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2025年9月4日木曜日

4_197 支笏の秘湖へ:オコタンペ湖

 久しぶりの地球地学紀行となります。7月から8月にかけては暑くて、旅行のハイシーズンでもあるので、でかけるのを控えていました。涼しくなってきた8月下旬に、大好きな支笏にでかけました。


 先週、支笏湖を訪れました。退職すると、平日に活動できるという利点を、最大限に利用して出かけました。自宅で昼食とってから、のんびりと出発しました。途中で、恵庭にある白扇の滝や、そして今回紹介するオコタンペ湖、支笏湖畔などいろいろ寄り道してから宿に入りました。
 今回はオコタンペ湖を紹介します。何度が訪れているのですが、奥譚キャンプ場までいったこともあります。ところが、2020年6月から現在も、キャンプ場までは、土砂崩れのため通行止めとなっていました。前回、11月に来たときは、冬期の通行止めでオコタンペ湖にはいけませんでした。5月からはオコタンペ湖までは入れるようになったので、今回でかけました。
 オコタンペ湖は、支笏湖カルデラができる大噴火のあと、恵庭火山の噴火活動で放出された火山放出物が、オコタンベ川を堰き止めてできた堰止湖です。湖水は、その日の太陽光線の位置や、天候、見る時間帯などによって、湖面の色合いが変化します。訪れた日は曇りで風も少しあり波立っていましたが、岸辺はコバルトブルーからエメラルドグリーンになっていました。きれいな色合いが神秘的で、そして近づくのが大変なので、秘湖と呼ばれています。
 オコタンペ湖は、周囲約5km、最大水深20.5mで、西岸には高層湿原があります。オコタンペ川は、急な湖畔には近づけませんが、湖の全域が特別指定保護区であり立ち入りは禁止されています。道路沿いの展望台から見ることができます。
 オコタンベ川は、支笏湖に流れ込む、長さ約3.5kmほどの短い沢ですが、オコタンベ湖が支笏湖より標高差が300mもある高い位置にあるので、急流となっています。下流の河口となる奥潭のキャンプ場には、道路が通じていた時にいったことがあり、撮影もしていました。しばらくは再訪は難しいでしょうね。
 北海道には三大秘湖があり、オコタンペ湖はそのひとつになっています。その他にオンネトー、東雲湖があります。オンネトーは今年の初夏にいきましたが、東雲湖には昔いったきり、しばらくいっていません。そんな昔に思いを馳せきましょうか。

・いろいろな面・
今回、支笏湖の周辺を散策しました。
いつ来ても、その豊かな自然に癒やされます。
その自然の背景には、
活火山の激しさ、
人里離れた地の静寂、
山深い自然の神秘さ、
人を寄せ付けない火山の厳しさ、
火山の恵みたる温泉の心地よさ、
そんないろいろな面を感じさせてくれます。

・多くが望まない・
湖畔は、団体や観光客が多数訪れています。
湖畔のホテル街は、賑わっていていました。
小さい観光地なので、土産や飲食店が充実しています。
ビジターセンターもあり、
情報がえやすくなっています。
ただし、少々価格が高くなっています。
私たちは老夫婦なので、
多くを望むことはありません。
美しい景色と温かい温泉、
美味しい食事が少々あれば
満足できます。

2025年7月10日木曜日

4_196 螺湾のフキ:いつもとは少し違って

 足寄町は、大雪山の西から阿寒の南側の山岳地帯から十勝平野の直前までの山間にある町です。阿寒から足寄に町に向かう道が好きでよく通るルートとなっています。今回はその途中の螺湾(らわん)に目的地がありました。


 6月下旬、自家用車で知床から阿寒を通り足寄に走り抜けました。何度かきているオンネトー(アイヌ語で老いた沼という意味)を見学した後、今回は、道道664号を通り抜けるのをひとつの目的としてました。以前にもこのルートを進もうとしたのですが、砂利道だったのと、天気が悪かったので敬遠しました。しかし、今シーズンは新しい夏タイヤに替えたので、砂利道も気にせず通りました。
 奥地にある牧草地まで降りてくると、道道は舗装されており、快適に走ることができました。このルートを選んだのは、この時期ラワンブキがまだ生えているはずだったからでした。
 以前にも国道241号から螺湾(らわん)付近に来て、少し道道を入ったことはあるのですが、時期が遅かったのと、国道からかなり奥に入らなければ見れないようなので、諦めたことがありました。
 今回、自生しているラワンブキの観賞用の圃場(ほじょう)があり、そこでみることができました。
 日本には、普通にみかけるフキとアキタブキ(オオブキ)の2種があり、よく見かけ、食用にされているのはフキの方です。ラワンブキは、アキタブキの同種と考えられているそうですが、この地域にだけ、なぜか巨大に成長しています。地名からラワンブキと呼ばれて名産になっています。高さは2mから3mと人の身長を有に超え、葉の直径も1mほどにもなるそうです。かつては、高さ4m、葉の径も2mに達したものもあったとのことでした。大きなラワンブキは写真では見たことがあったのですが、実物は見たことがありませんので、見たいと思っていました。
 自生している圃場には多数のラワンブキが生えていたのですが、時期的は少し遅かったようで葉が少し枯ればじめていたのが残念でした。また、ラワンブキはそれほど大きいものはありませんでした。調べると、ここはもともとは自生地だったのですが、2016(平成28)年の台風で螺湾川が氾濫し、自生地が大きな被害を受けたそうです。自然回復が見込めないようなので、復旧したとのことです。同じ種でも、環境によって大きくなっているのでしょうが、そこまで大きくなっていないようです。他の場所は見なかったので、大きいのがあるのでしょうが、今回は諦めました。

・はじめてのルートで・
オンネトーはもっと深い山の中にあり
神秘的な湖になっています。
道は狭いですが整備されているため
観光客がよく訪れています。
ただし、そこより先の道道に進む車は
ほとんどないようです。
道道を走っていて、人家のあるところまで
一台もすれ違うこともありませんでした。
まさに秘境です。
今回はじめて通り抜けました。
こんなところに来ると、
野外調査をしていたときのような
ホッとした気分になります。
いつものルートですが、
いつもと少し違った目的もって
訪れるのもいいですね。

・いつものルートで・
知床から足寄に向かう途中、
阿寒にいきました。
これまで、何度も訪れてきたおなじみのルートとなリます。
定宿もあるので、そこに泊まりました。
阿寒では、火山と森の散策をして、
遊覧船でマリモを見学するというルートを
いつものように巡りました。
阿寒湖は釧路市に属していますが、
近くのオンネトーは足寄町になります。
峠のあたりが境界となっています。
足寄町に下る山地を通るルートは、
何度も来ているところです。
町に下りてきたときは、
道の駅で毎回休憩で寄ります。
博物館もあり、久しぶりに訪れました。

2025年6月26日木曜日

4_194 沖縄北山の旅 2:アスムイハイクス

 北の石灰岩地帯を訪れました。石灰岩の山自体は昔と同じでしたが、その周辺施設や道、そして博物館も整備されていました。しかし、なんといっても、一番の見ものは石灰岩のカルスト、そしてガジュマルの木でした。


 今回の沖縄で訪れたかったのは、前回紹介した「今帰仁」と、以前にも訪れたことのある「アスムイハイクス」でした。これは、以前「大石林山」と呼ばれていたところがが、2024年12月にリニューアルされ、改名されたものです。
 琉球開闢の神である阿摩美久(あまみく)が降り立った聖地が、安須森(あすむい)となります。沖縄最古の歴史書となる「中山世鑑」の琉球開闢之事として、
「昔、天にアマミクと云う神 御座しけり
先づ一番に 国頭、辺戸の安須森作りてけり」
とあるそうで、それがこの地なるということです。
 この安須森の森には、祈りのための拝所が多数あり、現在も利用されているそうです。そんな聖地の森、アスムイを歩いて見てまわれるようニ、ルートがハイクスとして整備されています。
 駐車場のある博物館からは、聖地のあるアスムイまでは、バスでのピストンでの移動になります。森の中のコースもよく整備されていました。車椅子でも周れるコース、短いのコース、長いコースが選択できました。もちろん、長いコースを夫婦で歩きました。
 アプリをダンロードすれば、ポイントごとに、解説も聞けるので、案内者がいなくても、セルフガイドで楽しむことができました。このアプリは全国の博物館施設で利用できるものでした。他を回るときも使ってみたいですね。
 訪れたのは暑い日でしたが、人も少なく、のんびりと見て回ることができました。時期的に少ない上に、聞くと沖縄でももっとも北に位置しているため、訪れる観光客も少いのだそうです。
 帰りもバスが使えるのですが、歩いて回るガジュマルロードがあり、多数のガジュマルやソテツなどの熱帯の植物など、多数の見どころがあるので、歩いて帰ることにしました。以前にも、バスで上がり、帰りは歩いて帰りましたが、道がきれいに整備されているので、時間を忘れて降りてくることができました。
 この地域には、石灰岩がカルスト地形として露出しています。辺戸(へど)の岬の周辺にも石灰岩のカルストがあります。海岸の石灰岩地帯もなかなか見ごたえがありました。
 沖縄には「琉球石灰岩」呼ばれているものが、広く(地表の3分の1ほど)をを占めています。その石灰岩は第四紀更新世(130万年前から7万年前)の新しいもので、空隙も多く柔らかいものです。ところが、もっと古い時代(二畳紀後期、2億8000万から2億2500万年前)のものがあります。北部の辺戸岬周辺と今帰仁城があった本部半島に分布しています。古いので固い岩石となって降り、、今帰仁城の石垣に使われていました。
 沖縄石の文化博物館も新しく整備されていました。二階にはレストランもあり、一階がショップと、岩石も多数展示されている博物館になっていました。少々蒸し暑かったのですが、晴れていたので、じっくり見て回ることでできました。

