこと)を探したのですが、見つけたのは私ではなく家内でした。家族は見たこともない石を私から口で説明を受けただけで、探して見つけたのです。これには私も面目をなくしました。実は、私はこのあたりには十勝石が少ないだろうという先入観があったため、家族には探せといっていたのですが、内心では、ないだろうなと思っていたのです。ですから、見つけようとしていないものは、見つかるはずがありません。多くの一生懸命な目でみると非常に稀なものでも見つかるのです。家内が見つけたあと、私も目の色を変えて探したのですが、面目は立ちませんでした。
 先日支笏湖に出かけました。11月中旬だったので、あちこちの道が冬季閉鎖がはじまり、通行禁止になっていました。これは誤算でした。しかし、樽前山はまだ、閉鎖されていませんでした。7合目より少し上の展望台まで子連れで登りました。大きな段差の階段状の登りがしばらく続きましたが、次男も家内、もちろん長男も登ってきました。森林限界を越えたところが展望台です。一気に展望がひろがり、きれいな樽前山やその向こう側の風不死岳の姿、さらに向こうには支笏湖と外輪山の山々が見えました。樽前山はまだ、噴気活動が活発で、火口内には立ち入り禁止です。
 ここから見える山々すべてが火山の活動でできたというと、長男は理解したようです。足元にあるすべての白っぽくて軽い石(軽石)が上に見える火山から飛び出してきたものであること。あちこちに転がっている直径50cm以上もあるような大きな重そうな石(火山弾)も、噴火口から飛んできたということ。そんなことを体感できたようです。さらに、下に見える大きな支笏湖(カルデラ)も火山の噴火でできたというと、驚きをもって実感したようです。カルデラをつくるような火山活動は、今見ているような穏やかな山の姿ではなく、とんでもなく激しいものだということが、見えない過去を想像しながら、理解できたようです。
 子供には地図は理解できません。カルデラの規模や外輪山の規模は、見ることでしか確認できません。でも、目で見たことは、体感的に理解できます。そして、周りの山々がすべて火山で、その中にある大きな湖から、大規模な火山の規模が想像でき、それがとんでもない事件だということを、子供にも理解できるのです。こんな気持ちを育むことが、自然のよき理解へとつながるのではないでしょうか。
 自然という野外でしか見れない素材はインパクトのあるものです。生の自然を自分の目で見て感ることから好奇心が生まれます。そんな好奇心から、深く考えることで、目では見えないけれども、過去に起きた大事件がわかるのだということを身を持って理解できます。誰でも同じような感動や理解が得られるはずです。私は、そんな、感動や理解を与える方法、わかりやすく科学を伝える方法を開発したいと考えています。完成にはまだまだ時間がかかりそうですが、私の目指すべき方向です。
 さて、今回がこの連続エッセイの最終回となります。最後が家族の話なのでどうしようかと思いましたが、樽前山をテーマに書き出だしたら、このような話になりました。でも、この1年間、私が力を入れてきたテーマでもあります。だから親ばかと呼ばれるかもしれませんが、掲載することにしました。
 研究者としてやるべきことには、幅があります。先端の分野を追いかけて成果を上げることも科学です。ひとつの地域、ひとつのテーマを深くじっくりと追求していくことも科学です。市民にわかりやすく自然の面白さを伝えることも科学者の仕事のはずです。科学する心も芽生えさせるのも科学者の仕事です。いろいろな科学の仕事があってもいいはずです。
 研究者は、研究テーマとなっている自然や、それを科学することを面白い思っているはずです。そんな気持ちをより多くの人に伝える機会や場がもっとあっていいはずです。研究の成果だけを専門家間で伝えあうことだけが科学ではないはずです。市民にわかりやすく伝えることも重要なはずです。自然や科学することが面白いと思う気持ちをより多く人に起こしてもらうこと、これを私は重要な研究テーマとして取り組んでいます。
 より多くの人たちが、科学に対して理解してくれれば、その延長線上に、科学のために国の予算が使われていることも納得されるのだと思います。そんな科学への理解がより深まることを願って、このサイトでのエッセイの連載を1年間続けてきました。
 もともと1年間の予定ででもあったし、ERSDACが業務の合間にホームページを作成するもの大変になってきたので、これで区切りといたします。今後、私が衛星画像とどうつきあうかは、自分自身で考えていかねばなりません。その答えはまだ出ていませんが、宇宙からの視点は、興味深いものです。子供が川原の石で好奇心をもつように、私も衛星画像を好奇心いっぱいに眺めていこうと思っています。

2003年11月27日木曜日

2_24 最初の生命探し

 最初の生命探しは、どのようにしておこなわれるのでしょうか。そして、それはうまくいっているのでしょうか。見ていきましょう。

 最古の海の証拠である最古の堆積岩で、もし生命の痕跡が見つかったとすると、生命とは、水が存在する環境であれば、比較的簡単に、あるいは惑星ができて短時間で誕生するということを示す重要な証拠となります。
 太陽系では、火星にも惑星誕生の初期には海があったと考えられます。ですから、水を持つ惑星は他の太陽系でも、案外ありふれた存在なのかもしれません。するとそれは、生命は宇宙では特別なものではなく、ありふれた存在といえるかもしれません。
 誕生した生命が、他の生命や天体に思いを馳せるような人類のような知性をもつにいたるかどうかは、また別の要因があります。たとえば、進化に適した環境が維持されているか、進化に方向性はあるのか、絶滅の危機を乗り越えられるのかなどが複雑に絡み合っています。
 さて、最古の堆積岩での最古の生命探しについてです。
 この堆積岩で生命の発見は、1978年にドイツのフラッグ(H.D. Pflug)がイースト菌のような丸いかたちをしたものを化石として報告したのが最初でした。しかし、その後の研究で、その丸いものは、石英の中にふくまれていた液体の部分(包有物(ほうゆうぶつ)とよばれます)だとわかりました。生命の化石ではなかったのです。
 続いて、ドイツのシドロウスキー(M. Schidlowski)は、最古の堆積岩にふくまれている石墨の炭素同位体組成から、生物起源の炭素であると報告ました。炭素の同位体組成はバイオマーカーと呼ばれ、生物の痕跡を見つけるのに利用されています。しかし、その時報告された炭素同位体の組成は、無機的(生物によらず)に合成できることが証明されました。やはり、生命の証拠が否定されたのです。
 1996年にモージスら(S. J. Mojzsis et al.)が、堆積物の中の丈夫な鉱物(リン酸塩鉱物、アパタイトとよばれるもの)に含まれている炭素同位体組成が、生命活動によるものだと報告しました。しかし、2002年にその岩石が火成岩で、堆積岩でなく、火成岩であることがわかりました。火成岩はマグマからできた岩石です。そんなマグマの中には生物は住めません。ですから、火成岩からどんな証拠がでてきも、それは生物とはみなせません。またまた、否定されたのです。
 見つかったとうい報告の後に、それは間違っているという報告が繰り返しなされてきました。それは重要だから、研究者も真剣に追試するのです。そして、現在のところ、最古の堆積岩に生命の痕跡はまだ、見つかっていません。
 逆にいうと、新しい視点やアイディア、あるいは新しい道具や技術を導入することによって、生物の痕跡が見つかる可能性がでてきたのです。これは、大きなチャンスで、宝物がそこには埋もれていることでもあります。たぶん今後も、グリーンランドの最古の堆積岩では同じような挑戦が繰り返しおこなわれるでしょう。そして、いつの日か、だれものが納得する証拠が見つかるかもしれません。そんな日が来ることを私は楽しみにしてます。

2003年11月20日木曜日

2_23 生命誕生の必然性

 生物は、地球環境の影響を敏感に受けます。そして弱いものは滅び、強いもの、適応性のあるだけが生き延びます。そして生き延びた生物は、ライバルのいなくなった環境で、勢力を広げていきます。生物とはたくましいものです。そんな生物のたくましさをみてきましょう。

 まず、生物誕生の時から話を始めましょう。生命の誕生は、地球誕生のころに遡ります。地球の誕生のころといっても、海が地球にできるようなころの話です。海がいつできたかは、定かではありません。しかし、約38億年前、地球が誕生して、7、8億年後には、りっぱな海がありました。りっぱというのは、広くひろがる今のような海という意味です。
 そんな海が、生命誕生の場となります。なぜ、誕生の場が海なのかという疑問がわきます。可能性として、生命は大気や陸などでも誕生するかもしれません。しかし、現在生きている生命の多くは、海と切っても切れない関係があります。細胞の大部分は水からできてます。また、太古の生物は水の中に住んでいたものばかりです。ですから、水の中で誕生するというストーリーが考えられています。
 もちろんこれは、私たちが知っているのが地球の生物だけだから、水との関係が強いのかもしれません。もっと他の誕生の場があってもいいかもしれません。でも、私たちは、地球の生命以外の生物は知らないのです。いろいろな生物の誕生の可能性が考えられたとしても、地球外生命を見つけない限り、実証する手立てはありません。ですから、現状では、仮説にとどまります。生命の誕生については、地球生命で考えるしか選択しかなさそうです。
 では、水のある星なら、あるいは水があれば、すぐに生命は誕生できるのでしょうか。それとも偶然にしか誕生しないのでしょうか。もし、偶然だとすると地球生命は非常に特殊なものとなります。地球外生命を探すなどということも無駄になってしまうかもしれません。
 その答えはまだ見つかっていません。しかし、見つかる可能性があります。もし、水ができてすぐに生命が誕生したという証拠があれば、生命とは結構簡単に誕生できるという可能性がでてきます。つまり、最古の海の証拠から生物の化石あるいは生物の痕跡を見つければ、海の誕生と生命誕生の必然性の関係が大きくなります。
 地質学者は、最古の堆積岩を手がかりにして、最古の生物化石探しを続けています。その結果については、次回紹介しましょう。

・生命のたくましさをたどるシリーズ。
生命は、ひとつひとつを取り上げてみていくと、
ちょっとした環境の変化が起こると死んでしまいます。
そういう点では、生き物とは、か弱い存在であります。
しかし、生命全体としてみると、なかなかタフな存在となります。
つまり、生命を個々の生き物としてではなく、
生物全体として考えるということです。
地球上でどのような環境の変化が起こっても、
生命は耐え抜いて生きてきました。
それどころか、生命はそんな逆境を生き延びるために会得した新たな能力を、
今度は、自分たちが生きていくときに
すごく有利な能力へと転用していきました。
そんな生命のたくましい生き方をシリーズとしてたどっていきましょう。

2003年11月13日木曜日

1_27 長い時間と子孫たち(2003年11月13日)

 だいぶ以前のことです。ある読者からのメールの一節に「星の寿命って私たち人類と比べるとずっといんですよねー」というのがありました。そのとき私が書いたメールから次のようなエッセイを書きました。

 「星の寿命って私たち人類と比べるとずっといんですよねー」そうなんです。星の寿命は、すごく長いのです。わかっていても、実は、100億年や50億年という時間の流れは、人類にとっては、長すぎます。ですから、多分だれも、実感できないと思います。
 でも、科学者たるもの、わかったふりをします。でも、それは頭でわかっているだけで、実感がなかなか沸かないのも事実です。こんなたとえ話をしましょう。(このたとえは、私が返事のメールで使ったものです)
 人間の1世代を30歳としましょう。30歳で子供を産みます。すべて、30歳で次の世代を一人作るとします。では、その家系で、地球の寿命分の時間(46億年)で生まれた子供の数をすべて足すと、日本の人口より多いでしょうか。少ないでしょうか。どちらでしょう。
 答えは簡単に求められます。30年にひとりの子供が生まれるのですから、
46億年÷30年 = 1億5000万人
です。日本の人口を、1億3000万人とすれば、ほぼ、日本の人口に匹敵します。それくらいの時間が経過しています。すごく大きいでしょう。
 というような、たとえ話をしました。あまりいい例では、なかったでしょうか。
 もうひとつこんなたとえはどうでしょうか。毎日1万円の貯金をしましょう。一生かければ46億円たまるでしょうか。
 これも答えは簡単に求めることができます。80歳まで生きるとしましょう。
 1万円×365日×80年 = 2億9200万円
となります。46億円ためるには、1260年必要となり、一生では到底貯めることができません。
 それくらい、長い時間ということをいいたかったのですが、たとえが、こちらの意図しているとおり伝わるとは限らないのです。
 たとえば、1番目の例で、15歳から30歳まで毎年子供を作れば、一人が一生で15名の子供が作れから、46億年たつと、22億5000万人子供をつくれるのか。もし、3名からスタートすれば、たった3つの家系で人類全部がつくれるのか。などというイメージがつぎつぎと膨らんでいくこともあります。2番目の例では、1万円ずつ毎日ためれば、一生で3億円貯められるのかという印象を抱く人もいるかもしれません。
 すると、伝えたい数値が、どこかへいってしまい、3名とか、22億、3億などの別の数値が頭に残ってしまいます。これでは、いけません。困ったことになります。
 このようにたとえによって、違ったイメージが植えつけられるとこまるので、それくらいなら正確な数字を用いればいいのという当たり前の結論に達します。
 問題を生じやすいのは、この例では、人ととか、お金とかをたとえにしました。すると、時間の流れを、別の価値観のある数に置き換えてしまっています。これが問題を生む危険性があります。時間を別の次元や価値観の数字に置き換えているようなときは、注意が必要です。
 よく使われるたとえで、地球46億年の歴史を1日、あるいは1年にたとえると、というようなことがります。これは、親しみのない時間を、別の身近な時間に置き換えて、特に、人類の歴史の少なさを実感させるためにたとえとして利用されています。これはこれでよくできた、たとえでしょう。でもそれは、時間が短いということだけに、専念したためです。
 しかし、大晦日に人類が生まれたと、大晦日の12時直前に生まれたというようなたとえでは、伝えたいの数値であれば、このような似た性質のたとえは、誤解を招きやすくなります。
 さらに、たとえでは、日本の人口を多い、人類の歴史を短いという意味を持たせました。このイメージが多くの人が共通に持つものでないといいたとえとはいえません。人口が1億じゃ少ないと思う人、1年の大晦日の夜や、数秒が短いと思えない人がいれば、このたとえは通じません。
 つまり、たとえはしょせんたとえで、あるイメージを抱かせるためにもので、正確にはやはり数値があるなら数値で示すべきでしょう。特に重要なことを伝えるためには、たとえには注意が必要です。

2003年11月6日木曜日

6_33 それぞれの境界:KT境界

 平らな畑の先に、断崖絶壁があります。すとんと切ったような大地の切れ目が、あまりにも唐突にあります。断崖は数十メートルの落差があります。その断崖の先は、海です。そんな断崖に地球の大異変が記録されていました。

 デンマークは、スカンジナ半島にむかって突き出した形のユトランド半島といくつかの島からなっています。東にある大きな島、シェラン島には、首都のコペンハーゲンがあります。コペンハーゲンの南へ、車で2、3時間ほど走るとスティーブンクリント海岸というところがあります。
 スティーブンクリント海岸は、ささやか観光地ですが、観光客がバスで乗りつけるようなところでもありません。ほとんど人の来ないひっそりとした観光地です。そこは、小さな教会が一つ、小さな博物館が一つ、レストランが一つだけの、ささやかなものです。
 私が訪れたのは、2000年7月の夏でした。2日間いたのですが、観光客はぽつりぽつとしかみかけませんでした。スクールバスで、子供たちが乗りつけ、その周辺を散策して、断崖の下の海岸におりて、そんなに広くない海辺で遊んでいました。ここには、海岸におりるための階段が作られているのです。でも、泳ぐ人は、見当たりしません。もっとも、岩がごろごろした海岸なので、泳ぐことはできそうにありませんし、何といっても寒かったのです。ダイビングをする2人連れをみかけましたが、寒むそうでした。
 こんなとりたてて見るべきもののなさそうなところに、なぜ来たかというと、海岸へ降りるところにある1枚の色あせた看板が、その理由を物語っています。じつは、ここには、KT境界があるのです。
 KT境界とは、白亜紀と第三紀の時代境界、あるいは中生代と新生代の境界ともいえます。KT境界では、恐竜の絶滅が起こっています。その時代の境界は、各地にあるのですが、ここでみられる境界は明瞭で、だれもがその境界を簡単に見つけて、みることができます。
 境界の上下の地層は、チョークと呼ばれる白っぽい岩石からできていて、時代境界のところだけ、黒っぽい粘土からできています。ですから、色がはっきりと違うので、だれでも見分けられます。
 チョークは、黒板に字を書くチョークの原料で、かつては黒板用に本物の岩石が用いられていましたが、今ではチョークも工業的につくられています。チョークとは、日本語で、白亜(はくあ)とも呼ばれています。まさに白亜紀の白亜です。チョークは石灰質の泥が固まったものです。石灰質の泥とは、海の有孔虫やココリスなどの微生物の遺骸が海底にまたったものです。チョークは暖かい海でたまってできるものです。このような白亜の崖は、北アメリカ大陸やヨーロッパの大西洋岸に広がっています。
 でも考えると不思議なことです。時代境界の上下が同じ石なのに、時代境界だけが違う石でできているのです。つまり、白亜紀の終わりも第三紀の初めのころも、同じようなチョークがたまる暖かい海であったのが、白亜紀と第三紀の時代の境界だけが、違う石がたまる環境となったということです。つまり、何らかの環境変化があったということです。その環境変化によって、恐竜絶滅がおこったのです。
 では、その環境変化は、なぜ起こったのでしょうか。環境変化は、一般には、寒冷化や温暖化などの地球全体の気候変動、あるいは、プレートテクトニクスなどによって、大陸の位置や配置、地形が変わることによっておこります。しかし、そのような環境変化は、ある日突然訪れるのではなく、ゆっくりと何万年もかけて起こる変化です。そのようなゆっくりとした変化なら、多くの生物が絶滅したとしても、ある種類の生物はそんな環境の変化に対応して、進化していくものもでてくるはずです。でも、白亜紀末には、多くの生物が、突如として、姿を消したのです。つまり、この環境変化は、生物に進化する余裕もあたえず、おこったものだと考えられます。
 それは変化というのではなく、突如起こった異変ともいうべき、突然の出来事だったはずです。その異変は、隕石の衝突によるものだと考えられています。直径10kmほどの隕石が、中部アメリカのユカンタン半島に落ちたと考えられています。その時の事件のシナリオはいろいろなものが考えられていますが、概略としては次のようなものです。
 隕石がぶつかった直後は、ものすごい衝撃波や熱が走り抜けます。これは巨大な爆発と同じことが起こります。爆発によって、周辺の生き物は焼く尽くされてしまいます。しかし、その被害は爆心地周辺だけです。問題は、そのあとです。巨大津波、大気の上空まで舞上がる埃やすすなど、私たち人類が経験もしたことのない、想像を絶するような異変です。
 世界中の低地は津波に洗われます。なにより問題は、大気上空に舞い上がった埃やすすです。地表には光が届かないほど、多くの埃が成層圏に上がり、何年も落ちることなく、地表を真っ暗にします。光のないところでは、光合成をしていた植物は死に絶え、草食の生物は餌がなくなり死に、肉食の生物も死にます。そして、他の生物の死骸を分解していた生物も死にます。つまり、地球全体の生態系がつぶれてしまうのです。特に大型の恐竜のような生物は、絶滅してしまいます。また、海洋の微生物にもその影響は及びます。
 こんな大異変がチョークの間の粘土層には記録されています。粘土層ができたのは、チョークのもととなる海の生き物が死に絶えたからです。それまでも、粘土の成分の堆積はあったのですが、チョークの量の多さに隠れて、存在がわからなかったのが、チョークが堆積できなくなったことによって、粘土層として現れてきたのです。
 世界中のKT境界の地層を調べていくと、隕石から由来した粒や、イリジウムという地表の岩石にはほとんど含まれず隕石にはたくさんある元素や、衝撃でつぶされた鉱物、飛び散ったすすなどが含まれていることがわかってきました。これらは、すべて隕石の衝突を物語る証拠とされています。
 ところが、生き残った生物もいました。それが、私たちの祖先の哺乳類であり、粘土層より上のチョークを作った微生物であります。生物は弱さと強さの両面を持っています。ある過酷な環境が訪れた時、それに耐えられないものは絶滅し、それを耐えにいた生物は後に大繁栄できます。生き抜いた微生物は、やがて暖かい海で再びチョークを作れるほどに大繁栄しました。哺乳類も新生代には大繁栄し、KT境界の大絶滅を考えるような生物、ヒトが誕生しました。
 スティーブンクリント海岸の色あせた看板には、KT境界がここで見られるという説明があり、小さい博物館では、KT境界についての説明がされていました。観光客は小さな教会を訪れ、子供たちは海と陸の境界に遊びます。私は過ぎ去ったKTの時代境界に思いをはせました。

2003年10月30日木曜日

5_27 宇宙の昔鏡

 私たちには、「現在」しか感じられません。「過去」は、現在に残された記録や記憶でしか、見ることができないのです。でも、これは本当でしょうか。

 宇宙は広大です。どれほど広大かというと、この世で一番速いとされる光でも、届くのに長い時間がかかります。光は1秒間に30万キロメートルも進みます。秒速30万キロメートルとは、1秒間で地球を7.5周してしまうほどのスピードです。とてつもないスピードのように見えます。
 ところが、宇宙は広大です。たとえば月までの距離を考えると、月の光は、月の表面を発った光は、1.28秒前のものになります。このように考えていくと、太陽系から遠く離れた星の光は、はるか昔にその星をでたことになります。宇宙が広大であることは、「宇宙では、過去がみている」という意味でもあります。逆に言うと、「今」「現在」などというものが存在するのは、宇宙では、局所でしか起こらない現象なのかもしれません。
 さて、この広大な宇宙を利用して、思考実験をして見ましょう。思考実験とは、現実にはできないけれど、頭の中で考えて実験してみるという方法のことです。
 地球を映す鏡が、宇宙空間あるとしましょう。これを「宇宙の昔鏡」とよびましょう。さらに、どんなに遠くにその「宇宙の昔鏡」があっても、その鏡に映った像を、地球から観測できる高性能の望遠鏡があるとします。
 さて、この「宇宙の昔鏡」が月の表面にあるとしましょう。そこに映った地球の像は、月までの距離を光が往復するに要する時間、つまり、1.28秒かける2で、2.56秒前の地球の姿を見ることになります。
 この「宇宙の昔鏡」をずーっと遠くにまで持っていくと、光がそこに届くのに時間がさらにかかることになります。そのために、地球から、遠くの「宇宙の昔鏡」をみると、光が往復にかかった時間だけ、昔の地球の像を見ることになります。もし鏡が1億光年のかなたにあるとすると、その像を地球から見ると、2億年前の地球の様子が映っていることになります。人がタイムトラベルをすることはできないのですが、過去の姿はこの原理によって見ることができるのです。
 「宇宙の昔鏡」は、宇宙が非常に大きいので、「宇宙だけは、過去を直接みることができる例外的なもの」と考えることができます。でも、よく考えると、宇宙というものは大きいし、私たち自身が宇宙の一部に過ぎません。ですから、例外という扱いは、おかしいのかもしれません。私たちが、小さすぎて、例外的な、局所的な見方しかできないのかもしれません。
 「宇宙の昔鏡」は、私たちが宇宙と比べると、あまりにもちっぽけであることを、教えてくれているのです。

