宇宙のかなたから、はるばる地球にやってく来るのは、目で見える光だけではありません。電波もやってきます。そんな電波を見る望遠鏡もあります。
前回まで、望遠鏡の発展の歴史を見てきました。それは、私たちが常に見ている光を、どうすれば、よりよく見ることができるかということが、焦点となりました。ところが、他にも改善の余地があります。それは、見える光以外のものを観測することです。
見える光(可視光)を含めてすべての電磁波を詳しく調べてみると、地表に届いているのは、可視光だけでなく、可視光よりもっと波長の長い赤外線や電波も、たくさん地表に達していることがわかります。電波とは、赤外線より波長の長い電磁波のことです。地表でも電波を使えば、私たちが見ている可視光以上の情報を、手に入れることができるはずです。そんな試みが、天文学ではなされています。
実際に地表に届くのは、すべての波長の電波ではなく、ある限られたものとなります。40m以上の波長の電波は、大気中にある電離層で反射されてしまうので、地上に届きません。また、3cm以下の波長の電波は、大気中の水分子や酸素分子によって吸収されるので、地上にあまり届きません。ですから、波長でいうと40mから3cmの間の電波が、電波のでの観測の対象となります。
可視光の望遠鏡では、レンズで屈折させて光を集めたり(屈折望遠鏡)、反射鏡を使って光を集める方法(屈折望遠鏡)がありました。電波は、屈折することがほとんどできないため、反射だけで集めるしかありません。そのため、電波望遠鏡の形は、すべておわんのようなパラボラになります。
可視光を反射をさせるには、反射率の高い鏡面持つものでなければなりませんでした。しかし、電波は金属であれば、どんなもので反射できるので、さまざまな素材を利用することができます。さらに、電波の波長より小さければ、パラボラの反射面に隙間があっても反射できます。隙間を適切に取れば、望遠鏡が大型化しても、重さを軽くすることができます。波長が長ければ、金網でも反射鏡の役目を果たします。
ここまで、電波望遠鏡の良い点ばかりをあげましたが、もちろん弱点もあります。反射鏡の形は、目的とする波長の4分の1以下のズレにしなければ観測精度が悪くなります。そのため、電波望遠鏡としてパラボラをつくると、ある波長の範囲の電波しか、精度良く測れないことになります。また、波長の長い電波を測定しようとすると、大きな反射鏡が必要となってしまいます。
さらに、一般に望遠鏡の精度(分解能といます)の限界は、望遠鏡の直径に比例し、なおかつ観測する波長に反比例します。電波の波長は、可視光の波長の1万倍以上もありますから、電波望遠鏡の精度は、光学望遠鏡と比較すると、非常に悪いものとなります。
このような欠点があるのですが、それでも、やはり電波望遠鏡が使われています。それは、可視光で見えないものが見えるからです。可視光は、星間ガスがたくさんあるようなところでは、光が散乱してしまって通過できません。つまり、星間ガスが多いところでは、雲がかかったような状態になり、星間ガスの向こうが見えません。ところが、電波は波長が長いので、星間ガスであまり散乱することなく、通り抜けることができます。つまり、雲に左右されることなく、雲の中や向こう側が観察できるのです。そのような星間ガスの多いところは、星の誕生の場所となります。電波を使えば、星の誕生を覗き見ることができるのです。
その他にも、電波望遠鏡はいろいろな利用方法がありますが、それは次回としましょう。
・電波・
電波とは、赤外線より波長の長い電磁波のことです。
これは一般論で、電波法というものでは、
周波数が3,000,000MHz(= 3000GHz = 3THz)以下
波長ではいうと0.1mm以上の電磁波のこととされています。
しかし、すべての波長が利用されているわけではなく、
利用目的によって、非常に需要の多い波長帯もあります。
たとえば、テレビのVHFでは1m~10mを、
UHFでは10cm ~1mあたりの波長を使っています。
携帯電話は波長10数cmを使っています。
そこにたくさんの利用が殺到していますので、
それを混信なく早く使いこなすために、
デジタル化などのさまざまな手法が開発されています。
そのような電波を管理するところが、各国にあり
日本では、総務省となっています。
そしてそので定められているのが、電波法というものです。
・巨大パラボラ・
日本で最大の電波望遠鏡は長野県南牧村の八ヶ岳のふもとにある、
野辺山宇電波天文台の直径45mのパラボラです。
10数年前の一般公開で見に出かけたことを思い出します。
世界最大の電波望遠鏡は、
プエルトリコにあるアレシボ天文台の直径305mのパラボラです。
このパラボラは、自然のくぼ地にパラボラを設置したものです。
ですから望遠鏡は動かすことができません。
しかし、地球が自転しているので、
地球の自転を使って観測すことができます。
私は訪れたことがないのですが、
カールセーガン原作の映画「コンタクト」の
最初の場面でアレシボの電波望遠鏡が出てきました。
それがすごく印象として残っています。
2005年11月24日木曜日
2005年11月17日木曜日
5_44 望遠鏡の工夫
地球を調べるシリーズの2回目です。前回に続いて光学望遠鏡の話題です。
望遠鏡でより多くの天体、つまり暗い天体まで見るには、弱い星の光を、できるだけたくさん集めた方がいいわけです。そのためには、望遠鏡の口径を大きくして、光をたくさん集めればいいことになります。その結果、望遠鏡の口径が大きくされていきました。
望遠鏡を大きくしていくと、レンズを正確に作る技術にも限界があります。屈折望遠鏡では、1m以上になると、精度の良いレンズは、非常に製作が難しくなります。そのため、大きな口径の望遠鏡は反射望遠鏡になりました。
反射望遠鏡は、屈折望遠鏡の大きさをはるかにしのぐ、10mほどの口径にまで発展しました。しかし、レンズが大きくなれば、レンズが自分の重みで歪んできます。やはり限界がでてきたのです。
現在は、次世代の望遠鏡として、小さなレンズの集合体として大きなレンズをつくり、レンズ自身の歪みを、コンピュータを使って小さなレンズを動かして補正するという技術が生まれました。能動光学と呼ばれる技術です。
口径の大きい望遠鏡をつくりより、能動光学で十分調整された性能のいいレンズの望遠鏡をつくる方が今では主流となっています。その口径は、6mから8mほどのサイズです。日本の誇るハワイにあるすばる望遠鏡も、このような能動光学を駆使したものとなっています。この技術が。確立され、進歩してくれば、数十mというサイズの望遠鏡の建築も可能になるかもしれません。
望遠鏡の精度を上げられない要因が、もう一つあります。それは、大気の乱れです。星が瞬いて見えるのは、大気が動いているため、その中を通る光が乱れるからです。
大気の乱れを避けるためには、大気のない大気圏外がいいわけです。そのような理由でつくられたのが、ハッブル宇宙望遠鏡です。しかし、地球外にものを、それも巨大で精密な望遠鏡を持っていくのには、ものすごい手間と費用がかかります。ですから、そう容易にできるできることではありません。
地表で何とかできないでしょうか。そんな思いで生まれたのが、補償光学という技術です。
原理は、明るい星を一つ決め、その明るい星の光の乱れから、大気の乱れを瞬時に計算して、補正するというものです。大気の乱れを観測し、その乱れを補正するために、100分の1秒以下の単位で、小さな鏡を変形していく技術です。
現在、そのような補正に使える星の数が、限られていることが問題となっています。空の1%くらいにしか、そのような星がなく、あと場所では、この技術が使えないのです。
しかし、人間はあきらめないのです。大気の乱れを測定するための星がなれば、人工的に星に変わるものをつくればいいと考えたのです。
