2009年4月16日木曜日

4_85 白砂の白良浜:南紀2(2009.04.16)

 南紀の旅の2回目は、白浜の白良浜を紹介します。白浜は、関西では有名な観光地です。しかし、白浜は、結構遠くて、関西在住の人でも、いったことのない人も多いのかもしれません。私も、今回が始めての訪問でした。白浜を象徴するような白い砂浜を見てきました。

 南紀白浜は、関西では有名な観光地です。しかし、私は今までいったことがありませんが、今回の南紀の旅で、はじめて訪れることができました。白浜の中でも白良浜(しららはま)と呼ばれるところは、感動をするような海岸です。白良浜は、丸い弧を描いたような海岸線(鉛山湾)に、長さ700mほどにわたり白い砂浜が続いています。まるで、海外のリゾート地の海岸を思わせるような砂浜が広がっています。
 白い砂は、石英を主成分としています。波にあわられ、円磨された砂となっています。かつては、ガラスの材料にも使われていたほど淘汰のいい砂です。ところが、白良浜以外の周辺の海岸は、特別に石英が多い、白い砂浜ではありません。白良浜は、白い砂浜になるための限られた条件を満たしていたためにできたのです。
 その条件の一つは、砂の供給源(後背地と呼びます)に石英がたくさんあったことです。後背地は、湯崎半島全体となります。半島は、新第三紀中新世(1500~1600万年前)に形成された田辺層群の中の白浜累層と呼ばれる地層から成り立っています。白浜累層は、砂岩と泥岩の繰り返し(互層と呼びます)や、礫岩、泥岩などからできています。それらの地層から石英が供給されることによって白い砂浜ができます。
 その供給経路は、その石英の多い地層の中を流れ、白良浜に流れ込む川となります。白良浜に流れ込んでいるのは、寺谷川です。ところが、この寺谷川は、コンクリートに護岸されているため、供給源としての役割を果たさなくなりました。結果、砂浜は、波の浸食作用で砂がなくなっていきました。白良浜の白砂は、重要な観光資源です。それを守るために、対応策がいろいろととられました。
 ひとつの対応策として、砂を補給するという方法がとられています。しかし、石英だけからできた白い砂はそうそうありません。遠いのですが、オーストラリアの西海岸から持ち込まれています。1989年から2005年まで、7万立方メートル以上の砂が持ち込まれたそうです。
 他の対応策として、海底に石やブロックを入れて堤防(潜堤といいます)を波による流出を防ごうとされました。しかた対策むなしく、砂の流出は止まっていません。現在、海面上に堤防が建築中です。これは海岸の砂の流出対策かどうかわかりませんが、この人工的な堤防が白砂の海岸では異質な存在に見えました。
 白良浜は、もともとは自然にできた白い砂浜だったのです。ところが、現在では、人が手を入れなければ砂浜が維持できない状態となっています。堤防だけでなく、砂自体が、人工的に補われたものです。しかし、これが、白浜という有名な観光地の現状でもありました。できれば、自然状態でこのような浜が残ればいいのですが、都市化した観光地では、なかなか難しい問題です。
 国民の祝日「海の日」を記念して、1996年に運輸省(当時)認定を受けた「日本の渚・中央委員会」が、関係公官庁の後援を受けて「日本の渚・百選」を選定しました。「日本の渚・百選」は、自然の海岸だけを選ぶのではなく、環境保全などの対策や、生活者との深い関わり合いをもっていることも考慮されて選ばれています。ですから、人工的に維持されている白良浜も、「日本の渚・百選」に選ばれています。
 白良浜は白浜でも有数の観光名所なので、平日にもかかわらず、駐車場がいっぱいで、車を停めることができずに困りました。仕方なく、白浜周辺の他の名所を見ることにしました。その日は白浜に泊まることになっていたので、夕方になって白良浜にいくと、公営の駐車場が空いていて停めることができました。夕刻の浜辺を、散策することができました。そして、白砂の行方に思いを馳せました。

・人工と自然・
人工の砂浜だとわかっていても、
やはり白砂の海岸は見事でした。
さすがに「日本の渚・百選」に選ばれているだけのことはあります。
現在では人手によって維持されていますが、
かつては、自然のままの白砂が広がっていたのです。
それを思うを自然の偉大さを感じます。
ここ20年は、人工的に多くの労力を使って
白砂の浜が維持されています。
そもそもは陸側に住む人間の都合で後背地から
新しい砂が供給されないことが、
砂浜消失の大きな原因だったはずです。
しかし、そこは人間が住んで暮らし、
観光産業を営まなくてはなりません。
どこか論理矛盾しているような行為をしているように見えます。
でも、人工の砂浜を守る努力は、
今後も続けなければなりません。

