2007年7月26日木曜日

3_58 正珪岩:変わった石2

 大陸でできた砂粒が、長い地球史の旅の末、日本列島の地層の中から見つかります。そんな石ころから、自然の営みの悠久さを、感じることができるでしょうか。


 orthoquartziteは、オーソコーツァイトあるいはオルソクォーツアイトと呼ばれる石があります。英語をカタカナ書きにしようとすると、発音の違いでいろいろな表記が可能で混乱します。日本語では、オルト珪岩あるいは正珪岩と呼ばれていますが、一般方には、なじみが少ない石の名前だと思います。そして、そのような石を見たことのある人は少ないでしょう。その理由は、日本では珍しい石だからです。
 そもそも珪岩は、堆積岩の一種で石英の粒子が集まって固まったものです。石英砂岩とも呼ばれています。珪岩の中の石英の粒は、ほとんど丸みを持っているという少々変わった性質を持っています。
 砂岩をつくっている粒子の90%以上が、石英からなるものについて、オルソ、「正」という名称をつけ正珪岩と呼ばれます。
 珪酸を95%以上含むもので似たものに、チャートとよばれる岩石があります。以前は、チャートのことを珪岩と呼んだことがありますが、今ではチャートと珪岩は別物として区別されています。チャートも堆積岩の一種ですが、チャートの多くは深海底で、生物の遺骸が集まってできたものです。正珪岩とは明らかに起源の違うものだとわかっているので、区別されています。
 日本では、正珪岩が地層をつくることはありません。上で珪岩の仲間は、丸い砂粒からできているといいました。このような大量の砂粒は、大陸内部の砂漠などをつっている砂です。ですから珪岩は大陸内部の湖などで溜まった岩石ではないかと考えられています。大陸地域の地層中には、正珪岩からできたものがよく見られます。
 日本はもともとは大陸の縁にあったのですが、内陸ではなく、海からおし寄せるプレートの断片や堆積物、そして火山などからできているようなところです。正珪岩がたまるような環境ではなかったのです。日本列島を構成する岩石からみると、やはり珪岩、特に正珪岩は、変わったと石といえます。
 ところが、日本各地で、地層の中の礫として、正珪岩は時々見つかります。礫岩の中にはたくさんの正珪岩の礫を含むこともあります。ですから地質学者には結構なじみのある岩石なのです。
 正珪岩のでき方を考えていきましょう。大陸の内陸部を構成している岩石が地表にあると、長い時間の経過で、風化を受けてきます。物理的や化学的に弱い結晶は、長い時間の風化に耐え切れず、小さな破片となり、風で遠くに飛んでいったり、川で流れていきます。なかでも一番頑丈な結晶である石英は、侵食に耐え、丸くなりながらも生き残ります。それがたまたま地層ができるような湖に流れ込み、堆積すると、正珪岩からできた地層になります。
 その正珪岩の地層も、地表にあれば、やがて浸食を受けます。侵食を受けたものは正珪岩の小石として、川となって海に運ばれます。その中には、礫岩として大陸周辺に地層に紛れ込むこともあります。これが今、日本列島に見つかる正珪岩の由来なのです。
 私が学生の頃は、日本で正珪岩が見つかっていたのは、四万十層群の礫岩中だけでしたが、今では、日本の各地のいろいろな時代の地層から見つかってきました。日本列島には、このような長い旅をしてきた石ころもあるのです。

・大地の営み・
正珪岩を礫として含む地層は、
四万十層群、山口県幡生累層上新地礫岩層、
手取層群赤岩亜層群、大阪層群、
矢良巣岳礫岩、刀利礫岩層、綴喜層群礫岩、
などなど、いろいろな時代、各地の地層からみつかっています。
私は、日本でも上の例の2箇所で見ることができました。
ネパールでは、正珪岩からできた地層を見ています。
しかし、日本の礫岩の中の正珪岩は、小さいものが多く、
よく見ると、その小さな石の中に、
石英の丸い粒が見えることがあります。
そんな粒を眺めると、大地の営みの偉大さを感じてしまいます。