・自分との付き合い方・
高齢になったためでしょうか、
いろいろ行動に制限が出てきました。
多数の場所を巡ったり、
夜の行事への参加は、辛くなりました。
早朝型の生活をしているのと
体力の低下のためでしょう。
若いときは、時間と体力があったのですが、
お金がありませんでした。
働き出すと、お金と体力はあるのですが、
時間がありませんでした。
歳を取ると、時間もお金もありますが、
体力がありません。
そんな自分の置かれた条件と状態を受け入れて、
無理をしないで、体を壊さないように
付き合っていくしかありませんね。

・ガラス細工・
名護の周辺も半日訪れたました。
名護では、妻のリクエストしていた
ガラス工芸の店にいきました。
子どもがつくったガラスのグラスを
割ってしまったので
自分で作りたいといっていたので探しました。
ガラス工芸店を見つけて訪れたところ
それは、以前、家族で訪れて
子どもたちがガラスをつくった店でした。
一番いいタイプのグラスを選んで
妻が自作に挑んで、無事自宅に配送されてきました。
他にもグラスやガラスの加工品なども購入しました。

2025年6月19日木曜日

4_193 沖縄北山の旅 1:北山王国

 沖縄北部へ旅をしました。本部(もとぶ)に6日間滞在して、北山王国の各地を巡りました。移動日もあるので、正味4日間の旅となりました。久ぶりの旅のシリーズを紹介します。


 5月末から6月初頭にかけて、沖縄に観光旅行にいってきました。久しぶりの沖縄となります。子どもが小さい時、2004年と2007年に家族で出かけました。冬から春で、子どもや私の休みの都合に合わせていました。
 今回の沖縄は、梅雨時期の訪問となりました。幸いなことに、初日は激しい雨となりましたが、晴れの日も多く、雨で困ることはありませんでした。
 もともと、梅雨の時期で訪問者が少なく、なおかつ北部はさらに訪問者が少なくなります。そんな人があまり訪れないところを回りました。以前にいったところへの再訪が多かったのですが、初めて訪れるところもありました。
 今帰仁城は、初めてでした。世界遺産にもなって降り、施設も整っていました。沖縄の歴史についても解説を読んで、少々学びました。
 シリーズタイトルの北山(ほくざん)とは、沖縄本島の14世紀ころの時代区分です。当時の古代琉球は3つの王国に分かれていました。南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)の時代が、100年ほど続きました。北山王国は、恩納村より北側に位置し、本島の北半分を占めていた大きな王国でした。北山王国は、現在の国頭(くにがみ)地方が中心となリ、今帰仁城(なきじんくす)を居城としていました。
 その後、中山が力を増していき、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼし、琉球を統一しました。北山は、中山に滅ぼされ以降、今帰仁城は北山監守が置かれていましたが、17世紀には廃止されました。それ以降、城としての機能をもつことはなかったようです。
 今帰仁城は、これまで訪れたことがなかったので、じっくり見たいと思っていました。城は、景色のいい、山の尾根筋に位置していました。尾根の脇を川が流れているのですが、山の上から川まで汲みにいってたそうです。戦いがはじまったら、水の確保は難しかったのでしょうね。天守の跡だけはありましたが、思っていたより狭かったです。石垣が残っており、往時の姿を想像させていました。
 今帰仁城では、幸い観光客も少なかったので、私たち夫婦だけのためにボランティアの人が案内をしてくれました。2時間以上もたっぷり時間かけて、城内を案内してくださいました。城内を案内で巡ったあとは、博物館もあったので、その中もじっくり見ました。朝一番から半日たっぷりとかけて、今帰仁城にて過ごすことができました。

・ゆったりと・
沖縄では、いくつ訪問する地は決めていましたが、
あまり厳密にスケジュールは決めずに、
天気を見ながら漠然と決めることにしていました。
空港からレンタカーを借りていたので
自由に見て回ることができるので、
ゆったりとした旅程で進めました。
初日は、那覇空港から本部へ直行し、
最終日は、ホテルから那覇空港へ直行しました。
もともと、人の多そうな中・南部は素通りの予定でした。
3日目は天気がよさそうなので、
今回、紹介した今帰仁を訪れました。

・海洋公園は2度・
妻の一番の目的地は、美ら海水族館でした。
2日目に訪れ、5日目にも海洋公園に半日いました。
この日程は正解でした。
5日目、午前中は名護にいったのですが、
時々雨も降る蒸し暑い日で少々バテていました。
そこで、海洋公園の施設で海洋文化館にいきました。
そこにはプラネタリュームがあり、
3つのプログラムの映像を
すべて見ながら過ごせました。
人も少なく、のんびりした見学することができました。

2025年4月17日木曜日

4_192 上野のお山の科博にて

 最近はこの時期には帰省しています。親族の面会と墓参りなので、しなければならない帰省となっています。年々、都会での滞在が、疲れるようになっていきました。それでも、無理しないようにしながら、観光もしています。


 先日、横浜に帰省しました。親族に会うことと、墓参りが目的でした。都会にいくと、いつも人の多さに圧倒されます。現在住んでいるところでも、街に出れば多数の人がいます。そんなところは避けたいので、多いところでの滞在は最小限にするようにしています。首都圏では、行きたいところは、すべて人の多いところになります。いく行程でも、たどり着いてからも、人が多くて、疲れてしまいました。
 愚痴ばかりいっていないで、本題に入りましょう。
 一日、上野の国立科学博物館(科博と略称されています)を訪れました。10時開館だと思っていたら、9時でした。それに、特別展も開催されていたのですでに多く人が入館していました。以前、何度か来ているのですが、久しぶりなので展示内容をあまり覚えていませんでした。そのため、楽しんで見ることができました。
 入ってすぐの日本館では、企画展の「地球を測る」を見ました。さすが科博と思えるような古い気象や地震に関する観測機器の展示物がよかったです。特に、地震の揺れを3次元に針金で表現したものは、これまで存在も知らなかったのでよかったです。ボランティアの人が、詳しく説明をしてくれたのでよくわかりました。また、関東大震災の地震計の記録も画像でしか見ていなかったのですが、実物が展示されていました。やはり、実物の迫力、魅力は代えがたいものがあります。
 日本館の途中で昼になったので、レストランで食事を摂りにいきました。平日でしたが、親子連れや外国人客が多数いました。なんとか、食事を終えて、次は、地球館にいきました。
 以前も見たはずで、一部老朽化しているところもがあって残念でしたが、やはりその物量、質、デザインなどは、圧倒的でした。急ぎ足でしたが、地球館は全部を見ることができました。そこままでかなり疲れたのでラウンジで休憩をしてから、ミュージアムショップでの家内の買い物に付き合いました。時間もまだあったので、日本館の見残した展示室やシアターの見学もしたかったので、体力的にもう疲れてしまいました。すべてをじっくりと見るのも、体力が必要です。
 帰りは、上野公園の桜並木を通り抜けて来ました。まだ桜が満開で残っていたので、多くの人が見学をしていました。メインストーリーでは道沿いのシートを敷いての見学はできないようでしたが、少し外れた木立の前では、花見客が多数、座って食事をしていました。少し先の並木では、宴会が可能なところもありました。しかし、そこを巡る体力はありませんでした。
 都会で動き回る体力はなくなりました。特に、人が多いところでは、疲れてしまいやすくなるようです。自然の中を歩いたり、石や露頭を見るのいいですが、人の少ないところを歩くのが性に合っているようです。

・体力不足・
上野へは、9時前の電車に乗りました。
桜木町駅が始発の京浜東北線だったので
上野まで座っていくことができました。
以前の記憶の混みぐわいと比べると、
空いているはずなのですが、
それでも、人が多く混んでいると感じました。
もし、9時前の東海道だったら、
乗車時間は短かかったかもしれませんが、
まだ混んでいたのでしょう。
都会では、乗り物もラッシュを避けて
移動するしかありません。
毎年この時期に、横浜に行くのですが、
年々、出かける度に体力が落ちていくようです。
退職前後から歩くことや水泳をして
体力増強に努めているのですが、
まだまた足りないようです。

・外食・
横浜に到着した一日目は、
東京に住んでいる次男を呼び出して
中華街で食事を摂りました。
2日目以降は、二人とも昼間の疲れで、
夕方、風呂に入ったら、
食事にでる元気もなくなっていました。
仕方がないので、館内のコンビニで
食事を買ってわびしく食べました。
まあ、それでも朝と昼は外食していますので、
都会を味わっているのでしょう。