ハワイ・マウナケア山にあるケック望遠鏡で、補償光学をするために、人工的に「明るい星」に変わるものをつくったのです。レーザで上空95kmにあるナトリウム原子の層を照らし、その層が9.5等星の明るさで輝くようにしたのです。つまり人工的に明るい星に変わるものをつくり出したのです。その輝きを利用して、空気の乱れを測定しようということです。
この技術が確立されれば、ケック望遠鏡は、ハッブル宇宙望遠鏡の4倍の解像度が出ると考えられています。
人間の知恵には、限界がないのでしょうか。このような最先端の技術を見ていると、そう感じてしまうのは、私だけでしょうか。
・冬の到来・
いよいよ私の町にも、初雪が降りました。
平年より2週間ほど初雪が遅かったようです。
初雪の前までは、暖かかい日が続き、
雪虫もいつもりたくさん飛び交っていました。
庭の木々には、もうすでに雪囲いが施されています。
公園のベンチもまとめてビニールがかけられています。
ブランコも取り外されました。
我が家の車も、スタットレスの冬タイヤに変えました。
みんながそれぞれ雪に備えてきました。
いよいよ冬の到来です。
・年の功・
大学では、若者たちが、薄着で冬を迎えています。
彼らはどうしてあんな薄着で耐えられるのでしょうか。
いつも不思議で仕方がありません。
確かに彼らも外に出ると寒そうにしています。
それでも、彼らは薄着で済ましています。
私にはもう寒さに耐える気力、体力がありません。
ですから、早めに厚着をして対処しています。
これは、老化でしょうか。
それとも年の功でしょうか。
望遠鏡でより多くの天体、つまり暗い天体まで見るには、弱い星の光を、できるだけたくさん集めた方がいいわけです。そのためには、望遠鏡の口径を大きくして、光をたくさん集めればいいことになります。その結果、望遠鏡の口径が大きくされていきました。
望遠鏡を大きくしていくと、レンズを正確に作る技術にも限界があります。屈折望遠鏡では、1m以上になると、精度の良いレンズは、非常に製作が難しくなります。そのため、大きな口径の望遠鏡は反射望遠鏡になりました。
反射望遠鏡は、屈折望遠鏡の大きさをはるかにしのぐ、10mほどの口径にまで発展しました。しかし、レンズが大きくなれば、レンズが自分の重みで歪んできます。やはり限界がでてきたのです。
現在は、次世代の望遠鏡として、小さなレンズの集合体として大きなレンズをつくり、レンズ自身の歪みを、コンピュータを使って小さなレンズを動かして補正するという技術が生まれました。能動光学と呼ばれる技術です。
口径の大きい望遠鏡をつくりより、能動光学で十分調整された性能のいいレンズの望遠鏡をつくる方が今では主流となっています。その口径は、6mから8mほどのサイズです。日本の誇るハワイにあるすばる望遠鏡も、このような能動光学を駆使したものとなっています。この技術が。確立され、進歩してくれば、数十mというサイズの望遠鏡の建築も可能になるかもしれません。
望遠鏡の精度を上げられない要因が、もう一つあります。それは、大気の乱れです。星が瞬いて見えるのは、大気が動いているため、その中を通る光が乱れるからです。
大気の乱れを避けるためには、大気のない大気圏外がいいわけです。そのような理由でつくられたのが、ハッブル宇宙望遠鏡です。しかし、地球外にものを、それも巨大で精密な望遠鏡を持っていくのには、ものすごい手間と費用がかかります。ですから、そう容易にできるできることではありません。
地表で何とかできないでしょうか。そんな思いで生まれたのが、補償光学という技術です。
原理は、明るい星を一つ決め、その明るい星の光の乱れから、大気の乱れを瞬時に計算して、補正するというものです。大気の乱れを観測し、その乱れを補正するために、100分の1秒以下の単位で、小さな鏡を変形していく技術です。
現在、そのような補正に使える星の数が、限られていることが問題となっています。空の1%くらいにしか、そのような星がなく、あと場所では、この技術が使えないのです。
しかし、人間はあきらめないのです。大気の乱れを測定するための星がなれば、人工的に星に変わるものをつくればいいと考えたのです。
ハワイ・マウナケア山にあるケック望遠鏡で、補償光学をするために、人工的に「明るい星」に変わるものをつくったのです。レーザで上空95kmにあるナトリウム原子の層を照らし、その層が9.5等星の明るさで輝くようにしたのです。つまり人工的に明るい星に変わるものをつくり出したのです。その輝きを利用して、空気の乱れを測定しようということです。
この技術が確立されれば、ケック望遠鏡は、ハッブル宇宙望遠鏡の4倍の解像度が出ると考えられています。
人間の知恵には、限界がないのでしょうか。このような最先端の技術を見ていると、そう感じてしまうのは、私だけでしょうか。
・冬の到来・
いよいよ私の町にも、初雪が降りました。
平年より2週間ほど初雪が遅かったようです。
初雪の前までは、暖かかい日が続き、
雪虫もいつもりたくさん飛び交っていました。
庭の木々には、もうすでに雪囲いが施されています。
公園のベンチもまとめてビニールがかけられています。
ブランコも取り外されました。
我が家の車も、スタットレスの冬タイヤに変えました。
みんながそれぞれ雪に備えてきました。
いよいよ冬の到来です。
・年の功・
大学では、若者たちが、薄着で冬を迎えています。
彼らはどうしてあんな薄着で耐えられるのでしょうか。
いつも不思議で仕方がありません。
確かに彼らも外に出ると寒そうにしています。
それでも、彼らは薄着で済ましています。
私にはもう寒さに耐える気力、体力がありません。
ですから、早めに厚着をして対処しています。
これは、老化でしょうか。
それとも年の功でしょうか。
2005年11月10日木曜日
5_43 大気の障害を越えて
「調べる道具」シリーズをはじめます。今回は、宇宙の眺める望遠鏡についてです。
地球には、大気があります。大気は地球の大きさと比べると、あまりに薄く、か弱いように見えます。しかし、この薄い大気が、地球の外から来るさまざまな電磁波を吸収して、地表に届かないようにしてしまいます。そのおかげで、地表で生命が安心して生きてるのです。
地表から地球の外の宇宙を見ようとすると、この大気が多くの電磁波を吸収してしまうという効果が、逆に障害になります。夜に空を見ても、赤外線の一部と可視光だけが、観察できる部分となります。どんなに道具や技術を工夫しても、届かないものは、調べることができません。でも、可視光を詳しくみれば、星の観測は十分できるはずです。それが望遠鏡の歴史でもあります。
遠くのものを見るには、目を凝らします。しかし、どんなに目の良い人でも、見えるものには限界があります。目より遠くを見る道具として、望遠鏡が登場しました。
望遠鏡を最初に天体観測に利用したのは、ガリレオでした。ガリレオは、レンズの原理を研究して、いくつかの望遠鏡を作り、月、太陽の黒点、木星、土星、さらには、天の川まで調べていきました。
ガリレオの望遠鏡は、対物レンズに凸レンズ、接眼レンズに凹レンズを用いました。ケプラーは、対物レンズも接眼レンズも凸レンズを使いました。これらは、光を屈折させるので、屈折望遠鏡とよばれています。その後、ニュートンは、対物レンズの変わりに凹面鏡を使う反射望遠鏡をつくりました。
屈折望遠鏡で、より遠くを見るには、大きな対物レンズが必要になります。そのためには、大きなレンズをつくる技術が必要です。1879年アメリカのヤーキス天文台の口径1.02mの望遠鏡をピークにして、製作の簡単な反射望遠鏡に取って代わりました。ヤーキス天文台の望遠鏡は、現在使われている最も大きなものです。