・雨不足・
北海道は4月になって、
雨がほとんど降らない天気が続いていました。
晴ればかりではないのですが、
曇っても雨が降りませんでした。
もちろん晴天の日も多かったのです。
今週中ごろになって雨が降りだし、
雨不足の心配はなくなりました。
北海道は、春は雪解けの時期なので、
農業用水は飲料水の心配はないはずです。
でもはやり、雨が降らないと
心なしか、木々の元気がないように見えます。
私は、雨の日も好きなのですが、
春はやはりぬけるような快晴の日がいいです。
4月の前半は晴れが多く、春を満喫していたのですが、
ここらで一休みでしょうか。
雨の情緒を楽しみましょう。

2009年4月9日木曜日

4_84 日ノ御崎から付加体の旅へ:南紀1(2009.04.09)

 北海道は暖かかったとはいえ、まだ雪解けが終わったばかりです。花の季節はもう少し先です。春の南紀に出かけました。南紀では、咲きはじめた桜をいっぱい見かけました。南紀では、付加体を見る旅となりました。その様子をシリーズで紹介していきます。

 春休みを利用して、家族で紀伊半島を一周しました。私は、和歌山や三重の伊勢志摩は来たことがあるのですが、一周するのは初めてでした。レンタカーで、できるだけ海岸線を走りたいと思っていました。
 ところが初日から、そうもいきませんでした。海岸沿いは狭い道が多く、時間がかかりました。予定の宿に着けそうもないので、大きな国道にルートを変えて、やっと一泊目の日ノ御碕までたどり着きました。
 今回の旅の目的は、紀伊半島の南半分、南紀と呼ばれる地域の海岸沿いを見て回ることです。南紀は、地質学的見ると、日本でも有数の地層が見られるところです。さまざまな地層の姿を、南紀で見る予定でした。
 その日、予約していた宿舎は、町並みを抜け、道路の突き当り、岬の丘の上にありました。人里から少々離れた、緑に囲まれ、海の見える、眺めのいい宿でした。ここから、南紀の旅行をはじめました。
 南紀には、四万十帯(地層の区分では累層群(るいそうぐん)とよばれます)に属する地層が見られます。四万十帯は、古いものから、日高川帯(地層の区分では層群(そうぐん)とよばれます。以下同じ)、音無川帯、牟婁(むろ)帯に区分されています。日ノ御崎では、四万十帯のなかでも、もっとも古い日高川帯の地層が見られます。
 日高川帯の地層は、砂岩や泥岩、あるいはその繰り返し(互層(ごそう)といいます)からできています。これらは、風化や侵食によって陸地の岩石が砕かれ、河川によって土砂が海底に運ばれ、固まったものです。いわば陸を起源とする(陸源といいます)物質によってできた堆積岩です。
 ところが、日高川帯の地層の中には、土砂だけでなく、火山岩やチャートなどが混じっています。
 火山岩は、海底で活動したマグマによってできたものです。溶岩が水中でつくる枕状の形が残っています。枕状溶岩と呼ばれるものです。また、枕状にならずに、溶岩流や岩脈として大きく固まったもの、あるいは壊れてしまったものなどもあります。このような火山岩は、海底をつくっているマグマと同じ性質を持っています。つまり、海洋底の本体の切れ端といっていいものが見つかっています。
 チャートは、海洋のプランクトンが死んで、その遺骸が海底にたまって固まったものです。チャートがたまるには、長い時間が必要です。その間、陸が近くにあれば、堆積物がチャートの間に挟まってきます。ところが、多くのチャートには、陸源物質をはさむことは、ほとんどありません。つまり、陸から遠く離れた深海底で、多くのチャートが形成されていることを意味します。
 日高川帯は、多くの陸源堆積物と、陸から遠く離れた深海堆積物、および海底の破片という、いろいろなものからできていることになります。このような地層は、プレートの沈み込みによって、海底にあった堆積物が陸にくっついた付加体と呼ばれるものです。四万十帯は、付加体によってできています。四万十帯は、西日本の海側の大地の代表的な構成物で、似たものが房総半島、関東、東海、四国、九州へと連続して分布しています。
 日ノ御崎では、桜が咲き始めていました。日ノ御崎に至る道でも、咲き始めた桜をいっぱい見かけました。北海道は暖かかったとはいえ、まだ雪解けが終わったばかりです。花の季節はもう少し先です。春の南紀で付加体を見る旅を紹介していきます。