2025年4月10日木曜日

4_191 大学教員として最後の旅路 2:最後の宴席にて

 退職に当たり、いくつも宴席が設けていただきました。最後となる宴席では、仕掛けをしました。全部が分かる人はいなかったと思いますが、いくつかの仕掛けを解いた方もいたようです。


【独白1:キーワード】
 私は、人前で話すのは上手くないので、フォーマルの場での挨拶は、原稿を用意していました。最近はそのようなフォーマルな場はないので、挨拶は、毎回、キーワードだけを頭の中で決めておき、その場で話すことにしています。なぜか、最近あまり緊張することがなくなりました。ただし、マイクの前に立った時には、それなりに緊張しますが。この最後の挨拶では、原稿ではないのですが、キーワードを用意しました。
【独白2:前置き】
 子どもと暮らしていた時、いっしょにクイズ番組をよく見ていました。なぞなぞのようなクイズは、子どもが小さい時は、家内や私が先に解けていましたが、時は子どもが先に解けることがありました。解ける快感もさることながら、先にわかる優越感が大きかった思いがあります。そして子どもが大きくなるにつれて、ほとんど勝てなくなりました。
 いずれにしても謎に挑戦して、それを解く快感は知的楽しみとしては大きと思います。
【註】こんな前置きの話しを、本来はしようと思っていたのですが、時間が限られていたので、省略することにしました。
【ここから話をはじめました】
 大学では、退職にあたり、各所で挨拶をすることになります。最後の場となるのが、大学全体でのこの歓送迎会となります。ホテルの大きな会場での宴席となります。考えたら長らく大学に奉職してたのですが、公式に大学の教職員の前で話すのは、これが最後になると思うと、話したい内容や思い出が、次々と湧いてきました。それをそのまま吐露すると、支離滅裂になるので、今回はメモを用意しました。
【といって、キーワードを書いた用紙を取り出しました】
 さて、これらの挨拶の中で、私が目指してきた教養、そして数名の教職員と話した話題から、キーワードを選び、それを話すことにしました。ですから、ここには、キーワードだけが書かれたメモをもってきました。キーワードには順番もあるので、メモが必要でした。

【この内容については、別の所に書いていますので、すべて省略します】

 話の中で、いろいろな仕掛けを考え、大学にくるまでの経歴で、一旦話しを中断して、閑話として、ここまでの話に使った6つのキーワードを示して、その意図を種明かしをました。また、それは教員(学長が多い)との会話で出てきたキーワードあることも明かしました。

 閑話休題以降、話の内容は、5つのキーワードを織り交ぜながら、大学での思い出、アカデミアとしてよさとその存在意義の話をしました。キーワードの種明かしをすることなく、挨拶を終えました。
 後半で使ったキーワードの難易度は高く、一人ですべてを解くのは不可能だと思いました。ただし、最後のキーワードだけは、有名なものなので、会場で何人かの人が答えがわかったようでざわつきました。話し終わると、会場が一瞬シーンとなりましたが、じわりと染み込んで、よかったようです。
 あとから知り合いの先生から、その仕掛けのキーワードの一部しかわからなかったが、あのキーワードはわかったなどの話が聞きました。そんな評価こそが望むところでした。
 このキーワードは、最終講義から連続していたもので、最終講義を聞いていないと、まずは解けないと思います。そして、最終講義の隠れた目標は、教養を身につけることの大切さを示すとともに、その実践例を示したいということでした。歓送迎会の挨拶の後半のキーワードは、最終講義で述べた内容でもありました。
 このように、退職に向けて、ほとんど気づかれないでしょうが、いろいろな仕掛けをして、わかりにくいとこにメッセージを残してきました。そんな他愛のないことを、最後に楽しみました。
【独白3】
 謎解きの楽しさの前置きは、時間の都合で割愛しましたが、本来なら、11個のキーワードの内、いくつわかったか聞こうと思っていました。その中で一番難しいものを答えた人に商品を渡そうかと思いましたが、そんな時間的猶予はありませんでした。

・謎解きの楽しさ・
最後の挨拶の概要は、あるエッセイに書きました。
種明かしも、そこでしています。
また、退職にあたって、見つかりにくですが
いろいろな意図について公開しました。
こんな仕掛けをしていくことは楽しいですね。
そして、家族で見ていたクイズ番組で
謎を解く楽しさを味わいました。
もしかすると、家族の誰かが、
気づくかもしれません。
インターネット上に公開し、それが残っていれば
誰かが、いずれ、なにかの機会に気づいて
謎解きの楽しさを、味わってくれるかもしれません。
ただし、家族には、いずれ気づくかもしれないが
わかりにくいところですが、
メッセージを隠してあります。

・熊楠のまんじゅう・
学部の歓送迎会でも
花束をもらうことになっていましたが、
それは職員の人にあげることにしていました。
その代わりとして、
私が熊楠に興味をもっていることを
よく知っておられたので
熊楠に関連するまんじゅうをもらいました。
こんな凝った対応をしてくださった職員の方々は
私が好きなユーモをお持ちなので
非常にうれしかったですね。

2025年4月3日木曜日

4_190 大学教員として最後の旅路 1:最終講義にて

 大学の退職しました。退職に当たり、研究内容だけでなく、最後のメッセージとして、いろいろな、わかりにくいところに残してきました。そんな自己満足のようなメッセージの一端と、場所のヒントを紹介しましょう。


 2025年3月末を持って、大学の退職しました。23年におよぶ大学教員として生活を終えました。終わるに当たり、自ら進めてきた研究や、目指していたもの、考えてきた方法論とその実践などを、大学の関係者には伝えたいと思いました。その伝え方も、自身が考えた方法論の実践と位置づけました。研究内容な方法には興味のない人も多いはずなので、「思い」の部分は隠れたメッセージとすることで、気づく人だけが楽しめばいいとしました。そんか仕掛けをいくつかしました。
 大学での退職セレモニーとして、公式の場として、最後の講義や、最終講義の場などで花束を渡すことになっていました。最近は、セレモニーを辞退することも選択する教員もいます。
 最終講義として、以前聴講した何人かの先生のものが印象に残り、その先生の人となりが伝わり、いいものだという記憶がありました。私の所属していた学部では、コロナ禍の影響もあり、ここしばらく最終講義はなされていませんでした。私は大学への最後のメッセージとして、最終講義をさせていただくことにしました。
 そこに、隠れたメッセージをいろいろ埋め込むことにしました。大学の関係者が中心なるように、2月28日(金)の校時にさせて頂くことにしました。また、担当職員もはじめてとなるとことで、仕事を増やさないように、大げさな告知はせず、学内だけにしました。気づいた在学生や教職員だけを予定していました。その一貫で大学ホームページでも情報が出ることになりました。そのため、在学生や教職員だけでなく、ホームページや口コミで、卒業生一部の外部の人にも知られ聴講にこられました。数えてないので正確ではないですが、全部で70から80名ほど聴講されていたようです。
 講義内容の詳細は省きますが、研究への道を歩んできた履歴とともに、研究テーマの変遷や成果を示しました。退職後も、探求したい研究テーマがあり、研究の道をまだまだ歩み続けることも伝えました。
 終了後、非常に専門性の高い所で、何人かの人たちから強い反応がありました。いろいろな手応えがありました。その中には、今までそんなことに興味をもっていな人がいたこともわかり、非常にうれしかったです。私にとっても非常に有意義な最終講義になりました。
 最終講義で話した内容は、当日配ったレジメの目次の部分だけは、某所で公開しました。また、別のところに、最終講義の仕掛けも少し示しまた。最終講義の完全版は、今のところ公開する予定もありません。
 また、他の場でも仕掛けをしましたが、それについては、次回としましょう。

・キーワード・
最終講義の内容で反応があったキーワードを列挙します。
共同研究者の特定の人、
以前の勤務場所の前身が横浜正金銀行であったこと、
四国西予ジオパーク、
ステファン・J・グールド、
南方熊楠、密教、マンダラ
などでした。。
また、外部から聴講に来られた方は
私自身に興味があったようでした。

・花より団子・
本来、退職教員には最終講義などの場で
花束贈呈をすることになっています。
花束は生花なので、辞退しました。
そんな時はいつも、「花より団子」
といって断っています。
すると担当者は、気を利かせて
花束ではなく団子(食品)を
送ってくださることがあります。
大学からは、ジオパークと南方熊楠のお菓子を
個人的に清酒を、
卒業生からは寄せ書きや手紙、メールを頂きました。
最終講義に出席していた、
卒業生からは花束を持ってきてくれました。
ありがたく頂くことしました。

2024年12月5日木曜日

4_189 支笏:カルデラの中の静寂

 支笏湖は、風光明媚で温泉もあり、千歳空港からも札幌からも近く、観光には恵まれた立地です。しかし、限られた所しか観光施設がないため、そこから少し離れると静寂があります。そんな静寂が好きです。