反射望遠鏡では、19世紀中ごろに、凹面鏡のガラスの表面に銀のメッキをする技術が実用化されました。その結果、20世紀になると、倍率が大きくて、より多くの光を集める口径の大きな反射望遠鏡が、次々と作られました。ハワイにあるケック望遠鏡は、口径1.8mの鏡を36枚組み合わせたもので、合成した口径が10mとなり、世界最大の反射望遠鏡となっています。
小さな望遠鏡で、天体を見ている分には、口径を大きくすることはいいことでした。しかし、望遠鏡の性能が上がり、大きな望遠鏡になってくると、どうしてもクリアできない問題がでてきました。
それは、空気のゆらぎとレンズの歪みでした。
大気のゆらぎの中を光が通ると、光もゆらいでしまいます。星が瞬いているのは、大気のゆらぎのためです。望遠鏡が大きくなれば、望遠鏡の中の光の通り道のゆらぎが問題となってきます。
また、反射鏡でも、レンズが大きくなると、レンズが自分の重みで歪んできます。こんなささやかに見える反射面の歪みも、解像度に大きな影響を与えます。このようなゆらぎと歪みは、どんなに精度よく見ようとしても、星の姿をぼやけませますつまり、どんなに口径を大きくして、光を集めても、良く見えための限界があります。
大気のゆらぎやレンズの歪みを克服するために、新しい望遠鏡はさまざまな工夫を凝らしています。それは次回としましょう。
・調べる道具シリーズ・
今回から「調べる道具」シリーズをはじめます。
いろいろ調べる道具があります。
そんな道具に秘められた
さまざまな工夫、苦労をみていきたいと考えています。
まず今回は、望遠鏡からでした。
予想通り1回では終わりませんでした。
続きは次回のお楽しみです。
・大学の値打ち・
今年は、秋が暖かくていいのですが、
落ち着かない日々が始まりました。
それは、大学は推薦入学の申し込みがはじまったからです。
少子化の時代ですから、推薦入試の申し込み数が
多い少ないで、大学関係者が一喜一憂する季節となります。
推薦入試の次がセンター試験、その次が一般入試となります。
あわただしい時期が始まります。
そんなとき、ふと次のようなこと考えました。
私立大学は、学生が入学することで運営されています。
学生にたくさん受験をしてもらって、
大学にあった学生だけを選抜していくことが
大学にとって大切なことです。
それが入試であります。
そのためには、学生にとって魅力のある大学を、目指さなければなりません。
それを、大学自身が常に模索しています。
時代や社会、大学によっても魅力は違うでしょう。
大学教員として単に教育熱心だけではダメなようです。
つまり教員がどんなに熱心にいい教育をしても、
無駄ではないのですが、集客力を発揮しないのです。
自慢とする良い教育を、少なくとも、高校生やその父母に、
評価してもらうためには、宣伝が必要です。
他の大学の比べて違っている点、
勝っている点を明確に打ち出し、
いろいろ考え出してアピールすることになります。
しかし、それは多くの大学でやっています。
アピールできる点が、ある年あったとしたら、
次の年には、他の大学もそれをマネてきます。
イタチゴッコのような気がします。
高校生やその父母は、そんな宣伝を、
多数の評価の一つとして見ているに過ぎないようです。
やはり、教員として、誠意を持って今いる学生の教育をすること、
そしてそれを真摯に飽くことなく繰り返すことが
大学教員としての基本はないでしょうか。
それを当たり前でも、対外的に示すしかないのではないでしょうか。
良い教育のないところに、大学の存在意味がないのですから。
多分、これは理想論でしょうね。
地球には、大気があります。大気は地球の大きさと比べると、あまりに薄く、か弱いように見えます。しかし、この薄い大気が、地球の外から来るさまざまな電磁波を吸収して、地表に届かないようにしてしまいます。そのおかげで、地表で生命が安心して生きてるのです。
地表から地球の外の宇宙を見ようとすると、この大気が多くの電磁波を吸収してしまうという効果が、逆に障害になります。夜に空を見ても、赤外線の一部と可視光だけが、観察できる部分となります。どんなに道具や技術を工夫しても、届かないものは、調べることができません。でも、可視光を詳しくみれば、星の観測は十分できるはずです。それが望遠鏡の歴史でもあります。
遠くのものを見るには、目を凝らします。しかし、どんなに目の良い人でも、見えるものには限界があります。目より遠くを見る道具として、望遠鏡が登場しました。
望遠鏡を最初に天体観測に利用したのは、ガリレオでした。ガリレオは、レンズの原理を研究して、いくつかの望遠鏡を作り、月、太陽の黒点、木星、土星、さらには、天の川まで調べていきました。
ガリレオの望遠鏡は、対物レンズに凸レンズ、接眼レンズに凹レンズを用いました。ケプラーは、対物レンズも接眼レンズも凸レンズを使いました。これらは、光を屈折させるので、屈折望遠鏡とよばれています。その後、ニュートンは、対物レンズの変わりに凹面鏡を使う反射望遠鏡をつくりました。
屈折望遠鏡で、より遠くを見るには、大きな対物レンズが必要になります。そのためには、大きなレンズをつくる技術が必要です。1879年アメリカのヤーキス天文台の口径1.02mの望遠鏡をピークにして、製作の簡単な反射望遠鏡に取って代わりました。ヤーキス天文台の望遠鏡は、現在使われている最も大きなものです。
反射望遠鏡では、19世紀中ごろに、凹面鏡のガラスの表面に銀のメッキをする技術が実用化されました。その結果、20世紀になると、倍率が大きくて、より多くの光を集める口径の大きな反射望遠鏡が、次々と作られました。ハワイにあるケック望遠鏡は、口径1.8mの鏡を36枚組み合わせたもので、合成した口径が10mとなり、世界最大の反射望遠鏡となっています。
小さな望遠鏡で、天体を見ている分には、口径を大きくすることはいいことでした。しかし、望遠鏡の性能が上がり、大きな望遠鏡になってくると、どうしてもクリアできない問題がでてきました。
それは、空気のゆらぎとレンズの歪みでした。
大気のゆらぎの中を光が通ると、光もゆらいでしまいます。星が瞬いているのは、大気のゆらぎのためです。望遠鏡が大きくなれば、望遠鏡の中の光の通り道のゆらぎが問題となってきます。
また、反射鏡でも、レンズが大きくなると、レンズが自分の重みで歪んできます。こんなささやかに見える反射面の歪みも、解像度に大きな影響を与えます。このようなゆらぎと歪みは、どんなに精度よく見ようとしても、星の姿をぼやけませますつまり、どんなに口径を大きくして、光を集めても、良く見えための限界があります。
大気のゆらぎやレンズの歪みを克服するために、新しい望遠鏡はさまざまな工夫を凝らしています。それは次回としましょう。
・調べる道具シリーズ・
今回から「調べる道具」シリーズをはじめます。
いろいろ調べる道具があります。
そんな道具に秘められた
さまざまな工夫、苦労をみていきたいと考えています。
まず今回は、望遠鏡からでした。
予想通り1回では終わりませんでした。
続きは次回のお楽しみです。
・大学の値打ち・
今年は、秋が暖かくていいのですが、
落ち着かない日々が始まりました。
それは、大学は推薦入学の申し込みがはじまったからです。
少子化の時代ですから、推薦入試の申し込み数が
多い少ないで、大学関係者が一喜一憂する季節となります。
推薦入試の次がセンター試験、その次が一般入試となります。
あわただしい時期が始まります。
そんなとき、ふと次のようなこと考えました。
私立大学は、学生が入学することで運営されています。
学生にたくさん受験をしてもらって、
大学にあった学生だけを選抜していくことが
大学にとって大切なことです。
それが入試であります。
そのためには、学生にとって魅力のある大学を、目指さなければなりません。
それを、大学自身が常に模索しています。