・常識破り・
地層は、つぎつぎと新しい土砂が海底にたまっていきます。
ですから、先にできたものが下になり、
時代も古いということになります。
これは地層累重の法則という地質学では基本的な常識です。
ところが、この地質学の常識を、付加体は破ったのです。
付加体は、沈み込むプレートの作用で形成されます。
堆積物は、沈みこまれるプレートの下に付加されていきます。
すると、新しい地層が、前の地層の下に付け加わることになります。
この作用が連続すると、地質学的上にあるものが古く、
下のもが新しいという構造の地質体ができてきます。
このようなことが起こっていることは、
地層の含まれている微化石を丹念に調べる技術ができ、
それを付加体に適用してはじめてわかってきたことです。

・風邪・
3月25日に関西空港からスタートして、南紀をめぐり、
最後は三重県伊賀上野から奈良を通り抜けて、
31日には、関西空港に戻ってきました。
三重県伊賀上野に行ったのは、
次男が忍者が大好きなのです、
忍者発祥の地である伊賀にいきたいというので、
そのリクエストに応えたためです。
長男は鳥羽の水族館でした。
この間、次男がずっと鼻水をかんでいました。
行動には支障がなく
大事に至らなかったのでよかったのですが、
たぶんその風邪が私にうつったようです。
私は、最後の夜になった、
急に悪寒がしだし、ダウンしましたが、
翌日も車を運転していたのですが、
何とか大事にならず、自宅まで戻ってきました。
しかし、自宅で一気に風邪が悪化しました。
その風邪がまだ抜けてないのです。

2009年4月2日木曜日

1_81 滝の回廊:メッシニアン塩分危機6

 メッシニアン塩分危機は、地中海がジブラルタル海峡で、新たに大西洋とつながることで終わりを告げます。つまり、メッシニアン塩分危機を完全に解明するには、ジブラルタル海峡の形成の歴史を明らかにすることが最後の課題となります。しかし、その形成史も、実は謎に満ちたものだったのです。メッシニアン塩分危機のシリーズの最後として、ジブラルタル海峡の形成についてみていきましょう。

 メッシニアン塩分危機は、氷河期による海水準低下と、それまであった大西洋と地中海をつなぐ2つの回廊が地殻変動によって閉ざされたことが原因でおこりました。中新世のメッシニア期が終わる(533万年前)ととともに、メッシニアン塩分危機も終結します。そして時代は、鮮新世のザンクリーン期(Zanclean)になります。
 メッシニアン塩分危機によって生じた地中海沿岸の景観は、今の状態からはまったく想像もできないものです。今は水際で水を湛えている沿岸域がすべて、侵食の場となります。もともと海底であったところも、深い渓谷が各所にできました。
 地中海から1200kmも離れた、アスワンダムのある場所では、海水準より数100mも低いところに、花崗岩をうがってできた河川による侵食地形(ゴージュと呼ばれる箱型の渓谷)が見つかっています。また、カイロのナイル川の下2500mの地下にも、同じような河川の侵食地形が見つかっています。つまり、今体積の場となっている地域が、すべて侵食の場だったのです。
 メッシニアン塩分危機が終わると、地中海は、短時間で激しい環境変化が起こります。それは、地中海の海底堆積物から、突然、深海生物の化石が見つかることからわかります。
 氷河期が終わり、暖かくなると降水量が増えます。氷河の融解によって、海水準も上昇しはじめます。外洋である大西洋の海水準が上昇し、低地帯である地中海域が存在することになります。そこにじわじわと大西洋の海水が進入してくるというような、のんびりとした変化では、一気に深海に転じるという現象は説明できません。
 地質学的証拠を説明するには、現在のようなジブラルタル海峡が、一気に出来なければならないのです。地質現象としては、割れ目を一気につくるものとして断層がありますが、残念ながらジブラルタル海峡には、そのような断層は見つかっていません。断層ではない、別の地質現象を考えなければなりません。
 現在のジブラルタル海峡のあたりは、低地帯で、もともと大西洋の海水が何度も浸入していたところだという説があります。また、かつての回廊も同じように大量の海水を、時々通していたというのです。そのような説がでてきたのは、現在の地中海の海底に蒸発岩が厚くたまっているのですが、その間に深海の堆積物を挟んでいます。その堆積物をつくるには、何度かの海水の供給が必要となります。その海水の供給源の一つが、ジブラルタル海峡の低地帯であっと考えられたのです。
 ジブラルタル海峡における過去の地形や地震波による探査がなされました。すると、東向きの流れをもった流路や渓谷が形成されていたことがわかってきました。その渓谷が、現在の海峡のもとになったと考えられています。海水が地中海に満たされるには、数100年の単位で起こらなければなりません。地質学的にあっという間に起こったといえます。
 そこの現在のジブラルタル海峡の幅の流路で、地中海に海水を満たすには、膨大な海水が流れこまなければなりません。さらに、大西洋と地中海は、当時、その落差1kmほどもあったのです。ジブラルタル海峡は、まるで大きな滝(ヴクトリアの滝の100倍の規模)というべき海峡が出現したのです。
 でも、この説では、現在の286mというジブラルタル海峡の深い水深を説明できません。やはりこの水路周辺の200から100m程度の沈降は不可欠となります。その現象まで完全に説明している説は、まだないようです。
 科学者の説明はできていないのですが、今と同じような深海の地中海が、一気に復活し、現在まで継続しているのです。
 温暖で穏やかな地中海の水面をみていると、そのような異変の面影は見てきません。しかし、地中海の海底から見つかる蒸発岩や大量の微化石が、これまで述べてきたような出来事を物語っています。地質学者たちは、残されたかすかな痕跡から、異変を嗅ぎ取り、その物語を解明しつつあります。