 11月下旬、支笏湖を訪れました。わが町では、数日前にかなりの積雪になったのですが、支笏周辺は降らなかったようです。ところが、訪れる前日に、支笏周辺の山域だけが雪となりました。支笏までの山道は、積雪があり凍っているところもありました。無理せずゆっくりとの走行しましたので、無事たどり着くことができました。
 支笏湖は、火山の雄大さと湖の神秘さ、森の静寂、そして温泉を湧いていると観光に恵まれた地となっています。湖畔からは、湖面越しに恵庭岳、樽前山、風不死岳の雄大な山体が眺められます。これらの山は、いずれも活火山です。
 支笏湖は4万年前ころに激しい噴火(支笏火山)が起こり、大量の火山砕屑物を放出しました。その噴出物は、大規模な火砕流となり、支笏の南側の白老町から、南東側の苫小牧市、そして東側の千歳市一帯を覆いました。その結果、以前は太平洋に流れ込んでいた石狩川がせき止められ、石狩湾に流れ込むようになりました。
 巨大な噴火で大量のマグマが放出されたことで、山体の直下で陥没が起こりました。その結果、直径12kmになるカルデラがでました。それが現在の支笏湖となります。支笏湖は面積も広く(日本で8番)、深い湖(日本で2番)です。もともとは丸い形のカルデラ湖でしたが、その後の火山活動で、現在のようないびつな形になっていきました。
 支笏湖ができてから、2万6千年前ころから支笏カルデラの中に、風不死岳ができました。カルデラの崖の上にあたるところに、9000年前の火山活動で樽前山ができ、少しの休止期をへて、17世紀と18世紀の噴火で山頂に火口ができ、1909年には溶岩円頂丘(遠くから見るとプリンのような形)ができました。現在も、山頂周辺では噴気が上がっています。
 恵庭岳は、2万年前ころにカルデラ壁で火山活動をはじめ、山体ができました。しばらく休止した後、17世紀になって水蒸気爆発が起こり、東側に火口(爆裂火口といいます)ができました。その生々しい火口の地形は現在も残されています。
 支笏湖は、観光地ですが、少しはずれれば周辺には森が広がっているので、静寂を味わえます。出かけた時の帰りや、自宅からも近いため散策に訪れていました。
 今回は野外調査は抜きで、家内と二人で、自然の散策と温泉、そして美味しい料理を楽しみに出かけました。途中で昼食をとって、早目に着きました。森を散策しようと思っていたのですが、積雪のため、ホテルの人に長靴やブーツがないとだめだと止められました。仕方なく、きっさコーナでコーヒーを飲みながら、窓越しに景色を見て過ごしました。朝には、いろいろな野鳥が観察できました。静寂の中で、ゆったりとした、穏やかで豊かな時間を過ごすことができました。

・厚さ寒さ・
先週前半は、温かい日もあったのですが、
週末には冷え込んで雪となりました。
例年の寒さに戻ったようです。
寒暖の変化が激しいと
防寒着も、厚手のものや薄手のものへと
日によって着替えていくことになります。
まあ、季節の変化なので
自分で対処するしかないのでしょう。

・忙しくても・
とうとう師走になりました。
校務が忙しく落ち着いきません。
特に、11月から2月にかけては
次々と重要な校務が続きます。
そこに私事の所要も重なっています。
気が休まらない日が続いています。
我が大学では、退職までの1年間は
落ち着いて研究をまとめるという意味を込めて
校務は少なくするというのが暗黙にあるのですが、
人員が減っているのに、校務が増えています。
そのため、退職前も校務が押し寄せます。
まあ、致し方ないことですが
与えられた業務、すべき作業を
淡々と優先順に進めていきます。
ただしなにがあっても、
研究の進行も止めることなく
進めていかなければなりません。

2024年11月7日木曜日

4_189 登別:噴気と紅葉

 今シーズン最後の野外調査で、登別からオロフレ峠、美笛峠、支笏湖という山岳ルートを巡りました。火山地質を観察したのですが、周辺は秋の紅葉でした。紅葉も山や峠では終わっていましたが。


 今シーズン最後に、1泊2日で、登別からオロフレ峠を超えるルートの調査にいきましました。10月になって、一度道内各地で初雪が見られました。10月下旬なら、山では雪が降ってもおかしくないので、峠越えも、今シーズン最後の時期かもしれません。
 初日は、札幌周辺は冷たい雨でした。登別に向かうと晴れ間があったのですが、午後からは時々雨が降る天気でした。登別の火山地帯は地獄谷と呼ばれているのですが、時々雨が降る中を傘をさして、調査となりました。
 登別温泉は、古くからある温泉地で、かつては鉄道も通っていました。湧出量が多く、いろいろな成分の温泉が出ていることで有名です。泉質としては、硫黄泉、食塩泉、明ばん泉、硫酸塩泉、緑ばん泉、鉄泉、酸性泉、重曹泉、ラジウム泉の9種があります。泊まったホテルでも、硫黄泉、食塩泉、鉄泉の3つの温泉がありました。
 登別で有名な地獄谷は、観光ルートが整備されていて、噴気口も湧水、温泉の流れもあります。寒い雨でしたが、噴気もよく見ることができました。泉質の異なった温泉が沢で合流しているのが、色の違いとして見ることができます。火山と温泉を観察するにはいいところです。
 この日の雨も山でも雪にならず、翌日は幸い晴れてきましたので、オロフレ峠を越え、美笛峠から支笏に入ることにしました。オロフレ峠は、これまで通ったことがなく、はじめての峠越えになりました。
 このコースは、山が深く、ところどころに温泉が湧いて、温泉宿もあります。山や峠では、紅葉はほとんど終わっていました。ところが、支笏湖周辺だけは、紅葉がまだきれいに見ることができました。湖畔周辺だけ、紅葉が遅れていて、不思議でした。平日でしたが、紅葉を見に、多くの観光客が訪れていました。
 登別からオロフレ峠、支笏湖周辺は、火山が作った地形です。活火山も多数あります。火山岩、火山砕屑物からできています。多数の観光客が訪れる火山と温泉の景勝地となっています。

・本当に最後の野外調査・
年度当初の研究計画では、
この調査は予定していませんでした。
9月の調査で、今シーズンは終わるつもりでした。
調査終了時に、研究費が少し残っていました。
そのため、1泊2日の調査に出ることにしました。
日程を調整していたら、
10月の下旬になってしまいました。
火山の調査でしたが、
周辺は紅葉の名残もあり、景色も堪能しました。

・サーバ停止・
このエッセイのホームページは廃止しました。
大学のサーバが10月末に停止したためです。
2012年から情報処理課にサーバを
保管していただいていました。
古いOSがかなり古くなり、
セキュリティの更新ができず、
機材の更新か廃止を迫られました。
12月一杯で廃止予定でしたが、
10月末に廃棄することとなりました。
そのためホームページでの公開は
急遽、終了となりました。
ブログは継続していますので、
バックナンバーも見ることができます。

2024年10月3日木曜日

4_188 白神岬:付加体での変動

 北海道の最南端の白神岬は、津軽海峡を挟んで本州に面しています。白神岬には、不思議な岩石が分布しています。海でできた石、陸でできた石、境界で起こった激しい変動が記録された露頭があります。


 9月中旬に、道南を巡りました。夏の暑さはおさまっていたのですが、秋にはまだ早い時期でした。函館から松前に向かうときには、いつも白神岬の駐車場に車を止めて一休みします。白神岬からは、天気がよく空気が澄んでいると青森の津軽半島が見えます。
 ただ、この白神岬はわかりにくく間違いやすいところです。松前に近いところに、大きな駐車場とトイレのある「白神展望広場」があります。しかし、いつも立ち寄っている白神岬は、トンネルの手前の狭い駐車場のあり、「北海道最南端」の石碑があるところです。
 天気がよければ、海岸への階段があるので、降りて石を眺めます。この周辺では、付加体でみられるタービダイトと海洋プレート層序がバラバラのメランジュになった岩石が見ることができます。
 ここで、付加体、タービダイト層、海洋プレート層序、メランジュという聞き慣れない地質学の用語がいくつも出てきましたが、少し説明しいきましょう。それがこの海岸に来る理由になります。
 海洋プレートが海で沈み込むとき、沈み込まれた側に、日本列島のような火山活動の盛んな列島(島弧と呼ばれています)が形成されていきます。海洋プレートが沈み込むときに圧縮の力が働くため、海溝と島弧の間の海底に、「付加体」ができます。その付加体を構成しているのが、「タービダイト層」と「海洋プレート層序」になります。それらの岩石が、圧縮に力で砕かれてぐしゃぐしゃに入り混じった状態を「メランジュ」といいます。もう少し詳しく説明していきましょう。
 陸地の島弧では、山地ができ、河川などの侵食によって土砂(砕屑物といいます)が海に運ばれ、海岸沿いにたまっていきます。稀に起こる地震などを契機にして、さらに稀に大きな海底地滑りが起こり、大陸棚を土砂が流れ下ることがあります(タービダイト流)。その結果、大陸斜面の海溝近くに、粗い粒の砂から細かい泥まで粒が並んだ一層の堆積層ができます。タービダイト流が長い時間をかけて何度も繰り返されると、砂から泥の堆積層が繰り返される地層(砂泥互層)ができます。それがタービダイト層となります。
 一方、海側では、遠くの海嶺での玄武岩質のマグマ活動によって海洋プレートができます。海洋プレートは、海底表層ではマグマが水中で急冷してできる特徴的な構造をもった玄武岩(枕状溶岩)からできています。海洋プレートが海底を移動していくと、その上にプランクトンの死骸が降り積もり堆積物(層状チャート)となります。海溝に近づくと陸からの堆積物がチャートに混じってきます(半遠洋性堆積物、珪質泥岩という岩石)。
 海洋地殻の上部の玄武岩に、層状チャート、珪質泥岩と重なった地層群が、海溝近くにはできてきます。これを海洋プレート層序といいます。海溝になると圧縮ために付加作用で、陸側のタービダイト層と海側の海洋プレート層序がともに付加体になっていきます。付加体がさらに圧縮で破壊されたものが、メランジュとなります。それらの岩石がメランジュとして白神岬に分布しています。
 この地域の層状チャートから三畳紀の化石(コノドント)が1980年に見つかり、北海道の付加体研究に重要な役割を果たしました。白神岬では、狭い海岸なのですが、堆積岩や火成岩などの他にも付加体やメランジュの複雑な構造も見られます。
 なんといっても、白神岬には、さまざまな岩石が、時にはぐしゃぐしゃにされた露頭は、大地の変動の感じさせてくれます。