時代や社会、大学によっても魅力は違うでしょう。
大学教員として単に教育熱心だけではダメなようです。
つまり教員がどんなに熱心にいい教育をしても、
無駄ではないのですが、集客力を発揮しないのです。
自慢とする良い教育を、少なくとも、高校生やその父母に、
評価してもらうためには、宣伝が必要です。
他の大学の比べて違っている点、
勝っている点を明確に打ち出し、
いろいろ考え出してアピールすることになります。
しかし、それは多くの大学でやっています。
アピールできる点が、ある年あったとしたら、
次の年には、他の大学もそれをマネてきます。
イタチゴッコのような気がします。
高校生やその父母は、そんな宣伝を、
多数の評価の一つとして見ているに過ぎないようです。
やはり、教員として、誠意を持って今いる学生の教育をすること、
そしてそれを真摯に飽くことなく繰り返すことが
大学教員としての基本はないでしょうか。
それを当たり前でも、対外的に示すしかないのではないでしょうか。
良い教育のないところに、大学の存在意味がないのですから。
多分、これは理想論でしょうね。
2005年11月3日木曜日
1_53 新生代2:新しい生物の出現(2005.11.03)
地質時代シリーズの新生代の2回目です。今回は生物に起こった変化を見ていきましょう。
前回、新生代の特徴として、哺乳類の多様化・大型化、被子植物の多様化、寒冷化、人類の誕生の4つを挙げました。今回は、動物と植物で起こった変化みていきましょう。
新生代に入って生物に起こった変化の原因は、中生代末のK-T境界と呼ばれる隕石の衝突という事件によって、引き起こされた大絶滅でした。
隕石の衝突によって、中生代に繁栄していた多くの生物が絶滅しました。種(しゅ)の数で見ると、中生代に生きていた生物のなんと70パーセントが絶滅したと考えられています。個体数のデータはありませんが、個体数で見るともっと多くの絶滅が起こったはずです。つまり、地上の生物の数は、極端に少なくなっていたに違いありません。
中生代の陸上を支配していた恐竜も滅びました。海ではアンモナイトが絶滅し、海面近くで暮らす有孔虫という微生物の仲間もたくさん絶滅しました。
何とかこの危機を生き延びたももは、力が強かったわけではありません。大きかったからではありません。良い場所をたくさん占有していたものでありません。必ずしも強いものが生き延びたわけではないのです。生き残ったのは、隕石の衝突によって訪れた過酷な環境を、細々とでも、冬眠してでも、種としてでも、根としてでも、何でもいいから、少しの数でもいいから、生き延びたものたちだけでした。
突然に訪れた苛酷な環境は、回復して、もとの状態にもどっていきます。すると、そこには、海でも陸でも、ほとんど競争相手のいない自由に使える環境が広がっていることになります。生き延びた少数の種の少数の個体は、その環境を好きなように利用できるのです。
陸上で繁栄していたのは、動物では哺乳類、植物では被子植物でした。
哺乳類の祖先は、古生代には古いタイプのものはすでに誕生していました。中生代にも生きていましたが、恐竜の仲間が繁栄していたので、小さな体で、ほぞぼそ暮らしていました。新生代になり、恐竜の生き残りたちと競争をして勝ったのは、哺乳類でした。恐竜の生き残りたちは、陸地を追われ空を生活の場としました。それが鳥類です。やがて哺乳類が大繁栄をして、陸地の支配者になりました。そして海をも生活の場とするものまで生まれました。これは、恐竜がたどった道と同じでした。
植物でも交代劇はおこりました。中生代はイチョウやソテツなどの裸子植物が陸地を支配していました。花を咲かせる被子植物は中生代白亜紀に登場したのですが、新生代になって大繁栄します。
隕石の衝突による環境変化は一時的なものでした。衝突の影響から回復した新生代は、中生代の温暖な気候がまだ続いていました。温暖な環境の下で、哺乳類と被子植物は、繁栄していきました。南極にも熱帯林がみられるほどの暖かさでした。ですから地球の陸地のほとんどが温かい気候となり、生物たちはその中で進化しました。
ところが、約5500万年前の古第三紀初期から、地球の気候は寒冷化しいきます。それは、とどまることなく寒冷化の一途をたどります。寒冷化が始まって約4000万年前には、オーストラリア大陸が南極大陸から分裂します。約3000万年前には、南極大陸は氷で覆われるほど寒くなりました。
寒冷化によって、暖かいところから寒いところまで、陸地には多様な環境が生まれてきました。寒冷化によって生まれた多様な環境に、生物は適応していきました。その結果、生物の多様性を生み出しました。
新生代の気候変動については、次の機会としましょう。
・過ぎ行く秋・
北海道では、あちこちの山ですでに初雪の便りを聞きました。
まだ、私の住む里には初霜も初雪もありません。
今年の秋は、少し暖かいようです。
しかし、確実に季節は、冬に向かっています。
木によっては、紅葉が、もう盛り過ぎたものもあります。
先日、初雪前に飛ぶという雪虫の大量発生がありました。
私の家でも、冬に備えて、いろいろ変化がありました。
夏に使う網戸もはずしてしまいました。
家内が、漬物用の大根をたくさん買いました。
新しいスタットレスタイヤを購入しました。
こんな秋の光景を目にすると、季節の移ろいを感じます。
冬を目前にすると、過ぎ行く秋が惜しくなります。
・新メールマガジン・
再度、新しいメールマガジンの告知をします。
それは、「Terraの科学」というものです。
Terraに関する広範な内容を
深くそして多様な見方で紹介しようと考えています。
Terraとは「地球」という意味ですが、
この講義ではもっと広く地球に関係するすべてものととらえます。
大人も考えさせられ、子供にも分かる内容にします。
ぜひ、興味のある方はホームページをのぞいてください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、メールマガジンも発行しますので、登録する方は、
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
でお願いします。
「地球のささやき」のようなエッセイではなく、
大学で私が実際に行っている講義を同時進行でお送りします。
大学生レベルの内容ですが、
小学生や中学生でもわかるものを目指しています。
よろしくお願いします。
前回、新生代の特徴として、哺乳類の多様化・大型化、被子植物の多様化、寒冷化、人類の誕生の4つを挙げました。今回は、動物と植物で起こった変化みていきましょう。
新生代に入って生物に起こった変化の原因は、中生代末のK-T境界と呼ばれる隕石の衝突という事件によって、引き起こされた大絶滅でした。
隕石の衝突によって、中生代に繁栄していた多くの生物が絶滅しました。種(しゅ)の数で見ると、中生代に生きていた生物のなんと70パーセントが絶滅したと考えられています。個体数のデータはありませんが、個体数で見るともっと多くの絶滅が起こったはずです。つまり、地上の生物の数は、極端に少なくなっていたに違いありません。
中生代の陸上を支配していた恐竜も滅びました。海ではアンモナイトが絶滅し、海面近くで暮らす有孔虫という微生物の仲間もたくさん絶滅しました。
何とかこの危機を生き延びたももは、力が強かったわけではありません。大きかったからではありません。良い場所をたくさん占有していたものでありません。必ずしも強いものが生き延びたわけではないのです。生き残ったのは、隕石の衝突によって訪れた過酷な環境を、細々とでも、冬眠してでも、種としてでも、根としてでも、何でもいいから、少しの数でもいいから、生き延びたものたちだけでした。