・風邪・
発行が遅れて申し訳ありません。
旅行から帰ったら風邪でダウンしました。
旅行の最後の夜に風邪を引いてすごく不調でした。
翌日車を運転して飛行機に乗り、
自宅までまた1時間ほど運転して帰りました。
風邪はいったんピークを過ぎたように思えたのですが、
やはり翌日も体調不良で、医者に駆け込みました。
インフルエンザではなかったのですが、
その後、熱と悪寒に4日間襲われ
今日やっと復帰しました。
風邪をぶり返したようです。
新学期の最初の会議を
いくつか欠席してしまいました。
申し訳ないことをしました。

・もう春です・
北海道も、暖かい日、寒い日を繰り返しながら
春に向かっています。
道路の雪はもちろん消え、
田畑の雪もほとんどなくなりました。
私が帰ってきた3月31日は、北海道は肌寒く、
小雪が舞ってました。
帰宅後、家も冷え切っていたのですが、
一晩ストーブをつけたら温まりました。
それから数日は暖かくなり、
昼間は日の光の当たるところを避けなければ
暑いほど部屋の気温は上がります。
朝夕はまだストーブが必要ですが、
北国も、日に日に春めいてきました。

2009年3月26日木曜日

1_80 回廊の閉鎖:メッシニアン塩分危機5(2009.03.26)

 メッシニアン塩分危機は、なぜ起こったのでしょうか。その原因を解明するには、今は亡き回廊が、なぜ消えたのかを、解き明かさなければなりません。その謎解きは、簡単ではありません。まだ、確定したモデルはできていませんが、代表的なものを紹介しましょう。

 前回、メッシニアン塩分危機が起こる前は、今のジブラルタル海峡ではなく、もっと広い海峡(回廊と呼ばれていました)があったと紹介しました。その回廊は、2つもあり、大西洋と地中海をつないでいたこという話もしました。そのような広い回廊が、メッシニアン塩分危機の直前に閉じたのです。海水の流入なくなったことが、メッシニアン塩分危機を引き起こしたのです。
 ではなぜ、その回廊が閉じたのでしょうか。
 実はまだ、完全には解明されているわけではありません。しかし、いくつかの重要な原因は、突き止められててきました。大きく2つが、原因の候補として挙げられています。第一の原因は海水面の低下、第二の原因が構造的な運動です。
 第一の海水面の低下とは、気候変動によって氷河期になることによって起こります。氷河期とは、全地球的に寒冷化が起こり、水が陸域に氷として蓄積されることを意味します。陸にたまった氷の分だけ、海水は減少(海退といいます)します。実際にその頃、全地球的な寒冷化が起こっていたことはわかっています。
 氷河期によって起こると推定される海水準の低下は、メッシニア期の初期では、60m程度と見積もられています。私たちの感覚からすると、とんでもない海水準の低下です。しかし、それでも回廊を閉じるには十分でなく、この程度では、まだ海水が出入りできたと考えられています。この状態では、現在の黒海のような環境にしかならないようです。つまり、この第一の原因だけでは、メッシニアン塩分危機を説明できないということになります。
 そこで第二の構造的な運動が重要になります。構造的な運動とは、地殻変動のことです。前々回説明したように、地中海はユーラシア大陸(ヨーロッパ)とアフリカ大陸が衝突している場所です。衝突が完了すれば、インドのユーラシアの衝突のように、海が完全に消えてしまいます。しかし、地中海は、まだ残っています。
 衝突前にあった、さまざまな地質体や、構造運動によって形成された地質体などが、地中海周辺に形成され、非常に複雑な地質環境となります。海が消えていくための沈み込み帯、それに伴う火山帯(アフリカ北岸やイベリア半島東岸)ができます。また、衝突によって生じた山脈(ピレネー山脈やアルプス山脈)、あるいは分離した陸地(バレアレス諸島、サルディニア島、コルシカ島)なども形成されていきます。地中海は、非常に複雑な地質環境となります。
 リフィーンとベティクと呼ばれる二つの回廊は、沈み込み帯自体が衝突してなくなり、その結果、1kmのオーダーで周辺地帯で上昇が起こったと考えられています。それが、回廊を閉じる原因になったというのです。
 現在でもまだ結論は出ていませんが、海水準上昇と地殻変動の2つの原因が複合しているのではないか、と考える研究者が多いようです。