・定期試験・
大学は、現在、定期試験の真っ最中です。
今週が試験週間で、これが終われば、大学も一段落です。
私は、まだまだ仕事があり、日曜日にオープンキャンパスで
高校生向けのミニ講義を担当しなければなりません。
試験が終われば、前期の採点とその入力がまっています。
大変ですが、これも重要な仕事です。
それが終われば、私にも楽しい夏休みがきます。
多分9月になってからですが。
一段落したら、早速調査に出かけたいと思っています。
今年は少々新しい調査法を実行したいと考えていて、
わくわくしています。
新しく開発してもらった装置も試してみたいと思っています。

2007年7月19日木曜日

2_57 氷漬けのマンモス

 氷漬けのマンモスが見つかったというニュースをご覧になられた方が多数おられたと思います。科学者たちは大きな期待持って、このニュースを読んだはずです。私もその一人でした。

 2007年5月、ロシア西シベリア、ウラル山脈から北の北極海に延びたヤマル半島でトナカイの飼育をしている人が、マンモスの化石を発見しました。このマンモスは、発見者の奥さんの名前をとって「リューバ(Lyuba)」と呼ばれています。
 「リューバ」は、生後約半年から1年のメスの赤ちゃんで、体重50kg、体高85cm、全長130cmの小さなマンモスでした。1万年前ころに死んだのではないかとみられています。
 このマンモスは、日本の東京慈恵会医科大・高次元医用画像工学研究所(東京都狛江市)に輸送され、CTスキャンで体の構造が詳しく解析される予定です。
 マンモスは、絶滅してしまったゾウの仲間です。絶滅は大昔の話ではなく、1万年前ころ、もしかしたら4000年ほど前まで生きていたとも考えられています。紀元前1700年ころまで生きていたという説もあります。
 マンモスの骨は、古くから氷の中から掘り出されており、その存在は知られていました。18世紀になると、比較解剖学の創始者でもあるフランスのキュビエは、化石のマンモスと現在生きているゾウの骨を比べています。その結果、ゾウの一種であるが、現生種とは違う絶滅した種で「マンモス」と命名しました。1796年のことです。
 マンモスの化石は、シベリアだけでなく世界中から見つかっています。ユーラシア大陸だけでなく、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸にも広く生息していました。アメリカ大陸に生息していたコロンビアマンモスは、大型で短毛で、最後まで生存していたマンモスとして有名です。現在ではマンモスの全種は、絶滅しています。
 多数見つかっているマンモスの化石をよくみると、人と深いかかわりがあることがわかります。
 フランスの洞窟にはマンモスの壁画があり、ドイツの遺跡からはマンモスを描いた石板が発見されています。ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されています。そして、アメリカから、マンモスの化石の骨の間から、石の槍の穂先が見つかっています。
 このような遺跡や化石から、昔の人類がマンモスを狩っていたことがわかります。そのため、人類が過度にマンモスを狩猟をしすぎたせいで絶滅したという説があります。しかし、絶滅の原因についても諸説あり、まだわからないことの多い古生物です。
 今回の氷漬けのマンモスが注目されているのは、保存状態が非常によいからです。もし氷河期の終わり(11,500年前ろ)ころの新しい時代に死んだ個体であれば、DNAが保存されている可能性が高くなります。
 今までも氷漬けのマンモスのDNAを抽出されてきましたが、いずれも古いものだったので、DNAが分解されて断片化していました。もし今回のマンモスに完全なDNAが残っていれば、DNAが入っている核を取り出すことができます。この核を現在のゾウの卵細胞のものと入れ替え、うまく発生させることができば、マンモスが復活します。冷凍された細胞からのクローン技術も、かなり進んでいるので、保存のよいDNAが手に入れば、マンモスを蘇らすことができるかもしれないのです。その期待が高まっているのです。
 マンモス復元に一番熱心なのが、日本なのです。冷凍のマンモスが日本の送られてくるのも、復元してくれるのではなかいという期待をもたれているためではないでしょうか。