突然に訪れた苛酷な環境は、回復して、もとの状態にもどっていきます。すると、そこには、海でも陸でも、ほとんど競争相手のいない自由に使える環境が広がっていることになります。生き延びた少数の種の少数の個体は、その環境を好きなように利用できるのです。
陸上で繁栄していたのは、動物では哺乳類、植物では被子植物でした。
哺乳類の祖先は、古生代には古いタイプのものはすでに誕生していました。中生代にも生きていましたが、恐竜の仲間が繁栄していたので、小さな体で、ほぞぼそ暮らしていました。新生代になり、恐竜の生き残りたちと競争をして勝ったのは、哺乳類でした。恐竜の生き残りたちは、陸地を追われ空を生活の場としました。それが鳥類です。やがて哺乳類が大繁栄をして、陸地の支配者になりました。そして海をも生活の場とするものまで生まれました。これは、恐竜がたどった道と同じでした。
植物でも交代劇はおこりました。中生代はイチョウやソテツなどの裸子植物が陸地を支配していました。花を咲かせる被子植物は中生代白亜紀に登場したのですが、新生代になって大繁栄します。
隕石の衝突による環境変化は一時的なものでした。衝突の影響から回復した新生代は、中生代の温暖な気候がまだ続いていました。温暖な環境の下で、哺乳類と被子植物は、繁栄していきました。南極にも熱帯林がみられるほどの暖かさでした。ですから地球の陸地のほとんどが温かい気候となり、生物たちはその中で進化しました。
ところが、約5500万年前の古第三紀初期から、地球の気候は寒冷化しいきます。それは、とどまることなく寒冷化の一途をたどります。寒冷化が始まって約4000万年前には、オーストラリア大陸が南極大陸から分裂します。約3000万年前には、南極大陸は氷で覆われるほど寒くなりました。
寒冷化によって、暖かいところから寒いところまで、陸地には多様な環境が生まれてきました。寒冷化によって生まれた多様な環境に、生物は適応していきました。その結果、生物の多様性を生み出しました。
新生代の気候変動については、次の機会としましょう。
・過ぎ行く秋・
北海道では、あちこちの山ですでに初雪の便りを聞きました。
まだ、私の住む里には初霜も初雪もありません。
今年の秋は、少し暖かいようです。
しかし、確実に季節は、冬に向かっています。
木によっては、紅葉が、もう盛り過ぎたものもあります。
先日、初雪前に飛ぶという雪虫の大量発生がありました。
私の家でも、冬に備えて、いろいろ変化がありました。
夏に使う網戸もはずしてしまいました。
家内が、漬物用の大根をたくさん買いました。
新しいスタットレスタイヤを購入しました。
こんな秋の光景を目にすると、季節の移ろいを感じます。
冬を目前にすると、過ぎ行く秋が惜しくなります。
・新メールマガジン・
再度、新しいメールマガジンの告知をします。
それは、「Terraの科学」というものです。
Terraに関する広範な内容を
深くそして多様な見方で紹介しようと考えています。
Terraとは「地球」という意味ですが、
この講義ではもっと広く地球に関係するすべてものととらえます。
大人も考えさせられ、子供にも分かる内容にします。
ぜひ、興味のある方はホームページをのぞいてください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、メールマガジンも発行しますので、登録する方は、
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
でお願いします。
「地球のささやき」のようなエッセイではなく、
大学で私が実際に行っている講義を同時進行でお送りします。
大学生レベルの内容ですが、
小学生や中学生でもわかるものを目指しています。
よろしくお願いします。
2005年10月27日木曜日
1_52 新生代1:時代区分(2005.10.27)
地質時代シリーズです。いよいよ新生代になります。まずは、新生代の概要から紹介しましょう。
新生代は、現在、古第三紀と新第三紀の2つに分けられています。古第三紀は6550万年前から2303万年前の間の時代、新第三紀は2303万年前から現在でです。
さらに、新第三紀は、古いほうから暁新世(6550万年前~5580万年前)、始新世(5580万年前~3390万年前)、漸新世(3390万年前~2303万年前)に区分され、古第三紀は、中新世(2303万年前~533.2万年前)、鮮新世(533.2万年前~180.6万年前)、更新世(180.6万年前~1.15万年前)、完新世(1.151万年前~現在)に区分されています。
ここまで読まれた方は、新生代は、まず、第三紀と第四紀に分かれるのじゃないの、と思われたでしょう。実は、国際的に地質年代区分を考える会議で、以前にあった第三紀と第四紀の区分は、2004年に正式に消えました。
上で述べた古第三紀と新第三紀は、仮の日本語名称です。古第三紀は英語ではPaleogene、新第三紀はNeogeneとして決められていますが、正式日本訳はありません。第三紀(Tertiary)という名称が消えたのですから、第三紀に新旧をつけて区分するのはおかしいことになります。しかし、ここでは旧名称のまま使いました。日本語訳を正式に決めるのは、日本地質学会ですが、学会でも議論や提案はありますが、まだ決定はされていません。
第四紀という言葉は、地質学だけでなく、いろいろな学問分野で使われています。学会名にも使われています。ですから急になくすことはできず、まだ名称としては残っています。しかし、国際的には、時代区分としては使わない方がいいとされています。一応あちこちで使われているので、新第三紀の一番新しい時代の呼び方として、260万年前~現在間を第四紀として暫定的に残されています。
時代区分はここまでにして、新生代の概要をみておきましょう。
中生代の末の大絶滅(K-T境界の事件)が起きました。また、中生代が温暖な時代であったの対して、新生代は寒冷化が起こりました。それら2つの原因によって、生物に大きな変化がありました。
新生代の特徴を挙げると、
・哺乳類の多様化、大型化
・被子植物の多様化
・寒冷化
・人類の誕生
となるのでしょう。
これについては、次回以降で詳しく紹介しましょう。
・新メールマガジンの発行・
新しいメールマガジンを発行します。
これは、「Terraの科学(Part2)」というものです。
Terraに関する広範な内容を
深くそして多様な見方で紹介しようと考えています。
Terraとは「地球」という意味ですが、
この講義ではもっと広く地球に関係するすべてものととらえます。
広くしかし深くTerraを見ます。
奇抜にでも納得できる見方を示します。
大人も考えさせられ、子供にも分かる内容にします。
Terraに関する永遠の疑問にも答えることもできます。
ぜひ、興味のある方はホームページをのぞいてください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、メールマガジンも発行しますので、登録する方は、
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
でお願いします。
「地球のささやき」のようなエッセイではなく、
大学で私が実際に行っている講義を同時進行でお送りします。
大学生レベルの内容ですが、
小学生や中学生でもわかるものを目指しています。
そころで、Part2というからには、Part1があるはずです。
実は、以前、2年間に及ぶ毎週の「Terraの科学」を行いました。
今度は、Part2として、
・メールマガジン
・ホームページ
に加えて、
・音声と動くカーソルによる講義のファイル
も同時にお送りします。
より本物の講義に近いものになります。
内容はPart1と重複することあります。