・大学での送別会・
3月もいよいよ残り少なくなりました。
大学は卒業式も終わり、
あとは移動する教職員のための送別会が残されています。
定年退職する人、他のところに転出する人。
それぞれの思いがそこには生じます。
新入生を迎える前に、
受け入れ側である大学が変化をする時期です。
私は、変化なくそのままです。

・家族旅行・
このメールマガジンがお手元に届く頃には、
私は、調査兼家族旅行の最中です。
今回は、紀伊半島をめぐる旅です。
もちろん私は、各地の地質名所を巡る調査をする予定です。
幸いなことに地質名所と観光名所はかなり重複します。
ですから、家族で巡っても、飽きられはしないので
大丈夫だと思います。
もちろん、あまり観光客が行かないようなところへも
いくことになるでしょうが。
ルートは、関西空港から名古屋中部空港へと抜けるつもりでした。
しかし、次男のたっての希望で、
伊賀上野に最終日によることになりました。
それは、忍者村にいくためです。
次男は、今は忍者に凝っていて、
北海道の伊達にある時代村の忍者屋敷に感動して、
忍者の本場である伊賀上野を
ぜひ訪ねたいというリクエストに応じたものです。
そのため、帰りは関西空港に戻ることになります。
乗り捨てでないので、その分費用は助かりますが、
結構ロスの多いルート選択となりました。

2009年3月19日木曜日

1_79 広い回廊:メッシニアン塩分危機4(2009.03.19)

 地中海と大西洋がつながっているところは、ジブラルタル海峡と呼ばれています。この海峡は、狭く、海路交通の要所となっています。アフリカとヨーロッパの接点でもあります。そのため、政治、宗教、軍事などの要ともなっています。このジブラルタル海峡は、メッシニアン塩分危機以降にできたものでした。

 現在の地中海は、ジブラルタル海峡を通じて大西洋とつながっています。地図をみると、その海峡は細く狭いものであることが、よくわかります。対岸が近くにあり、肉眼でも見ることができます。海岸には、渓谷のように急な崖となっているところもあります。
 ジブラルタル海峡の海底地形は、水深が286mと深いのですが、幅が14km~44kmで、長さが60kmにわたって延びています。海水がなければ、まるで狭い回廊のような場所に見えるはずです。
 海水があってもジブラルタル海峡が狭く感じます。それは、地中海に面して、アフリカとヨーロッパの両側に、大きな山地があるためではないでしょうか。海峡の入り口にあたる岩崖を、「ヘラクレスの柱(2本柱とも呼ばれます)」といいます。2本の柱に見えるほど、切り立って見えるということです。
 海岸沿いで山を形成しているのは、ユーラシア大陸(ヨーロッパのスペイン)側では、ジブラルタロックと呼ばれる標高425mの岩山です。アフリカ大陸側には、モンテアチョ山(Monte Hacho)とヘベルムサ山(Jebel Musa)があります。モンテアチョ山はセウタという町にあり、ヘベルムサ山はモロッコにあります。ヘラクレスの2本柱に当たるのは、セウタにあるモンテアチョ山の方です。
 セウタは、モロッコの東にあるスペインの飛び地の領地になっています。地中海の出入り口に当たるこの地は、昔から海洋交通の要所となっています。したがって軍事の要所ともなります。まして、そこに眺めのよい山地があれば、要塞などの軍事施設としても最適となります。じっさい軍の施設が設置されています。
 ジブラルタルは、アフリカとヨーロッパの接点ともなっており、宗教や政治、軍事においても複雑な場となっています。
 さて、メッシニアン塩分危機が起こる以前、まだジブラルタル海峡が形成されていませんでした。地中海は別の地域で大西洋とつながっていました。つまり現在は陸地となっているところが、大西洋との海水交換の道、回廊としてありました。
 回廊は、現在の南スペイン(Betic回廊と呼ばれています)と北西アフリカ(Rifean回廊と呼ばれ2つの海路が開いていました)との2箇所で、大西洋とつながっていたと考えられています。回廊という名称がついていますが、今のジブラルタル海峡よりもっと広い海峡となっていたようです。
 地中海の海底や周辺の陸地の地質を調べていくと、そのような過去の回廊があったのがわかってきました。メッシニアン塩分危機のときに、ジブラルタル近辺では、海水が干上がっていれば出来たはずの蒸発岩類が見あたりませんでした。そして、海があった痕跡を探すと、ジブラルタル海峡以外のところに2箇所も見つかったのです。
 広い回廊が2つもあったのに、なぜか回廊が閉じて、海水が入らなくなりメッシニアン塩分危機が起こったのです。その理由は、次回としましょう。