・事実と原因・
更新世末期の約4万から数千年前にかけて、
マンモスは絶滅しました。
アメリカ合衆国のアリゾナ州から見つかったマンモスの化石から、
石の槍の穂先が見つかっています。
この化石は約1万2千年前のものです。
最後のマンモスは、紀元前1700年頃に、
東シベリアの沖合にある北極海(チュクチ海)上の
ウランゲリ島で狩猟されたという説もあります。
しかしこの絶滅が人間のせいなのか。
それとも氷河期の終わりの温暖化による環境変化なのか。
あるいは、コロンビアマンモスの化石では、
伝染病説が最近の有力な仮説だと考えられています。
マンモスだけでなく、生物の絶滅の原因は、
よく分かっていないものがほとんどです。
絶滅というひとつの事実と多数の原因についての仮説があります。
その謎は、マンモスのように多数の化石があったとしても
なかなか解き明かせないのです。

・講義・
いよいよ今週で大学の講義が終わります。
来週は定期試験期間になります。
それで学生たちは講義から開放されます。
教員は、成績のことがあるのでお盆まで忙しさは続きます。
しかし、今年は、非常勤講師がなくなったのことと
担当の大人数のクラスが4クラスから2クラスに減ったこと
などから比較的に楽になりました。
そのかわり、講義期間中に非常に忙しい思いをしました。
いずれにしても、楽に生きていくことはできないようです。

2007年7月12日木曜日

6_61 石見銀山:世界遺産への登録

 島根県大田市の石見銀山が、オーストラリアのオペラハウスなどと共に、世界遺産として登録されました。今回は、石見銀山にいつて紹介しましょう。

 2007年6月28日、石見銀山が世界遺産に登録されたというニュースが、日本国中を流れました。その報道が驚きをもって伝えられたのは、どんでん返しがあったからです。2007年5月に、イコモス(ICOMOS:国際記念物遺跡会議)より、登録延期という勧告がありました。そのため、だれも予期していない、今回のどんでん返しとなったのです。ですから地元や関係者の喜びも、ひとしおであったことでしょう。
 石見銀山の「石見」が「いわみ」と読むのを知っている人は、このニュースが流れるまで、どれくらいいたでしょうか。私は、地質学を専門としていたので、読みかたはもちろん、この鉱山のことは、ある程度は学んで知っていました。私は、5年ほど島根県の隣の鳥取県に住んでいて、近くまでは何度も行っているのですが、鉱山跡を訪れたことはありませんでした。
 石見銀山は、中新世(2300万~500万年前)に活動した火山岩(石英安山岩類)やその破砕物などからできた地層中に形成された鉱床です。不規則に鎖状に続く多数の濃集部からできている鉱床と、いくつかの鉱脈からなる鉱床の2つのタイプがありました。鉱床は、自然銀、方鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱等の鉱物からできてます。0.02~0.05%の銀が含まれ、地表近くで高い濃度の銀があり、古くから発見され、採取されていました。
 石見銀山は、16世紀前半から20世紀前半にかけて採掘された銀鉱山です。特に16世紀から17世紀の約100年の間には、大量の銀が採掘されました。戦国時代から江戸時代にかけて、軍資金や幕府の財源として使われてきました。
 17世紀初ころ、日本から大量の銀が、中国や朝鮮半島などのアジア諸国、ポルトガルやスペイン、イギリス、オランダなどのヨーロッパへ輸出されました。国際的に流通した日本産の上質の銀を「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれました。ソーマ銀は、日本の石見銀山が語源となっています。石見銀山が佐摩郷にあったことから、そのような名称で呼ばれました。
 17世紀前半には、世界の銀の産出の約3分の1を、日本の銀が占めていました。その日本の銀の主要産地が石見銀山でした。
 17世紀中期から、石見銀山の銀の産出はしだいに減ってきました。18世紀には銅も産出して、鉱山は少し持ち返しましたが、1923年についに長い鉱山の歴史に終わりを告げました。
 石見銀山は、1969にが国指定の史跡となったことから、観光として新たに復活をしました。そして、観光資源の仕上げとして、このたびの世界遺産への登録へとつながるのです。
 世界遺産に登録されている鉱山遺跡として、5つものがすでにあります。
 世界最高地(標高4,070m)の都市であるポトシ(ボリビア:1987年登録)は、1545年に銀山が発見され、石見銀山とともに世界二大銀産地として世界経済に影響を及ぼしました。
 サカテカス歴史地区(メキシコ:1993年登録)は、1546年に銀を発見されから、その後も銀の鉱脈が相次ぎ、鉱山沿いに大きく街が発展したところです。
 古都グアナファトと近隣鉱山群(メキシコ:1988年登録)は、1548年に最初に発見されてから豊富な鉱脈があります。グアナファト市街地にはチュリゲーラ様式の建築物もあります。
 ランメルスベルク鉱山と古都ゴスラー(ドイツ:1992年登録)は、神聖ローマ帝国の経済基盤となった鉱山であり、帝国中心都市でありました。1988年まで1000年以上にわたり、銀や金、鉛を産出しました。
 レロス(ノルウェイ:1980年登録)は、ヨーロッパ最北の銅鉱山で、1644年から1977年まで銅を産出し続けましたが、鉱害による汚染という負の遺産も残しました。
 バンスカ・シュティアヴニツァ(スロバキア:1993年登録)は、銀・銅の採掘・製錬で古くから発展した町で、17世紀から18世紀には優れた冶金技術で欧州各地に輸出しました。
 そして、このたび、6番目の鉱山遺産として、石見銀山が追加されたのです。