しかし、多くの点で進歩していると思います。
受講する人は、専用プレーヤーをインストールする必要があります。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/player.html
一度インストールしたら、
あとは、ダウンロードしたファイルをダブルクリックするだけで
自動再生ができます。
ソフトのバージョンアップも自動でおこえます。
詳しくはホームページを参照ください。
・人との出会い・
新しいメールマガジンの講義ファイルは、
PC Letterというソフトを使って作成しています。
私がこのソフトを初めてインターネットで出会ったときは、感動しました。
それは、2005年の4月8日のことでした。
伝えたい内容を、直接にわかりやすく、伝えられるものであること
非常に有効であることを感じました。
まさに「百聞は一見にしかず」を身をもって経験しました。
このPC Letterというソフトを、私は自分が現在取り組んでいる
ITを用いた科学教育に利用できないかと考えました。
どんなに良いソフトでも金額的に高ければ利用することができません。
それと、このソフトの仕様のままでは、
私のやりたいことができないと感じていました。
ですから、安くてな、おかつ仕様の改造可能かどうかが問題となりました。
調べてみるために、ソフトの製作者にコンタクトすることにしました。
まずは問題の価格も個人のポケットマネーで払える程度でした。
とりあえずは導入可能であることが分かりました。
こんなすごいソフトの製作者は、
なんと北海道の襟裳岬に近い浦河町にある
三栄堂という小さな電気屋さんを営む三上博正とその甥子さんでした。
地方からもいいものが生まれるという証拠を見ました。
早速私は、このソフトの試用をお願いしたところ、
快くソフトを提供いただきました。
ところがこのソフトはインタネットを利用するため
大学のセキュリティと私のセキュリティソフトのトラブルのため、
なかなか動くようになりませんでした。
普通なら、トラブルが長く続くようなソフトは
すぐにあきらめてしたでしょうしょう。
しかし、このソフトが自分のやりたいことを実現してくれそうなので、
何度もめげそうになりながら、
なんとか動くようにしたいと粘っていました。
三上さんにも何度も連絡を取り
対処の方法をお尋ねしました。
三上さんたちも大学にまで2度も出向いてくれました。
その結果、やっと動くようになりました。
作る側になって、このソフトのもつ潜在能力をますます感じました。
そして、あつかましくも、私は自分のやりたいことを説明して、
それに使えるようにソフトの仕様の改良をお願いしました。
そんな希望に対しても三上さんは快く応じてくださいました。
それが今回のメールマガジンをはじめるきっかけとなりました。
大学の研究費を工面して、心ばかりですが、ソフト改良代としました。
まだ、このソフトはバージョン1になっていません。
日々改良されているということです。
このような好意に対して私のできることは、
やはり私にできることで最大限の誠意を示すことです。
私がもともとこのソフトに魅力を感じたのは
科学教育に利用することです。
ですから、このソフトを利用して
質のいいコンテンツをつくり上げることだと思います。
それが最終的に、このソフトのよさを宣伝することになるのだと思いました。
私は、三上さんとの出会って良かったと思っています。
なぜなら、自分と同じように
地方で独力でがんばっていることに共感を覚えたからです。
そして良いものは、都会でも地方でもハンディはないということです。
優れているものは、都会の大手企業が宣伝費と使えば
利用者を爆発的に増やすことできるかもしれません。
たとえ人数が少なくても、
本当に必要としている人には、本当に使っている人には、
その良さはきっと分かるはずです。
私が地方で孤立無援で新たしい学問である
地質学や科学教育、地質哲学にがんばっていけるのは、
そのような背景があるからです。
いや、そのような背景があるのなら
雑音や雑用、誘惑の多い都会より、
田舎のほうが開発環境がいいかもしれません。
私と三上さんは分野や手法は違うのですが、
考え方に共通するものがあります。
本当にいい出会いがあったと思っています。
新生代は、現在、古第三紀と新第三紀の2つに分けられています。古第三紀は6550万年前から2303万年前の間の時代、新第三紀は2303万年前から現在でです。
さらに、新第三紀は、古いほうから暁新世(6550万年前~5580万年前)、始新世(5580万年前~3390万年前)、漸新世(3390万年前~2303万年前)に区分され、古第三紀は、中新世(2303万年前~533.2万年前)、鮮新世(533.2万年前~180.6万年前)、更新世(180.6万年前~1.15万年前)、完新世(1.151万年前~現在)に区分されています。
ここまで読まれた方は、新生代は、まず、第三紀と第四紀に分かれるのじゃないの、と思われたでしょう。実は、国際的に地質年代区分を考える会議で、以前にあった第三紀と第四紀の区分は、2004年に正式に消えました。
上で述べた古第三紀と新第三紀は、仮の日本語名称です。古第三紀は英語ではPaleogene、新第三紀はNeogeneとして決められていますが、正式日本訳はありません。第三紀(Tertiary)という名称が消えたのですから、第三紀に新旧をつけて区分するのはおかしいことになります。しかし、ここでは旧名称のまま使いました。日本語訳を正式に決めるのは、日本地質学会ですが、学会でも議論や提案はありますが、まだ決定はされていません。
第四紀という言葉は、地質学だけでなく、いろいろな学問分野で使われています。学会名にも使われています。ですから急になくすことはできず、まだ名称としては残っています。しかし、国際的には、時代区分としては使わない方がいいとされています。一応あちこちで使われているので、新第三紀の一番新しい時代の呼び方として、260万年前~現在間を第四紀として暫定的に残されています。
時代区分はここまでにして、新生代の概要をみておきましょう。
中生代の末の大絶滅(K-T境界の事件)が起きました。また、中生代が温暖な時代であったの対して、新生代は寒冷化が起こりました。それら2つの原因によって、生物に大きな変化がありました。
新生代の特徴を挙げると、
・哺乳類の多様化、大型化
・被子植物の多様化
・寒冷化
・人類の誕生
となるのでしょう。
これについては、次回以降で詳しく紹介しましょう。
・新メールマガジンの発行・
新しいメールマガジンを発行します。
これは、「Terraの科学(Part2)」というものです。
Terraに関する広範な内容を
深くそして多様な見方で紹介しようと考えています。
Terraとは「地球」という意味ですが、
この講義ではもっと広く地球に関係するすべてものととらえます。
広くしかし深くTerraを見ます。
奇抜にでも納得できる見方を示します。
大人も考えさせられ、子供にも分かる内容にします。
Terraに関する永遠の疑問にも答えることもできます。
ぜひ、興味のある方はホームページをのぞいてください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、メールマガジンも発行しますので、登録する方は、
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
でお願いします。
「地球のささやき」のようなエッセイではなく、
大学で私が実際に行っている講義を同時進行でお送りします。
大学生レベルの内容ですが、
小学生や中学生でもわかるものを目指しています。
そころで、Part2というからには、Part1があるはずです。