・冬支度・
北海道は9月下旬から一気に秋めいてきました。
気温が下がった夕方には
一度ストーブをたいたことがありました。
その後、また暖かくなってきました。
夏に使ったエアコンはもう使わないので
室内機にカバーを掛け、室外機の雪よけの枠を自作し
そこにビニールシートをかけて冬支度としました。
秋から冬の支度をするようになりました。

・カメムシ・
秋が深まると、カメムシが冬ごもりのため
雪の影響のない暖かいことろを求めて、
家に侵入しようとしてきます。
家内が毎日、窓のいるカメムシを
多数、外の追い出しています。
しかし、注意しないと嫌な匂いを出すので
穏やかに引き取ってもらっています。

2024年9月5日木曜日

4_187 フォルンフェルスの付加体

 道南瀬棚の海岸には、花崗岩と付加体の堆積岩が接しているところがあります。その露頭は、新しくできた道路の入口にあります。なかなかの見ごたえがある露頭なので、何度が訪れています。


 北海道の南部、瀬棚町には、海岸を辿る道道740号線があります。この地域には、何度も出かけていいます。以前は、いくつかのトンネルはできていたのですが、一部開通していないところがあり、不通の道路で通り抜けることができませんでした。この間、陸側に国道229号線があるので、日常生活には不自由はなかったのかと思います。
 開通前は、南側が太田神社にあるトンネルの入口まで、北側が鵜泊(うどまり)漁港までで、それぞれバリケードがあり、通行止めになっていました。両地は、バリケード付近まで、昔から生活の場がありました。
 大田神社の本殿は、海を遥か上から望む崖の上にあります。そこにたどり着くためには、急傾斜の石段があり、その踏み面も狭く、足を横にしないと登れないほどです。安全のために何本かのロープがあり、それを掴んで登っていくことになります。この大田神社の本殿周辺はジュラ紀の付加体が分布していますが、海岸にある拝殿の周辺は、白亜紀の花崗岩が分布しています。ちょうと付加体と花崗岩の境界にトンネルがあります。
 興味深いのは、北の鵜泊の方でした。こちら側には、漁港に海岸にジュラ紀の付加体が分布しています。激しく褶曲したタービダイト層が、海岸沿いに分布しています。ここの地層は、すぐ南に広がっている白亜紀の花崗岩類の熱によって接触変成作用を受けています。見かけは堆積岩のままなのですが、固くなったホルンフェルスと呼ばれる接触変成岩になっています。
 付加体のよく見える海岸に出るには、漁港の水産物処理場の裏にでなければなりません。許可をもらって見にいくことになります。残念なことに、こんな見事な、地層がでているのですが、海岸には処理場の廃液が流されているために、ひどく汚く臭う状態になっています。しかし、写真には臭いは映りませんので、画像をたくさん撮影しました。
 海岸沿いは、硬い花崗岩が分布する地域で、海岸まで切り立った崖となっています。大田神社と鵜泊の間は、硬い岩石を掘り進めなければならないので、多数のトンネルが掘削しなければなりません。そのため、工事が遅れていました。
 工事中の区間は、2013年に開通しました。開通後、しばらく瀬棚の方には出かけていなかったのですが、コロナ終了後、瀬棚方面から海岸沿いを訪れました。そのとき、やっと開通区間を通ることができました。ただ、当日は吹雪いていたため、調査はできずに、通り抜けるだけでした。日本海からの季節風がひどかったのですが、トンネルが多かったので、安心して通行することができました。
 その後、2度ほどこのルートを通りました。今年の春にも調査をしました。漁港の海岸にあるフォルンフェルスへも再訪しました。この9月中旬にも通る予定です。トンネルが多くて露頭を見れるところは少ないですが、それでも海岸沿いを進めるのはいいですね。

・予約配信・
本エッセイは、予約配信をしています。
月の初めのエッセイは、
地球地学紀行をテーマとしています。
今年で退職ですので、
北海道を中心に野外調査を進めています。
7、8月は暑いので調査は休んでいました。
9月早々に再開をしました。
5泊6日で道東に調査にでています。
移動距離が長いので、
調査の日程が長めのほうが有効です。
以前、道外に長期の調査にでていたのですが、
最近は北海道中心に進めています。

・いろいろと調整を・
長期の調査にですためには、
出かける前には、不在時の時の分も
研究や校務を計画的に進めて
いかなければなりません。
会議や打合せも調整しておきます。
今年度で退職なので
こんな苦労も最後になりそうです。

2024年8月1日木曜日

4_186 大雪:一期一会と無知の知

 北海道の春から初夏は、色鮮やかな季節になります。北海道でも遅く春が訪れる大雪山も、7月には緑と花の季節になります。そんな大雪山の山頂と裾野で2つの教訓をえました。


 7月はじめ、初夏の大雪山周辺を巡りました。山頂付近には少し雪が残っていますが、5合目の散策コースは、一面緑に覆われた初夏の山の景色になっていました。
 大雪山は、その雄大さはいつ訪れても変わりませんが、季節ごとで景観には大きな変化があります。黒岳のロープウェイの5合目付近も、よく訪れるのですが、春や晩秋には残雪や積雪のため、散策できないことがあります。しかし、初夏には快適な散策ができます。同じ季節でもその年により、景観は異なっています。まさに一期一会です。どんな時であっても、その時を楽しみ、味わうことが必要だと教えられました。
 大雪山は、多くの火山の集合なので、いろいろな火山地形をもった山頂や火口があります。中でも御鉢平の火口は雄大で見応えがあります。また、山体周辺は河川による解析も激しく、溶結凝灰岩の柱状節理のよる深い谷や、火山岩類のむき出した渓谷も多数周辺に広がり、観光名所となっています。
 このような荒々しい景観だけでなく、大きな山体の周辺にはなだらかな斜面もあり、そこでは雄大な景観が広がっています。もちろん温泉も各地にあります。今回は、山頂や渓谷だけでなく、これまでいったことのない、愛別岳の北側斜面を、いろいろ巡ってみました。
 山麓の多くは森林地帯になっているのですが、上川の石狩川の左岸に近いところだけに、畑が広がっています。畑越しにみる石狩川や、その東にそびえるニセイカウシュッペは、これまで見たことにない景色でした。
 大雪山には毎年のように、何度も訪れているのですが、まだまだ見残しているところがあることを知りました。これこそ自然が、私の無知の知を教えてくれたのかと思えます。

・体調不良・
講義が終わった直後に、
体調不良になりましました。
講義の空き時間に2日間にわたって
4年生との多数の予約があったのですが、
それがすべてキャンセルとなりました。
一応、定期試験直前には
なんとか復帰する予定なのですが、
また体調は戻っていません。
教員としてひとりでこなしていることが多数あります。
そのため、いろいろなところに
迷惑をかけることになります。

・一人「授業」主・
このエッセイは、発行の前日に書いています。
2つのエッセイを書かなくてはなりません。
自宅でもメールで処理できることは
最低限していたのですが、
校務もたまってきたことから
少々無理して復帰しています。
大学教員とは、一人事業主のように、
「一人授業主」たる存在なのです。
本人しかできない仕事を
いくつも請け負っているので
体調不良になる恐ろしさを味わいました。
しかし、今は、回復することが一番です。

2024年7月4日木曜日

4_185 積丹半島:強風の岬へ

 北海道の積丹半島は、日本海に突き出した地形です。新しい時代の火山活動でできたので、侵食が激しく、海岸沿いは断崖が多くなっています。日本海は良い漁場なので、少しでも平坦なところがあると漁港になっています。