・ネタ・
実は、この「宇宙の昔鏡」というのは私がつけたものですが、
このアイディアは昔、本で読んだような気がするのですが、
定かでありません。
もし、だれかがこの考えをどこかで述べたのであるなら、
その人のオリジナリティを尊重します。
しかし、定かでないので、
私が、かなり勝手に考えたものでもあります。

2003年10月23日木曜日

5_26 石は、なぜ硬くなるのか

 ある人から、質問を受けました。深海にたまった微生物の死骸がチャートという硬い岩石になるのですが、それのプロセスがわからないという質問でした。この質問に答えたものから、このエッセイは生まれました。

 素朴な疑問がよくあります。でも、その素朴な疑問を解き明かすには、さまざなま知識の積み重ねが必要となることもあります。堆積物が、なぜ、硬い石、堆積岩になるかということを考えてみましょう。
 チャートは、プランクトンの死骸が集まり、固まってできたものです。プランクトンの死骸のような一見軽い堆積物には浮力が働いてるため、大きな圧力を受けないのでは、と思ってしまいます。しかし、プランクトンが海底に沈んでくる時点で、まず、海水の浮力に質量が勝っているはずです。
 水の密度1g/cm3に対して、プランクトンの遺骸の原料でもあり、チャートを構成する鉱物でもある石英の密度は、2.6 g/cm3ほどあります。プランクトンの遺骸の原料である石は、実は重いのです。ですから、大量に上に積み重なるっていくと、どんどん圧力は大きくなっていきます。
 チャートのもととなる堆積物は、生物の遺骸(石英)プラス水の密度です。つまり、密度は、1から2.6g/cm3の間ですが、上からの圧力によって、圧縮されることで上に水が抜けていきます。これにより堆積物の密度は、より大きくなっていきます。このようにしてプランクトンの遺骸には圧力がかかり、圧縮されていきます。
 岩石になる時には、圧力だけでなく、温度の効果も加わります。
 冷たい海底では、温度は4℃くらいしかありません。なぜ、こんな冷たい海底で温度が加わるのでしょうか。
 岩石は堆積物は断熱効果を持っています。
 陸地での地表の温度を考えると、けっこう温度変化は激しいものです。しかし、地下では地表の気温変化をあまり受けず、年中一定の温度になっています。これは、岩石が地表の気温変化に対して断熱効果が働らいてるからです。つまり、地下に暖かいものがあると、海水が冷たくてもなかなか冷めないということです。
 そんな条件を持っているところに加えて、地球内部からの熱の供給があるのです。つまり、チャートには、圧力が上がるだけでなく、温度も上がっていくという仕組みがあります。地下深くなるにつれて、地殻の温度が上がっていきます。このような効果を地温勾配と呼んでいます。地表付近で地温勾配は、20から30℃/km程度です。それは、地球自身が持っている熱によるものです。堆積岩はそれほど高温にはなりませんが、熱と圧力によって、長い時間をかけて固まっていきます。
 長い時間を経るにしたがって、岩石は一般に圧力と温度が上がるおかげで硬くなっていきます。岩石の固まりぐわいをあらわす方法はいくつかありますが、そのひとつに空隙率というものがあります。空隙率とは隙間の多さのことです。深く埋もれた岩石ほど空隙率は小さくなります。
 日本の岩石でみますと、たまり始めの堆積物は、60から85%ほどの空隙率ですが、1000メートルの深さに埋もれると30%、2000メートルでは20%以下になります。深くに埋もれている堆積岩からは、いまだに水がしぼり出されていることになります。堆積岩が海でたまったものなら、しぼり出される水は、海水です。
 火山のない地帯に温泉がでることがありますが、そのような場合、深いところにある堆積岩からしぼり出された水から由来しているものです。そんな温泉は、地温勾配によって温度が上がったものです。そしてもし、その堆積岩は海底でたまったものなら、温泉は食塩泉つまり海水となります。このような水を古海水と呼ぶことがあります。その古海水は、堆積岩がたまった時代の海水です。食塩泉の温泉につかるということは、古い時代の海水につかるということでもあります。そんなことを考えて温泉に入ってみてはいかがでしょうか。

・素朴な疑問・
素朴な疑問は、以前、シリーズで行ないました。
今回もそんな素朴な疑問でした。
当たり前に思っていることも、考えるとよくわからなかったり、
答えを出すのにいろいろな知識が必要だったり、
その答えは思わぬことを教えてくれたりします。
今回の素朴な疑問も、そんな例でした。
私自身、いろいろなことの関連に気づくという意味でも
なかなか面白いものです。
こんな内容も、これからも時々書いていこうと思います。

・子供から教わる・
ちょっと親ばかになりそうで心配ですが、そんな話をします。
以前、長男(5歳)がカタカナを知らないうちに
覚えていたので驚いた話です。
ひらかなは、教え、書く練習をさせたことがあったのですが、
根気が続かないようなので、
「嫌だったら練習はしなくてもいいよ」というと、
その通りに、ほとんど字を書く練習はしていませんでした。
でも、ひらかなは、つまりながらも
だいぶ読めるようになってきていました。
ときどきカタカナがあると
「まだ、カタカナは知らないから読めないよ」っていいながら
読んで聞かせると、一部おほえているようでしたが、まだまだでした。
しかし、ある時突然、長男がカタカナを読み出したのです。
家内が、車で長男を幼稚園まで迎えに行ったら、
前に止まっている車のボディでカタカナで書かれた文字を、
突然、読んだのです。
その理由を家内が突き止めました。
我が家では、長男がひらかなを覚えるために、
冷蔵庫にひらかなの絵付の表がはってあります。
シールを一杯張っていたり、端っこを次男が破ったりで、
もうぼろぼろですが、テープやシールで補修しながらも、
かろうじて文字が読める状態のものです。
長男がしょっちゅうそこで声を上げて文字を読んでいました。
てっきりひらかなの読む練習をしていたと思っていましたが、
よく見ると、その表には小さな字で
カタカナも書いてあることに、家内が気づきました。
ひらかなと絵を頼りにカタカナを覚えたようです。
人間は興味をもつと、知らず知らずのうちに独習できるのです。
無理に覚えさせようとすると、なかなか覚えられませんが、
「まだ読めないよ」といっていると、それに反発してでしょうか、
独習していたのです。
親ばかではなく、人間の能力のすごさには驚かされました。
大人も見習わなければなりません。
大人はついつい、条件や環境を重視します。
道具がないと始められないとか、
指導者いなとできなとか、
教科書がないと何からはじめていいかわからないとか、
みんなが見ていると恥ずかしいとか、
あれやこれや理由をつけ、
はじめもしないことがいかに多いことでしょうか。
好奇心、興味に任せて、こつこつと
好きなところからはじめればいいではないでしょうか。
それがいちばんの上達の道かもしれません。
子供から学ぶことの基本を教わったような気がしました。

2003年10月16日木曜日

4_40 生の自然:留萌

 夏の終わりに、留萌川の調査に1泊2日で出かけました。もちろん宿泊は、温泉です。ただし、留萌には温泉が神居岩温泉しかありませんでしたので、他の選択肢はありませんでした。

北海道、札幌から80kmほど北に、日本海側に面して暑寒別岳(1491m)を主峰とする山塊があります。山塊の北西の海側には、留萌市があります。山塊の西側を巡る国道231号線は、断崖絶壁の険しい道です。
そんな海岸沿いの道路に一番奥まった雄冬は、陸の孤島でした。まともな道路がなく、船でしか往来ができないようなところでした。いまでも海岸線沿いの道路は崩落危険箇所でもあり、雪や雨、風が強いと通行止めになります。
切り立った断崖絶壁は、地質学者には、じつは、喜ばしいところなのです。なぜなら、断崖絶壁は、岩石や地層が良く見えるところだからです。地質学者には、なかなか見ごたえがある景色となっています。暑寒別の山塊は火山でできています。ですから海岸線の露頭では、溶岩がつくるいろいろな構造や、溶岩が海に入ったときできる構造が見ることができます。
溶岩の構造としては、節理(せつり)というものがいろいろみられます。節理とは、マグマが固まるとき体積が少し減ります。すると溶岩は縮むときに割れ目ができます。このような割れ目を節理とよんでいます。その節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまなものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっている柱状節理、放射状になっている放射状節理などがみれます。
溶岩が海に入ったときできる構造は、特有のなものがあります。マグマが海水に入ると、急激に冷やされるので、割れてしまいます。壊れたものが集まった岩石ができます。マグマは急激に冷えてしまうので、ほどんど結晶もできる余裕もなく、固まってしまいます。このような溶岩をハイアロクラスタイト(hyaloclastite)と呼んでいます。ハイアロ(hyalo)とはガラス、クラスト(clast)とは壊れたという意味で、最後のアイト(ite)と石につける接尾語です。
マグマが急令されても、壊れることなく丸い枕のようになって固まることがあります。でもあとからマグマが押し出してくると、枕状の溶岩が一部に穴が開き、次の枕ができます。これが積み重なったような溶岩もできます。これを枕状溶岩といいます。
ハイアロクラスタイトや枕状溶岩は、火山の噴出物でも海中でできる特殊なものですが、海洋底の岩石の調査が進むにつれて、その様子が良くわかるようになってきました。そして特別なものではなく、陸地にも過去の海底の岩石が持ち上げられたオフィオライトと呼ばれるものにも、たくさんあることがわかってきました。
人を長く拒絶してきた自然は荒々しいものでしたが、そのおかげで、生の自然を目の当たりにすることができました。そして、そんな自然に戦ってきた人の営みを、小さな村々に感じることができました。

・川の調査・
今年も、旅シリーズが続いています。
これは北海道の地質学者にとっては、宿命とも言うべきことです。
しょうがないことなのです。
夏しか調査できないのですから。
そして処理しきれないほどの資料が研究室に積みあげられていきます。
これは、調査には出れない雪の季節に、こつこつと処理していきます。
私の研究テーマは、北海道の川と火山です。
地質学的資料として、川では、石ころ(転石といいます)と砂を採集します。
石ころは、統計処理できるように50cm四方の枠内で
大きいものから順に、100個の石ころを拾い集めます。
北海道の一級河川河川は13個あります。
それを3年ほどで調査し、画像付のデータベースをつくろうと考えています。
火山では岩石資料を採集します。
北海道には100座ほどの火山があります。
できれば、その火山を何とか調査したいと考えています。
これには、時間がかかりそうなので、
慌てないことにしています。
もちろん、どこでも大量の写真を撮影します。
砂は、いたるところで採集します。
また、北海道の川と比較するために、
日本各地の代表的河川の調査をしています。
などなど出かけなければならないところが一杯あります。
でも、一応予定を立てて出かけていますので、
川の調査は、3年ほどで終了するつもりです。
夏にはお付き合い願います。

・留萌川・
留萌川は北海道の一級河川でもいちばん小さいものです。
長さ(幹川流路延長)が44kmで、流域面積でも270平方kmしかありません。
ちなみに北海道でいちばん大きな河川は、
石狩川で、長さ268km、流域面積14,330平方kmです。
こんな小さな川ですが、護岸がいたるところになされて、
自然の川の面影をもはや見ることはできません。
一級河川ともなる資金が導入され、下流の町の安全を守るために、
治水がなされていくようです。
少し、驚かされました。

2003年10月9日木曜日

6_32 大地の造形、海中ハイウェイ

 コバルトブルーの海の上を延々と続くハイウェイ。そんな道を車で走る爽快さは、車が特別好きでない人もきっと感じるはずです。海と空の境界を切り裂きながら走り抜けているような気がして、気持ちのいいものでした。でも、この海上ハイウェイは、私に多様な大地の世界があることを、気づかせてくれました。

 私は、アメリカ合衆国の国立公園が好きで、機会があれば訪れることにしてます。1996年4月にフロリダ半島のケープカナベラルにあるNASAのケネディ宇宙センターを見学に行きました。その時、半島の南にあるエバーグレイズ国立公園とビスケーン国立公園を見学に行きました。さらに、足を延ばして、1日、キーウエスト(Keywest)を訪れました。
 フロリダキーズ(Florida Keys)と呼ばれる島並みを縫うように、U.S.ハイウェイ、ルート1が、フロリダ半島から先端のキーウエストまで続いています。島並みの中ほどにマラソンという町があり、そこから先へは、映画やCMで見かける7マイルズブリッジがあります。7マイルズブリッジは、アップダウンがあり、カーブもあるため、海の上の走っているような爽快な気分になります。
 キーウエストは、ルート1の尽きるところでもあります。キーウエストには、アメリカ本土の最南端(Southern Most Point)があります。本当の最南端は軍の基地がありますので、一般人は入れませんし、さらに先にも島々が続いています。
 ここから、約150kmほど南にキューバがあります。ここまでくると、私には聞きなれないスペイン語が多く聞こえてくるようになります。そんな南の果ての異国情緒のあふれるキーウエストを、文豪ヘミングウェイは愛し、8年間、家族と暮らした家が今では博物館となっています。
 フロリダ半島は、湿地帯であります。湿地帯も多様な環境があります。例えば、湿地帯の中に丸く小さな丘がこんもりとあります。そんなところには木が生えています。湿地の植物がぎっしと支配しているなかに、そんな島のような小さな森があります。植物と共存して、湿地に適応できる動物もすんでいます。なかでも、野生のワニはなかなか迫力がありました。
 こんな平坦な湿地帯では、岩石や地層をみることはむつかしいものです。しかし、私は、たまたま道路際で、電柱を立てるための工事現場で穴を見つけました。そこを覗いてみると、貝がらだけからできている岩石がありました。岩石というより固まりかけの礫が集まったようなものでありました。強く触るとくずれそうなもろいものでした。また、フロリダキーズの島では、マングローブの隙間や海岸に、死んでしまったサンゴが石ころとしてたくさん転がっていました。
 フロリダ半島からフロリダキーズまでは、浅瀬で堆積物を運ぶ大きな川もなく、貝殻やサンゴくらいしか硬いものがない地域なので、そのようなものが、岩石のもととなるのでしょう。でも、土砂からできている堆積岩しかみかけない私にとっては、ちょっと不思議な気がしました。
 私は、降雨量の多い温帯の火山地帯である日本列島に住んでいます。このような環境では、火山岩や山を構成する各種の岩石を起源とする土砂が、川によって海に運ばれ、堆積します。堆積物はやがて堆積岩となり、その一部は、大地になります。そんなことが繰り返し起こっているところが日本列島です。ですから、堆積岩というと土砂が固まったものというイメージが、日本ではできてしまいます。これは、日本人の常識、あるいは先入観というべきものです。
 日本での堆積岩の常識は、あまりにも局所的で、小さいものです。地球はもっと広く、多様なのです。フロリダキーズの石ころは、私にそんなことを気づかせてくれました。
 さらにもう一つ、大切なことをフロリダキーズは、私に気づかせてくれました。
 フロリダキーズやキーウエストで使われてているキーとは、フロリダのこの地域でよく使われている言葉で、サンゴ礁のことを意味します。スペイン語のcayoから由来しています。
 フロリダキーズは、北東に位置するビスケーン湾から、南西のキーウエストまで、弧状に、200kmほども続くサンゴ礁の島のつらなりです。サンゴ礁は浅瀬にできます。ですから、フロリダキーズは、もともと深い海ではなく、弧状にのびる浅瀬に形成された島なみなのです。
 衛星画像や海底地形図を見ると、そのようすをみることができます。浅い海底の地形が連続していて、フロリダキーズはフロリダ半島の延長として大地が続いていることがよくわかります。フロリダ半島は、湿地ですが陸地として海上に恒常的に顔を出しています。いっぽう、フロリダキーズでは、陸地に顔を出している部分は点々として少ないですが、海底地形を見ると、大地が続いているのです。
 フロリダ半島もフロリダキーズも一連の地形的高まりがあり、半島では、湿地帯となり、先端では海の要素が強いサンゴ礁の島の連なりとなっています。つまり、海底にも大地のハイウェイがあったのです。
 人のつくった車数台分の幅の狭いハイウェイより、もっと長く太いハイウェイが、フロリダ半島の先にはあったのです。大地は巨大な造形を、人より先につくっていたのです。人の造形は、人のサイズでしかありません。でも、大地の造形は、そのスケールが違っていました。そんな雄大さをフロリダキーズは気づかせてくれました。
 フロリダキーズ、大地と海の境界に位置するところです。その隙間に人間は分け入っています。でもそれは、もしかすると、ささやかものなのかもしれません。でもそんなささやかな進入にも、私に、爽快感を与えてくれたのです。大地の大きさに比べて、人間のスケールの小ささも感じさせてくれました。

2003年10月2日木曜日

4_39 実物と歴史の重み:ロンドンにて

 今回のイギリスへの旅でも、最後はロンドンでした。3日間ロンドンを見学しましたが、その大部分を大英自然史博物館で過ごしました。そこで感じたことを述べましょう。


 前回の滞在では、大英博物館だけを見ていました。ですから、今回のロンドン滞在では、いろいろなところを見て回ろうと当初は考えていました。しかし、思い直して、ひとつのところをしっかりと見たほうがいいのではないかと思い、大英自然史博物館をみることにしました。
 自然史博物館は、大英博物館が手狭になったので、1880年に現在の場所に移転してきました。現在の建物も立派で巨大ですが、今では手狭になったことと、展示を更新するために、改修、増築がされています。新しくなって、Life GalleriesとEarth Galleriesができ、Earth Galleriesは全く新しい展示となっています。まだ、改修や増築は続いています。
 Earth Galleriesは、現代風の展示手法をつかっています。ストーリーを重視した展示で、子供たちへの教育的目的が強く出ています。Life Galleriesでは、従来の展示手法をそのままにして、コーナーごとに新しい展示をつくっています。環境の展示や人体の展示など、実物より解説やストーリーを中心に、映像や装置を駆使して展示をしています。
 Life Galleriesには、鉱物や化石、生物の昔ながらの展示室が残っています。いわゆる分類展示です。また、樹齢1300年のメタセコイヤの巨大な輪切りやゾウやキリン、クジラの骨格や実寸模型まで、所狭しと昔風のコレクションの展示がおいてあります。その歴史と物量に圧倒されます。
 鉱物の研究者に、スタンレイ氏(C. J. Dtanley)にバックヤードである研究室や実験室を見せてもらいました。そのときに新しい展示室は展示業者が考えたのだといってました。よく聞くと、新しい展示場は暗すぎるし、ディズニーランドのようだと批判的でした。展示を作る人と資料を管理している人、研究者がそれぞれ考えが違うのだともいってました。
 私は以前、博物館に勤めていたのですが、そこでも似たような悩みがありました。いずこも同じような悩みを抱えているようです。
 今まで、大英自然史博物館は、金銭的なことは気にしなくても本来の博物館の業務に専念できました。でもこれからは、国民への還元、普及、教育など重視し、なおかつそれをアピールしなければならないようです。研究者は研究をしていればいいという時代ではなくなってきたのです。市民や企業からの献金やスポンサーなど求めることも重要になってきています。実際にEarth Galleriesの宝石やきれいな鉱物展示のスポンサーには、デビアスというダイヤモンド関連の会社が大きな貢献をしています。
 大英自然史博物館は、いま大きな変貌の時期にさしかかっています。100年以上にわたってつづけてきた自然史博物館の展示手法が変わりつつあります。多分今は模索の時期ではないでしょうか。アメリカ的(デズニー的)あるいは日本的(イベント的)な展示がイギリスの博物館が一番いいやり方なのでしょうか。大英博物館は従来の物量による展示で、いまだに、多くの集客をしています。さて、大英自然史博物館はこれからどうなっていくのでしょうか。
 ひとつ面白いことがありました。美術の大学生でしょうか。博物館内で科学イラストのためでしょうか、いたるところで座り込んスケッチをしています。スケッチをしている場所は、すべての学生は、古い昔ながらの展示室の標本でした。一方、Earth GalleriesやLife Galleriesの新しい展示室ではだれも見かけませんでした。これは、重要な意味あることなのかどうかわかりませんが、なにかを暗示しているような気がしたのは、考え過ぎでしょうか。

・ダーウィンセンター・
ダーウィンセンターとは、大英自然史博物館にある収蔵庫です。
収蔵庫をガラス張りに、作業風景を見せています。
現在完成している収蔵システムは液浸のためものです。
8階建ての建物です。
同じ規模の収蔵庫を、植物と昆虫のために
2007年に完成予定で建てているそうです。
そして、ダーウィンセンターのもうひとつの重要な役割は、
1階の一角に研究者がライブで一般向けに講義を行うことです。
映像装置は整備されています。
専属のスタッフが3名ついて運営しています。
4つの大きなスクリーンを管理する人、
カメラマン、そして司会者の3名です。
これはすばらしいアイディアとだと思います。
300人からの研究者が自然史博物館にはいるのですから、
1年に一度その講義のノルマをこなせば、
毎日の講義が実現します。
これは、すばらしいことです。
毎日、自然史に関する研究者の講義が、
ここでは、無料で行われているのです。

・インベスティゲイション・
学校と一般向きに科学教育をする部屋があります。
博物館の地下の一角にありました。
午前中は3回、学校向けに予約制でおこなっており、
午後からは一般の人向けに予約で利用できるようにしています。
実物資料をトレイに数個入れたものが100ほどあります。
それぞれのトレイは、関連のあるものが入っています。
岩石、鉱物、化石や動植物などあります。
そして、それを自分たちで調べていく仕組みです。
トレイのほかに屋外には、植物が植えてあります。
計測する道具、拡大する道具などを使って、いろいろ調べていきます。
コンピュータを使って名前を決めていったり、
関連の資料を調べたり、
展示場の展示とリンクさせたりしています。
なかなか工夫されているものです。

・アースラボ・
Earth Galleriesには、アースラボというところがあります。
そこでは、イギリスの地質に関する情報や質問などを受けています。
一般の人が自由に利用することができます。
イギリスの代表的な化石、岩石、鉱物の標本が展示されています。
また、地質に関する文献も充実しています。
また、地質学者が常駐していますので、
即座に疑問に答えてくれます。
地質だけにこれだけの勢力を裂いているのというのは
すばらしいことです。
そして、設備や資料もなかなか充実しています。
日本でもまねしてもらいたいのですが、
大英自然史博物館だからできることなのかもしれません。

2003年9月25日木曜日

4_38 スレートの屋根の町で:北ウェールズにて

 イギリスのウェールズの北部に調査に行ってきました。北ウェールズの海岸線にそって、カンブリア山脈があります。その名が示すとおり、カンブリア山脈には、古生代のカンブリア紀からはじまる古生代の地層が分布しています。そんなカンブリア山脈のあるウェールズで感じたことを紹介します。