・メールより・
このエッセイは、読者でもあるFujさんから頂いた
メールをきっかけに書いたものです。
世界遺産に石見銀山が登録されたニュースは知っていましたが、
それほど気に留めていませんでした。
しかし、よく考えてみると、鉱山とは
まさに地球の営みと、人の営みの接点でもあります。
ですから、このエッセイにも取り上げるべきだと考えました。

・どんでん返し・
この石見銀山のどんでん返しは、いろいろ情報を集めてみると、
次のようないきさつがあったようです。
当初、登録は極めて厳しいと考えられていました。
登録延期という勧告があっても、反論が可能なようで、
勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送ったそうです。
石見銀山の特徴である「環境に配慮した生産方式」をアピールして、
ユネスコ日本代表の大使や外務省、文化庁、大田市などから、
巻き返しの外交活動が展開されていたようです。
その結果、6月28日、世界遺産委員会の審議により、
満場一致で世界遺産の登録が正式に決定されました。

2007年7月5日木曜日

3_57 エクロジャイト:変わった石1

 今回から、新しいシリーズとして、変わった石のシリーズを始めます。まず最初は、エクロジャイトという珍しい石からです。


 四国には東西に走る石鎚山脈があります。この山脈は、南側にある中央構造線の作用によって盛り上がったものです。
 石鎚山脈の中央部に愛媛県側の新居浜市の山間に別子鉱山があります。別子鉱山は1973年まで採掘され、約280年間に70万トンの銅を産出ました。現在、閉山となり、鉱山に関係したものとして道の駅をかねたマイントピア別子というテーマパーク、温泉施設「ヘルシーランド別子」、「別子銅山記念館」などがあります。
 地質学者には、別子といえば、「エクロジャイト」という岩石が産出することでも知られています。別子鉱山は、西赤石山の山麓にありますが、その3kmほど東に東赤石山があります。「東赤石山のエクロジャイト」として有名です。このエクロジャイトを、東赤石山から流れ出る沢に、拾いにいったことがあります。
 実は、地質学でエクロジャイトというときには、2つの意味があります。
 ひとつは、岩石名としてエクロジャイトです。エクロジャイトとは、大部分がザクロ石(ガーネットとよばれる)と単斜輝石からできている岩石です。このような鉱物の組み合わせを持つ岩石は、地殻の下部やマントルの上部で安定に存在します。東赤石山のエクロジャイトは、もともとはカンラン岩の一種として、マグマだまりで結晶が沈んでできた組織が見つかっています。ですから、もともとは溶けた岩石、つまりマグマからできた火成岩だったのです。