・セウタ・
「ジブラルタル」という名前は、
「ターリクの山(ジェベル・ターリク)」から由来しているそうです。
「ターリク」とは、イベリア半島に進入した
アラブ人の首長ターリク・イブン・サイードのことだそうです。
古くから、文明の交差する場所であったことが、
ジブラルタル自体の名前からも伺えます。
現在スペインの飛び地領であるセウタを、
モロッコは地続きである自国への編入を求めています。
セウタの歴史を見ると、
カルタゴ人やローマ人、ヴァンダル人、西ゴート族、
キリスト教とイスラム教、
ポルトガルやスペイン、モロッコなど、
さまざま組織が支配を巡って争ってきました。
セウタを例にしましたが、
ジブラルタルは、非常に重要な拠点であるために
このような複雑な歴史があるのです。

・ドル・
アメリカ合衆国のお金の単位は「ドル」です。
「ドル」の単位を、$と表記します。
ただし、$は正式には、
2本の縦線が使われることになっています。
なぜ、2本線が引かれているのかというと、
「ヘラクレスの2本柱」を表すという説があります。
スペインの貨幣は、ジブラルタル海峡から大西洋を渡り、
アメリカ大陸でも使われていた時代がありました。
その時のなごりで、ジブラルタル海峡の象徴として、
Sに「ヘラクレスの2本柱」を意味する
縦の2本線を加えたといわれています。
本当の由来は知りませんが、
このような由来もなかなか面白い説ですね。

2009年3月12日木曜日

1_78 地中海誕生:メッシニアン塩分危機3(2009.03.12)