 北ウェールズに広がっている古生代の地層は、カレドニア(Caledonia)造山運動という一連の運動によって形成されました。カレドニア造山運動とは、イアペタス(Iapetus)という海が、プレートの沈み込みによってなくなるときできた、陸地です。もちろん、大西洋ができるもっと前の時代です。
 ヨーロッパでは、古生代の造山運動には、古生代前期のカレドニア造山運動と、古生代後期のバリスカン造山運動があります。北米大陸では、両者の区分なく連続的に造山運動が起こり、アパラチア造山運動とまとめて呼ばれています。
 私は、先カンブリア紀とカンブリア紀の時代境界に興味をもって調べているのですが、その関連で古生代の少し前からたまっている地層がある北米のアパラチア造山帯(カナダのニューファンドランド)やイギリス(スコットランド)のカレドニア造山帯を見てきました。しかし、私が今まで見てきたのは、イアペタスの北側の陸地に持ち上げられた地層ばかりでしたが、今回は、その南側の地層を北ウェールズの地でみることができました。
 ウェールズの北西の方にいくと沈み込み帯が近づいているために変成作用の強い岩石が出てきます。沈み込み地帯に近いところでは、変形が激しい、ぐにゃぐにゃに曲げられた地層が多くなります。離れたところでも泥岩は、変成作用を受けて、スレートと呼ばれる岩石になっています。
 ウェールズではスレート鉱山がたくさんありました。スレートという言葉は日本でもかつては屋根の素材として呼ばれることがありますが、ウェールズでは、今でも家の屋根はすべてスレート葺(ぶ)きでした。四角く切られたスレートがうすくはがされて屋根のかわらがわりに使われています。
 塀はすべてスレートの四角い石が積み上げられた石垣となっています。なにもそれは昔だけのことでなく、現在でも行われています。それを道路の工事現場でみかけました。
 道路沿いには、古い昔からの石垣が延々とつくられています。その石垣と同じものが、道路現場でつくっているのを見かけました。ただし、現在は、中にコンクリートの壁を作り、その外側にスレートの石積みをして仕上げているようでした。イギリスには実用性だけでない、過去や伝統、歴史、継承へのこだわりがあるようです。昔と同じようなものを再現し、昔ながらのものを継続していく気持ちを感じました。

・リゾート開発・
北ウェールズへは、リバプールからレンタカーでいきました。
その道は広く整備されているのですが、
日本の東名高速で東京や神奈川あたりを走るような混雑ぶりでした。
その道(A55とよばれる道です)が、リバプールやマンチェスターの都会から
北ウェールズまで続いているのです。
そんな道路があるのは、北ウェールズはリゾート地だからです。
道路が先か、リゾートが先かしりません。
こんなリゾート地なのに幹線からはずれると道は極端に細くなります。
しかし、狭い道でも交通量が多く、なおかつ、みんな飛ばします。
ですから非常に怖い思いをします。
小さな町でもリゾート地となっており、
土産物屋が軒をならべていました。
また、キャンピングカーやテントによるキャンプ場が
いたるところ、それも奥まったところにもあり、
狭い道を頻繁に車が通ります。
まるで日本の田舎の海岸沿いの
整備されてない狭い道を走るっているようでした。
石の出ているところを探すために、岬の先端に行こうとしたら、
そんな迷路に入ってしまいました。

・地域差・
北ウェールズは、北アイルランドやスコットランドとは
まったく違った地域であることを痛感しました。
ウェールズ語と英語が併記されているのですが、
ウェールズ語がまったく読めません。
アルファベットなのですが、子音がたくさんあるつづりで
母音が少ないので発音すらできないのです。
ですから地名が読めず、発音できず困りました。
それだけでなく、自然に対する姿勢も
なんとなく違っているような気がしました。
スレート鉱山のズリのすごい山があちこちにできていました。
それも地震があったらくずれて、
家や道路が壊れるのではないかと思われるほど
住宅の近に迫っていました。
こんなボタ山が、現在も積み上げられて、進行中にありました。
また、北アイルランドでは見かけなかった風力発電も
ウェールズにはたくさんありました。
観光に力を入れているせいでしょうか、
観光客も多く、なんとなく落ち着かない気がしました。
でも、海や川は自然のまま残されていました。
これも、開発途上だからでしょうか。
もっと開発が進むと、
やがては、日本の観光地のようになっていくのでしょうか。
そうならないことを祈っています。

・日本人・
私が泊まったのはバンゴー(Bangor)という
北ウェールの北西の海に面した町でした。
その町の岬の先端にあるホテルで、
海の見える3階のすばらしいツインの部屋でした。
私はこのホテルに3泊しました。
リゾート地なのでしょうか、
このホテルでは何組かの日本人を見かけました。
しかし、若い人ではなく中年のカップルばかりで、
リゾート地にこられているイギリス駐在の人のようでした。

2003年9月18日木曜日

4_37 巨人の敷石道:北アイルランドにて

 2003年9月1日から13日まで、イギリスに調査に行きました。イギリスへは昨年も行ったのですが、今回は北アイルランドと北ウェールズが目的地でした。まずは、北アイルランド旅を紹介しましょ。


 北アイルランドを訪れたのは、ジャイアンツ・コーズウエイ(Gaiant's Causeway)という世界遺産を見るためでした。ここは、柱状節理が有名なところで、その景観と岩石を見たいと以前から思っていました。
 節理(せつり)とは、岩石の中にできる割れ目のことです。不規則な割れ目を、亀裂(きれつ)とよび、規則的なものを節理と呼びます。節理は、岩石が収縮したときや圧力が開放されたときできます。割れ方によって、柱状節理、板状節理、放射状節理、方状節理があります。
 ジャイアント・コーズウエイの柱状節理は、大きな溶岩が流れ、それがゆっくりと冷えたものです。マグマがゆっくりと冷えるとき、液体のマグマより固体の岩石のほうが少し体積が縮み、岩石に規則正しい柱状の節理ができたものです。節理の柱の断面は、差し渡し30から50cmほど六角形をしています。正確な六角柱状ではないのですが、一個一個の形や大きさは似ていいます。でも良く見ると、どれひとつとして同じものはありません。不思議な幾何学的な模様で、それぞれ類似と相似があり、いくら眺めていても見飽きない面白さがあります。
 私も各地で大小の柱状節理を見てきましたが、ここの節理はみごとでした。北アイルランドの柱状節理は、多くの人が簡単に訪れることできる場所にあります。また300年以上前から観光名所として、イギリスでは、知られていたようです。
 ジャイアント・コーズウエイは、柱状節理で有名ですので、観光の内容も地質学の内容が中心になります。観光案内書にも地質学の内容がたくさん盛り込まれています。ビジターセンターでは、地質図が何種類も売っていました。その地質図がそのまま観光案内にもなっていて、自然道沿いでみられる岩石や節理の説明がついています。
 地質学がイギリスのこの地では、常識なのです。玄武岩、ドレライト(粗粒玄武岩と訳されることがあります)、岩脈、岩床など地質学的用語があたりまえに使われています。日本ではなかなか考えられないことですが、ここでは地質学的現象が観光の中心となり、地質学的説明がなされています。
 ジャイアンツコーズウエイの周辺には自然道もいくつもかあり、その多くは海岸沿いの崖に見えるさまざなまな節理をみていくものです。地質のガイドブックにもいくつかコースが載っています。ナショナル・トラストによって、そのような自然道がよく整備されています。
 私も1日、自然道をあるきました。最初はジャイアンツコーズウエイの海岸沿いを歩き、途中から崖の上の牧場の柵沿いに歩くものです。8kmほどのコースです。4時間半ほどかけて、観察しながら歩きました。ガイドブックでは3時間ほどのコースと書かれていましたが、観察をしながらいったためでしょうか、それとも体力のないせいでしょうか、長い時間がかかりました。でも、5500万年前のマグマがつくったさまざなま節理を堪能しました。

・我を忘れない生き方・
ジャイアンツ・コーズウエイは、
北アイルランドの北部の田舎の町外れにありました。
世界遺産になっていますから、多くの観光客が訪れます。
そして、ビジターセンターのすぐ横に、ひとつだけりっぱなホテルもあります。
ビジターセンターには、土産物屋も少しあります。
でも、それはささやかなものです。
いちばん近くの町も、古くからの観光地ですが、
土産物屋らしきものはありませんでした。
ただ普通のアイルランドの田舎の町のたたずまいでした。
夕食を食べるところも、いくつかしない小さな町でした。
日本だったら土産物屋さんが乱立していたことでしょう。
生活に必要な小さなスーパーマーケットが3つ、
床屋や美容室などの専門店がいくつかあるような普通の田舎町でした。
ここは、地元の人とたちが、生活に必要なものを手に入れるために集まる、
町本来の意味を持っているところなのだという気がしました。
でも、とても、静かな町でした。
アイルランドの人たちは、観光客が来ても我を忘れることがないのでしょう。
自分たちがすべきこと、そして通り過ぎていく人たちには、
最低限のサービスで済ませている様な気がします。
金を目当てに自分たちの生活を崩していない気がします。
昔から生きてきた生き方を守り、
それが普遍性、恒久性を持っていることを知っているように見えました。
世界の先進国で、エネルギー危機や食料危機などが起こっても、
ここでは、そんな危機を乗り越えられる地道さがあるような気がします。
自分たちの生きる生き方を知っているような気がしました。

・観光施設のない観光地・
コーズウエとは、「敷石などにがひかれた昔の舗装道路」という意味です。
ですから、ジャイアンツ・コーズウエイとは、
言葉どおり、「巨人の敷石道」という意味となります。
アイルランドの古い民話が由来だそうです。
人間には、敷石の道とは思えない大きなものです。
しかし、節理がつくりだす幾何学的な景観は、
やはり印象深いものです。
マグマの活動したところには、柱状節理ができることがあります。
ですから、柱状節理は、日本の各地でも見られます。
兵庫県豊岡の玄武洞(国の天然記念物)や、
福岡県芥屋の大門(けやのおおと)、
静岡県下田の爪木崎(つめきざき)などが有名ですが、
日本各地で見ることができます。
でも、日本の観光地は、観光地らしい趣があります。
観光地にはきまって土産物屋、観光旅館など
各種の観光施設があるからでしょう。
地元の人が、その観光物を金儲けの素材にしています。
また訪れる観光客も、観光物と観光施設を暗黙の了解の上に結び付けています。
でも、それが本当の観光物の味わい方でしょうか。
観光物をみることがいちばんすべきことなのではないでしょうか。
ジャイアンツ・コーズウエイには、
非常にたくさんの人が、世界各地から観光に訪れます。
日本人の観光客にもありました。
でも、観光客によってあらされていない自然を満喫できる観光地でした。

2003年9月11日木曜日

1_26 隕石の年代(2003年9月11日)

 隕石から、地球を含めた惑星や太陽系のできた頃のことが探られています。では、隕石に書き込まれた事件を、どのようにして読まれるのでしょうか。

 隕石の年代測定は、主に同位体組成というものを用いておこないます。元素の中には、質量の違うものがあります。そのような質量の違うものを同位体といいます。元素によって、同位体がひとつだったり、たくさんあったりします。
 また、同位体の中には、安定に存在できるものと、不安定なものがあります。不安定な同位体は、ある時間がくると、他の安定な同位体に変化するものがあります。このような不安定な同位体を放射性同位体といいます。多くの放射性同位体は、比較的短い時間で壊れてしまいますが、中には長い時間をかけて、ゆっくりと壊れていくものがあります。
 このような放射性同位体は、年代測定に利用できます。その壊れるスピードによって、どのような年代のものに利用できるかが決まります。
 隕石のような、何十億年という長い時間を経てきた古いものには、壊れるスピードの遅い放射性同位体をつかいます。ルビジウム(87Rb)、ランタン(138La)、サマリウム(147Sm)、ルテシウ(176Lu)、レニウム(187Re)、ウラン(238U、135U)、トリウム(232Th)が用いられています。
 原理は、簡単です。現在の放射性同位体(親核種)と、壊れてきた安定同位体(娘核種)の値を求めます。これでは、年代(変数)を求めることはできません。なぜなら、もともとあった量(変数)がわからないからです。一つの式で2つの変数は求めることはできません。少なくとも2個以上の式が必要です。
 この変数を求めるには、もう一つ別のものを分析をすればいいのです。でも、条件があります。同じ時できたものであることと、もともとの放射性同位体の量の違うものを2つ以上集めれなければならないことです。2つの測定値(式)があれば、もともとの量がわからなくても、年代を決めることができます。もちろん、分析するデータは多いほうが精度が上がります。
 岩石でいえば、同じマグマからできたいくつかの鉱物を分析することになります。地球の石なら、小さな鉱物でもたくさん集めることができます。でも隕石の場合はそうはいきません。隕石は、地球の岩石にたとえると一種の堆積岩のようなものです。いろいろな岩石の粒が混じっています。
 隕石で岩石の粒に当たるものは、コンドリュールというものです。せいぜい数ミリメートルしかないものです。それは、隕石の材料物質が溶けたときに、無重力状態ではマグマが球状になります。それが冷めてくると球状のまま、いくつかの鉱物ができて固まるものがあります。それがコンドリュールです。ですから、先ほどの年代測定を正確にするには、一つのコンドリュールの中の鉱物を分けて、分析する必要があります。そんな技術が、今やあります。測定装置もさることながら、根気よく小さな粒を分けなければなりません。
 もうひとつの方法として、ウランを使う方法があります。ウランには、上で示したように、ゆっくりと壊れる放射性同位体が2つあります。この2つ同位体セットを同時に測定してしまえば、一回の分析で測定ができます。この測定は、分析したいところに粒子をあてて、そこを掘り返して、原子レベルにばらばらにしてしまいます。それを測定装置に直接導いて測定します。
 この方法による測定では、数十ミクロンメートルの部分(試料)があれば、年代測定ができます。もちろん、精度をあげるには、多数の分析をしなければなりません。そしてなによりも、ウランがたくさん含まれている鉱物でなければなりません。
 このようないくつもの方法で隕石が測定されています。その結果、原始的と呼ばれる隕石の年代は、どれも45.6億年前という時代が得られています。もちろん、詳細な年代測定なので、もっといろいろなことがわかっていますが、それは、別の機会にしましょう。

2003年9月4日木曜日

6_31 氷と岩と狭間の最古のもの

 グリーンランドは、私が地質学を志して以来、ぜひ行ってみたい地でありました。そんなグリーンランドに、短い時間ですが訪れることができました。憧れの地にいたほんのつかの間の時。そんなつかの間に、岩と氷の織りなす大地を味わいました。

 それは、島というにはあまりに大きなものでした。白い大陸というべき大きなものでした。その白い大陸は、緑の大地、グリーンランドと呼ばれています。
 まるで、人跡未踏のようにみえる雪と氷の大地にも、人の足跡ありました。グリーンランドには、昔からそして今も、イヌイット(グリーンラドではグリーンランディックと呼ばれています)が住み、生活しています。でも、彼らの多くは、海岸沿いの地で、漁労や狩猟の生活をしていました。いまでは、国の政策によって、都市部に定住するようになってきました。
 グリーンランドは、デンマーク領です。ですからデンマークからの白人が、都市部には定住しています。グリーンランドの冬は長く厳しいので、仕事も余り多くありません。ですから、定住する白人はそれほど多くなく、夏にだけこの地で暮らす人が多くなります。地質学者も夏の間だけですが、デンマークからはもとより、世界各地からこの地を訪れ、調査をして過ごす人がいます。
 地質学を専門とする人は、グリーンランドと聞くと、地球でも、最も古い岩石や堆積岩など、最古の記録がグリーンランドにはいろいろあることを知っています。中でも約38億年前にできた岩石がグリーンランドのイスアと呼ばれる地域に分布していることも、地質学者ならよく知っています。でも、実際にその地を訪れる地質学者はそう多くはありません。
 地球最古の岩石は、10年ほど前までは、このイスアの地のものでした。今では、最古の岩石の席はカナダに、最古の鉱物はオーストラリアに譲っています。でも、最古の堆積岩は、いまでもイスアのものです。そのほかにも、最古の付加体や最古の海洋地殻などが、グリーンランドから見つかっています。
 地質学者は、最古のものを懸命に探します。地球で最古のものには、それなりの意味があるからです。
 地球のできたての頃は、熱いどろどろに溶けたマグマが地表を覆っていました。最古の岩石とは、そのマグマが冷えて固まった時期、あるいはその時期の下限を示しています。現在では、もっとも古い鉱物として、42億7600万年前ものがオーストラリアから見つかっていますが、古い大地の歴史を調べるためには、グリーンランドの岩石も、いまだに重要な意味があります。
 熱かった地球が冷えてくると、それまでは水蒸気として大気中あったH2Oが、液体の水になります。H2Oは気体より液体の方が密度が大きいので、地球の重力によって落ちてきます。つまり雨となり、降ってきます。大地に降った雨は、低いところに流れて、移動します。流れは集まり、やがて川になり、地表のいちばん低いところに集まっていきます。それが海です。
 堆積岩とは、土砂が川から運ばれて、海にたまり固まった岩石です。川の流れとともに運ばれた土砂が海にたまります。それが堆積岩となります。最古の堆積岩は、地球に液体の水が存在できる温度になった時期を示す証拠でもあり、海ができた証拠でもあります。38億年前のグリーンランドの堆積岩は、今でも最古の海の証拠です。
 熱かった初期の地球は、冷めてきました。でも、0℃以下にはなりませんでした。それは、堆積岩は、地球上のいろいろなところで、いろいろな時代にあることからわかります。つまり、38億年前以来、堆積岩がずっとあることから、地表には、海、液体の水がずっとあった証拠となるのです。38億年前から現在まで、地球は0℃から100℃という温度の間に常に保たれていたことがわかります。そんな海のはじまりを、グリーンランドの最古の堆積岩は物語っているのです。
 イスアは、グリーンランドの南西部のN65.12°、W49.48°に、氷床と露岩の境界にあります。ここは、人など住んでいない地です。夏でも氷河を渡る風は冷たく、防寒着をつけなければ、長く外にいることはできません。
 私は、2000年の夏に地質学で有名なイスアを訪れました。グリーンランドに行くために用意したのは10日間でした。グリーンランド最大の都市ヌーク(ゴットハープ)には、5泊6日で滞在しました。イスアに行くためには、ヘリコプターをチャーターしなければなりません。ヘリコプターを一日分を予約しました。でも、天候によって飛べないと困るので、予備日としてあと3日用意しました。
 予約をいれた当日は、幸いにも予定通り飛ぶことができました。ヌークからイスアまで、往復で3時間で、イスアには5時間ほど滞在するつもりでした。でも、イスアに向かう途中、霧が出てきて、霧が晴れるまで、谷合いの原野で1時間ほど天候待ちをしました。
 そして念願の地、イスアにつきました。驚いたことに、そこにはテント村があったのです。こんな人里はなれた荒涼たる地に、夏の間だけですが、何張りかのテントができていました。そのテント村は、地質学者たちが夏の間だけイスアを調査するためにできたものです。地質学者たちが世界中から集まっているのです。そのキャンプ村のリーダとして、デンマークの地質調査所の地質学者のアペルがいました。彼の名前は知っていたのですが、グリーンランドに来ているとは思ってもいませんでした。ですから連絡をとっていませんでした。彼にいえば、数日このテント村に滞在すれば岩石がよく見れたのにといってくれました。時すでに遅しです。
 しかし、彼がヘリコプターに同乗して案内してくれました。そのおかげで、非常に効率的に目的の岩石を見ることができました。代表的な岩石を見、標本も採集しました。
 さて、このグリーンランドで私がしたかったことは、地質調査もさることながら、現場をみて、感じることでした。グリーンランドという地で、風や気温、匂いなどが伴った風景の中に自分をおき、そして目的の岩石や地層を肉眼で見、触りたかったのです。そして、感じたことを記憶に残したかったのです。
 イスアに滞在したのは、結局3時間余りでした。調査というには、余りにも短い時間でした。もちろん、何日も滞在して調査すれば、もっといろいろ調べることができたと思います。私が見残した大切な岩石や地層も一杯あったと思います。
 でも、私は、満足しています。なぜなら、イスアという地で、岩石や地層をグリーンランドの景色の中で、肌で感じることができたからです。その3時間余りは、私にとって、どの調査旅行より印象に残っています。そしてグリーンランドのイスアの地には多分二度と訪れることがないでしょうが、その記憶は一生残って、忘れないでしょう。

・衛星画像・
月初めは、ASTERの衛星画像を使ったエッセイです。
衛星画像は、
http://www.ersdac.or.jp/Others/geoessay_htm/index_geoessay_j.htm
をご覧ください。
今回は、グリーンランドの露岩地帯ですので、地形がよく見え、
地層が地形に反映されています。
地質図と比べると、衛星画像でみる地形に一致しています。
ここでは、地質図は簡単にできてしまいます。
そして、地質図は誰でも同じようなものができるはずです。

・地質図を描く・
地質図を描くということは、
日本では、一種の想像(創造)的な部分があります。
日本では、大地を植物が覆っていて、
どんな石が、どこに、どのように出ているかを
まさに地を這うようにして調べていきます。
見えないところは、地層であれば、(地質)図学を利用して想像します。
火成岩では、エイヤーっと線を引いていきます。
地層がずれたり、あわないときは、推定断層を書きます。
ですから、同じところを調べても人によって、
地質図がずいぶん違ったものになることがあります。
でも、グリーンランドのような地域は、いい地質図は誰でもかけます。
その違いは、どれほど、細かく地表を歩き、
岩石を精しく観察したかによります。
日本でも、外国でも、いずれにしても、
地質学者は、地を這って調査すべき運命なのです。

2003年8月28日木曜日

1_25 プレソーラーグレイン(2003年8月28日)