 もうひとつのエクロジャイトの意味は、高温高圧の条件に岩石がおかれたとき、溶けることなく、その条件で安定な別の結晶に変わることがあります。このようにしてできた岩石を変成岩、その条件を変成相といいます。高温高圧の変成相としてエクロジャイト相と呼ばれるものがあります。エクロジャイト相の条件では、ザクロ石と単斜輝石ができます。鉱物の量は数なくても、そのような変成作用できた結晶の組み合わせがあれば、エクロジャイト相の岩石と呼ばれます。
 2つのエクロジャイトは、火成岩か変成岩かの違いがあります。大きな違いですが、火成岩のエクロジャイトも地下深部でできますから、固まった後に変成作用を受けるような場所にあるわけです。ですから、火成岩のエクロジャイトの多くは、変成作用を受けています。
 東赤石山のエクロジャイトも、エクロジャイト相の変成作用を受けています。ただ、最も低い温度で生成されたエクロジャイトとして有名になっています。
 もともとの岩石の成分によっては、変成作用でほとんどがザクロ石と単斜輝石になってしまうことがあります。そのような岩石として、玄武岩や斑れい岩があります。このような岩石は、玄武岩なら海洋地殻として、斑れい岩なら大陸地殻の下部に、たくさんあるのと考えられています。それらがエクロジャイト相の条件にあれば、エクロジャイトはできると考えられます。
 問題は上昇するメカニズムです。別子は、最初にもいいましたように、中央構造線で持ち上げられた山脈があります。そのような激しい大地の営みがあってこそ、深部の岩石が地表に上がってくるのです。
 ザクロ石はマグネシウムの多い紅色(パイロープとよばれています)で、輝石は鮮やかな緑色(オンファス輝石と呼ばれています)からできています。ですから、非常にきれいな色合いの岩石になります。そんなにきれいな石が、大地の深くで形成され、そして大地の神秘を垣間見せてくれるのです。

・別子鉱山・
別子鉱山は、現在の住友グループのもとになる
住友財閥が開発したものです。
住友家は、もともと京都であった銅製錬や
銅細工をする商店からスタートしました。
住友家は、1691年に別子鉱山の採掘権を得て、採掘をはじめました。
そこから派生して、やがて化学、林業、建設、重工、船舶、銀行、商社
などの会社が設立されて、財閥へとなっていきました。
別子鉱山は、住友家のもともとの家業である銅を採掘するための鉱山でした。
残念なが、現在では閉山して、その名残として、
いろいろな観光施設が作られています。

・前期もあと少し・
北海道の夏らしい気候となってきました。
とはいっても、快晴のときでも、すがすがしい天気で、
日影は涼しく快適です。
まあ、朝夕は涼しいですから、窓を閉め切らなければなりません。
学生たちも、昼休みには、芝生の上でねっころがったり、
サッカーやキャッチボールなどをしています。
いかにも大学の、初夏の昼下がりという気分をかもし出しています。
大学の前期の講義も残り少なくなってきました。
前期の定期試験、あるいは夏休みに向けて、
学生も教員もあと少しがんばらなくてはなりませんね。