実は、以前、2年間に及ぶ毎週の「Terraの科学」を行いました。
今度は、Part2として、
・メールマガジン
・ホームページ
に加えて、
・音声と動くカーソルによる講義のファイル
も同時にお送りします。
より本物の講義に近いものになります。
内容はPart1と重複することあります。
しかし、多くの点で進歩していると思います。
受講する人は、専用プレーヤーをインストールする必要があります。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/player.html
一度インストールしたら、
あとは、ダウンロードしたファイルをダブルクリックするだけで
自動再生ができます。
ソフトのバージョンアップも自動でおこえます。
詳しくはホームページを参照ください。
・人との出会い・
新しいメールマガジンの講義ファイルは、
PC Letterというソフトを使って作成しています。
私がこのソフトを初めてインターネットで出会ったときは、感動しました。
それは、2005年の4月8日のことでした。
伝えたい内容を、直接にわかりやすく、伝えられるものであること
非常に有効であることを感じました。
まさに「百聞は一見にしかず」を身をもって経験しました。
このPC Letterというソフトを、私は自分が現在取り組んでいる
ITを用いた科学教育に利用できないかと考えました。
どんなに良いソフトでも金額的に高ければ利用することができません。
それと、このソフトの仕様のままでは、
私のやりたいことができないと感じていました。
ですから、安くてな、おかつ仕様の改造可能かどうかが問題となりました。
調べてみるために、ソフトの製作者にコンタクトすることにしました。
まずは問題の価格も個人のポケットマネーで払える程度でした。
とりあえずは導入可能であることが分かりました。
こんなすごいソフトの製作者は、
なんと北海道の襟裳岬に近い浦河町にある
三栄堂という小さな電気屋さんを営む三上博正とその甥子さんでした。
地方からもいいものが生まれるという証拠を見ました。
早速私は、このソフトの試用をお願いしたところ、
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大学のセキュリティと私のセキュリティソフトのトラブルのため、
なかなか動くようになりませんでした。
普通なら、トラブルが長く続くようなソフトは
すぐにあきらめてしたでしょうしょう。
しかし、このソフトが自分のやりたいことを実現してくれそうなので、
何度もめげそうになりながら、
なんとか動くようにしたいと粘っていました。
三上さんにも何度も連絡を取り
対処の方法をお尋ねしました。
三上さんたちも大学にまで2度も出向いてくれました。
その結果、やっと動くようになりました。
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そして、あつかましくも、私は自分のやりたいことを説明して、
それに使えるようにソフトの仕様の改良をお願いしました。
そんな希望に対しても三上さんは快く応じてくださいました。
それが今回のメールマガジンをはじめるきっかけとなりました。
大学の研究費を工面して、心ばかりですが、ソフト改良代としました。
まだ、このソフトはバージョン1になっていません。
日々改良されているということです。
このような好意に対して私のできることは、
やはり私にできることで最大限の誠意を示すことです。
私がもともとこのソフトに魅力を感じたのは
科学教育に利用することです。
ですから、このソフトを利用して
質のいいコンテンツをつくり上げることだと思います。
それが最終的に、このソフトのよさを宣伝することになるのだと思いました。
私は、三上さんとの出会って良かったと思っています。
なぜなら、自分と同じように
地方で独力でがんばっていることに共感を覚えたからです。
そして良いものは、都会でも地方でもハンディはないということです。
優れているものは、都会の大手企業が宣伝費と使えば
利用者を爆発的に増やすことできるかもしれません。
たとえ人数が少なくても、
本当に必要としている人には、本当に使っている人には、
その良さはきっと分かるはずです。
私が地方で孤立無援で新たしい学問である
地質学や科学教育、地質哲学にがんばっていけるのは、
そのような背景があるからです。
いや、そのような背景があるのなら
雑音や雑用、誘惑の多い都会より、
田舎のほうが開発環境がいいかもしれません。
私と三上さんは分野や手法は違うのですが、
考え方に共通するものがあります。
本当にいい出会いがあったと思っています。
2005年10月20日木曜日
4_65 古戦場の静内川へ
10月の連休に北海道の静内川に出かけました。丸一日、静内川を遡りながら調査をするつもりでしたが、残念ながら目的は果たせませんでした。そのときに感じたことを紹介しましょう。
四半世紀も前になりますが、私が卒業論文で調査をした地が、日高山脈のカムイエクウチカウシ山に源流をもつ静内川でした。カムイエクウチカウシ山の標高は1979mです。奇しくも、その1979年に私は、この静内川流域で3ヶ月間滞在して地質調査をしました。
当時、高見ダム建設の真最中で、ダム予定地付近では、大規模な土木工事がおこなわれていました。山奥なので、街まで2、3時間かかります。通っていては時間のロスとなります。ですから、労働者たちは住み込みの飯場で生活をしていました。大変な数の労働者なので、多くの飯場があり、ガソリンスタンドも店もあり、ちょっとした村ともいうべき場所が出現していました。私は、そんな飯場群の一番上流のところに3ヶ月間、お世話になって、寝泊りすることにして、調査をしました。
いくらたくさんの人がいるといっても、工事現場のダムサイトから離れるとそこは、日高山脈の奥地です。ですから、人跡のほとんどない沢を、一人で黙々と調査しました。最初は一人で沢を歩くとが怖かったのですが、しばらくすること、一人で歩くこと、一人で調査することの楽しさが分かってきました。ヒグマやエゾシカ、エゾクロテンなどに出会うと恐ろしくもあり、楽しくもありました。
そして、この3ヶ月に及ぶ野外調査が、私に地質学のすばらしさを教えてくれ、一生の仕事として今も縁があります。
私にとって古戦場ともいうべき静内川を再訪するために、10月の連休にでかけました。私は、今、地質学と哲学、教育学の狭間をテーマにしてい研究しています。それをライフワークにしようと考えています。しかし、成果がなかなかあがりません。そんな自分自身を見つめなおすために、私にとって学問を目指す原点となった地にもどろうと考えました。そして、そこで感じたことを、今後の自分のライフワークの参考にしようと考えていました。
静内川沿いには、かつて日高横断スーパー林道の予定地があります。日高横断スーパー林道を造るか造らないで議論があり、結局は造らないという結論になりました。その道を行けば、自分の調査したところが一日で見て回れるはずでした。自分の書いた卒論を読み返して、携えてでかけました。
実際に行ってみると、高見ダムより下流にある静内ダムで通行止めとなっていました。落石が危険なためと書いてありました。私が調査した地には、残念ながら、入ることができませんでした。未練があったのですが、静内ダムより下流の川原を調査しならが、帰途に着きました。
調査地より下流の川原で、自分の調べていた石ころを手にしながら、見ることのかなわなかった上流の調査を思いました。そして、過去を振り返ることはないのだ、未来をみて進むことを考えればいいのだと悟りました。