 隕石の中には、不思議なものがいろいろ含まれています。そんな不思議な、小さな粒を紹介しましょう。

 炭素質コンドライトとよばれる隕石から、プレソーラーグレイン(presolar grain)という不思議な粒が見つかりました。プレソーラグレインとは、太陽系(ソーラー)の誕生より前(プレ)にできた粒(グレイン)という意味です。不思議な名前を持つ粒です。
 炭素質コンドライトのような原始的な隕石は、太陽系ができるとき、宇宙空間にあった材料物質が集まってできたものです。しかし、太陽系では、粒が集まる前に、高温になる時期がありました。その高温時に、初期にあった材料物質の粒子が溶けて、気体になってしまいました。つまり、多くの材料は、元素のレベルで一度ならされ、太陽系全体で均質になったのです。そのときに、太陽系にあった材料の平均的なものですから、太陽系独自にブレンドされた成分となったのです。太陽系のどの物質でもある一定の値を持ちます。それは、太陽系で固有の値となっています。
 しかし、そんな高温に耐えて、少しだけですがもとの姿のまま「火の通っていない」材料、プレソーラーグレインがあることが発見されました。つまり、太陽系初期に溶けないで残った粒子があったのです。そんな粒子、プレソーラーグレインは、太陽系のブレンドされた組成とは違った成分をもっています。
 隕石の中にこんな風変わりな成分が混ざっていることは、1960年代から知られていました。その風変わりなものが分離され、そして分析できるようになったのは、1990年代になってからでした。
 プレソーラーグレインは、炭素質コンドライトの基質(マトリックスともいわれます)から発見されました。プレソーラグレインには、最初は、3種類の鉱物が発見されました。炭化けい素(シリコンカーバイト、SiC)、ダイヤモンド(Diamond、C)、グラファイト(Graphite、C)の3種です。最近では、さらに新たなプレソーラグレインとして、コランダム(Al2O3)や炭化チタン(TiC)なども発見されてきました。
 一つ一つの鉱物は非常に小さく、数ミクロンメートルから数ナノメートルくらいしかありません。ですから、見つけることも、まして分析することも大変だったのです。
 プレソーラーグレインのいくつかの元素の同位体組成で、異常が発見されました。最初は、酸素(O)やキセノン(Xe)などの同位体組成で異常が見つかっていましたが、今では、ネオン(Ne)、炭素(C)、窒素(N)、けい素(Si)などでも異常が見つかっています。
 このような地球でブレンドされた組成とは違ったものは、その粒子ができたときの情報を保存していると考えられています。太陽系の材料が、どのようなところから由来しているかを知るためには重要な情報が得られたのです。
 炭化けい素(シリコンカーバイトSiC)には、組成の違うものが4種類ほどふくまれていました。それぞれが、違った起源をもっています。その起源として、漸近巨星分枝星(Asymptotic Giant Branch Star)、超新星というものが考えられていますが、起源の不明なものもあります。
 ダイアモンドは、別の超新星、グラファイトは、別の漸近巨星分枝星、Wolf-Rayet星、新星などが起源が考えられています。
 ほんのちっぽけな粒子ですが、私たちの太陽系よりもう一つ前に存在した星たちの名残をとどめているものです。自然は、素晴らしい贈り物を私たちに用意してくれていたのです。

2003年8月21日木曜日

4_36 佐田岬半島:夏の黒瀬川2

 四国、愛媛県の北西部に、九州に向かって伸びている佐田岬半島があります。佐田岬半島の先まで、石を見に出かけました。夏の暑い日の見学でした。海水浴客を横目に、石を見てきました。


 佐田岬半島を貫くようにして国道197号が走ります。佐田岬半島の先端の三崎港から四国九四フェリーで九州に、この国道は続きます。197号の東は、愛媛県東宇和郡城川町を通り抜けて、高知県の須崎まで伸びています。この国道は、以前はくねくね道で、「いくな酷道」(197国道)と呼ばれるほどひどい道だったそうです。今では2車線のまっすぐな道になり、かなり走りやすくなっています。
 そんな佐田岬半島をつくる石を見に行きました。佐田岬半島の海岸は、緑色の縞のある石からできています。石積みの塀の多くは、この緑色のしましま石からできていました。この石は、緑色片岩と呼ばれています。緑色でも、さまざまな色合いの縞模様をもつ変成岩です。高い圧力で、玄武岩の溶岩や玄武岩の破片からできた堆積岩が、変成されたものです。
 これらの緑色片岩は、三波川変成岩の一部です。きれいな石なので、三波石として庭石や積石に利用されています。三波川変成岩は、緑色片岩だけでなく、いろいろな石が見られます。
 今回みたのは、佐田岬半島の先端の町、三崎町の南側の海岸、長浜というところです。長浜は三波川変成岩の崖の下に砂浜が広がる海岸で、人っ子一人いませんでした。もったいないようなきれいな砂浜を、独り占めできました。暑く、泳ぎたくなるような日でしたが、ここへ来た目的は石を見ることです。
 長浜には、緑色片岩の露頭はなく、蛇紋岩と黒色片岩がありました。蛇紋岩と黒色片岩が断層で複雑に接していました。
 蛇紋岩とは、蛇の体のように、青や黒、緑などの色が、てかてか光って見える石です。蛇紋岩は、マントルをつくっているカンラン岩に水が加わってできた岩石です。
 黒色片岩の片岩とは、細かい縞模様をもつ岩石で、ハンマーでたたくと、縞模様にそって割れやすく、時には手でもはがれます。黒色片岩は、黒い色をした片岩で、堆積岩のうち泥岩のような細かく黒っぽい石が強い圧力による変成作用を受けたものです。
 その他にも海岸にはいろいろな石の転石がありました。緑色片岩ももちろんありました。砂岩の変成された砂質片岩、石灰岩が変成した石灰質片岩。それらが交互に重なった片岩も見かけられました。石英片岩を探したのですが見当たりませんでした。
 三波川変成帯には、各種の片岩が含まれています。場所によっては、さらに圧力の強いところでできる変成岩も見つかっています。三波川変成帯は、温度より圧力の強い場所でできたことになります。そのような場所は、地球の深い場所で、それほど温度の高くないところということになります。
 現在の地球では、それは、海溝より深部だと考えられています。海溝深部とは、海洋プレートの沈み込むところです。海洋プレートは冷たいまま、沈み込みます。すると温度はそれほど高くならずに、圧力だけが上がっていきます。ですから、三波川変成帯は、昔のプレートの沈み込み帯の深部の岩石が、顔を出していると考えられています。佐田岬半島とは、昔に沈み込んだ海洋プレートが変成作用を受けたのち、地表の持ち上がられたものだったのです。

・人工と自然・
三崎の北向きの入り江に海水浴場がありました。
しかし、見るからに人工の防波堤と持ち込まれた白い砂からできています。
防波堤はこの地にない花崗岩で作られ、
砂も、この地にはない花崗岩からできたマサと呼ばれる白い砂です。
少し離れていますが、南向きの海岸には、いい砂浜があります。
それを利用する人はなく、人工の砂浜で海水浴をしているのです。
利用している人も、これは人工の砂浜であることよく知りながら使っています。
これで、いいのでしょうか。
自然の恵みをそのまま利用すれば良いのではないでしょうか。
もちろん、自然のままですから、荒々しさや危険も伴うかもしれません。
でも、それは自然の中で遊ぶための、当たり前のルールではないでしょうか。
それが自然との接し方ではないでしょうか。

・原子力発電所・
佐田岬半島の伊方には原子力発電所があります。
そのアピール館があり、立ち寄りました。
原子力発電所の仕組みや、安全対策、そして安全性を紹介しています。
クイズやゲームもあり、大人も子供も楽しめるようになっています。
そして物産展もあります。
大変なお金をかけて、このアピール館は、維持運営されているようです。
これも消費者である電気使用者のお金から出ているはずです。
このようなことは、宣伝費として、当たり前なのかもしれません。
この原子力発電所は、四国の4分の1の電力を供給しているようです。
ですから、この原子力発電所は、もはや中止することはできません。
原子力発電所が本当に安全かどうかは、わかりません。
もし何かがあったとき、水力発電所や火力発電所より
原子力発電所は危険です。
それを多くの人は直感的に恐れているのです。
理屈や安全対策をいくら説明しても、
人々はその危険性を肌で感じています。
「もしも」ということを、誰もが感じていることなのです。
安全対策の予想を超えた「もしも」があったとき、どうなるか。
それを多くの人は心配しているのです。
私たち、人類はとんでもないものに、
生活の基盤を依存しているのではないかと心配になってきました。
それに日本人は、原子力の怖さをいちばん知っている国民でもあるのです。

2003年8月14日木曜日

4_35 城川再び:夏の黒瀬川1

 今年(2003年)の5月のゴールデンウィークに、四国の愛媛県東宇和郡城川町を訪れました。そして、8月3日から8日まで、5泊6日で再び、城川町に滞在しました。再訪した城川で感じたことです。


 泊まっていた宿泊施設で、地元のおじいさんと話す機会が毎朝、何度かありました。そして、城川の今と昔を話を聞きました。そこで聞いた話を紹介しましょう。
 四国の松山空港についたとき、冷房の効いたロビーから外に出ると、熱く湿気のある空気が体を包み、一気に汗が吹き出しました。本州では、長かった梅雨のあけて、夏らしい暑い日がはじまっていました。
 愛媛県東宇和郡城川町に滞在中に、夕立がありました。激しい夕立、まさに「篠突く雨」というべきものが、1時間ほど降りました。そのとき私は、山のかなり上流にある地質館という建物の中にいました。すると、地質館のすぐわきの川は増水し、轟々と音を立てて、茶色くにごった水が流れていました。こんな集中豪雨と増水は、天候によってどこでもおこることです。ところが午後2時ころあった夕立が、夕方には川の水量もだいぶおさまり、濁りも取れたきました。さすがに、山をしっかりと守っている町だから、山も保水力や浄化作用があって、いいなと思っていました。
 こんな状態になるのにも、紆余曲折があったようです。古老の話を聞くと、戦後は、木が必要でいっぱい切ったそうです。切ったあとの山の斜面は、段々畑にして、食料を作っていた時期があったそうです。そのころは、山に保水力がなく、年に3度も4度も増水があり、川筋はそのたびに洗われて、石ころの荒れた川原だったそうです。ですから、葦なんかはえず、広い河原があったそうです。草刈などの川の手入れがあまりいらなかったそうです。
 ところが、いまでは、山に木が植えられ、しっかりした森ができると、洪水がなくなり、河原は葦がびっしりはえるようになったそうです。少々の洪水では、根のはる葦は流されず、河原が葦林になってきたそうです。葦の生えた狭い河原は、手入れをしないと、近づきがたいものです。山と川、植物、人間活動。これらは密接な関係を持っているようです。
 食糧難がおわると、国の政策もあり、荒廃した山を建て直すために、植林をしたそうです。でも少し前までは、間伐材も充分商品となったので、山や木を守ることができたそうです。ところが最近では、30年以上たった太い木でも、手間賃、搬送コストのほうが、木の売れる金額より高くなるようです。これでは、林業では食っていけません。
 日本では、けっして木の需要が減っているわけではありません。未だに木の住宅は建てられ続けています。しかし、その木の大半は、外国の木で、安く輸入しているものです。この状態が続く限り、日本の林業が廃れていきます。
 でも、今、木を切っている外国の森も、戦後の日本が経験したことと同じことがおこっているのかもしれません。日本のように、植えさえすれば木が成長するところは、切っても復元できます。日本が輸入している木材が、熱帯雨林の木やタイガの針葉樹などがたくさん含まれているとすると、その再生は容易ではありません。すごく長い年月が必要かもしれません。あるいは、二度と復元できないかもしれません。
 私たちは、経済性だけを中心して、生活しているようです。いつのころからお金中心の生活をするようになったのでしょうか。安ければいい。もうかればいい。多くの人は、それを世の中の仕組みと思っています。でも、森を守ろう、30年しか持たない家より100年も200年ももち、子孫がそこに住み続けられる家を建てるべきではないでしょうか。
 林業も重要な産業としていた城川も、もはや山の維持がなかなか難しくなってきたようです。そんな夕立でにごった川を見て、こんなことを考えしまいました。

・台風・
私が城川町から発つ日、台風10号が四国に接近していました。
昼前の東京行きに乗ったのですが、ぎりぎり飛んでくれました。
午後の便はすべて欠航でした。
この台風は、大きな被害を与えました。
北海道でも多くの犠牲者を出しました。
城川町でも、2名の行方不明者を出したことをニュースを見て驚きました。
これは、城川町の人たちは大変だろうなと心配していたのですが、
さらに驚いたことに、
そのひとりは、私の友人の同級生だったそうです。
なんとか彼の遺体は発見されたました。
それがせめてもの救いです。
御冥福をお祈りします。
北海道に住んで感じることですが、
関東を台風が過ぎたり、それたりすると、報道の量が一気に減ります。
需要と供給を考えると仕方ないことですが、
地元の放送局でもその報道量は極端に減ります。
NHKの四国接近の時はずーっと報道してました。
しかし、北海道では、被害のみがニュースになり、
その被害を防止す効果を持つ、報道が少なくなっていました。
なんとなく残念な気がしました。

・城川再訪・
私が今回来たのは、城川町の地質館のデータベースをつくるためです。
私の他に、博物館から4名がその要員として、作業をしました。
城川の地質館にある全資料の撮影とそのラベルや解説のデータベース。
城川町内の地質の観察ポイントの資料採集と撮影、解説のデータベース。
城川町とその周辺からとれる化石とその解説のデータベース。
これらを城川町のホームページに置いて公開することが目的でした。
これを完成させて帰ろうというのが目標でした。
私は、そのほかに、城川と神奈川の地学クラブの子供たちの交流行事をします。
交流事業は、4日午後の学習会と5日一日の地質の野外観察会でした。
このような交流も、もう4回目となりました。
着実に成果は上がっていると思います。
そして子供たちもそれなりの成長をしてくれていることでしょう。

・心の故郷・
城川滞在中に、激しい夕立が2日続けてありました。
2度目の夕立のときは、私たちは佐田岬半島にいたため、
雨にもあわず、暑い思いをしていました。
その日、城川でバーベキューをしました。
その夜は、一雨のおかげで夜は涼しくなっていました。
やはり、私は田舎は好きです。
もちろん、そこを訪れた、季節のせいかもしません。
でも、あるとき、あるところを訪れたとき、
その地のよさは、訪れた時期、気候、天候、精神状態、肉体状態など
すべての条件を寄せ集めて、それをどう感じたかということです。
それが、すべて合計してプラスになれば、その地はいいところとなるはずです。
私にとって城川は、何度も訪れているところです。
そのようなたびたび訪れている地では、
たぶん本質的なところ、風土というべきもでしょうか、
そこが好きかどうかになっているのでしょう。
私とって、城川は、好きなところです。
心の故郷、あるいは第二の田舎となっていきそうです。

2003年8月7日木曜日

6_30 天空の島:人智を超えるもの

 川は、海から蒸発した水蒸気が、雨として大地に降り、雨が集まり、流れ下っていくものです。川はやがて海にいたります。日本の川のはじまり、つまり源流は、山岳地帯です。川が刻む大地の模様、すなわち地形は、水と大地が織りなすものです。もし平らな大地に雨が降ったらどんな模様ができるでしょうか。そんな疑問に答えるてくれるような素晴らしい、そして圧倒的な模様が、大陸にありました。

 コロラド川の上流にあるコロラド高原は、海抜2,000mから3,000mの高さで、さしわたし500kmを越える広い台地です。コロラド高原には、グランドキャニオンという有名な景勝地があります。しかし、さらに上流にも、すばらしい景勝地があります。キャニオンランズ国立公園ということろであります。ここキャニオンランズ国立公園の一角に、大陸の川のはじまりを見ることができました。
 コロラド川は、カリフォルニア湾に注ぐ川で、下流からメキシコ合衆国、カリフォルニアとアリゾナの州境界を流れ、ネバダとアリゾナの州境界、アリゾナ州、ユタ州、そしてコロラド州のロッキー山脈にその源をたどります。北アメリカでは6番目の長さと流域面積を持つ、大きな河川です。
 グランドキャニオン国立公園はアリゾナ州のコロラド川流域にあります。キャニオンランズ国立公園は、アリゾナ州の北隣のユタ州の南東に位置します。グランドキャニオンでは、川が大地を削り込んでつくった景観が見ることができます。しかし、グランドキャニオンは、川がすでに深く切り込んで深い谷となったものです。
 では、平らな大地を川が削りはじめるときは、どんな模様ができるのでしょうか。もちろん、最初は小さな川の跡ができるでしょう。この作業が長年にわたって繰り返されると、どうなるでしょうか。
 日本のような山岳の河川の源流では、太かった川の流れも細くなり、やがてちょろちょろ流れいた川も、尾根や山腹で消え去ります。川は、周辺に生えている植物や岩場の隅からしたたり落ちたひと滴からはじまります。つまり、川のはじまりは、ほそぼそとした小さなものです。
 私たち日本人には、川とは上流にいくとほそぼそとした流れになるという常識がありました。ところが、大陸の平ら大地では違っていました。それも、想像もつかないような不思議な模様からはじまっていました。
 唐突というべき模様です。唐突に川ははじまります。まるで巨大な熊手でざっくりと大地を掘り起こしたように、あるいは針葉樹のような形をして、川がはじまります。地上から見ているのに、まるで自分が天空にいるような錯覚に落ちってします。数百メートルあるような巨大な地形が、まるで箱庭のように見えてします。まるで、自分が天空の視点を得たような気持ちにさせる、そんな錯覚を起こすところです。ここは、「天空の島(Island in the Sky)」という名称をもつ地です。まさにここは天空といいたくなるような、そんな不思議なそして神々しさに感動を覚えます。
 ある時は、3つの支脈をもった、まるで巨大な恐竜がつめで削ったような川の模様です。川の浸食がさらに進むと本流が太くなり、爪あとが小さな木の枝状に残っていきます。巨大な天空の物の怪が、戯れに大地を掘り込んだように、平坦な大地に川が生まれます。
 もちろん、そこにつながる小さな川の流れの跡があります。しかし、その小さな川の跡は、大地を刻んでいません。小さな川の跡はあっても、平らな大地と呼んでもおかしくありません。ここでは、それは川の跡というにはふさわしくありません。
 その川の跡は、あまりにも唐突にはじまります。常識を覆すはじまり方です。でも、これも川のはじまりの姿です。もしかすると川のはじまりとしては、例外的なものかもしれません。でも、数百メートルにおよぶその地形は、厳然として存在します。
 こんな不思議な地形をみると、どうしてできたのだろうという疑問は当然わきます。もちろん科学はそんな疑問に答えてくれます。科学とは、「天空の島」だけの説明にとどまらず、どこでも通用するようなものに仕立て上げられます。
 水平の地層があり、サバンナや草原のような半乾燥あるいは乾湿が繰り返される気候のところでできます。大陸内部で長い時間かけてたどり着く地形です。川は線状の侵食ではなく、面状の侵食をおこないます。水平の地層中には、いくつ種類かの岩石からできています。その中には侵食の程度が違うものが含まれています。硬い岩石は浸食されにくい地層となります。硬い岩石の地層は浸食されずに上面が平な面となり、平原となっていきます。「天空の島」のように広いものは、構造平原と呼ばれています。構造平原のような地形は、コロラド高原だけでなく、インドのデカン高原、アフリカのレソト高原などでも見れます。
 このような水平な地域が地殻変動により上昇すると、川の位置は変わることなく、上昇した分だけ、平らな大地を深く掘り込み、川の深さは維持されます。侵食が進むとメサやビュートと呼ばれる地層になり、やがて次の硬い地層が現れると、そこが次の構造平原へと変わっていきます。古い大陸では、このようなサイクルが繰り返されていきます。
 このように「天空の島」の地形のでき方は、地質学あるいは地形学で説明されています。でき方がわかっても、なお不思議なものもあるようです。そして感動はいつまでたっても消えていきません。そんな人間の小ざかしさを吹き飛ばす奇妙さ、そして不思議な感動は、ここにはあります。まさに、先人が呼んだ「天空の島(Island in the Sky)」にふさわしい地に、川のはじまりを見ました。

2003年7月31日木曜日

4_34 尻別川:夏の道南2

 今回の道南の旅のいちばんの目的は、尻別川の調査でした。周辺には湧水で有名な羊蹄山もあり、きれいな川を期待していました。さてさて、その結果はどうだったでしょうか。


 尻別川は、126kmしかない短い一級河川です。道南ではいちばん長い川ですし、流域にはニセコ連山や羊蹄山、さらに上流には洞爺、徳瞬瞥、無意根などの火山が連なっています。そこは、峨々としてた深い山並みとなっています。蹄山には、多くの湧水あることで有名です。京極町では水を商品として、売っています。もちろん、湧水は地下から湧いているので、冷たく綺麗なのですが、それが川に流れ込むと、川もきれいなはずです。
 今回の道南行では、尻別川は、河口、下流、中流、上流の4ヶ所の川辺で調査しました。
 上流の水はきれいでした。川原には、バッタや川原の草花、そして釣りをする人の姿もありました。ところが、上流以外は、川の水が汚いのです。川原の石が、コケではなく、水垢のような汚れで、ぬるぬるしています。乾いた石は真っ白な汚れがついていて、石の模様もよく見えなくなっています。とっても泳げるような水ではありませんでした。
 うちの子供たちも足だけはつかっていましたが、全身ぬらして水遊びをするような気も起きませんでした。石を集めて調査はしたのですが。下流と中流、特に下流の石はぬるぬるして、あまり気持ちがよくありませんでした。調べる時には、よくタワシで洗わなければなりません。尻別川の中流には、ラフティングをするようなところもあるようなのですが、私は、この川の水につかる気がしませんでした。その周辺のとった石も綺麗ではありませんでした。
 羊蹄山周辺は、いくつもの湧水があり、京極町では名水100選にも選ばれています。湧水がひとつの観光となり、かたやその観光の影響で川が汚れるとなると、なんとなく納得がいかないものを感じました。同じ川が、中流、下流になると、周りの景色は、緑あふれる山や田園風景なのに、川の水だけがこのように汚れているのは、川がちょっとかわいそうな気がしました。
 汚れている理由は、定かでないのですが、下水処理設備がなく、家庭用排水がそのまま川に流されているのではないかと思われます。日本で下水処理をしている地域は、人口密集地の一部でしょう。農村地域では、生活廃水は、浄化槽を経て、川に流れ込むのでしょう。これは、田舎では当たり前のことでしょう。
 ただ、尻別川の流域には、ニセコ、羊蹄山、ルスツなどがあり、スキーと温泉、遊園地などの観光地も多いため、関連施設が多いようです。このよな観光に力をいえているせいで、もしかすると川を、より汚しているのかもしれません。
 尻別川が特別汚いのではなく、たぶん、このような川は、日本では、ごく普通にみられる川、ごくありふれた川なのではないでしょうか。四万十川を春に見て、尻別川にも同じようなイメージを抱いて出向いたおかげで、このような気分になったにすぎません。私も通りすがりのものですから、根拠もなく、批判めいたことをいうのはよくないと思います。
 水は、人間にだけでなく、生物に不可欠のものです。そんな人間の生活とは切っても切れない水の最終到達地が、川なのです。だから、川を見たらその地の暮らしぶり、あるいは、生活基盤が何によっているかが、ある程度想像つくのかもしれません。尻別川流域は、農業と観光なのでしょうか。

・湧水・
この年の夏は、例年になく、涼しいのですが、
羊蹄山の周辺にいるときは、天気もよく暑い日になりました。
子供たちは、汗だくで走り回っていました。
そして、湧水があるたびに、
ペットボトルに冷たい水を汲んでは、飲んでいました。
もちろん大人も飲んでいました。
いつも旅行に出かけると、飲み物をコンビで買うのですが、
羊蹄山の周辺を巡っているときは、
飲み物を買う必要がありませんでした。

・野菜の季節・
羊蹄山周辺は、農産物の産地でもあります。
ジャガイモ、キャベツ、アスパラガス、トウモロコシ、かぼちゃ。
私が行ったときには、ジャガイモの淡い紫を帯びた白い花が
あちこちで見かけられました。
イチゴとサクランボのもぎ取りもありました。
海沿いの雷電温泉に、2泊目は宿泊したのですが、
ここは雷電スイカで有名です。
これから北海道は、野菜や果物がおいしい季節です。
毎日、露地ものの野菜がいろいろ食べられます。
楽しみな季節です。