2007年6月28日木曜日

5_59 冥王星の分類

 2007年6月22日に冥王星が、どのような天体に分類するのかの決着をみました。「準惑星」という分類が正式な日本名と決まりました。

 冥王星が惑星の分類からはずされたことは、多くのメディアでニュースとなり、多くの方がご存知だと思います。これは、2006年夏、プラハで行われた国際天文学連合(IAU)の総会で決定されたものです。そのときのいきさつは、このメールマガジンでも紹介しました。
 IAUの総会で、冥王星は惑星に分類せず、「dwarf planet」という新たな分類になりました。しかし、その和名は正式には決まっておらず、仮に「矮(わい)惑星」という言葉が用いられてきました。これは、あくまでも仮の名称でした。
 日本では、日本学術会議の中の小委員会(太陽系天体の名称等に関する検討小委員会)が設置され検討されてきました。2007年6月22日に、この委員会から最終報告が提出されました。
 冥王星の名称は、学校の教科書にでているため、もし惑星でないとするなら、どう呼ぶかが、早急に答えが求められていました。4月9日に、「準惑星」という和名とともに、「第一報告:国際天文学連合における惑星の定義及び関連事項の取扱いについて」が公表されました。2007年6月21日の「第二報告:新しい太陽系像について-明らかになってきた太陽系の姿-」では、中学校や高校での教育現場での取り扱いに対する説明や、学生向けの解説、図表も用意されました。
 IAUでは、冥王星を惑星からはずすとともに、惑星の定義が正式になされました。惑星とは、「水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星の8つである。これらの惑星は、ほぼ同じ面内を運動している」となります。その結果、冥王星は惑星ではない、とされました。
 惑星とは、
・太陽のまわりを回っている
・質量が十分大きいため自己の万有引力で強くまとまり、ほぼ球形(流体力学的平衡の形状)になっている
・その軌道の領域で他の天体を力学的に一掃している
のが、条件となり、現在見つかっている8個に限定されるということです。
 準惑星は、太陽系外縁天体である冥王星とエリス、小惑星帯で最大のケレスの3つとなります(2007年4月現在)。太陽系外縁天体(単に外縁天体と呼んでもいいことになっています)とは、海王星よりも遠方に見つかっている「準惑星」以外の多数の天体のことです。エリスは、10番目の惑星として、この騒動の原因となった天体でした。当時は「2003UB313」と呼ばれていましたが、天体名がつけられました。
 仮の訳である「矮惑星」は、「矮」という言葉の持つニュアンスがよくないため推奨しないとされています。ですから、今後、矮惑星という言葉は消えて、「準惑星」が定着していくのでしょう。
 新しい発見によって、学問体系が整理される時、それが市民や教育にかかわりが深いと、今回のような大きな騒動となります。それも学問の進歩のなのでしょうね。

・夏の調査・
いよいよ6月も終わりとなります。
北海道も夏らしくなってきました。
そろそろ夏休みの計画を考える時期になってきました。
皆さんは、夏の計画は立てられたでしょうか。
私は、8月に秋田から青森の海岸沿いを調査する予定です。
夏の一番暑い時期になり、ねぶた祭りもあり、
道中が混雑も予想されます。
旅館もなかなかとれずに苦労しました。
私の調査も、沖縄、九州、四国ときて、
いよいよ本州へと移ってきました。
当初は、5カ年計画でしたが、もう4年近くたちます。
でも、なかなか終わりそうにありません。
じっくりと味わいながら調査していこうと考えています。

・冥王星型天体・
日本学術会議の中の小委員会では、
太陽系外縁天体でもあり準惑星でもある
エリスや冥王星のような天体を「冥王星型天体」と呼ぶことにしました。
IAUの総会でも、この天体の分類はいろいろ提案されていたのですが、
英語の名称が決まっていませんでした。
それに対して、「冥王星型天体」“plutonian object”という名称を
日本が独自の提案することにしたのです。
これが採択されるといいですね。

2007年6月21日木曜日

6_60 科学と国境:諺・慣用句5

 「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」という言葉があります。この言葉は、パスツールが残したものですが、今も活きています。そしてパスツールの挙げた科学的成果も残っています。