 6月初旬に、久しぶりに積丹半島を巡りました。夜間に雨が降ったのですが、幸い昼間には降られることがありませんでした。今回の目的地の島武意海岸も神威岬も訪れることできました。いずれも、外国人観光客が多く来れられていました。
 島武意海岸は、半島の山側から道が通っています。駐車場からトンネルを通り、断崖の上の展望台があり、そこから海岸まで降りる遊歩道がありました。ところが、現在、海岸への歩道は通行止めになっており、展望台から海岸を眺めるだけになっていました。残念ですが、しかたがありません。
 神威岬は、雨には降っていななかったのですが、強風でした。岬の先端までは、完備された歩道を歩いていけます。しかし、崖っぷちの歩道や、急な階段もあります。強風の中を歩くので、かなり恐怖を覚えるところもありました。
 積丹半島の全体は、主に新第三紀中新世の火山岩からできています。積丹半島全体は、デイサイトから流紋岩の溶岩や火山砕屑岩の火山岩からできています。半島の周辺部には、海で堆積した泥岩もあります。神威岬では、火山岩と海成層の両方の地層と境界も見られます。島武意海岸の西側には積丹岬があります。島武意海岸の周辺だけが、少し新しい時代の中新世から鮮新世の貫入岩類がでているところです。
 残念がら海岸に降りることはできませんでした。以前来たときは、島武意海岸へ降りることができました。そこは、大きな岩だらけの海岸で、パノラマ撮影などもできました。
 今回は、これまで訪れたことのなかった黄金岬にいきました。整備された歩道が尾根にありましたが、ほとんど訪れる人のないところでした。木造の展望台もあり、そこからは海を眺めることができました。遠目にも露頭はあまりよく見ることはできませんでした。雨上がりの森の散策路を、ウグイスの声を聞きながら歩くのは心地よかったです。
 積丹半島の海岸沿いには、観光地となっているところがいろいろあるのですが、同じところで、代表的な地層や成り立ちをみることができます。ところどころで止まって、いろいろな産状を見ることもできます。そしてできれば、のんびりと一周して見て回った方がいいかもしれませんね。

・豊浜トンネル・
積丹半島では、火山岩の産状が
いろいろ見ることができます。
比較的新しい時代の火山活動で
岩石がもろくなっているところでもあります。
海岸は侵食が激しい切り立った崖が多い所です。
1996年、豊浜トンネルの古平側の入口付近で
大規模な岩盤崩落が起こり、
路線バスと乗用車が巻き込まれました。
8日間に及ぶ救出作業がおこなわれたのですが
20名が犠牲になられました。
トンネル跡には、慰霊碑と公園があります。
現在は新しいトンネルが作られています。

・日本海の漁港・
久しぶりの積丹半島訪問になりました。
北海道内でも自宅から近いところですが、
札幌や小樽を通り抜けていくので
少々遠く感じてしまいます。
半島の周遊すると、北海道の海沿いの自然と、
漁港の町を見ることができました。
最近、ニシンが戻りつつあるようですが、
日本海の漁港は、かつてはニシン漁に賑わった地域です。

2024年6月6日木曜日

4_184 恵山:ツツジの咲く頃

 恵山は、春にはツツジの咲く山です。ツツジが満開の頃には、イベントも催され、函館から近いので、多くの人が訪れます。周辺には温泉もあります。有史以来何度も噴火をしており、現在も噴気を出している活火山です。


 5月下旬、道南の恵山にいきました。恵山は、渡島半島(亀田半島)の東端にある火山で、現在も噴気を出している活火山です。海に面して火山があるので、東海岸は険しい崖になっています。半島を巡る道は険しいため、途中で切れています。恵山側から北側(椴法華 とどほっけ)にいくには、恵山の西側を通る国道278号線を経由して迂回しなければなりません。
 恵山は、5万から4万年前から活動がはじまり、1万年前までには大きな火山体に成長していきました。8000年前には大規模な火砕流が発生し、溶岩ドームも形成されました。そして、2500年前の噴火で、溶岩ドームを壊す山体崩壊が起こりました。その後も何度も噴火が起こっています。
 恵山を車で登っていくと、登山口に駐車場があり、そこには賽ノ河原と呼ばれる火口原が広がっています。火口原から見ると、山に取り囲まれているように見えます。北から時計回りに、北外輪山、恵山、スカイ沢山、南外輪山、椴山(とどやま)、海向山と呼ばれる山並みがあります。これらは、外輪山となっていますが、恵山のその一部となっていますが、二重の構造をもった火山となっています。恵山は、溶岩円頂丘となっており、現在も火山活動の中心になっています。
 恵山はもっとも高く標高が618mあり、東側は海に囲まれています。海から高くそそり立った火山になっています。恵山の山腹では、現在も噴気を出しており、その噴気口周辺にはイオウの昇華が見えます。今回の目的は、恵山の火山現象や火山地形の観察でした。火口原にはツツジなどの低木の植生はありますが、中腹から上には植生がなく、荒涼とした火山地形となっています。
 たまたま訪れた翌日が、「恵山つつじまつり」の開催日でした。火口原にいく途中に、つつじまつりの会場の公園がありました。公園でツツジも見ていこう立ち寄りました。
 会場の駐車場に向かうと、交通整理のボランティアの方がいたのですが、話をすると「もう、ツツジは終わりだよ」と声をかけてくれました。多くの人が訪れていたのですが、今年は、3週間ほどの前に満開は終わっていたとのことです。しかし、せっかく訪れたので、公園内を見て回りました。すると、メインのツツジは終わっていたのですが、サラサドウダンという小さなピンクの花をつけたツツジの木もたくさんあり満開でした。
 つつじまつりの会場ではツツジは終わっていましたが、火口原でもサラサドウダンが満開でした。火口原では、サラサドウダンが主な植生なので、そこではツツジが賑やかに見えました。

・開花のきっかけ・
花は、花芽の状態で越冬し、
春につぼみが開くというメカニズムがあるようです。
ツツジの花芽は、前年の夏にできるそうです。
一日の昼の長さが、夏至より短くなってくると
花芽が形成されていくそうです。
春になる花芽が休眠からさめ、
一斉に開花していきます。
サクラは2月1日以降の平均気温の合計が
400℃を超えると開花するという「400℃の法則」があり
かなりこの法則に沿っているようです。
しかし、ツツジの開花のきっかけは
まだよくわかっていないようです。

・まつりの賑い・
函館から、恵山に向かう道は、国道なのですが、
普段は交通量は多くありません。
向かった日は、土曜日の午前中だったのですが、
対向車が多くなっていました。
不思議に思ってえました。
つつじまつりにいったのはいいのですが、
満開が過ぎていたので、
諦めてすぐに戻ってきた
人たちの車だったのかもしれません。
そんなことを想像して納得していました。

2024年5月2日木曜日

4_183 横浜:県立歴史博物館

 以前の職場でもあった県立博物館は、現在では、自然系と人文系の2つに分かれ、横浜馬車道には歴史博物館があります。古巣の博物館を久しぶりに訪れることにしました。


 4月の中旬に、久しぶりに横浜にいきました。神奈川、横浜には11年間、定住しました。家内は、横浜生まれ、横浜育ちです。いわゆる浜っ子です。
 2000年3月初頭に、家内の親族に会うために、横浜に出かける予定をしていました。新しくできたホテルも予約していましたが、COVID-19による北海道で緊急事態宣言が発令されたため、急遽、訪問を中止しました。以降、一度も訪れていませんでした。
 今回、4年ぶりの訪問となりました。家内の親族と会うのも久しぶりでした。施設でのお見舞いも、墓参りもやっとできました。幸いなことに、今年は桜も遅く、名残の桜をみることができました。
 横浜では、親族に会うほかにも、時間をつくって、以前の職場であった県立博物館を久しぶりに見学しました。県立歴史博物館は、明治時代(1904年)に横浜正金銀行本店として石造りの由緒ある建物を利用しています。関東大震災で屋上のドームと内部は焼失したのですが、石組みの部分は残りました。1967年に県立博物館として開館しました。その後、国の重要文化財・史跡に指定されました。
 もともと県立総合博物館であったものを、手狭になってきたので、自然系と人文系の2つに分ける計画が持ち上がりました。その企画が進行中の1991年、基本設計に着手されて半年後に、自然系の要員として博物館に勤務することになりました。県立博物館クラスの展示企画、資料収集、施工から完成に参画するという、得難い経験をすることができました。また、1995年3月に生命の星・地球博物館として完成してからは、小田原に勤務することになりました。そこでは、完成後の博物館活動のスタートとして企画から実施まで、経験することもできました。現在の大学に転職するまで、2002年まで11年間勤務することかできました。
 今回、歴史博物館を久しぶりに見学しました。もう開館から、30年近くたっています。外観は、横浜の馬車道でも、もっとも風格のある建物のひとつです。展示されている資料もすばらしいものでした。
 ただし、博物館の建物は、重要文化財の旧銀行をそのまま使っているため、大きく改造することができず、改変のときも、苦労されてきたのですが、やはりそのハンディは大きいようです。一番残念なのは、見学の動線が複雑になり、展示室も入り組んでいる点です。新しい博物館、改装された博物館、あるいはみなとみらいの開発されている新しい施設と比べると、どんよりとした暗さが気になりました。やはり古い建物を利用するというハンディが大きいことを感じました。
 横浜も時間がなくて、あちこちを見ることはできませんでした。今後は、時間があれば、あちこちを見学していきたいのですが、どうなることでしょうか。

・桜の季節・
北海道も桜の季節がきました。
今年の桜の開花は、どうも不揃いで、
なかなか一斉に満開とはなりません。
同じソメイヨシノで、同じ時期に
同じ並木道に植えられたはずのものでも
開花の時期が、大きくずれています。
バラバラに咲くのは、
少々風情がないような気がしています。