・夏が忙しい・
調査には行きたし、でも、時間がない。
仕事があると、自由に時間を使って調査ができません。
夏は北海道、海外にもいきます。
学会もあり、他の共同研究にも参加しなければなりません。
ゼミの夏合宿、採点、成績など夏休み中の公務もあります。
ですから、夏休みが、私にはいちばん忙しい時となります。
こんな忙しさの合間を縫って、
調査するからその味わいも深くなるのかもしれません。

2003年7月24日木曜日

4_33 利別川:夏の道南1

 昨年(2002年)12月に訪れた道南地方に再度でかけました。昨年暮れの調査は雪のために、十分できなかったからです。当たり前のことですが、北海道の冬は雪があって地質調査はできないのです。でも、少しくらいはという期待のもとに出かけたのですが、惨敗でした。今は夏です。去年の雪辱を果たすためにいきました。


 瀬棚郡今金町(いまがねちょう)美利河(ぴりか)というところにある温泉宿泊施設に泊まりました。昨年来た時も、ここに泊まりました。
 昨年は冬だったので、ホテルの裏山は、スキーのゲレンデになっていました。今年の夏は、今北海道ではやっているパークゴルフのゲレンデコースとなっていました。ホテルの正面には、平地のパークゴルフ場があります。こんな小さなところに、2つものコースがあるというのは、すごいブームだということです。でも私が泊まったときは、平日で天気が悪かったせいか、だれもコースにはいませんでした。温泉だけでは、今や集客力がなくなったせいでしょうか。どこにでもあるパークゴルフ場をつくるということは、他の施設と差別化がはかれないような気がしますが、大きなお世話でしょか。
 さて、今金町に再訪したのは、一級河川の利別川(としべつかわ)の河川の石ころ(転石)の調査と、ピリカカイギュウの化石をみること、そして、河川礫としてマンガン鉱石やメノウの転石が採集するというのが目的でした。
 利別川では、上流と河口付近で石ころの統計的採集をする予定でしたが、河口では、石がたまっているところがなく、砂だけでした。砂の採集をして終わりました。また、カイギュウは、展示室が金・土・日曜日の3日しかやっていません。私は木曜日に行きました。ですから、今回も見ることができませんでした。今金の有名な石ころも、河口で転石がなかったので、拾えませんでした。でも、地元のメノウは、物産店で磨いたコースター状の板を2つ購入しました。これで良しとしました。川の各所で、転石を探せば、目的のものを見つけられたかもしれませんが、まだ先のある旅でしたのであきらめました。
 この地での一番の目的は、利別川の調査でした。利別川は、十勝川の同名の支流と区別するために、正式には後志(しりべし)利別川と呼ばれています。源流を長万部岳とする流路延長が80kmしかない短い川です。短い川ですが、上流へいくと、山の奥深くでいかにも源流に近づいているというようなところでした。でも、今回は源流を調べるのが目的ではありませんでしたので、できるだけ上流まで林道を進み、林道の橋の下の河原で調査をしました。
 明け方まで降っていた雨で、川に下りるだけで、草露で靴の中までぐっしょり濡れてしまいました。冷たかったですが、心地よいものでした。深山幽谷という気分にさせられるところでした。
 教科書どおり、上流では、石の大きさは不揃いで、角張っています。そんな当たり前のことを、これからしばらく研究していくつもりです。地域の自然そのものをデータベースとしたいと考えています。もちろん科学的原理の追及は重要ですし、行なうつもりです。素朴に自然を感激できるようなデータベースを構築したいと考えています。
 まだまだ、途上ですが、北海道のすべて一級河川の石ころと、北海道の全火山、北海道の河川と海岸の砂のデータベースをつくりたいと考えています。数年かけてつくり上げていくつもりです。その利用方法や、科学的な部分も、遊びの部分も、これからいろいろ考えながら、少しずつ充実していくつもりです。
 いつの頃からでしょうか、私は、人里はなれた山奥にくるとホッとした気分になります。最初は一人で山に登ったりするのは怖かったのですが、大学生のころ、自分の好きなところを、好きのときに、好きなように登りたいと思うようになり、単独行の山登りをはじめまして。その後、地質学を目指す学生として、調査は一人でするのが当たり前となり、深い山をひとりであるくようになりました。
 天気が悪いときは嫌な時ももちろんありましたが、気分のいい時、すばらしい沢を登っている時など、渓流の奥深くに滝や野生で生物に出会ったとき、こんな景色、こんな気分を独り占めする幸せを味わっていました。そのころからでしょうか、人里はなれた山にくると、なぜかホッとした気分になるようになったのです。

・夏が忙しい・
とりあえず、昨年の雪辱は半分くらいは果たせました。
でも、まだまだ、心残りがあります。
出かけるたびに、その地は、いつの日にかまた来たいという気持ちが残ります。
こんな地が増えていきます。
調査が目的となると、ある程度の収穫があると、
次の目的の地へと進まなければなりません。
とどまることはできないのです。次を目指さなければなりません。
北海道は広いです。
上で述べましたような目的を数年で果たすには、
何度も調査にでなかればなりません。
でも、限られた時間、許された時間で行なわなければなりません。
本当に目的が果たせるのでしょうか。
でも、調査していて楽しいのがいちばんです。

・調査の成果・
今回の道南の調査では、次のような成果をあげました。
デジカメによる撮影は、1,269枚で、
一部動画を含みますが、1.6Gbになりました。
調査した川は、国縫川、後志利別川、尻別川で、
国縫川以外は、目的の一級河川です。
石の調査は、8ヶ所でしました。
そのうち統計的調査は、5ヶ所でおこない、700個以上の資料を採集しました。
砂は、15ヶ所で採集しました。
火山の撮影は、室蘭岳、有珠山、昭和新山、羊蹄山、尻別岳、
ニセコアンヌプリ、 雷電山、洞爺湖中島の8山でおこないました。
支笏湖周辺の火山を、最終日に撮るつもりでしたが、
小雨で霧のため、撮影できませんでした。
これから、調査の写真と資料の整理が控えています。
これが、時間がかかり、単調ですが、楽しいものでもあります。
面白い結果が出そうな予感があります。
そして、データを出しながら、次なるターゲットに向けて、夢が膨らむみます。

2003年7月17日木曜日

5_25 海底は何からできているか(その2)

 研究者は智恵と技術によって海底の石を手にとって調べることができるようになりました。そんな知識から、海底の姿がわかるようになってきました。

 ボーリングという大地をくりぬく技術が、海底でもできるようになって、海底をつくっている岩石の様子が、わかるようになりました。海底の岩石を順番に見ていきましょう。
 海底のいちばん表層には、堆積物があります。海底の堆積物とは、微生物の遺骸です。潜水艇がもぐる映像をみると、真っ暗な深海に雪のように降り積もるものがあります。これは、プランクトンの死骸です。死骸の有機物の部分は時間がたてばなくなりますが、硬い殻の部分が残ります。硬いからは二酸化珪素からできます。これが固まったものが、チャートと呼ばれる岩石です。
 チャートは縞状をしています。これは、プランクトンの活動が活発なときと活発でないときがあるためだと考えられます。例えば、暖かい時と寒い時、雨期と乾期などの季節変化が起こる場合です。
 生物の活動の低下しているときには、チャートになるために二酸化珪酸はほとんどたまりません。二酸化珪素がたまらないときには、量は少しですが、遠くの火山から飛ばれてきた火山灰やはるか大陸から飛んできた細かいチリが、粘土としてたまっていきます。このような季節による生物の活動量の変化が縞模様に原因となります。細かいチリは、いつでも少しはふっているですが、生物の活動が活発なときには、ほとんと目立たなくなります。
 チャートの下には、玄武岩とよばれる黒っぽい火山岩があります。玄武岩は、富士山や伊豆大島などの陸上の火山でも見られる岩石です。しかし、同じ玄武岩でも、海底の玄武岩は、枕を積み重ねたような不思議な形をしています。このような玄武岩を枕状溶岩と呼んでいます。
 枕状溶岩は、海底あるいは水中でしかできないつくりです。マグマが水中で噴出すると、水は冷たく、マグマを急速に冷まします。冷めたマグマは岩石として固まります。でも、表面が岩石として固まっても、中にはまだ溶けたマグマあります。岩石自身は断熱効果が強く、熱を伝えにくいためです。
 あたからあとからマグマが噴出す火山噴火では、岩石の弱いところを見つけて、マグマが飛び出します。それは、まるで、マヨネーズをチューブから押し出したように、丸い円筒状にマグマか流れ出ます。そんなマグマも水に冷やされ岩石として固まります。海底火山では、これが繰り返されることになります。枕状溶岩は、水中でのこのような繰り返しでできたものです。
 枕状溶岩の下には、不思議なものがあります。それは、溶岩の数cmから数十cmくらいの厚さの岩石の板が平行に並んでいるものです。一枚一枚が枕状溶岩を供給したマグマの通り道だと考えられています。
 マグマが地下から上昇してくると、上にあった岩石が割れてます。するとその割れ目が、直線的に延びるため、マグマもその割れ目を埋めていきます。マグマの供給が止まると、その通り道が岩石の板として固まるのです。このような岩石は、岩脈(かんみゃく)と呼ばれます。岩石は玄武岩か玄武岩がややゆっくりと冷えて粒の大きくなったドレライトと呼ばれるものからできています。海底では、マグマがいつも同じ割れ方をするところに供給されていることがわかります。
 岩脈の下には、マグマがたまっていた場所である「マグマだまり」が固まったものがあります。斑れい岩と呼ばれる岩石からできています。斑れい岩は、玄武岩と同じような成分の岩石ですが、ゆっくり冷えたため、粒の大きな結晶からできています。
 マグマだまりの底には、マグマが冷えるといちばん最初にできてくる結晶でマグマより重い鉱物が沈んでいきます。マグマの底には、このような鉱物が縞状になってたまっています。これを層状かんらん岩とよんでいます。かんらん岩とは、マントルを作っている岩石と同じものです。ですから、このかんらん岩から下は、地震波などでマントルと同じ様な性質をもったものとなります。
 さらにした下には、マントルのかんらん岩でも、上の方に玄武岩のマグマを供給した残りかすのマントルがあります。このようなマントルの岩石はハルツバージャイトとよばれるものです。
 さらに下には、溶けた経験のないかんらん岩からできたマントルがあります。
 これが、海底下にある大地の構成です。多くの海底を調べた結果、この岩石の並びや、岩石の性質が非常に一様で似ていることが、海底の大きな特徴となっています。つまり、これは、陸地の岩石と違って海底の岩石が、いつでも、どこでも同じようなつくられ方をしていることを意味しています。

・科学者も人間・
Shiさんから、私は、「感情の薄い方」だと思われていたようです。
それが、私の前の母に関する文章で、そうでなかったと気付かれたそうです。
そんなメールに対して、私は、つぎのような返事を書きました。

「科学者も人間です。
そして、私は、理性的でありたいとは思っていますが、
感情に負ける人間です。
それは、つくづく思います。
以前、べつのところでも書いたことがあるのですが、
曽祖母や祖父の死の時はあまり感情的にならなかったのですが、
身近な肉親のして父の死があり、そのとき感情に理性が負け驚きました。

その父は、数年に亡くなりました。
実家は京都の田舎なので、田舎風の昔ながらのやり方で、葬式をしました。
初七日まで、毎日人がきて、何らかの行事がありました。
毎晩、喪主として立ち会わなければいけませんでした。
当時、Y大学で非常勤の授業を受け持っていたので、
たった1講のために京都-横浜間を新幹線で日帰りをしました。
でもこんな忙しさも葬式につきもののようで、
気を紛らわすという効用もあったようです。

それまで、自分は科学者であり、
おっしゃるように非常に理性的で、
感情に負けない理性を持っていると思っていました。
それまで、涙は出なかったのですが、
しかし、父の棺を閉める時、焼却炉の前で最後の別れの時、
突然自分でもわからないほど、涙が出て止まらなくなりました。
そのとき、心の隅に追いやられていた理性が、最後の最後に思ったことです。
「やっぱり自分にも、どうしようもない感情があったのだ」ということです。
それがもしかすると、理性に偏りすぎた私の生き方に対して、
最後に父が教えてくれたことかもしれません。

それはあまりにも大きな教えでした。
私は、すべてを合理性や理性によって考えることが正しいと考えていました。
そして、自分は今までそうしてきたし、
他の人も自分と同じように、頑張ったり、望んだりしたら
合理的な考え方になれるものだと考えていました。
でも、そんな理性的である自分のような人間にも
おさえ切れない感情があること、
そして当然他人にも同じような感情があることを身をもって知ったです。

自分にも他人にも、感情を認めることにより、
今まで簡単に解決できると考えていたことに、
解決不可能な部分があることが、身につまされて教えられたのです。
理屈では済まない部分を認知するということです。
その土俵でも、ものごとを考えなければならないということです。

私の興味はそちらに急速に向かっていきました。
父の出した宿題をすることです。
でも、これは、理性で感情をコントロールしようとしても
「いくらやっても解決できない」ということが、
私の現段階での答です。
人間である限り、感情の世界は捨てきれません。
感情の存在、それが心の全域を覆うこともあるということを
認めることにしました。
ごく当たり前の答えです。
でも、私は、感情に流されながらも、私は合理性の世界を目指します。
つまり、感情と理性の全面解決は求めない。
少しでも多くの人の役に立てばと考えるようになりました。

こんな簡単な答えを出すのに5年もかかりました。
もう父の宿題も終わりにしようと考えています。
大変、長い時間のかかった宿題でした。
でも、自分の世界を大きく広げる結果となりました。
父に感謝しています。
そして、母を大切にしていきたいと思っています。
ありがとうございました。」

というものです。
私も、そしてすべての科学者も人間です。
ただ、理性を重んじています。
でも、感情も併せ持つ人間です。

2003年7月10日木曜日

5_24 海底は何からできているか(その1)

 今まで大地をつくる石といいながら、陸地ばかりを見てきました。海の底にも大地、つまり地殻は広がっています。海底をつくる石はどのようなものからできているでしょうか。

 地球の表面の3分の2は海が占めています。しかし、海の下にも大地は広がっています。では、海の下の大地が、どのような石からできているかを見ていきましょう。
 海底の石がどのようなものからできているかを知ることは、科学者の長年の夢でもありました。でも、なんといっても海は広く深く、なかなか海底の石を調べることはできませんでした。しかし、科学者は、さまざまな智恵と技術によって、科学者は世界各地の海底の石を調べることができろようにないました。
 鉄の網でできたカゴにひもをつけて、海底におろし、船でそのカゴを引っ張ります。網の目を粗くしておくと、その目より大きなものだけが残ります。それを引き上げると、海底に転がっている石ころをとることができます。言葉でいうと簡単ですが、4,000、5,000メートル、時には10,000メートルあるような深いところを、カゴをひきずっていくわけです。ひもは丈夫なワイヤーにしなければなりません。すると数1000メートルのワイヤー自身の重さも大変なものになります。おろす時間、上げる時間を考えると大変な労力が必要です。このような調べ方は、ドレッジと呼んでいます。ドレッジ専用の海洋調査船が必要になります。
 ドレッジによる調査を世界各地の海で行うことによって、海底に転がっている石の様子を知ることができます。でも、これには問題があります。もし、陸地で同じようなことをして、石ころを集めたとすると、その問題点がわかります。
 石ころは、たまたまそこに落ちていたものです。そこの大地をつくっていたものかどうかはわかりません。さらに、石ころは表面に転がっているものです。これは、陸地の表層を調べるときに地質図をつくりましたが、そのとき無視していたものにあたります。
 ですから、本当に海底をつくっている石を知るには、なんとか、海底深くの岩石を手に入れる必要があります。そこで、考え出されたのが、海底を掘り抜く方法です。ボーリング(掘削)と呼んでいます。陸地でも、大きな建造物をつくるときは、たいていボーリングをします。穴の開いた筒を大地に突き刺し、その穴の中に大地の岩石をくりぬいて地表に持ち上げる方法です。この方法を海底でもおこなえばいいのです。
 ところが、これも大変な技術を必要とします。数1,000メートル下の海底めがけて、長い筒を下ろして掘り進まなければなりません。数1,000メートルの長さのボーリングの筒の重さは並大抵ではありません。
 それに、海底の石を取ってくるためには、ちょっちゅうボーリングした筒を船の上まであげて、岩石を取り出し、またおろすというという作業が必要です。大変な手間がかかります。
 さらに大変なのは、ボーリングの筒を同じ穴に下ろさなければならないのです。ボーリングの先端の直径を50センチメートルしましょう。海底の深さを5,000メートルとしましょう。これを陸地の場合を考えてみましょう。5キロメートル先の50センチメートルの的を狙うことになります。あるいは500メートル先の5センチメートルの的を狙うことになります。見えないような的を何度も狙わなければなりません。それも的に当たらないと作業が始まらないのです。さらにこの作業の大変さは、海面は波でゆれたり、風や海流によって流される作業船の上からしなければならないことです。でも研究者はそのような困難な作業を成し遂げました。
 その結果は、次回紹介しましょう。


・母について・
前回の私の母に関する文章は思わぬ、波紋をよんでいます。
Kabさんから、いただいたメール対する私の返事です。

「私の祖々母と祖母は、自宅で母の介護の後、自宅で死にました。
父は大腸ガンでしたが、入退院を繰り返しながら、
最後は、自宅療養し、病院に入院した直後になくなりました
医者嫌いの父は、自宅で母にわがままを言いながら介護を受けていました。
母は、3人の肉親を介護し、見取ったのです。
私は、祖々母以外は、自宅を離れていたので、
その苦労を目にすることなく、母から聞くだけでした。
その母が、今は高齢なので、心配です。
近所に住んでいる弟夫婦がいくいくは同居する予定なので、
少しは安心なのですが、それほど喜ばしいことでもなく、
心配でもあります。
母をこちらに呼ぼうと思ったのですが、
やはり長年住み慣れたところがいいと、
私とは同居するはなく、京都を離れません。
足が痛いようですが、天気さえよければ、
畑で野菜をつくる日々を送っています。
現在の状況が、母にとって健康にも、
精神的にもいちばんよさそうなので、
できる限りそうしてもらっています。
そして、チャンスさえあれば、こちらに呼んで、
温泉などに連れて行ってます。
でも、限られた時間ですので、
母を疲れさせるだけのようで心苦しい気もします。
でも、余り長い滞在だと母が嫌がります。
今回も10日か2週間ほど滞在するようにさそっていたのですが、
畑の世話や家を空けることが心配といって、
6泊7日の滞在となりました。
あと何度、母と顔をあわすチャンスがあるでしょうか。
私が、学生時代からすれば、母と顔を合わす機会、
電話をする機会は大部多いです。
でも、母に残された時間を考えると、
今までの親不孝を考えると、
できる限り、あっていこうと思います。
私がなにをいっても自宅を離れたがらないのですが、
子供たち、母からすれば孫たちが電話でおいでさそうと、
その気になってくるようです。
ですから、電話のたびに子供たちにはおいでというようにさせています。
Kabさんの介護の話から、私の母の話へとなりました。
私事ばかりになりました。」

・贈る言葉・
私の教養のゼミの学生のA君が就職の内定が出たといって連絡がありました。
そんなA君に向かって私は、次のようなメールを送りました。

「内定、おめでとうございます。

じじ臭いですが、お話を一つ。
会社は、あなたという人間をみて、採用してくれたのだと思います。
では、来年春から、あなたは、会社の期待通りの社員になりたいですか。
そうすれば、多分、あなたも会社もやりやすいでしょう。

私は、期待を外れて欲しいと思います。
あなた自身の期待からも、外れて欲しいと思います。
つまり、現在の自分から、より大きな自分にむけて、脱皮して欲しいのです。
そのために残された半年を有効に使って下さい。
もしかすると、変わったあなたは、
会社のあなたに対する期待とは違うかもしれません。
でも、あなたが会社のために良かれと思って変わるのであれば、
いいのではないでしょうか。
その時は、期待から外れてしまうかもしれません。
でも、もしかするとそんな期待から外れることが、
将来、あなたにとっても、会社にとっても、
より大きな益となるかもしれません。

今の自分に決して満足することなく、
奢ることなく、
浮かれることなく、
我を忘れることなく、
あと半年間の大学生活を、付録と思わず、
生きていって下さい。
変わった自分を会社に見せつけるほどの気持ちをもって、
半年間を私はこんなに使い、
こんなに自分は変わったのだといえるような、
学生生活を送って下さい。

たった半年。されど半年。
気持ち次第で活用ができるはずです。
これからが、あなたの本当の価値が問われるのではないでしょうか。
そして、もし変われた自分がつくれるのであれば、
そんな能力はきっとこれから役に立つはずです。
社会に出てからできないことが、
この大学できっとできるはずです。
考えて下さい。
悩んで下さい。
そして成長して下さい。
期待しています。
ではまた。」

私にとっても、時間は同じように大切であるはずです。
それを再確認するメールでもありました。
半年後の私は、成長しているでしょうか。

2003年7月3日木曜日

6_29 川と人との共存

 「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川ですが、四万十川は清流というだけでなく、日本の川として今では他の川であまり見かけなくなったものがあります。それは、川が人々の中で活きているということです。日本の川と人とのいい付き合い方が、ここにはあるような気がします。かつては、日本中でみられた川と人の付き合い方が、今でも残っている数少ない川ではないでしょうか。