 フランスの生物学者ルイ・パスツールは、19世紀を生きた人で、数々の業績を挙げました。なかでも、「白鳥の首」フラスコを用いた実験は有名です。白鳥の首フラスコは、後にパスツール瓶と呼ばれるようになりますが、白鳥の首のように細く長くフラスコの口を伸ばしたものです。このフラスコには、空気は出入りするのですが、チリや微生物が入らないように工夫されたものです。
 この実験以前、生物は、自然発生するものだと考えられていました。生物の自然発生の考えは、キリスト教の影響を受ける前のギリシア時代からあるものでした。近代的科学がはじまった時代でも、自然発生が考えられていました。
 例えば、うじ虫はどこからともなく発生しているように見えます。また、ものが腐るのも、細菌など微生物によってタンパク質などの有機物が分解されていきます。そのような微生物や腐敗にともなう微生物は、栄養源さえあれば、どこからともなくわいてくるようにみえたからです。
 生物の自然発生が本当かどうかを確かめるために、パスツールは白鳥の首フラスコを用いたのです。
 煮沸して殺菌した肉汁を、白鳥の首フラスコ中に放置していても、うじ虫はもちろん、腐敗もしなかったのです。うじ虫が発生したり、腐敗が起こっていたのは、ハエや微生物が空気中から飛んできて、そこで産卵や繁殖したものであることが、この実験によってわかったのです。そして、「生命は、生命から生まれる」という、一見、昔の考えにもどるような状態になりました。
 パスツールは、白鳥の首フラスコでおこなったように、培養の栄養源として液体を使いました。しかし、液体のなかで培養した微生物は、何種類かのものがあると混っていて、分離しにくいものでした。
 パスツールは液体培養でしたが、ドイツのロベルト・コッホは、固体による培養の方法を開発しました。固体であれば、適当に切り分ければ、微生物の種をうまく分けることができます。この点に関しては、コッホが進んでいました。
 パスツールと13歳年下のコッホは、ライバルとして研究を続けていました。パスツールは、低温殺菌法の開発、いくつもの病気のワクチンを発明をしました。一方、コッホは、炭疽菌や結核菌、コレラ菌などの病原菌を発見しました。コッホの発見した炭疽菌によっておこる炭疽病のワクチンをつくりだしたのは、パスツールでした。このようにコッホが細菌類の発見と分類をし、パスツールは予防接種法を生みだしていくようなりました。二人は、細菌類の研究で競い合ったのです。それが、国境もなく、科学を進めることなったのです。これらの業績から、両者とも「近代細菌学の開祖」と呼ばれています。
 パスツールはスイス国境近くのドールというところで生まれました。パスツールの生きていた時代は、フランスとプロシアが対立していた時でもありました。ですから、科学と国というものを、深く考える境遇にあったのだと思います。そのため、「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」という言葉が生まれたのでしょう。

・はしか・
札幌の大学でも「はしか」がはやりだしました。
現在のところ、1つの大学だけですが、
隣の大学なので我が大学のいつ発生するかわからない状態です。
しかし、予防的な措置を我が大学ではとっています。
その措置が、ある学生にとって今までの成果を、
結実できないこともあります。
教員としては、悩ましいところです。
幸い我が大学では、発病者はいまのところいません。
ですから、現状のまま続行することもありえるのですが、
予防と安全のための対処がとられます。
私は、学生の半年間の努力を無にするようで
非常につらい思いをしています。
なんとか結実させてあげたいのですが。
私の一存でできることとできないこともあります。
これはできないことなのでしょうね。

・狂犬病・
パスツールは、1885年に狂犬病ワクチンをつくりました。
そのワクチンが2人目に使用されたのが、
ジョセフ・メイスターという子供でした。
メイスターは、後年、パスツール研究所の
守衛をつとめるようになりました。
1940年、ドイツ軍がパリに侵攻したとき、
パスツール研究所も接収されました。
そのときパスツールの墓を暴こうとしたので、
彼は、鍵を渡すことを拒み、
自ら命を絶ったという逸話があります。
パスツールに助けてもらった命を、
最後にはパスツールにささげたのです。

2007年6月14日木曜日

6_59 三上あるいは三前:諺・慣用句4

 新しいアイディアは、思わぬところで浮かぶことがあります。しかし、それは、本当によくあることでしょうか。少なくとも私がアイディアを思いつくのは、デスクに向かっているときとか、野外調査の最中とか、そのことに集中している時に、一番たくさん思いついています。みなさんは、どうでしょうか。