 メッシニアン塩分危機は、地中海の成因と深い関係があるという話を前回して、終わりました。今回は、その地中海の誕生にまつわる物語を紹介します。

 そもそも地中海は、どのようにして形成されたのでしょうか。実は、地中海は、もともと非常に大きな海洋だったものが、今のような大きさに縮小してしまったものです。そのような縮小の過程で、メッシニアン塩分危機が起こったのです。
 地中海は、もとはテチス海(Tethys Sea)と呼ばれ、古生代から新生代のパレオジン(以前は新第三紀と呼ばれていた時代)にかけて存在した大きな海でした。その大きさは、時代ごとに変化しましたが、大陸に囲まれていることがテチス海の特徴でした。ですから、テチス海の話をするには、その時代の大陸配置を理解する必要があります。ただし、過去の大陸を復元するのは、大変な作業で、科学者によってもいろいろな考え方があります。以下の話は、"The Concise Geologic Time Scale"に基づいて紹介していきます。
 まず、古生代から話をはじめましょう。古生代の最初の時代は、カンブリア紀です。その時代には、ゴンドワナという巨大な大陸が一つありました。その他に3つの小大陸(ローレンティア、バルティカ、シベリアと呼ばれています)が、ゴンドワナの近くに集まって存在していました。その他の部分を占める大きな海洋は、パンサラッサ海と呼れていました。ゴンドワナと小さな大陸の間には、イアペタス海と呼ばれ海がありました。
 オルドビス紀になると、小さいな大陸は配置を変えていきます。パンサラッサ海とゴンドワナ大陸という大きな構図はそのままに、小さな3つの大陸の配置が変わっていきます。そのため、イアペタス海は小さくなり、新たに古テチス海と呼ばれる海ができます。
 大陸の配置は変わり、シルル紀からイアペタス海は小さくなり続け、古テチス海は、大陸配置の変更によっていろいろな形をとっていきます。デボン紀には、いくつもあった小さな大陸がゴンドワナ大陸に向かって集まりはじめ、イアペタス海はなくなります。そして、石炭紀を経てペルム紀には、一つの大きな超大陸パンゲアになっていきます。その間、古テチス海は、パンゲア大陸の内海として存在し続けます。そしてペルム紀には、古テチス海の片隅に、パンゲア大陸に抱かれるようにして、テチス海が形成されていきます。
 中生代の三畳紀になると、古テチス海は狭まり、テチス海が広がりだします。ジュラ紀には古テチス海が消え、テチス海だけになります。また、テチス海は、拡大しながら、内湾から外海の環境になります。テチス海とパンサラッサ海がつながったとき、パンサラッサは太平洋と呼ばれるようになります。この頃、パンゲアは分裂を始めローラシアとゴンドワナに分かれ始めます。白亜紀になるとローラシアとゴンドワナはさらに分裂をはじめ、大西洋が形成されていきます。そして、テチス海は縮小していきます。
 新生代になると、ユーラシア大陸に、アフリカ大陸とインド大陸の衝突して、間にあったテチス海が閉ざされ、その大部分が消えてしまいました。テチス海は、地中海や黒海、カスピ海、アラル海などが、その名残として今も少しあるだけです。
 ユーラシア大陸(ヨーロッパ)とアフリカ大陸、ユーラシア大陸(アジア)とインド大陸という大陸同士の衝突は、現在も継続しています。衝突の場には、山脈が形成され、今も上昇を続け、地震も頻発します。ところによっては火山も形成されています。
 テチス海の名残である地中海は、アフリカ大陸とユーラシア大陸の衝突が続いているところにあたります。ですから、今後も、地中海は閉じていく海になっていくはずです。メッシニアン塩分危機は、その前触れともいうべき事件だったのかもしれません。

・スペック不足・
昨年新しいデスクトップのパソコンとして
Windows VISTAを購入しました。
予算の都合で、理想のスペックのものは購入できず、
しかたなく予算に見合ったスペックの低いものにしました。
ところが、ハードディスクの容量不足が、すぐに発生しました。
予期していたことですが、まめにファイルを整理していけば、
大丈夫かと思っていました。
ところがいくら整理しても、すぐに容量が足りなくなります。
購入したタイプのコンピュータでは、
ハードディズクは250GBが最大の容量でした。
これが一つ目の間違いです。
二つ目の間違いは、VISTAにしたことです。
VISTA対応のソフトをいくつか導入したのですが、
遅すぎて使い物にならず、
古いバージョンに戻してしまいました。
これでは、何のためにVISTAにしかわかりません。
また、ハングアップすることはないのですが、
いつもエラーを出していますので、
使用上、不安が付きまといます。
だから、安定しているXPにバージョンダウンした
デスクトップに買い換えようかと考えています。
価格の関係で望む機能を削ったのが、
失敗の原因だったような気がします。
少々無理をしても、必要なところには、
十分なスペックを持っていたほうが
結局は長持ちすることになりそうです。
一つ前のデスクトップは十分なスペックもっていたので、
4年ほど使うことができました。
パソコンとして十分長く使っていると思います。
まあ、新しく購入するにしても、来年度になるのですが。

・卒業と入学のはざま・
いよいよ卒業のシーズになります。
早い大学では、今週が卒業式になっています。
わが大学は来週が卒業式です。
卒業式は、本来なら大学内で挙行するのがいいはずなのです。
ところが、卒業生が1000名、そのほかに大学院生と父兄も参加します。
そんな大人数では、大学の施設では収容しきれません。
ですから、大きな会場を借りて卒業式を行います。
教員もそちらに出向いていきます。
卒業式の話をしましたが、現在、入試はまだ継続中です。
二次入試の試験は終わりましたが、
現在、集計中で、来週、その発表があります。
大学は、終わりと始まりのはざまにあります。

2009年3月5日木曜日

1_77 異変の履歴:メッシニアン塩分危機2(2009.03.05)