 私は、四国には住んだことはありませんが、縁があって、四国にはたびたび出かけます。そして、四万十川も、出かけるたびにではないのですが、ときどき訪れるチャンスがありました。しかし、それはちょっと立ち寄るという程度でした。先日、四万十川だけを、じっくり眺めにでかけました。
 四万十川を源流から河口までたどってみて、いちばん感じたのは、激しく蛇行している川だなということです。まるで、大陸を流れる大河の小型版を見ているような気がしました。四万十川は、四国山地を源流としていますので、上流の川は急流ですが、少し下ると、もう穏やか流れとなり、蛇行をはじめます。そして、いったん海に8kmまで近づくのですが、まだまだ長い流れを経た後、やっと海へと注ぎます。
 四万十川の川原の石や砂を調べながら下っていくと、不思議なことに気づきました。川原をみると、石ころは一杯あるのですが、砂が非常に少ないのです。もちろん皆無ではありませんが、探して採集しようとするとなかなか見つかりません。
 なぜでしょうか。多分、2つの原因による蛇行によって流域面積の狭さためではないでしょうか。
 川が蛇行をしているのは、傾斜の緩やかな平野や平らなところを流れるためです。蛇行をするようなところでは、川の作用として削剥や運搬より、堆積の作用が働くところです。ですから、砂のような堆積物がたくさんたまっていいはずです。
 ところが、四万十川の場合、四国山地の奥深くを急流として流れる面積が少ないのです。つまり、削剥をうけ、砂を供給する面積が少ないということです。さらに、四万十川は、それほど広い地域から水を集めているわけではないのです。四万十川の流域面積は2270平方kmで、流路(幹線流路延長)は196kmです。流路に対して流域面積は12km2/kmとなり、日本の大型河川でも、もっとも小さいものとなっています。
 川の長さに比べて、流域面積が小さいということは、砂を集め、つくるための面積が少ないことになります。蛇行が激しいと、川が運搬の過程で石を砕くという作用も、それほど強くないことを意味しています。ですから、石ころだけで、砂だけが少ない川となるのでしょう。
 もちろん洪水があれば、激しい削剥、運搬の作用が働きます。でも、その洪水が収まると、小さく軽い砂は運ばれ続けますが、大きく重い石ころは川原に残るのです。このような原因によって、四万十川には砂があまり見当たらないのでないでしょうか。
 四万十川で、このようなことがわかるのも、川が本来もっている特徴をよく残しているからです。それは、四万十川がもっている蛇行が、人によって矯正されることなく、大型のダムもなく、ありのままの姿で流れているからです。もちろん、護岸をされているところや、堰も、生活廃水がそのまま流されているところもあります。ビニールやビンなどのごみもみかけます。ですから、まったく自然のままの川の姿というものではなく、人手が加わっています。
 ごみをみて自然じゃないというの早計です。人の生活の痕跡は、人がその地で暮らすとき、きっと残るものです。里山や雑木林も同じようなものでしょう。人がその地で生きるということは、自然から恵を得るということです。自然は恵みだけでなく、災いももたらします。もちろん、災いはありがたくないものですから、人は災いを避ける努力をしてきましたし、これからもしていくでしょう。
 それを、どこまで、どの程度おこなうか、どのような視点で考えておこなうかが問題ではないでしょうか。例えば、川をまっすぐに矯正すること、護岸をすることで得られるメリットとデメリットを、慎重に考えることが必要だと思います。
 もちろん、そのような対策をすれば、当面の災いをそれで取り除けるでしょう。でも、長い時間、数10年や数100年のスケールで考えて処理すべきではないでしょうか。いちどいじった自然を元に戻ることほど、ばかげたことはありません。それに、多くの河川や海岸線でそのような矯正の実例は、一杯あります。そこから学ぶべきでしょう。
 長い時間を視点にした川との付き合い方を忘れてはいけないような気がします。これこそ今よくいわれる持続可能性だと思います。そんな長い時間をかけた川との付き合いは、じつは何100年にもわたって私たちの祖先はやってきました。もちろん治水もやってきました。でも、過去の治水は、四万十川でみたような、人がそこで川を最大限に利用して生活できる程度のものであったはずです。祖先たちは、川の本来の姿を残したままの付き合い方をしてきたのです。
 智恵ある生物、人として、同じ失敗をしないだけの智恵、うまい付き合いの方法を忘れないだけの智恵を持ちたいものです。

2003年6月26日木曜日

5_23 大地は何からできているか(その2)

 量を比べるときは、範囲を限定しなくていはいけません。大地は何からできているかという場合、「陸地の表面」ということに限定しましょう。

 大地、つまり地殻をつくっているものは石です。どのような石が、地殻全体にわたって、どこに、どれだけ分布しているかが正確にわかっているわけではありません。表面部分だけであれば、地質図を手がかりに知ることができます。でも、地殻の深い部分まで含めて全体にわたって知ることはできません。
 表層について知ることも大切です。そこに深部を知る手がかりがあるかもしれません。大地の表層が、どんな石からできているか、見ていきましょう。
 手元ある理科年表(2003年版)を参考にしていきます。日本列島と北欧、北米での岩石の比率が出ています。まずは、日本列島から見ていきましょう。
 日本列島における岩石の分布面積が示されています。一番多いのが。堆積岩で58%(面積では22.0万平方km)です。次いで、火成岩が38%(14.2平方km)で、その内訳は、火山岩が26%(9.8万平方km)、深成岩が12%(4.4万平方km)です。一番少ないものは、変成岩で4%(1.6万平方km)となっています。
 日本列島をつくる石は、堆積岩が一番多かったのです。堆積岩と考えた人は正解でした。私たちが、日本全国の山や海岸で見かける崖の半分以上は堆積岩が占めていたのです。ただし、これは、平均です。住んでいる地域によって堆積岩ではなく、火山岩や深成岩のがけが多いところも、もちろんあるはずです。でも、平均すると上で示したような値となる訳です。
 さて、日本列島を覆っている岩石を見ていきましたが、日本列島の値が地球の陸地の平均となるのでしょうか。それを比べるために大陸地域である北欧と北米を見ていきましょう。
 北欧のノルウェー(2ヶ所)とフィンランド(1ヶ所)のデータがあります。ノルウェーの1ヵ所は、日本と似たようなできかたをした造山帯のデータです。造山運動とはいっても、日本のものと比べて、もっと古い時代の6億から3億年前の古生代におこったカレドニア造山帯とよばれるものです。ここでは、いちばん多いのは堆積岩とその変成岩で、51%です。ミグマタイトと呼ばれる岩石が溶け出しかけた変成岩が36%で、いちばん少ないの火成岩の13%です。
 堆積岩が多いのは日本と似ていますが、高度の変成岩が多いのは、ノルウェーのカレドニア造山が古い時代のものだからです。のちの時代の変成作用を受けていることと、長い年月で上の地層や岩石が侵食でなくなったので、深部の岩石が地表にでていることで、変成岩の比率が多いと考えられます。
 
 ノルウェーのもう一つのデータは、先カンブリア時代の楯状地とよばれる古い大陸地殻のものです。このデータでは、48%が高度の変成岩であるミグマタイトで、花崗岩を主とする火成岩が35.8%になり、堆積岩は12%です。先ほどとは違った答えが出てきました。堆積岩がいちばん少ないのです。それに対して、火成岩や変成岩の比率が多くなっています。この傾向は、フィンランドのデータも同じような傾向を示しています。火成岩が61%で、変成岩が22%で、堆積岩が18%です。
 火成岩の中でも花崗岩の比率が多くなっています。ノルウェーの先カンブリア時代の花崗岩は33%、フィンランドでは53%になります。
 大陸地域では、造山帯は堆積岩が多いのですが、古くなると堆積岩の比率が少なくなり、変成岩と火成岩の比率が多くなります。古生代以降の造山帯は、世界各地で見られますが、全大陸で占める割いは、多く見積もっても、半分にはなりません。その造山帯でも、堆積岩の占める割いは、52%ですから、陸地全部の中では、30%前後にしかならないでしょう。
 火成岩は花崗岩が多くなり、変成岩も花崗岩起源のものが増えてきます。大陸は、花崗岩およびその変成岩が、そのおもな構成物とみませます。つまり、大陸は、花崗岩とその変成岩からできているといえます。やっと答えがでてきました。

・発展と不便・
Shiさんからの環境問題についてメールがありました。
環境問題について、私は、次のような考えを示しました。

「地球というレベルで考えると人類のしていることは、ささやかなことです。
でも、人間のレベルで考えると、ことは重大になります。

人間とは、身勝手なものです。
智恵があるために、寒かったら暖かくしたり、
不便だったら便利にしたりします。
これが人類を大いに発展させたのです。
かつては、生存競争のために智恵を使っていたのですが、
今では楽をするために智恵を使っているのです。
人間とは、身勝手なものです。

自分たちが楽したいために、我慢をするということを
捨てているように思います。
まさに「飽食」の種ではないでしょうか。
地球の今までの蓄えも食いつくし、従来の生態系や環境システムも、
変更を余儀なくさせる存在なのです。

でも、地球生命として生まれたのですから、
これも何かの必然が働いているのかもしれません。
もしかすると、先にあるのは人類という種の自滅でしょうか。

ほんの2、300年前までは、少なくとも日本人は
自然を食い尽くすようなことはしていませんでした。
自然と共存していました。
まさに持続可能な自然と人間生活の共存です。
そのかわり大いなる発展は放棄していました。

江戸時代の人たちと現代人は、どちらが智恵がある生き物なのでしょうか。
わからなくなります。

私も現代の便利な世界に生きる人間です。
ですから、飽食の片棒を担いでいます。
いまさら、江戸時代の生活にもどれといっても不可能です。
かといって、贅沢を知り尽くした先進国の人間に、
どうすれば地球に優しい生き方ができるでしょうか。
たぶん、自律的に達成することは不可能だと思います。

なにかの緊急事態がおきて、それで仕方なく不便を強いられるとか、
生か死かという選択で生を選び不便でも生きているほうがいい
というような事態がないと不可能かもしれません。

地球環境の変化を人類は智恵を持って防ごうとしています。
でも、発展を維持しながら、贅沢をしながら、環境も守ろうというのは、
虫が良すぎるのではないでしょうか。
やはり、持続可能な自然との共存には、発展を捨て、
不便に耐えなければならないのではないでしょうか。

と、人類の未来を考えるとどうしても、小さい視点で、
「わが身かわいさ」の発想をして、最終的には、悲観的結論になります。
なるようにしかならないという、あきらめに似た気持ちとなります。
ですから、私は、あまり人類の未来を考えたくないのです。

でも救いは、人類が何をしようとも、地球や生命の総体、
環境は少々変化しますが、残るはずです。
それは、いままでの地球や生命が潜り抜けてきた激変に比べれば、
人類のしていることはささやかなことだからです。
私は、地球的発想で考えていきたいと思います。

ちょっと暗い話なりました。」

という返事を書きました。

2003年6月19日木曜日

5_22 大地は何からできているか(その1)

 地球の表面で一番たくさんある石は何でしょうかと聞かれたら、どう答えるでしょうか。多分、さまざまな答えが返ってくると思います。では、地質学的に見た場合、答えはどうなるか見ていきましょう。

 地球表面をつくるものはどのようなものでしょうか。これでは、漠然としているので、とりあえず、陸地をつくるものとしておきましょう。
 この質問に対して、ある人は堆積岩、ある人は花崗岩、火山岩、変成岩などと答えるでしょう。またある人は、石なんかなくて砂や土だというかもしれません。このようなさまざまな答えが出るのは、2つの理由があると思います。
 ひとつは、大地をつくるものというと、いちばん表層の物質を見ている可能があることです。もう一つは、自分たちの住んでいる地域のものを頭に描いて答えるので、それぞれの地域の特性を反映している可能性があることです。
 日本では、大地の表面の多くの植物が覆っています。すると植物の下には、1メートルほどの土壌があります。それを想像した人には、石なんか大地にはないという答えが出てきます。でも、大地には石はないのでしょうか。あってもその地域には少ししかないのでしょうか。あるいは、地球の大地には、石はとてもまれなものでしょうか。
 高山に行くと植物がなくなり、土壌もなく岩だらけの地面が広がるところもあります。ですから、地表にはつねに植物や土壌があるとは限らないのです。山の工事現場や海岸の切り立った崖では、硬い岩盤がでていたり、地層が出ているところを見たことをある人もいるでしょう。つまり、地下のどこでも土壌があるわけではないです。
 また、岩盤が広がっているところでも、地域によって、その岩盤の種類は違ってきます。例えば、日本でも、大島、普賢岳、有珠山の近くくすむ人は火山岩で大地はできていると思っているかもしれません。神居古潭渓谷に住む人は変成岩の大地だと思うでしょう。他にも、秋吉や四国山地のように石灰岩の広がるカルスト地域に住んでいる人もいるでしょう。六甲山や目覚めの床の近くの山地では、花崗岩がつくるきれいな大地に住む人もいるでしょう。大谷石の産地では凝灰岩の大地もあるでしょう。鳥取砂丘の近くに住む人は、岩盤なんかなく大地は砂ばかりという人もいるでしょう。このような地域の人に住む人は、土壌は、大地の主要なものではないと考えるかもしれません。
 日本でもこれくらいの多様性があるのです。もし、世界中の人に聞けば、もっとさまざまな答えが返ってくるでしょう。極地に住む人たちは、氷や永久凍土が大地をつくっているというでしょう。ヒマラヤやアルプスの山地に住んでいる人は、氷河に削られた大きく褶曲した地層が大地をつくるものだというでしょう。砂漠、湿原、草原、森林など地球の表層はさまざまなものが覆っています。
 このように考えを進めていきますと、身近なものだけで判断してはいけないということがわかるでしょう。さらに、一番表層にある物質だけを基準に考えると、大地を構成する間違った判断を下す可能性があると思えてきます。
 このような比較を厳密にするためには、表層にある薄いものだけ基準とせず、地下に深くに厚く広がっているものを基準としたほうがいいのではないでしょうか。
 このような考えで、地質図というものはつくられます。地質図とは、大地を構成している岩石あるいは地層に基づいて描かれています。表層の薄い土壌や植生は無視して描いてあります。実際の量は次回見ていきましょう。

・素朴な疑問シリーズ・
素朴な疑問シリーズが続きます。
今回は大地にある岩石はどんなものかです。
本当に大地をつくる岩石がどんなものか
多くの人が納得する答えがあるのでしょうか。
答えは次回ですが、
そんな方法も考えること大切です。
なぜなら、それが地球表層の平均的な岩石、
あるいは組成を知ることにつながります。
さらにそれは、地殻や地球の平均値を知ることになります。
それは、地殻や地球のでき方へのヒントなります。

・大気と海洋の関係・
Shiさんから、石灰岩に関連して、酸性雨について質問がありました。
その質問に私は以下のように答えました。

酸性雨と二酸化炭素の関係についてですが、
酸性雨はどんな時代もありました。
それは、大気中に火山などで放出された成分(硫化水素など)が、
水に溶けて酸になって酸性雨となります。

有史としては残っていないような大噴火があったことも
地質学的記録には残っています。
そんな噴火の時には、酸性雨となる成分を大量に放出します。
これが陸地の固体にかかると、溶けやすいものは、溶かします。
その溶けやすいものには、石灰岩も含まれます。
大噴火でなくても、ある一定の量は雨に含まれています。

これは、長い時間、地球の表面では行なわれてきた作用ですし、
人類が関与しなくても行なわれてきたことです。
その一端が石灰岩地帯にみられる、カルストであり、鍾乳洞です。
このような作用の結果、陸地に蓄えられた石灰岩が、
そのまま永久に固体として陸地に残るのではなく、
少しずつ大気や海に帰っていくのです。
このような作用は、二酸化炭素の地球表層の大きな循環といえます。

人類が酸性雨のもととなる各種の酸を増やしたので、
一時的に酸化が進んでいます。
でも、これは、地球としてはじめての経験ではなく、
もっとはげしいことをおこっています。
上で述べたような大噴火のときや地球初期もそうだったはずです。

酸化によって固体から出てきた成分は、
イオンとして液の中に溶けようが、気体として大気にでてこようが、
長い目で見れば、大気と海洋(あるいは雨)との平衡関係によって、
ある一定値となるはずです。
そのような平衡になる時間は、
大気や海洋での滞留時間としてある程度わかっています。

この平衡にかかる時間は、人類にとっては長い時間ですが、
地球にとっては、かなり早い時間としてとらえられます。

地球的視点で捉えれば酸性雨はたいしたことはなく、
よくある出来事となります。
人類の視点で捉えれば、人類にとっての地球環境問題となります。
人類的視点で考えるときも、
地球や他の生物をどの程度配慮するかは明確にすべきでしょう。
いままでの議論は、このような立場や視点を曖昧にされている場合が
多いような気がします。

2003年6月12日木曜日

5_21 地球はどれほど大きいか

 地球は大きいです。しかし、その大きさを、人はどのようにして知ったのでしょう。どのようにして、正確に測定したのでしょうか。最初に地球の大きさを測ったのは、いつごろのことで、だれだったのでしょうか。地球がどれほど大きいかを考えていきましょう。

 人間の大きさと比べて、地球は非常に大きいことは、だれでも知っています。では、自分の身長や、1mを単位としたとき、どれほど大きいか見当がつきますか。この答えを求めることは、地球の大きさを測ることになります。自分がその中にいて見当もつかないほど大きいものの大きさは、どのようにしてはかるのでしょうか。
 今の時代なら、宇宙から、地球を眺めれば、その大きさを正確にはかることができます。でも、宇宙からはからなくても、ちょっとしたアイディアがあれば、地球の大きさを求めることができます。そんな先人のすばらしいアイディアを紹介しましょう。
 最初に地球の大きさをはかったのは、古代ギリシアのエラトステネス(BC276年ころ~BC196年ころ)でした。紀元前250年ころ、エラトステネスは、次のような方法で、地球の大きさをはかりました。
 エラトステネスは、アレキサンドリアとシエネ(現在のアスワン)では、夏至の日に深い井戸のさし込む日差しの違いに気づきました。夏至の日に、シエネでは、深い井戸の底にも日がさし込んでいました。つまり、太陽は、シエネでは真上にあったわけです。ところが、アレクサンドリアでは、深い井戸に影ができていました。その角度は、円周の50分の1(7.2度)ほどでした。シエネは、アレキサンドリアから真南に、当時の単位で5,000スタジア離れたところありました。
 このような情報から、地球の円周は、5,000スタジア×50で25万スタジアになります。ですから、当時の数学の知識から、円周率の2倍で割れば、半径は求めることができます。地球の半径は、約4万スタジアとなりました。
 当時の長さの単位である1スタジアは、158mといわれています。ですから、今日の単位にすると、地球の半径は6290kmとなります。現在では、半径は6371km(平均半径、極半径は6357km)ですから、その誤差は1.3%(極半径では1.1%)というものでした。
 5,000スタジアは79kmです。その距離を正確ではかるのは容易ではありません。アレキサンドリアとシエネの距離はどのようにして求めたかは定かではありませんが、砂漠の商隊などで、よく訓練された人やラクダの歩くスピードなどを使ってはかったのではないかと考えられています。
 現在でも、地表での測定は、エラトステネスと測定方法をより精度をあげておこなっているにすぎません。その方法は、さえぎるもののない大平原で、できるだけ広く距離をとって、その距離を三角測量し、その実測距離と経度差(円周の何分の一にあたるか)で調べます。
 もちろん、地球は完全な球ではありませんので、場所によって大きさが違います。例えば、子午線1度(地球の北極から南極まで、180度としたときの緯度分)の長さは、赤道では110.57kmですが、経度30度(赤道から角度で30度分)のところでは110.85km、経度60度では111.41kmとなり、1%近い誤差があることになります。
 エラトステネスの測定精度には、現代の精度に匹敵するほどのものです。たとえその誤差とが大きかったとしても、エラトステネスのアイディアに驚かされます。たまたま深い池でそのような現象に気づいたことが発端でしょうが、それを地球の円周や半径を求めるに利用しようという発想がすばらしいものです。そのアイディアは現代までに活きていたのです。この発想こそが、智恵というものです。こんな智恵を生むことができる人間がなりたいものです。私では、もう手遅れでしょうか。

・すばらしい発想・
すばらしい発想、智恵は、
たとえその結果が、後に大きな誤差を含んでいたとしても、
人類の知的遺産として、価値あるものです。
そして、そんな智恵を誤差が大きいからといって
葬り去らないように注意すべきでしょう。
そのような発想を次に得ることができるには
長い時間がかかるかもしれません。
そんな人たちの智恵は、人類の宝です。
いくら賞賛してもやまないもののはずです。
そして、そんな智恵を人類の知的遺産に
付け加えた人を賞賛すべきでしょう。
賞や賞金を与えるなどというささやか報奨ではなく、
人々の記憶にとどめ、
歴史に残すことこそ、本当の報奨ではないでしょうか。

・疑問シリーズ・
素朴な疑問シリーズです。
今回は地球の大きさでした。
現代では、地球の大きさは
人工衛星の運動を精密に測定することにで、
より正確に地球の大きさをはかることができます。
そして正確になればなるほど、
地球のいびつさが見えてきます。
地球は赤道で切ったとすると、楕円となります。
また子午線で切っても
楕円で、北極で出っ張り、南極でへっこんだ
いびつなかたちをしています。
精しく見れば見るほど、アラが見えてくるようです。
まるで、美人を見たときのようです。
おっと、これは、セクハラになる発言でしょうか。

・引越し・
私事になりますが、
6月7日に新居に引っ越しました。
荷物が片付かず、落ち着きません。
思い起こすと私は、これで、14回目の引越しです。
転勤族ではないのですが、やむにやまれずに引っ越しました。
私は、余り気にならないのですが、
子供に精神的負担をかけているので、それがつらいのです。
今回の移動も子供に負担をかけないように選びました。
同じ市内での移動です。
いままでの借家住まいから、
自宅への引越しです。
ここが終(つい)の住まいとするつもりで、
新築しました。
もちろんローンです。
健康と将来のことを考え、分不相応の家となりました。
幸い、築8年モデルハウスが売りに出ていたので
安く購入できました。
北海道の木だけでつくられた家です。
そして北海道の産の桂の木を使った家です。
できて年数がたっているせいで、
桂の木が飴色のようないい色合いになっています。
まあ、これ以上言うの自画自賛になりそうです。

2003年6月5日木曜日

6_28 奇岩に秘められた大気の謎

 鉄鉱石の起源(2003年4月号)と酸素の由来(2003年5月号)について紹介してきました。今回は、それらと密接な関係がある二酸化炭素の話をしましょう。中国の雄大な景観に、その謎をとく鍵がありました。