 ものごとを思いつくのは、どのような場所でしょうか。私がいちばん多く思いつくのは、机に向かって「さーって、新しいことを考えよう」と気持ちを向けたときです。私にとって思い付きが必要な時は、たいてい机に向かっているときだからです。
 では、野外で調査をしているときは、どうでしょうか。野外調査をしているときは、一人で石を観察しながら、石に関する思いを、ひたすらめぐらしています。いろいろな石が、どのようにできて、どのような関係があるのか。それらを調べるためには、どこの露頭で、どのような試料を採取していけばいいのか。どのような分析や調べた方をすればいいのか。などなど、研究テーマに関わるもろもろのことばかり考え続けています。
 もちろん、自然の景観を楽しみ、自然の変化を見る余裕もあります。そんな時は、まさに心身ともに、自然の中に没入しています。野外調査は、日常の研究室の暮らしとはかけ離れた、野外科学ならではの特殊性があるのかもしれませんが、私は心が洗われる気がして、楽しんでいます。
 それともう一つよく思いつくのは、議論している時です。あるテーマで研究会や会議、ゼミなどで議論している時、いろいろな考えや意見を聞いて、自分も発言している時、いろいろなアイディアが思いつきます。
 私が考えごとをする場合、研究室の机の前でも、野外調査の石の前、会議室の人の前でも、心からそのテーマにのめりこんだ状態でいるときのようです。
 中国の北宋に、政治家でもあり、詩人、文学者でもあった欧陽修(おうようしゅう 1007年-1072年)という人がいました。彼は、『帰田録』の中で「余平生所作文章多在三上、乃馬上、枕上、厠上。盖惟此尤可属思尓」という一文を記しています。これは、「私はふだん文章を作るところは、馬上(ばじょう)、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)の三上でするのが多い。特にものを考えるときは、ほとんどここである」という意味です。
 当時の高官は馬で移動したので、馬上で考えごとをするのが多かったのでしょう。今では乗り物や徒歩でも移動中でしょう。枕上とは、寝ているときですが、寝床の中の寝入りばなのときです。厠上とは、便所で用を足している最中のことです。
 どれも、自分自身に当てはめてみても、そのようなところで考えが浮かんだこともあり、確かに思いあたるところがあります。しかし、どれもなかなか、アイディアをものにできない、あるいは消えてしまう場合が多いように思います。
 三上のような別のことをしているとき、いいアイディアを思いつくというのは、多くの人が経験することでしょう。もちろん、私も経験したことがあります。でも、定常的には、私はそうでありません。多分、多くの人も、三上が多いわけはないと思います。
 私は、研究室のデスクに向かっているときや地質調査をしているとき、ひたすら、そのアイディアを考えています。そして、何とか、アイディアをひねり出していることが大半です。締め切りのあるものは、そのアイディアがいいものであろうと、悪いものであろう、仕上げてしまうわけです。ですから、結果として上手くいく場合も、よくない場合もあります。
 本当はアイディアとは、そのような当たり前の時に生まれることが大部分なのかもしれません。三上のように思わぬところで思いつくというのは、その記憶が強いためかもしれませんね。私の場合は、当たり前ですが、机前(研究室のデスクの前)、石前(野外調査の石の前)、人前(会議室の人の前)の三前が、一番アイディアが浮かぶところです。

・馬上・
馬上は今では、移動中のことですが、
私の日々の通勤は徒歩での移動ですから、
いろいろ考えることができます。
しかし、歩きながら、考えごとをしていても、
それがなかなか覚えていられません。
ICレコーダの使用も考えたのですが、
それを出しているのがもどかしいのです。
現在は、写真を撮ることが
通勤中にすることの一番の仕事となっています。
それにぼんやりと考えていときは、
記録すること、あるいは記憶することすら忘れています。
後で、歩いている時大切なことを思いついたんだけど
それがなんだんったのかがまったく思いだせません。
ほんの数分前のこと
ですから、大半は上に書いたように、
当たり前のところで、私は思いつくのです。

・夏の日差し・
6月になって、北海道は一気に暖かくなりました。
暖かというより、暑くなってきました。
学生もちろんですが、私も、もう半袖になっています。
ほんの1週間ほど前は、朝夕はコートが必要なほどの
涼しさだったのですが、今では、日中は窓を開けっ放しです。
乾燥してすがすがしい風が入りますから、
日影では、なんとか過ごせます。
しかし、太陽の下では、かなりの暑さです。
先日の土曜日は、小学校の運動会で1日外にいました。
もう暑くてたまりませんでした。
私は、少し離れた日影で見ていたのですが、
多くの人は、運動場の炎天下で観覧していました。
さぞかし暑かったろうと思います。
子供たちもぐったりしていました。