 地中海の海水が干上がるというメッシニアン塩分危機が、中新世末期に起こりました。その時、今の穏やかな地中海から想像もできないほどの激変が起こりました。多くの海洋の生物は絶滅したはずです。沿岸地域の環境にも大きな影響を与えたはずです。その影響の全貌はまだ解明されていませんが、概要はわかってきました。異変の履歴を紹介していきましょう。

 前回、新生代中新世末期に、地中海の海水が干上がるというメッシニアン塩分危機があったことを紹介しました。メッシニアン塩分危機の実態は、地上の地質調査だけでなく、20世紀後半から、海洋底を掘削する調査(Deep Sea Drilling Program:DSDPと呼ばれる)が地中海の各地でおこなわれることによって、より詳細な解明がなされてきました。14箇所の海底で掘削が行われました。この掘削という調査方法は、一度に一つの地点でしか調査できない大掛かりなものですが、地下に向かって連続的な地質試料を回収することができます。それを実験室で精密に調べることができ、地上では得られない重要な情報をもたらします。掘削と並行して、音波や地震波を利用して海底の断面を調べていくことによって、広域の3次元的な海底堆積物の様子がわかってきました。
 それらの結果によると、地中海には、海水の蒸発によって形成された蒸発岩として苦灰岩や石膏が、広域にわたって堆積していることがわかってきました。もちろん前回紹介したように、地中海沿岸の陸地にも、海水の蒸発の痕跡は残されていました。
 メッシニアン塩分危機という事件の時間変化を、順を追ってみていきましょう。まだ議論の余地が多々あるようですが、概略は多くの研究者が同意しているものです。その様子を、Crippsが2005年にまとめたもの(http://ougseurope.org/newsletter/articles/messinian.asp)から、紹介していきましょう。
 まず、724万年前(あるいは6.88万年前)には、事件の予兆のような現象が記録されていました。シシリア島の地層に、泥灰岩と腐泥炭の互層があることから、大西洋との海水の交換が徐々に変化して、沿岸域の環境変化が起こってきたことが伺えます。
 596万年前から、塩分危機が始まります。この時期から地中海の海水の流入が、減るか完全に途絶えていきました。その結果、地中海全域で蒸発岩が形成されていきます。海底の地震波探査でみつかったM reflectorと呼ばれた反射面が、このとき形成されました。これは、海水準が100~200mほど低下したことを示しています。
 そして、559万から533万年前の間、地中海は大西洋から完全に切り離され、外海から海水が入ってこなくなりました。地中海の海水準は、現在の海底まで近くまで下がり、そこには塩湖が形成されていたと考えられます。この時期になると、地中海は、地層の堆積場というよりも、陸地として侵食の場となりました。もともとの海岸線は、巨大な渓谷になっていたことになります。それは、グランドキャニオンに匹敵する規模だと推定されています。
 533万年前には、再び、外界とつながった海の環境が戻ってきました。この年代は、中新世と鮮新世の時代境界ともなっています。
 塩分危機の時代は、地中海に外洋の海水が供給されていない596万から533万年前の63万年間になります。地質学的には、それほど長い期間ではないのですが、地中海という狭い海峡しかない内海であったため、その影響は大きなものとなりました。
 ではなぜ、海水の流入が止まったのでしょうか。それは、地中海が成因と深い関係があるようです。続きは、次回としましょう。

・キプロス島・
私は、1987年に地中海のキプロス島で
学会があったときに、地中海を間近に見ました。
キプロス島では、学会参加と共に
テチス海の海底を構成していた岩石群を見ることも
重要な目標でした。
その地質見学旅行で見た、地中海固有の澄んだ海の色と
乾燥した快晴の青空が強く印象に残りました。
さらに、古代ギリシア時代の遺跡やモザイクを見て、
乾燥した大地に残された人類の歴史に思いを馳せました。
それ以降、残念ながら地中海は見ていません。

・第一期生・
いよいよ3月となりました。
北海道も春めいた暖かい日差しが
注ぐ日も訪れるようになりました。
もちろん雪のたくさん降る日も、まだまだあります。
しかし、この暖かさは、春の到来を予感させるものです。
大学は、卒業と入試の季節です。
私の所属する学科は、今年はまだ卒業生がいません。
来年度やっと4年生が誕生します。
第一期生です。
あと一年、はじめてのことを新4年生とともに
築きあげていくことになります。
彼らとは苦楽を共にしたという気持ちが非常に強くあります。
彼らもこれから、進路を決定する重要な時期になります。
特に教員志望の学生にとっては、気の抜けない日々が続きます。
教員としては、彼らの努力をサポートしながら
成功を祈るしかありません。