 悠久の中国というと、どのような景色を想像するでしょうか。それは、山水画の世界のようなものでしょうか。それは、奇岩の岩山が立ち並ぶ間を大河が流れ、朝霧に川面には、漁をする小舟が浮かんでいるでしょうか。そんな景色は、山水画の世界だけでなく、石林や桂林に行けば、現実のものとしてみることができます。中国でなくても、似たような景色は、規模は違いますが、地球のいたるところで見ることができます。
 石林や桂林の奇岩をつくっている岩石は石灰岩です。石灰岩は、それほど珍しい岩石ではありません。石灰岩は、日本の都道府県には、どこにでもあるといわれるくらい、ありふれた岩石です。また、石材としてもよく利用されています。石灰岩がたくさんある地域は、石灰岩がつくりだす固有の景観をつくります。石灰岩台地や鍾乳洞などがそうです。その不思議な地形は、観光名所になります。
 石林や桂林の景観は、どのようにしてできてきたのでしょうか。もちろん、長い年月をかけてできたはずです。
 現在の奇岩の景観そのものも、人類にとっては気の遠くなる時間ですが、地球の時間からすると、石灰岩の地域が奇岩となるまでの時間、あるいは奇岩としていられる時間は、それほど長い時間ではありません。それよりもっと長い時間が、その背景には流れているのです。
 その時間とは、現在の奇岩が、今のような姿になった時間ではなく、奇岩の元となる岩石ができて、今の位置に来るまでの時間のことを意味します。つまり、石灰岩が海ででき、そしてプレートテクトニクスという地球の営みによって陸地に持ち上げられ、そしていろいろな変動を潜り抜けて、何億年という年月の後に、今の地に、石灰岩はたどり着いたのです。その後に、雨や河川によって削られたのが、いまの石林であり、桂林であるのです。
 つぎに、石灰岩のでき方をみていきましょう。石灰岩は、いろいろな時代のものがあります。古生代以降の石灰岩には、化石が見つかることがあります。古生代以降の石灰岩は、生物の遺骸、それも、さんご礁など礁をつくる生き物の遺骸、あるいはそれらの破片が集まったものからできたと考えられています。もともと化石がいっぱいあった岩石でも、長い年月といろいろな変動を経ることで、化石の痕跡が消えてしまっていることもよくあります。
 石灰岩は、ほとんどが方解石という鉱物からできています。方解石は、炭酸カルシウム(化学式はCaCO3)という成分からできています。生物は、硬い炭酸カルシウムを殻や骨(サンゴの場合は外骨格)として利用しました。その材料は、海水中に溶けている炭酸イオンとカルシウムイオンを利用したのです。
 海の中のカルシウムは、陸地の岩石を溶かした川の水から途切れることなく供給されます。炭酸イオンは、大気中の二酸化炭素が海水に溶けこむことから供給されます。
 大気から海水への二酸化炭素のやり取りされ、そして生物の殻や骨になることを考えると、気体の二酸化炭素が固体なると、非常に容積は小さくなります。理科の実験で、石灰岩に塩酸をかけると、大量の二酸化炭素を発生するという実験を思い出してください。この実験では、二酸化炭素を固体から気体にしたとき、どれほど大きくなるかを知ることができます。
 陸地にたくさんの石灰岩があるということは、生物の体の一部として固定された二酸化炭素が、石灰岩として陸地にたくさん貯蔵されていることになります。それも非常にコンパクトにです。陸地の石灰岩をすべて気体に戻すと50~100気圧分にもなると見積もられています。つまり、もともと大量にあった大気中の二酸化炭素は、生物によって、固体にされ、陸地に保存されたのです。そのため、大気中の二酸化炭素は、今のように少ない量となったのです。もし、そのような作用がなければ、地球は、温室効果が働き、暑い星となっていたはずです。
 昔の大気には、酸素がなく二酸化炭素が主な成分でした。そんな原始の大気に酸素を加えたのは、前回の話に登場したストロマトライトをつくったような光合成生物です。さらに、原始の大気中にあった大量の二酸化炭素を取り去り、今の大気を二酸化炭素の少ない状態に維持しているのは、これまた生物の活動となります。
 まさに、生物と地球の共生というべき関係によって、それも長い時間の共生関係によって、今の地球環境がつくられ、そして現在も維持されているのです。もちろん、そのとき起こった環境変化によって、今では知りようもないような大絶滅が起こっていたはずです。私たちの祖先は、そんな環境変化を生き抜いてきた勝者なのです。

2003年5月29日木曜日

4_32 城川:四国の旅3

 全国で市町村合併について話し合いが進んでいますが、愛媛県でも市町村合併として、西予(せいよ)という市が、来年から生まれます。そんな西予市のひとつに城川町があります。今回は、城川町の話題です。


 愛媛県東宇和郡城川町という山間の町があります。四国や愛媛県の人には、ご存知の方がおられるかもしれませんが、ご存知でない方が多いと思います。しかし、じつはこの町のさらに小さな地域の名称が、地質学者には非常に有名なものとなっています。
 その名称とは、黒瀬川構造帯、寺野変成岩、三滝火成岩類などがあり、中でも黒瀬川構造帯は、地質学の世界では非常に有名です。ただし、この地質学的名称が、城川町内の地名が、その由来だとは知らない地質学者も、多いかもしれません。
 黒瀬川構造帯は、地質学では、西南日本内帯にある秩父累帯に中にある不思議な岩石がでてくる地帯です。その地帯は、多数の断層によって構成されており、異質で多様な岩石がでるところであります。不思議なというのは、秩父累帯の岩石が、付加体の岩石(海洋底の玄武岩、チャート、石灰岩、陸から供給された堆積岩)でできているのに対して、まったく異質な岩石からできているからです。その異質な岩石の中に、寺野変成岩や三滝火成岩類があります。
 寺野変成岩や三滝火成岩類は、約4億4000万年前のものです。これらの岩石は、秩父累帯がたまった海とはまったく別の環境である大陸を構成していたものだということです。それは、黒瀬川古陸とも呼ばれ、ゴンドワナ大陸とという大きな大陸から分かれてきたのではないと考えられています。
 これらの黒瀬川構造帯の岩石が、城川町内によく分布しているのです。黒瀬川とは、城川町がまだ黒瀬川村と名乗っていた時代に、この地で精しく調査されたため、命名されました。また、三滝変成岩の三滝とは、花崗閃緑岩という岩石からなる三滝山に由来しています。寺野変成岩の寺野とは、三滝よりさらに上流にいったところにある地名に由来します。
 もう一つ、地質学者でもあまり知られてないのですが、重要な地質学的証拠の一つが、この城川町の地層から見つかっています。それは、生物の歴史で最大の絶滅のおこった古生代と中生代の境界(P-T境界、2億4500万年前)の地層が、城川町の田穂(たほ)の石灰岩の調査で見つかっていることです。
 現在の日本では、P-T境界の地層は、東から西に並べていくと、岐阜県大垣市赤坂(石灰岩)、愛知県犬山(チャート)、愛媛県城川町(石灰岩)、宮崎県西臼杵郡高千穂町上村(石灰岩)の4ヶ所しかありません。そのうちの一つが、この城川町にあるのです。これらは、秩父累帯とその東側の延長に当たる美濃帯の地層の中にあります。距離からすると、現在でも500km以上離れています。
 秩父累帯の地層は、付加して、現在は陸地なっていますが、もともとは海洋域で形成された岩石です。石灰岩海山や海洋島で、チャートは海底でたまったものです。海洋域にたまる地層は、陸地に見られる局所的な気候や変動に左右されない堆積物がたまります。そんなところに、P-T境界の異変が記録されていたのです。P-T境界時代の海という環境を探るには、非常に重要な資料となっています。
 田穂の石灰岩をP-T境界と最初に認定されたのは、横浜国立大学(当時)の小池さんで、その重要性を指摘されたのは、東京大学の磯崎さんです。その研究は現在進行中であります。

・城川町立地質館・
地質学的興味のあるかたで、
城川に行かれる機会があれば、
ぜひ、この地域の地質を紹介していている博物館、
城川町立地質館を訪ねてみてください。
そこでは、この地域に産出する代表的な標本と、
その解説があります。
訪れる人は少ないですが、地質学者には、
結構、魅力のある博物館だと思います。

・調査の成果・
愛媛県松山空港から、高知県の四万十川を下り、河口の中村市まで行き、
そして、松山へもどりました。
ゴールデンウィーク中の6泊7日の家族旅行です。
私は、高知県の四万十川の源流から河口までの岩石調査が主な目的でした。
他に、愛媛県の面河川、肱川なども調査をしました。
岩石の標本を320個ほど、砂の標本を13ヵ所で採取し、
写真を880枚ほどとりました。
成果はこれから実験室にもどって細かな記載をしなければなりません。
これが、なかなか大変です。
でも、この苦痛に類することも研究の一環です。
それに、北海道の冬は野外調査ができないので、
室内作業をする余裕はたっぷりあります。

・遠方の友を訪ねる・
今回の旅行のもう一つの目的は、
城川町にいる後輩でもある友人を訪れることでした。
彼とは1年に一度会うか会わないわからないですが、
可能な限り会うようにしています。
家族ぐるみの付合いをしています。
もともとは大学の後輩ですが、
城川町立地質館の作るとき、
わたしが、手伝って、現在でも、交流を続け、
町の子供たちの夏の講座を開催したり、
資料の交換、データの交換などのネットワークの実験をしています。
そんな関係で、私は、この10年ほどの間に、
何度も城川町を訪れているのですが、
家内は2度目、子供たちは始めてです。
友人や子供たちは、私のところに行事で訪れたりしているので、
うちの家族には会っていました。
そんな遠くの友人と旧交を温めるのも、
楽しいものです。

2003年5月22日木曜日

4_31 四万十:四国の旅2

 四万十川への旅の話の2回目です。四万十川は、水清く、純朴な人が川とともに生活していました。四万十川の地質について考えましょう。


 今回の旅行は、四国西部の南北を縦断する旅でした。そして、このような旅をすることによって四国の地質を大局的に眺めることができます。
 四国には、地質学的に有名な中央構造線が東西に走っています。その構造線のために、四国の中央部は東西に延びる山脈ができています。そして、中央構造線の方向にすべての地質体は、配列しています。
 日本列島は、中部地方を南北に走るフォッサマグナを境にして、西側を西南日本、東側を東北日本と呼んで、区分しています。そして、西南日本には、東西に走る中央構造線が走っています。中央構造線は、四国を通っています。中央構造線の北側を内帯、南側を外帯と呼びます。四国には、西南日本内帯の一部と西南日本外帯という地質体があります。その境界が、中央構造線です。
 今回の旅では、その両帯を車で、一気に走り抜けました。
 西南日本外帯は、北側から、三波川帯、秩父累帯、四万十帯という大きな区分があります。三波川帯は、片岩を中心とする高圧の条件で形成された変成岩からできています。秩父累帯は、かつての大陸のふちに、沈み込むプレートからはがれさた堆積物がくっついたもの(付加体)からできています。四万十帯は、秩父累帯より新しい時代の付加体です。
 このような大きな地質帯の境界はたいてい大規模な構造線となっています。三波川帯と秩父累帯との境界は、上八川(かみやかわ)-池川(いけがわ)構造線とよばれる大断層で、秩父累帯と四万十帯の境界は、仏像(ぶつぞう)構造線と呼ばれるものです。
 今回は、四万十川の流域を中心としましたが、愛媛県上浮穴郡美川村のきれいな河原では、高知県吾川郡春野町で太平洋に流れ込む仁淀川の上流の支流、面河(おごも)川では、三波川帯の片岩の石ころがたくさん見ることができました。美川村の河原の砂は、緑色片岩の破片が多いせいか緑色をしていました。四万十川では、秩父累帯や四万十帯の堆積岩の石ころをたくさん見ることができます。
 四万十川の河原では、礫岩、砂岩、泥岩や石灰岩の石ころが多く見かけました。そして、四万十川の河原では、なぜが砂がほとんどなく、石ころばかりの河原でした。中村市の四万十川の河口では、砂を見ることができました。四万十川近くの海岸でみた砂浜は、白から茶色っぽい、よく見かける砂でした。
 河原の石ころや砂は、その地域の地質を反映した標本箱のようなものです。そして、その一部はやがて堆積岩となっていくものです。

・四万十川の味・
四万十川の源流周辺は四国カルストにあたります。
そして、源流のカルストには天狗高原があります。
そこに宿泊したのですが、
地酒は「てっぺん四万十」というものでした。
飲み水は、「四万十源流の水」でした。
もちろん味わいました。
高知では、カツオのタタキ、タコ、イカの刺身などの海産物だけでなく、
ヤマトテナガエビ、アユ(まだ解禁されていませんので冷凍でしょう)、
アメゴ、川ノリ(セイラン)、アオノリなどの川の産物もいろいろありました。
愛媛では、うどんが美味しかったです。
このように遠い土地に出かけると、いろいろな味覚を楽むことも
旅行の醍醐味でしょう。

・快晴の四万十川・
四万十川の源流の四国カルストの天狗高原についた日は、
濃霧に曇っていました。非常に肌寒く、北海道のような気候でした。
夜から晴れはじめ、放射冷却で、車の窓ががりがりに凍っていました。
まるで北海道の朝のようでした。
冷え込んだ日、四万十川を下る日としては、絶好の快晴でした。
そして、四万十川を巡る3日間は快晴だったので、
家族一同、すっかり日焼けしてしまいました。
温泉にはいると、肌がひりひりしました。
これも家族にとっては大切な旅の思い出でしょうか。

2003年5月15日木曜日

4_30 活きている川:四国の旅1

 「日本最後の清流」と呼ばれる四国高知県を流れる四万十川の源流から河口まで、丸3日間かけて、川沿いを車で巡りました。そのときの感想を書きましょう。


 四万十川は、不入山(いらずやま、標高1336m)の東側斜面、標高1200m付近を源流としています。四国カルストの南側の斜面にあたります。そのため、源流の岩石には、石灰岩が目につきました。
 源流へは、林道を車でしばらく入ったのち、車を降りてから、しばらく歩きます。でも、有名な四万十川ですから、道がはっきりしています。そんな山道をしばらく歩くと、源流にたどりつきます。源流には、看板がありました。親切だし、ありがたいことですが、その親切さが、すごく自然の中に人工的なものを感じ、違和感がありました。
 源流には、きれいなせせらぎありました。いかにも源流、という雰囲気を見せていますが、本当の源流はさらに上部のところにありそうです。その道は、さだけでなく、険しくなっていきそうです。これ以上いってもきりがないかも知りません。
 源流付近のきれない水の流れが見られのは、このあたりなのでしょう。それが源流の看板がありました。車を降りてから、20、30分ほど歩いたあたりですので、それなりの雰囲気がありました。それに、多くの人間がむやみに分けるいることは、余りしないほうがいいに決まっています。
 なにより、あの有名な四万十川の源流が、私のように遠くから訪れたものにとっては、はっきりとわかり、道もはっきりしているので助かります。さて、この源流から、今回の川の旅がはじまります。
 四万十川は、全長196kmあり、全国では11番目の長さとなっています。上流は急傾斜ですが、中流からは、蛇行を繰り返しながら、河口へいたります。しかし、今回、砂と石の資料を収集しながら、歩いたのですが、砂がすごく少ないような気がしました。河口にはもちろん、大量の砂が、ありましたが、砂を探すのに苦労しました。川の石は、さすがにダムがないので、きれいなものが、とれました。河川の石は、上流では、角ばっていましたが、河口では、教科書どおり、石は丸く平べったくなっていました。
 四万十川は、「日本で最後の清流」といわれているように、確かにきれいな川でした。しかし、ところどころに、コンクリート護岸されているところもありました。取水堰もありました。河口は、激しくいじられていました。港を守るためでしょうが、自然が多く残されれいるだけに、人工の部分がすごく不自然に目立ちました。上流から、自然の河川をみてきたので、下流の人為には、すこし興ざめしましたが、でも、四万十川は、いい川でした。
 なぜなら、なによりそこには、川で生活している人、川を楽しんでいる人、川を利用している人、川と共存している人がいます。つまり、川を川として利用されている川がありました。川と人、自然が共存していると感じました。人ともとに生きてきた川がありました。

・語源・
源流の看板には、「シ・マムタ」の川と書いてあった。
「シ・マムタ」とは、アイヌ語で、「はなはだ美しい」という意味だそうです。
それが、四万十の語源という説もあります。
四万十川の名称には、他にもいろいろ異説があるようです。
四万川と十川という川の名が一緒になったとか、
支流が、四万十本もあることからとか、
流域の山林が、四万石の船で10回採集できるほど
などの説があります。
本当のところは決まっていないようです。
しかし、流路に対して流域面積は、12km2/kmとなり、
日本では最小とされています。
つまり、狭いところを蛇行をして流れ下っています。
川の中流で海まで8kmしかないところがありますが、
地形の関係で、遠回りして、四万十川は海へと向かいます。

・源流へ・
源流は、未舗装の林道をしばらく走ることになります。
林道をしばらく走ると、碑があり、そこから約30分、登ることになります。
上り始めてすぐに、バイクのライダー姿の若者が、
なかなかたどりつかないので途中で引き返してきた、といってたので、
子供づれだったので、登れるかどうか心配でしたが、
なんとか登ってくれた。
のんびり登れば、5歳と3歳の子供連れであるいても、ゆっくりいけました。
3歳の子供は、危ないところは抱っこやおんぶはしまたが、
5歳の子供は、手を引くだけで、歩ききりました。
往復1時間ほどの山登りでした。
子供は探検をしたと喜んでいましたが、
小さな子供づれだったら
四万十川の源流へ行くことはあきらめなければならないかな
と覚悟をしていましたが、
私は、なんとかいけたことが一番うれしかったです。

2003年5月8日木曜日

5_20 地球は丸い

 地球が丸いことは、誰も知っています。でも、日常生活で、地球が丸いことを、あなたは実感できますか。多分、実感はないと思います。別のいい方をしましょう。地球が丸いことを示す証拠を、あなたはいくつ挙げることができますか。

 地球が丸いことは、よく知られていることです。いちばん手っ取り早いのは、宇宙から撮った地球の写真をみせることです。そうすれば、地球が丸いことが直感的に理解できます。
 直感的に理解できても、実感できることとは違います。宇宙船も飛行機もない時代の人も、地球が丸いことを知っていました。そんな昔の人の智恵を見ていきましょう。
 古い例では、エラトステネスが、同時刻に同経度の場所の影の長さの違いから地球の円周を測りました。これは、地球が丸いから起こる現象を利用したものです。
 教科書によく出ている証拠としては、海で、近づいてくる船は上部から見えだし、船体はその後みえるというものです。これは目のいい人が多かった時代の例なのでしょうか。本当は、船から陸の山をみると、山の頂上からだんだん裾野まで見えていくというものだったようです。
 月食とは、月が地球の影に入る現象です。この現象から、地球の影が丸い、つまり地球が丸いことがわかります。これは、ガリレオが思いついた方法です。
 さて、私が思いついた、いくつかの方法を羅列しましょう。
 手間はかかりますが、実感できる方法としては、80日間世界一周と同じことをすることです。つまり。地球を西か東にまっすぐ進めば、出発地点に戻るということです。
 先ほど海の船の例を示しましたが、逆に、見る側が上昇すれば、より遠くが見えるというものです。それは、東京タワーに上るとか、山に登るとか、気球に乗る、ヘリコプターに乗るなど、視点を上昇させることによってより遠くが見えるという方法です。
 今の方法と関連しますが、高くなるほど、地平線は遠く、広く見えます。非常に高くまで上がれば、地球の丸みが地平線となります。
 北極星は現在、北の自転軸にの延長線にあります。地平線から北極星の見える高さは、北に行くほど高くなる。これも、地球が丸いからです。
 他の天体と比較して類推するという方法もあります。地球から見えている天体で、その形が分かるものはすべて丸いのです。ですから、多分、地球も丸のだろうなという類推です。
 理論的類推から一つ。重力によって集積したものは、球になるという推定です。例えば大きないびつな形のものがあるとします。そこに、小さな粘土(マメ粒ほどの大きさ)をいっぱい投げつけるとします。ひとつひつの粘土は、ぶつかるとくっつくとします。この粘土を、いろいろな方向からたくさんぶつけ続けると、ボールは、だんだん大きく丸くなっていくはずです。それを永遠と続けると、大きな球になります。地球のできかたもこうではないかと考えられています。

・柔軟な頭・
このエッセイは、子供からの質問に答えたときの答えを
いくつか集め、修正・加筆したものです。
子供の質問には、ときどき、足元をすくわれるようなものが潜んでいます。
彼らは、そこまでの答えを要求していなのかもしれません。
簡単に答えられない場合や、
簡単なことででお茶を濁すことは、答える側の気持ちが、許さない場合、
があります。
この質問も、両方を意味がありました。
地球が丸ということにたして、どれくらい自分は証拠が提示できるのか、
考えついたのが上のような答えでした。
もっともっといっぱいあると思います。
頭の柔軟な人には、もっともっといい一杯答えがあるはずです。
なにも科学的なものだけが答ではありません。
詩的なものだっていいはずです。
例えば、
地球が丸くないと端っこにいくと落ちる人がでてくるから、とか、
地球が丸いとどこに住んでいても、
自分が真中と考えることができてだれでも平等になるから、とか
いろいろあっていいはずです。
他にもなにかいいい証拠がありませんか。
素晴らしいのが見つかったら、ぜひ教えて下さい。

2003年5月1日木曜日

6_27 酸素の誕生:地球史上最大の絶滅

 前回は、鉄鉱石の起源について紹介しました。今回は、鉄鉱石の由来と大きくかかわっていた酸素について紹介しましょう。酸素も、不思議な由来をもっているのです。酸素が大量につくられた証拠は、カナダの極北の地にありました。

 日ごろ何気なくすっている空気。ご存知のように、空気のなかには、酸素が含まれています。私たちは、空気中の酸素を吸い込み、利用し、酸素から二酸化炭素に変え、吐き出します。これが呼吸と呼ばれているものです。酸素を利用し、炭素を二酸化炭素にすることによってエネルギーとして利用することを、広い意味での呼吸と呼んでいます。広い意味での呼吸は、ほとんど生物がおこなっている作用です。では、生物が吐き出した二酸化炭素は、どこに行き、生物が吸い込む酸素はどこから来るのでしょうか。
 教科書には、酸素は光合成をする生物がつくり、その光合成に二酸化炭素が利用されている、と説明されています。光合成では、二酸化炭素から取り出された炭素が、生物の体をつくる材料となります。
 光合成生物によって酸素がつくられているのなら、光合成生物がいなくなれば酸素がなくなるはずです。時間を遡れば、光合成をする生物が誕生することによって、酸素は生産されはじめ、それ以前は酸素のない世界だったわけです。ですから、光合成生物の誕生、あるいは光合成生物の大量発生の時期が、酸素の生成の時期となるはずです。
 光合成生物は、いったいいつごろ誕生したのでしょうか。その答えは、光合成生物の化石や痕跡を探すことによって見つけ出すことができます。
 約32億年前の地層から光合成をするシアノバクテリアの化石が発見されています。もっと古いものがあったとする説もありますが、今のところ研究者の合意を得ていません。多くの研究者が認めているのは、約32億年前のものです。
 約32億年前に最初の光合成生物が生まれ、約27億年前には、光合成生物が大量発生したと考えられています。なぜなら、約27億年前の地層からは、大量のシアノバクテリアの化石が見つかっているからです。
 その化石は、ストロマトライトとよばれる岩石からみつかっています。ストロマトライトとは、上から見ると直径数10センチメートルの同心円状の形をしており、断面をみると高さ1メートル程度のマッシュルームのような形で、中には数ミリほどの幅の細かい縞模様が見えます。そのストロマトライトは、小さなシアノバクテリアがたくさん集まってつくりあげた構造なのです。ストロマトライトが地層の中に大量に含まれています。
 私は何箇所かでストロマトライトをみていますが、カナダ北西準州のグレート・スレイブ湖の東岸でみたものには圧倒されました。約20億年前の地層で、その中には大量のストロマトライトが含まれています。
 まさに累々という形容詞がふさわしいものです。マッシュルームのような形態のストロマトライトを含む地層が、延々と湖岸に続いてみられるのです。その湖岸には水上飛行機でいったのですが、上空からもその地層が累々と続いているのが見ることができました。
 前回の鉄鉱石は、海水中の酸素が増加することによって、鉄が沈殿したと説明しました。その酸素を生産したのが、ストロマトライトという化石になっているシアノバクテリアでした。大量の鉄鉱石と大量のストロマトライトができた時代は、呼応していたのです。
 地球の大気中に酸素を付け加えはじめたのは、シアノバクテリアでした。では、酸素が付け加えられる前の大気はどんなものだったでしょう。それは、もちろん酸素のない、二酸化炭素と窒素を主とする大気だったはずです。
 酸素のある大気は、酸素のない大気に比べると、生物にとっては大きな差となります。現在の生物は大部分は酸素を無毒化し、有効利用するシステムをもっています。それは細胞の中にあるミトコンドリアという器官のはたらきによっておこなわれています。
 酸素のない時代の生物にとって、酸素のある環境は、生きてはいけない環境だったはずです。酸素が細胞内に入れば、酸化によって体内の成分が分解されてします。つまり、ミトコンドリアもたない生物にとっては、酸素は猛毒として作用しました。
 20数億年前、シアノバクテリアよって、酸素が大量に生産されはじめると、その当時生きていた大部分の生物にとっては、とんでもない地球環境破壊がおこったのです。地球規模の酸素の汚染です。もちろん、汚染の行き着く先は、大絶滅です。多分、当時の生物の大半は絶滅したと思います。実態は定かではありませんが、地球史上最大の絶滅が起こったはずです。
 現在、地球環境問題が取りざたされています。でも、地球は、もっとすごい大激変を経験しているのです。そして、素晴らしいことに、そんな大激変も生きぬいたいくつかの種類が生物がいたのです。さらには、多くの生物の殺した猛毒の酸素を利用して、より効率のよりシステムをつくり上げた生物もいたのです。それは、もちろん、現在の生きている生物の、そして私たちの祖先であったのです。