・横浜で中華を・
横浜で中華というと中華街となります。
務めていた頃は、毎日のように、
中華街で昼食を食べていました。
今回の旅行は2泊しかできませんでしたが、
夕食は中華街に出かけるつもりでした。
しかし外国からの旅行者が多いと思い、
どうしようかと迷っていました。
馬車道周辺でも、よく食事をしていたので
周辺での中華の店があるはずなので
散歩をしながら探していました。
以前いっていた店は、見つかりませんでしたが
新たなた中華の店を何軒か見つけて、
2晩とも、馬車道で中華を別の店で食べました。
横浜中華を、人の少ない店で、
お手頃価格で、夫婦でのんびりと、
久しぶりに味わうことができました。

2024年4月4日木曜日

4_182 駒ケ岳:流山と景観

 今回は、昨年11月に訪れた駒ケ岳と大沼の紹介です。激しい火山活動が、現在のきれいな景観をつくりました。今後の「地球地学紀行」のシリーズについても考えました。


 COVID-19のため、2020年度は野外調査に出かけれられず、2021年度から2022年度にかけても、影響はまだあり北海道中心の野外調査となっていました。北海道は広いのですが、なんとなく似たルートでの野外調査が多くなりました。地質学的興味は尽きませんので、何度でも同じ地域にでかけていきます。それでいいと思っています。
 昨年11月中旬に野外調査にでかけた道南の紹介をします。道南には、毎年のように訪れていますが、今回は駒ケ岳と大沼周辺に出かけました。
 駒ケ岳の山頂部は、馬蹄形に削られたような特徴的な形をしています。もともとは、このような形の山頂ではありませんでした。駒ケ岳は、10万年前から活動しており、4万年前には、きれいな円錐形の成層火山(富士山のような形)をしていました。4万年前にいったん活動を停止したのですが、6800年前に活動を再開しました。何度も噴火を繰り返しながら、やがて活動は収まってきました。
 1640年に、再度、激しい活動をはじめました。この活動で山体崩壊が起こり、もともと1700mの標高があったものが、600mほど低くなって、崩れた山の形になりました。山体崩壊で、大きな岩塊が一緒に崩れました。そのような岩塊が斜面に残った流山地形ができました。1640年の噴火で流れ出た溶岩が、河川をせき止め、大沼ができました。大沼の中にある島々は山体崩壊の岩塊です。
 1929年と1942年に中規模の噴火がありましたが、不規則に小規模な活動を繰り返してきています。駒ケ岳では、時々火山性地震が発生するのですが、火山活動はあまり起こっていませんでした。2000年の小規模な水蒸気爆発があったのですが、その後は穏やかになっています。
 ところが、2023年12月以降、火山性地震が発生しています。3月23日には火山性微動や傾斜変動が起こりましたが、まだ大きな噴火の兆候はなさそうです。噴火警戒レベルは1(活火山であることを留意)のままです。
 激しい噴火で山体崩壊が起こした岩塊や溶岩が、大沼の景観をつくりました。火山活動による地形が駒ケ岳や大沼の観光地となりました。また周辺には温泉もあります。しかし、駒ケ岳は、活火山であることは忘れてはいけません。

【定期的配信】
 月刊メールマガジン「GeoEssay 大地を眺める」というエッセイを、先月で休刊としました。GeoEssayは、露頭写真や地形図、地質図、地形解析図、衛星画像など用いて、その地域の地質を文章で紹介していくものでした。そのため、ホームページで、エッセイ(文章)とともの多くの画像も公開していました。
 GeoEssayを休刊にした代替として、このEarthEssayで、月に一度(月初の号)は、「地球地学紀行」のシリーズを配信していこうと考えています。
 GeoEssayを休刊にしたのは、今年度で定年退職するためです。研究のために大学のコンピュータ室に設置しているサーバで「GeoEssay」を公開しているたのですが、退職で停止しなければなりません。この1年でサーバによる教育活動も、順次停止していく予定をしています。
 このEarthEssayはテキストだけなので、退職後も継続していきます。サーバは使いませんが、メールマガジンとブロクでの公開としていくことになります。

・Last Year・
2024年度がはじまりました。
今年は自分にとってはLast Yearとなるため、
すべての行事、講義が最後となっていきます。
二度とできないものが続いてきます。
実際におこなわれている教育は、
受講する学生にとっては
各出会い、講義が一期一会となります。
ですから、いつであっても、手抜きはできません。
そうはいっても、最後となると・・・

・入学式・
大学の入学式は、街の大きな会場を借りて実施されます。
新入生と保護者が一同に入れるサイズの会場が
大学にはないためです。
多くの大学では、入学式や卒業式は
全員が一度に入れる会場はもっていません。
大きな会場を借りて実施しています。
小中高校では、自前の施設で実施しているのですが、
大学は貸会場となることが多いようです。
全学生が集まるという需要が
ほとんどないためでしょう。
大学の自前のホールで実施しているところもあります。
我が大学も、学位記授与式は学部学科ごとに分けて
学内のホールで実施しています。
十分、セレモニーとして成立しています。

2023年12月28日木曜日

4_181 自身の思索を巡る旅

 COIVD-19によって、数年間、野外調査が自由にできないときがありました。自粛で調査自体を、自身の地質学、地質哲学への思索を考えさせれることになりました。自粛期間、自身の内面、思索を巡る旅をしていたようです。


 今年の5月には、COVID-19も通常の5類感染症に移行しました。COVID-19がなくなったわけではなく、インフルエンザのように通常の感染症となったわけです。自粛で旅行もできなかったり、旅行するものはばかられたりと、のびのびとはできない旅となっていました。しかし、5類へに移行で、自由に各地を調査で巡ることができるようになりました。これは今年になっての大きな変化となりました。
 今年は、サバティカルで4月から半年間、愛媛県西予市城川に滞在しました。サバティカルと5類への移行が重なったことは、大きなメリットになりました。サバティカルの間、四国全域で宿泊を伴った野外調査や、西予周辺の日帰りの調査もたくさんできました。また、サバティカル終了後も、北海道での宿泊を伴う野外調査もしました。なにより、自由で旅できる喜びが味わえました。
 観光地では、人が多くて、のんびりと巡れない時もありましたが、観光業にとっては喜ばしい状況でしょう。多くの観光客が来ることで、店や旅館、ホテルの設備やサービス全般も充実してきます。これは、出歩く人にとってもメリットになっています。コロナ前の状態よりもっと活気が戻ったようです。
 自粛を経て、自由にどこでも、野外調査にでかけられるという、当たり前にできていたことが、如何に大切なことだったのかを感じることができました。ただ以前の状態に、何も変わらず戻っただけなのでしょうか。何か変わったことはないのでしょうか。少なくとも、自身には大きな違いが生まれていました。
 自粛前にも、地質哲学へと向かっていくとき、野外調査を重視していたのですが、哲学的思索と野外調査の関係について、その結びつきについての視座が定まっていませんでした。自粛中、野外調査に行けない時期、野外調査あるいは露頭や地質学に関する、より深い思索へと入っていきました。
 自身の著書のタイトルを見ても、その変遷を見ることができます。自粛前は、地質学に立脚したタイトルになっていました。内容には哲学的思索を進めていた部分もあったのですが、例えば2018年の「地球物質の多様性形成機構と火成作用の役割」や2019年の「地層の時間記録 規則性のある時間記録の解読」などとなっており、本のタイトルには哲学的思索の色合いは出ていませんでした。
 自粛になってから、思索が深まっていきました。2020年には「弧状シンギュラリティ: 島弧と沈み込み帯の地質学的重要性」として、哲学的思索の部分がタイトルに現れてきました。2021年には「地質哲学方法序説 地質哲学のための Organon を用いた普遍的テクトニクスへの Instauration」として、デカルトとベーコンの著書のタイトルから引用したものを用いていました。哲学的思索への傾倒が深まりました。
 また、地質学や科学教育の実践でも変化が現れてきました。2022年には「地質学的野外調査の解体: 地質学への新しい方法論の導入」として、これまで自身で実施してきた地質学での野外調査で導入し実践してきたいろいろな手法を「方法論」として総括しました。タイトルでは、キースやドーキンスの著作を借りています。2023年には「科学教育の拡張された方法論: 試行錯誤の実践の先へ」として自身の科学教育の「方法論」を総括してきました。これもドーキンスの拡張された表現型という考えを借りました。これら2冊では、自身の長年の各種の研究方法や試行を新しい「方法論」として、哲学的にどう捉えていくかを、実施したものになりました。
 かつては、これまでの地質学で通常に用いたいた手法(野外調査、科学教育)を深く考えずに、そのまま適用していました。しかし、自粛によって、いままで当たり前で進めてきたことを、立ち止まって再考、沈考することができました。これまで通り進めていいもの、もう一度深く考えるべきもの、考え直すべきもの、そんな機会になりました。
 本来であれば、これらの総括や方法論をもとづいて、次なる、そして新たなる地質哲学や方法論へと進んでいくべきでしょう。しかし、来年度一杯で現職が定年となります。次年度1年で、これまでの地質学と地質哲学の総括をしていきたいと考えています。
 それは、過去の研究テーマのやり直しにもなります。20数年前に追い求めた地球の起源と生命の起源を含む「冥王代」に関する地質学的のテーマがあり、一応の決着を見ていました。そのテーマに関して、ここ数年の大きな進展、特にブレークスルーがいくつかありました。それをもとに、20年目にして、再度総括のなり直しをする論文を、ここ数年書き続けています。
 それらをまとめて、さいごの著書にするつもりです。さいごの著書は、自身の「はじまり」をテーマにします。そんな「はじまり」が、さいごでもいいのではないでしょうか。深く考えた末の原点回帰です。
 少々長くなりましたが、ここ数年のCOVID-19から今年のサバティカルを経て、自身の思索を巡る旅の話でした。