・現在、旅行中です・
ゴールデンウイークに、家族ともども、四国を旅行しています。
愛媛県松山空港から、高知県の四万十川の河口まで、
6泊7日の旅行をしています。
私は、四万十川、肱川などの河川の調査を、
家族は観光をします。
懐かしい友人も訪れるつもりです。
その様子は、近々、紹介します。お楽しみに。

2003年4月24日木曜日

5_19 地球の自転

 私たちはまったく感じませんが、地球はものすごいスピードで自転しています。そのスピードは、日本(緯度35度)では秒速約0.38km、赤道では秒速約0.47kmになります。ピンときませんが、時速にすると、日本では約1400km、赤道では約1700kmというとんでもないスピードになります。それを私たちは、気づかずに生活しているのです。本当にそんなスピードで地球が自転しているのでしょうか。

 ある人から、こんな質問を受けました。「どうして人間は地球が自転していることに気がついたんですか?」これは、素朴な疑問です。多くの人は、地球が自転していることを、知識として知っています。しかし、それを、知識ではなく、自分が納得できるような答え、あるいは子供に説明できるような証拠をあげることができますかと聞かれると、なかなか思いつかないものです。こんな素朴な疑問について、考えてみましょう。
 地球が自転しているということは、天空に見える太陽や惑星、他の星たちが、動いていようがじっとしていようが、動いて見えます。たとえば、自分の乗っている電車が動いていることを知らない場合、景色が動いているの、自分が動いてるのは、なかなか判断できません。でも、常識的に考えれば、電車が動いていることがわかります。
 でも、地球のような大きな乗り物だと、動いているのかどうかすら、はっきりしません。ですから、昔は、地球がうごかず、回りのものが動くというごく当たり前の考えをもっていました。
 この質問に答えるためには、地動説をどうして気づいたかとも関係します。ですから、この質問に答えるには、地動説の歴史という、科学の歴史を探ることになります。
 実際には、多くの人が、長く天動説を信じ、それに違和感を覚えなかったということは、「地球の自然の中」では、地球の自転に気づきにくいということです。
 説としては、古代ギリシアのネラクレイデスなどは、地動説を唱えていました。しかし、それは、空想に過ぎず、自転の証拠を示したわけではありませんでした。
 コペルニクスが、地動説を最初に唱えたとされていますが、実は、証拠を提示した訳ではありません。コペルニクスは、天動説より、地動説の方が、天体の動きをよりよく説明できるという、単純な発想のもとにつくり上げた理論なのです。コペルニクスの地動説は、仮説に過ぎませんでした。それは、地動説を唱えた、ジョルダノ・ブルノやガリレオも、仮説を支持しただけで、地球の自転の証拠は提示できませんでした。説が仮説にすぎず、証明できないものですから、完全ではないですから、説得力がなかったのです。ですから、宗教裁判にかけられたとき、論証できず、迫害されたのかもしれんません。
 地球の自転の証拠を最初に提示したのは、ニュートンでした。ニュートンが解明した歳差という現象が、自転の証拠の第一号となりました。
 では、その歳差とは、どんな現象でしょうか。まっすぐ立って回っているコマは、軸がぶれずに鉛直にたって回っています。しかし、斜めに回っているコマは、軸が首をくるくる回します。このような運動を、地球もしています。地球は、太陽の周りを回る面(公転面)に対して、自転の軸は、約23度ほど傾いています。コマの軸が首を振るように、地球の自転の軸も首を振ります。それは、コマと比べると非常にゆっくりしたもので、約2万5800年で一周するようなものです。でも、たとえば、1万3000年で夏の星座と冬の星座が入れ替わるのです。
 この歳差という運動は、自分自身が回転しているという証拠になります。その歳差を確認して、証拠としたのが、ニュートンだったのです。やっぱりニュートンは偉大です。

・地球自転の証拠・
 他にも、多くの地球の自転の証拠があります。
皆さんも考えてみてください。
現在、地球の証拠として、教科書によくでているものとして、
・フーコーの振り子(実際には、振動子面の回転といいます)、
・日周光行差、
・恒星の視線速度に日周変化があること、
・ジャイロコンパスの運動、
コンプトンの実験
などがあります。
精しく知りたいひとは、自分で調べてみてください。
そして、ここで述べたもの以外の証拠を見つけた人は、
ぜひ、私にも教えてください。
楽しみにしています。

・素朴な疑問・
素朴な疑問シリーズの3本目です。
地球の自転の証拠。
これは、じつは、なかなかむつかしい問題なのです。
なにしろ、直感的な証拠が、なかなかないのですから。
実感はなくても、長い智恵の積み重ねで、地球の自転に気づき、
そして、今では、知識として地球の自転を誰もがもつようになったのです。
これは、重要で、すばらしいことです。
知的資産の積み重ねとは、このようにして行なわれていくのです。
でも、やはり誰でもわかる直感的な証拠が欲しいですね。
だれか思いつきませんか。

2003年4月17日木曜日

5_18 地下水はどれほどあるの

 日本は水に恵まれています。雨が少ないときには、送水制限が出たり、プールも閉鎖されることもありますが、飲み水にこまって、生死に関わるようなこうとはほとんどなくなりました。乾燥地や砂漠地域などの水の少ないところや、大陸の飲むのに適さない水しかない地域と比べれば、日本の水は安心して飲めます。今回は水に関する話題です。

 川の水は、下流になるほど、汚れてきますが、地下水はきれいなものが多いです。ただし、飲料水に適するかどうかは、保険所などに確かめてもらう必要があります。でも、日本の多くの地域で、地下水があり、そのいくつかは、古くから利用され、造り酒屋の多い地域は、水もきれいで豊富なところです。近年では、湧水でも名水とされるものは、人気があり、多くの需要があります。
 いつも、こんこんとわいている湧水は、どこからくるのでしょうか。湧水、つまり地表にわいてくる地下水は、いったいどれほどの量があるのでしょうか。この謎を解くには、地下水のもとをる必要がありそうです。地下水のもとをたどれば、上流のどこかに降った雨が、地下にしみこんだものです。雨と川と地下水の関係をみていきましょう。
 湧水の量は、
・雨は地下にどれくらいの期間たまっているのか。
・山はどれくらいの水をためられるのか。
ということを考えれば、答えができてそうです。
 以下で、これらについて考えていきますが、これは一般論ですので、地域ごと、山ごとによって、その数値は大きく変動する可能性がありますので、その点は御了承ください。
 まず、雨水が地下にある期間についてです。これは、観測できます。放射性同位体という成分を用いる方法です。地下水の年齢決定用いられる放射性元素として炭素14やトリチウム(三重水素)などがあります。このような放射性同位体は、大気中の水蒸気や大気では、ある一定の値を持っているのですが、大気から隔離されると、ある規則で壊れていく(崩壊といいます)性質を利用しています。
 大陸地域の地下水の年齢は、アフリカのサハラ砂漠やテキサス州カリゾ砂岩では2万~3万年という値が出ています。日本の平野部では、関東地方の地下水の年齢は数十年から数百年と推定されています。
 次に、地下にしみ込む量を推定しましょう。
 山に降った雨の一部は、川となって流れていきます。海に注ぐ川の水量は、その川が集める全地域(流域といいます)に降った雨で、地下にしみ込まなかった分です。ここでは、蒸発するぶんは少ないので、無視することにしましょう。
 川の水量は、河口で観測できます。ですから、川が海に流し込む水の量は求めることができます。
 川の地域の年間降水量×流域面積が、年間の総雨量となります。年間総雨量から、川の年間の流水量を引いてやれば、地下に染み込んだ雨水の量が推定できます。
 雨水が、河川と地下水に配分される比率は、地域によって違ってきます。その地域の植生や地形、地質などによって大きく左右されます。
 地下水も、流れています。地表の流れの方向とは必ずしも一致しません。地下水の流れる方向は、地層の構造、地質によって規定されていますが、地下の地質は、地表のものとは一致するとは限らないからです。
 地下水の流れていくスピードは井戸を掘って実測したり、上で述べた地下水の年齢の降雨地域との距離から推測することが可能です。
 地下水の流速は、アフリカのサハラ砂漠やテキサス州カリゾ砂岩では1~2m/年、日本の平野部では1m/日前後、武蔵野台地では3~5m/日です。富士山麓の三島溶岩中では300~500m/日と非常に早く、地下川とも呼ばれるほどです。
 でも河川の流速が0.1~1m/sですので、これと比べれば、地下水の流速は非常に小さいといます。いいかえると、地下水は、長く地下にとどまっている、あるいは古いものが地下にはある、ということになります。大部分の地下水は浅いところを流れていますが、一般に深いほど移動が遅くなります。
 さて、2つ目の問題となる山がどれくらい水をためているかは、降雨量と面積、河川水の量、地下水の年齢によって決めることができます。
 試算をしてみましょう。
 ある地域(東海地方)を想定して試算しいきましょう。その流域面積は、約5000km2(天竜川)としましょう。降雨量を年間1600mm(飯田)としましょう。この2つの数値から、全流域の降雨量は年間8km3と計算できます。
 平均流速は、221m3/s(天竜川)としましょう。これを年間の値にしますと、年間7km3という値になります。
 全流域の年間降雨量8km3から、河川に流れる年間7km3を引けば、年間1km3が、地下に蓄えたれていると見積もれます。
 地下水の年齢が50年(柿田湧水)とすると、50年分の地下水が大地には貯められているのはずですので、総量は50km3と試算できます。これは、河川が流す7年分くらいの量、あるいはその地域に振った雨の6年分が地下に蓄えられているということになります。
 もちろん、概算ですので、先ほどもいったように、この値は、地域や状態によって変動します。でも、日本では、その地域に降った数年分の雨が、地下に貯められているといえそうです。日本の水は、川を流れているのではなく、地下に地下水としてためられているのです。

・素朴な疑問シリーズ・
前回の「5_17 オルバースのパラドックス」は、
「夜の空はなぜ暗いのか」という素朴な疑問でした。
前回のオルバースのパラドックスに続いて、
今回も「地下水はどれほどあるか」という素朴な疑問です。
これから、少しシリーズとして、
ちょっと考えると不思議な素朴な疑問をあげて、
それをテーマにして考えていくことにします。
そんな疑問は、結構ありそうです。
たとえば、
「地球は本当に自転しているの」
「地球は本当に丸いの」
などにように、考えてもすぐには答えが浮かばないようなものもあります。
そんな「素朴な疑問シリーズ」をしばらく続けましょう。

・質問に答えて・
2003年3月20日の「4_28 湧水:厳冬の道南1」に関連して、
Shiさんから次のような質問を受けました。

「以前、柿田川に行った時、
50年前後も前に降った雨や雪が
今ここに流れているということが看板に書いてありました。
かなりの流量なのにあれの50年分となると大変な量ですが、
それが富士の麓に溜まっているということですか。
わが地元の標高百数十メートルの里山でさえ年中小川が流れています。
いったい山というのはどのくらいの水を湛えられるんでしょうか。
どの山も数十年も前に降った水を流しだしているんでしょうか。」

このエッセイは、Shiさんの質問に答えたメールに大幅な修正したものです。

2003年4月10日木曜日

5_17 オルバースのパラドックス

 「夜はなぜ暗いのか。」なにを当たり前のことをいうのかと思われる方も多いと思われます。いいかえましょう。「夜空はなぜ暗いのか。」同じことのように思えますが、じつは、ここに、不思議なこと、パラドックスがあったのです。

 19世紀前半のドイツのアマチュア天文学者、H.W.M. Olbersは、英語読みでオルバースと呼ばれることが多いようです。「夜空はなぜ暗いのか」という疑問は、オルバースが発したものですもので、「オルバースのパラドックス」と呼ばれているのです。
 詳しく説明しましょう。
 肉眼で夜空を見るより、望遠鏡で夜空を見たほうが、多くの星がみえます。では、望遠鏡をもっと高性能にしていくと、望遠鏡の能力にあわせて、より暗い星も見えてくるはずです。では、望遠鏡の能力をどこまでも上げていけば、より暗い星がどんどん見えていくはずです。
 オルバースの生きていた時代の常識的な見解から、つぎのような仮定をします。
・星の平均的な明るさは、遠くても近くても同じである
・星は平均すると、無限のかなたまで一様に分布している
という仮定です。
 この仮定をもうけると、以下のような考えが導き出せます。
 星の数を考えます。地球を中心とする球体のある範囲の中(これを球殻といいます)にある星の数は、近くにある星の数は少ないはずです。小さいときは、球殻の中にある星は、近いために、明るく輝きます。遠くの星は、地球から見ると暗くなります。でも、遠くには、半径が大きくなる分、球殻の体積が大きくなり、多くの数の星が含まれるはずです。
 上の前提のもとでは、どの球殻からもある一定の光を送ってくるはずです。各球殻から来る光が弱いとしても、もし、無限のかなたまで、星があるとすると、弱い光も無限に集めれば、明るくなります。つまり、夜空は明るくなるはずです。なのに、夜空はなぜか暗いのです。
 ある前提から導かれる結論と現実が一致しません。そのような矛盾を、オルバースのパラドックスと呼んでいます。このパラドックスは、前提か論理のどこかに間違いあるから起こっているはずです。論理は、単純で、簡単に計算式もつくれます。ですから、論理は、間違っていないようです。となると、前提が間違っていることになるはずです。
 前提の最初のものが間違っているとすると、「遠くの星ほど暗くなっている」ということが、あるかどうか。これは、「暗く見える」可能性があります。星の光が、すべて地球に届いているのではなく、途中で光をさいえぎるものがあれば、その光は、届きません。例えば、各球殻に一箇所、後ろの光をさえぎる星や雲のようなもの(星雲やガスなど)があると、後ろにどれほど星があっても、地球には届きません。ですから、遠く星ほど、このような効果を受けやすくなります。つまり、実際に星があっても、光は届かないということがおこっているのです。
 また、宇宙が膨張していると、遠くの星ほど、遠ざかるスピードは速くなるという効果を生みます。すると、光も遠ざかるスピードに応じて、赤側にずれていきます。ずれが大きくなると、赤から紫、紫外線、そして見えない波長へとずれていきます。そうなると、遠くの星は、地球からは肉眼、あるいは光学的には見えなくなります。
 前提のひたつめの「星は無限のかなたまで一様に分布していない」という可能性を考えてみましょう。これは、銀河を考えると、一様でないことがわかります。銀河に模様があるということは、星がムラをもって分布しているということです。地球は銀河の中にいます。私たちが属している銀河を、地球から見ると、天の川としてみえます。つまり、明るいところと暗いところがムラをもって見えているのです。
 また、銀河をでると、次の銀河まで、星はほとんどありません。つぎの銀河には、たくさん星があります。でも、遠くの銀河は、銀河自体を、一つの光源として扱うことができます。でも、この銀河も、構造を持っています。それは、泡状構造というものです。洗濯の時にでる泡のような構造をもっています。泡の幕のところに銀河が集まり、泡の空気のところには、銀河がほとんどありません。宇宙の銀河による構造は、そんなムラを持った構造となっています。
 ということから、オルバースのパラドックスは、もはやパラドックスではありません。オルバースの誤解だったのです。

・創造性・
これは、Shiさんから、受けた質問に答えたものを
加筆修正して書いたエッセイです。
質問とは、大分内容が変わってきましたが、面白いテーマだと思います。
オルバースの発想は素晴らしいと思います。
こんなことを気付いた人がいたということが非常に重要です。
このパラドックスをといていく過程で、
当時の常識的な考え(前提)が間違っていることがわかってきたのです。
この例のように、一見当たり前に見えることに疑問を感じて、
そしてそれを疑問として提示することに独創性を感じます。
最終的に、現代の宇宙論に通じる重要なヒントがあったのですが、
そのようなことがなくても、
常識に疑問をもてること、このような発想ができる人は、
その疑問を解くことより素晴らしいことではないのでしょうか。
問題は与えられれば、解く努力ができます。
個人だけではなく、多くの人が取り組むこともできます。
問題に答えがあるのなら、やがては解けるはずです。
でも、問題を見つけること、疑問を提示すること、
そのことのほうが、より大きいな創造性が必要ではないでしょうか。

2003年4月3日木曜日

6_26 鉄と酸素と文明

 私たちが日常的に使っている鉄。この鉄は、どこから来たのでしょうか。鉄鉱石からつくられているということは知っていても、その鉄鉱石がどんなところからとれ、鉄鉱石がどんな様子であり、鉄鉱石がどのようにしてできたかは、あまり知られていません。今回は鉄の産地をみていきましょう。そして、鉄鉱石が語る地球の歴史を紹介していきましょう。

 列車が通りすぎるのに、何分待ったでしょうか。10分以上かかったような気がします。こんな状態だと、多くの人はいらいらするでしょう。ところが、不思議と待たされることへの不快感はありませんでした。列車が通り過ぎるのを、車を止め、ただただ見とれていたのです。
 これは、日本の開かずの踏み切りの話でもありませんし、私が特別に列車が好きでもありません。でも、この光景は一見の価値があると思います。
 この情景は、西オーストラリアのポートヘッドランドという港町から内陸へ向かう途中でのものです。港にへ鉄鉱石を運ぶ列車が通りすぎるのを眺めていたのです。待っている車は、ただ一台。もちろんそれは私がのっている車です。機関車は、たった一両で、数え切れないほど連結された貨車を引いていました。ゆっくりとしたスピードなので、より長い時間がかかって通過するのでしょう。
 鉄鉱石は、内陸のピルバラ地域に分布する約25億年前の地層から露天掘りされています。鉱山の周辺には国立公園があり、鉄鉱石の地層のよく見える渓谷があります。平らな乾燥した平原に深く刻まれた渓谷に降りると、鉄鉱石をよく見ることができます。
 赤っ茶けた、綺麗な縞模様の地層が渓谷の壁面となっています。縞模様は、近づけば数ミリメールほどの細かい縞模様が見え、離れれば大きなスケールの縞模様が見えてきます。このような縞模様があるため、鉄鉱石を含む地層は、縞状鉄鉱層とよばれています。
 縞模様は、鉄の多い部分と少ない部分からつくられています。鉄の多い部分が鉄鉱石となります。鉄鉱石は、鉄の酸化物(磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱などの鉱物)を主とする岩石です。鉄の少ない部分は、石英を主とするチャートと呼ばれる岩石からできます。
 私が訪れた西オーストラリアのハマスレーは、見渡す限り縞状鉄鉱層の大地です。そんな地層から、露天掘りで鉄鉱石が掘られています。露天掘りされている鉱山は、宇宙からも見えるほど大規模なものです。鉄鉱石を構内で運ぶトラックも巨大で、タイヤだけでも、背丈を越える大きさです。大規模に掘り出された鉄鉱石が、先ほどの貨物列車で港まで運ばれていくのです。
 世界各地に縞状鉄鉱層がみつかっています。もちろんそこでは鉄鉱石が採掘されています。世界の縞状鉄鉱層も、ハマスレーのように大規模なものが多くあります。大規模な縞状鉄鉱層が形成された年代をみていくと、ほとんどが25億年前ころのもので、19億年前より新しい時代のものはなくなります。
 縞状鉄鉱層の形成年代の一致と、縞状鉄鉱層がある時以降突然なくなるということには、どんな意味があるのでしょうか。大規模な縞状鉄鉱層が世界各地であることから、縞状鉄鉱層は、地球全体におよんだ現象によって形成されたと予想できます。
 その現象とはどんなものでしょうか。縞状鉄鉱層は地層ですから、堆積岩の仲間です。堆積岩は海底でたまったものです。鉄鉱石とは、海底に鉄がたまってできたことになります。鉄は、普通、イオンの状態(Fe2+)では海水に溶けています。なんらかの原因で、より酸化されたイオン(Fe3+)になると、水酸化鉄(Fe(OH)3)となり沈殿します。沈殿した水酸化鉄は、長い時間のうち、脱水作用で酸化鉄へと変わっていきます。
 縞状鉄鉱層の形成とは、海水に溶けていた鉄イオンが、地球規模で酸化されたということを意味します。つまり、海水の大規模な酸化という事件が起こったのです。では、その酸化は、なぜおこったのでしょうか。それは、酸素をつくる生物が、このころから海に大量に生まれたのではないかと考えられています。酸素をつくる生物とは、光合成をする生物のことです。
 縞状鉄鉱層形成のシナリオは次のように考えられています。
 30億年前あるいはもっと以前に生まれた光合成をおこなう生物(シアノバクテリア)が、25億年前ころには大量発生します。酸素のない海では、鉄がイオンとして溶けていました。それが、酸素が供給されることによって、鉄イオンが酸化され、沈殿していきます。光合成生物の活動している季節には酸素が海水中に増え鉄が沈殿し、活動が衰えた季節(あるいは昼夜)には鉄が沈殿せず通常の海底の堆積物(チャート)が沈殿します。このような季節による生物活動の変化が、縞模様をつくっていきます。
 海水中の鉄イオンの大部分が使われてしまうと、酸素と鉄イオンとの濃度がつりあい(平衡になり)ます。海水中の鉄がなくなると、やがて酸素は大気中へと付け加わることとなります。
 大規模な縞状鉄鉱層は、地球の酸素形成という事件の証拠だったのです。生物によって酸素が急激に形成されたおかげで、海で「鉄の晴れ上がり」がおこり、鉄が25億年前の地層に濃集しました。そのおかげて私は鉄を資源として利用できるのです。
 もしこの酸素形成が急激でなければ、鉄は濃集していなかったはずです。濃集してなければ、鉄は集めにくい資源、貴重な資源となっていたはずです。現代文明は鉄に支えらているのですが、鉄が少ししかない貴重な資源となっていれば全く違った文明となっていたかもしれません。あるいは、まだ鉄器時代はきておらず、石器時代や青銅器時代であったかもしれません。