・自身の変化・
自粛後、景観や露頭が少々違って見るように感じます。
自粛が空けた結果、観光地での人の多さや混雑、
あるいは訪れる人々の影響などは、
表面的なこと、ささやかなことでしょう。
何かもっと大切なことが起こったよう感じます。
景観や露頭は自然物なので、
COVID-19の前後で変わることはありません。
それを見ている自身の気持ちや見方が
変わってきたためでしょうか。
自身が感じていることに
敏感になっていくべきでしょう。
身近なところに、大切なことがあるのかもしれません。

・思索の旅・
退職後も、研究は進めたいと考えています。
地質学の科学的成果を上げるような手法は
この大学来たときからとっていません。
地質学に関する哲学的思索を進めること、
その思索のインスピレーションを野外からえること、
この手法であれば、野外を巡り、思索ができれば
どこに出かけても、いつまでも、続けられるはずです。
そんな思索の旅をこれからも続けたいと思っています。

2023年10月5日木曜日

EarthEssay 4_180 西予紀行 7:四国西ジオパーク

 EarthEssay
4_180 西予紀行 7:四国西ジオパーク
を発行しました。

四国西予ジオミュージアムは、
西予市でも奥まった城川にあります。
なぜ、このような奥まった地にあるのでしょうか。
シリーズの最終回として、
ジオパークの精神にもとづいて考えていきましょう。

2023年9月7日木曜日

4_179 西予紀行 6:須崎海岸

 サバティカルのうちに訪れたいと思っていたところに須崎海岸があります。四国西予ジオパークを象徴する露頭がある海岸です。しかし、危険で立入禁止となっています。許可と準備を経てやっと立ち入ることができました。


 8月下旬の晴れた日、三瓶町の須崎海岸にいきました。暑い日でしたが、撮影に適した晴れでした。須崎海岸は四国西予ジオパークの目玉になるような露頭のある海岸です。須崎観音の駐車場から、長い階段を降りて、海岸沿いの歩道を歩けばたどり着けます。
 ところが、2020年7月の大雨による土砂崩れで、歩道が通れなくなりました。その後も、大雨が降ると崩れているため、現在、立入禁止となっています。
 ジオパークの許可をもらい、調査のために入りました。地すべりのところは海岸の磯に降りて迂回して、再度歩道に上がっていきました。地すべりのところ以外は、歩道もしっかりとしていたので、いい海岸の散策路になると思えました。
 この海岸の露頭は、黒瀬川構造帯の地層がでているところです。陸地で噴火した火山灰が海底に堆積したものです。火山角礫岩、酸性凝灰岩、貫入岩など陸地の火山活動が近くの起こっていました。凝灰岩が何層も連なっているのですが、級化構造があることから、海底に流れ込んだタービダイト流だと考えられています。また保存状態の良い放散虫化石もあることから、海で堆積したこともわかります。
 凝灰岩を不整合で覆う凝灰角礫岩の中から、4億年前のハチノスサンゴの化石が見つかっています。凝灰角礫岩層は不揃い(淘汰が悪いといいます)な礫からできているため、海底地すべりのような崩壊してできた堆積物だと考えられます。
 黒瀬川構造帯は、城川付近に典型的で広く分布している地層なのですが、西の延長がいったん途切れます。それが、この須崎海岸で再び出ています。しかし、その先は豊後海峡になって露頭は途切れます。
 須崎海岸の露頭は、直立した地層からできた切り立った崖は、迫力満点です。また、海岸に2本の塔のような露頭もあります。海岸沿いでアプローチもよく、風化が少なく、露頭の表面もきれいに見ることができるはずのところです。ジオサイトとにも指定されているのですが、なんとか見学できるようにできることを願っています。

・立ち入り禁止・
ジオパークの関係者に、
以前から須崎海岸の様子がどうなっているのか見たい、
露頭を撮影したいといっていました。
しかし、立ち入り禁止のところに、
入っていくことになるので、
公的に入っていることを示すために、
腕章やヘルメットをお願いしていました。
先日、腕章もヘルメットもできたので
借りてやっと入ることができました。
幸い天気に恵まれて、
黒瀬川構造帯の大露頭にたどり着くことができました。
地すべりしているところを見ると、
今後も大雨などがあると、
地すべりが発生してもおかしくないところのようです。
ジオパークでも定期的にドローン調査を依頼して、
状況確認をしています。
現状での通行は危険なので、
迂回路や網などの対策が不可欠です。
予算も調査も必要になるので、すぐには無理でも
そのうち対策されることを願っています。

・奇遇の連続・
海岸の歩道から284段の階段を大汗をかいて登って、
ヘトヘトになり駐車場につきました。
すると、業者の方がおられたので話をしました。
ジオパークの依頼を受けて、地すべりを、
ドローン調査をしていたのことです。
私も写っているかと思ったのですが、
階段を登っている頃のようで気づかかったそうです。
二人のインターシップに来てもらっている学生さんも一緒でした。
外国の学生さんがいたので話をしたら、
大学の友人のところに来ている学生さんでした。
思わぬ出会いに驚きました。
宇和にもどって昼食を摂ろうとしたら
そこでも合うことになりました。
奇遇の連続でした。

2023年8月3日木曜日

4_178 西予紀行 5:宇和盆地

 西予市の市庁舎は宇和にあります。宇和が自動車道やJRなどの交通が通っており交通の要衝でもあります。宇和は、少々不思議な地形になっています。宇和の特徴を見ていきましょう。


 宇和は盆地にできた町です。盆地なのですが、肱川の最上流に当たります。肱川の源流は鳥坂峠(標高460m)で、盆地の北側の山地にあります。盆地の標高も200mという、高い位置に広がっています。
 宇和盆地からは、北南に幹線道路や鉄道が繋がっています。南は、国道56号線も自動車道、JR線も宇和島に向かいますが、険しい山を越えていきます。北には、北東にある大洲か北西にある八幡浜に抜けることになり、こちらも険しい山地を乗り越えていくことになります。
 盆地の西は宇和海に近いのです山があります。肱川は、海とは逆方向の東に向かって流れていきます。肱川は一級河川で、本流は103kmの長さがあります。「つ」の字、肘のように曲がっているため、源流から河口まで18kmしかありません。四国山地に源流をもった多数の支流が流入しています。
 肱川の宇和盆地から下流側には、険しい山地が続きますが、侵食が進んでおり、深いV字谷になっています。しかし、侵食が進んでいるため、河川の傾斜はゆるくなっており、ゆるい流れとなっています。昔は海運に利用されていました。
 なぜ、山地の中に宇和盆地ができたのでしょうか。盆地とは、周囲が山に囲まれていることです。山のでき方はいろいろですが、宇和周辺の山は、地質学的な構造運動によってできています。
 宇和盆地は秩父帯と呼ばれる地質になっており、ジュラ紀の沈み込み帯で形成された堆積物(付加体)からできています。盆地の南側は、急な斜面となっています。南斜面は仏像構造線と呼ばれるもので、四万十帯(白亜紀の付加体)と接しています。北側も山地で、御荷鉾構造線と呼ばれるものがあります。秩父帯が三波川変成帯(白亜紀に変成を受けたジュラ紀の付加体)と断層によって接しています。
 両側の境界が構造線により持ち上げられたので、山地となりました。楮線の間には広い谷ができたのですが、下流域にはV字谷で河川は狭くなっています。そのため、侵食によって運ばれてきた土砂が、宇和の谷に堆積していき、埋め立て盆地平野となりました。
 上流部に盆地があり、支流も多いため、雨が大量に一気に降ると、下流の大洲盆地では、たびたび水害に見舞われてきました。今では、野村ダムや狩野川(かのがわ)ダム、支流の河辺川にも山鳥坂(やまとさか)ダムなどが建築され、洪水対策がなされています。しかし、近年の激しい集中豪雨で想定外の災害も発生しています。
 宇和盆地では、稲作が盛んで、稲わらを使ったモニュメントがあちこちつくられています。マンモスやウサギなどみかけました。地域お越しの一貫でもあるでしょうが和みます。

・エアコン・
四国もやっと梅雨明けは終わりましたが、
湿度が高く、暑い日が続きます。
エアコンのつけて寝る日も多くなりました。
先日、大野ヶ原の馴染みに店で話していると
エアコンはないといいます。
窓を開けるとなんとかなるということです。
大野ヶ原の平均気温は
北海道の札幌や帯広と同じくらいです。
そのため、北海道のような気候が
すぐ近くにありました。

・うろうろと・
8月になりました。
下旬からはまた野外調査が再開します。
それまでに論文を仕上げて
投稿しなければなりません。
落ち着いて研究に向かう時期になっています。
しかし、地元をうろうろすることも楽しいので
集中が途切れがちになってしまいます。
注意して、集中していく必要があります。