静内川の下流近くの川原を調査しているとき、本流から分かれた小さいな流れにサケが遡上して産卵している場所を見かけました。今まで、秋に北海道の川を調査すると、サケの遡上は良く見かけました。しかし、産卵をする光景は始めてみました。感動してしばらく立って見入っていました。
産卵に適した場所を何度も回りながら泳ぐメスの周りを、ガードするように一匹のオスが回っています。時々来る別のオスを追い払いながら、傷だらけのオスがメスを守ります。メスは砂利の川底を時々尾びれで掘り返しています。オスは、時々メスに産卵を促します。そんな繰り返しが延々と続いていました。実際の産卵するまでには長い時間がかかるようなので、30分ほど見ていたのですが、あきらめて帰りました。
流れる時間には攻し難きものがあります。私はそんな過去を顧みるために静内川の古戦場に戻りました。結局はいくつくことができませんでしたが、サケの産卵現場をみて、それでいいのだと思いました。
産卵現場の少し川下には多数のサケの死体がありました。それを食べる鳥たちがたくさんきていました。サケは死してなお、自然への恵みとなります。自然の生き物は、このように時の流れの中で、自分の役割を果たして死んでいきます。私も、自分の選択を信じて、時の流れに乗り、過去を振り返ることなく、前を見て進もうと考えました。
・川らしい川・
静内川は二級河川です。
もちろん治水工事は各所でなされています。
しかし、いい川原があれば、
そこに行くことができました。
ある沢の合流の出会いでは、
広々とした川原が広がっていました。
非常に気持ちのよい川原でした。
別のところでも広い川原があり、昼食をとりました。
久しぶりに川原らしい川原をいくつも見ました。
こんな当たり前の自然の川原を
北海道でも今までなかなか見ることができませんでした。
そのためストレスがたまっていたのですが、
今回の静内川で、川らしい川を見て
今までのストレスを晴らすことができました。
やはり静内川は私にとって
新たな心がまえを与えくれました。
・古戦場へ・
なぜ古戦場へいくことを思い立ったのかというと、
それは地質学者の巽好幸さんが書かれた
「安山岩と大陸の起源 ローカルからグローバルへ」
という本の最後に、こんな言葉が書かれていました。
「もっとたくさんの課題があるに違いない。
人生は無限に続く訳ではないのだから、
より効率的に、そしてしっかりと物事を進めていくために、
少し冷静になって考えてみたいと思っている。
そのためにも、私はこの本を抱えて、
もう一度小豆島を訪れるつもりでいる。」
小豆島は、巽さんが卒業論文で調査されたところです。
私もこの言葉に刺激されたのです。
一流の研究者と私とでは、
やはり能力も行動力も違うのでしょう。
私には、天も味方しませんでした。
でも、古戦場の川は、過去より未来を、
今流れている時間を精一杯に生き抜くことの
大切さ教えてくれました。
四半世紀も前になりますが、私が卒業論文で調査をした地が、日高山脈のカムイエクウチカウシ山に源流をもつ静内川でした。カムイエクウチカウシ山の標高は1979mです。奇しくも、その1979年に私は、この静内川流域で3ヶ月間滞在して地質調査をしました。
当時、高見ダム建設の真最中で、ダム予定地付近では、大規模な土木工事がおこなわれていました。山奥なので、街まで2、3時間かかります。通っていては時間のロスとなります。ですから、労働者たちは住み込みの飯場で生活をしていました。大変な数の労働者なので、多くの飯場があり、ガソリンスタンドも店もあり、ちょっとした村ともいうべき場所が出現していました。私は、そんな飯場群の一番上流のところに3ヶ月間、お世話になって、寝泊りすることにして、調査をしました。
いくらたくさんの人がいるといっても、工事現場のダムサイトから離れるとそこは、日高山脈の奥地です。ですから、人跡のほとんどない沢を、一人で黙々と調査しました。最初は一人で沢を歩くとが怖かったのですが、しばらくすること、一人で歩くこと、一人で調査することの楽しさが分かってきました。ヒグマやエゾシカ、エゾクロテンなどに出会うと恐ろしくもあり、楽しくもありました。
そして、この3ヶ月に及ぶ野外調査が、私に地質学のすばらしさを教えてくれ、一生の仕事として今も縁があります。
私にとって古戦場ともいうべき静内川を再訪するために、10月の連休にでかけました。私は、今、地質学と哲学、教育学の狭間をテーマにしてい研究しています。それをライフワークにしようと考えています。しかし、成果がなかなかあがりません。そんな自分自身を見つめなおすために、私にとって学問を目指す原点となった地にもどろうと考えました。そして、そこで感じたことを、今後の自分のライフワークの参考にしようと考えていました。
静内川沿いには、かつて日高横断スーパー林道の予定地があります。日高横断スーパー林道を造るか造らないで議論があり、結局は造らないという結論になりました。その道を行けば、自分の調査したところが一日で見て回れるはずでした。自分の書いた卒論を読み返して、携えてでかけました。
実際に行ってみると、高見ダムより下流にある静内ダムで通行止めとなっていました。落石が危険なためと書いてありました。私が調査した地には、残念ながら、入ることができませんでした。未練があったのですが、静内ダムより下流の川原を調査しならが、帰途に着きました。
調査地より下流の川原で、自分の調べていた石ころを手にしながら、見ることのかなわなかった上流の調査を思いました。そして、過去を振り返ることはないのだ、未来をみて進むことを考えればいいのだと悟りました。
静内川の下流近くの川原を調査しているとき、本流から分かれた小さいな流れにサケが遡上して産卵している場所を見かけました。今まで、秋に北海道の川を調査すると、サケの遡上は良く見かけました。しかし、産卵をする光景は始めてみました。感動してしばらく立って見入っていました。
産卵に適した場所を何度も回りながら泳ぐメスの周りを、ガードするように一匹のオスが回っています。時々来る別のオスを追い払いながら、傷だらけのオスがメスを守ります。メスは砂利の川底を時々尾びれで掘り返しています。オスは、時々メスに産卵を促します。そんな繰り返しが延々と続いていました。実際の産卵するまでには長い時間がかかるようなので、30分ほど見ていたのですが、あきらめて帰りました。
流れる時間には攻し難きものがあります。私はそんな過去を顧みるために静内川の古戦場に戻りました。結局はいくつくことができませんでしたが、サケの産卵現場をみて、それでいいのだと思いました。
産卵現場の少し川下には多数のサケの死体がありました。それを食べる鳥たちがたくさんきていました。サケは死してなお、自然への恵みとなります。自然の生き物は、このように時の流れの中で、自分の役割を果たして死んでいきます。私も、自分の選択を信じて、時の流れに乗り、過去を振り返ることなく、前を見て進もうと考えました。
・川らしい川・
静内川は二級河川です。
もちろん治水工事は各所でなされています。
しかし、いい川原があれば、
そこに行くことができました。
ある沢の合流の出会いでは、
広々とした川原が広がっていました。
非常に気持ちのよい川原でした。
別のところでも広い川原があり、昼食をとりました。
久しぶりに川原らしい川原をいくつも見ました。
こんな当たり前の自然の川原を
北海道でも今までなかなか見ることができませんでした。
そのためストレスがたまっていたのですが、
今回の静内川で、川らしい川を見て
今までのストレスを晴らすことができました。
やはり静内川は私にとって
新たな心がまえを与えくれました。
・古戦場へ・
なぜ古戦場へいくことを思い立ったのかというと、
それは地質学者の巽好幸さんが書かれた
「安山岩と大陸の起源 ローカルからグローバルへ」
という本の最後に、こんな言葉が書かれていました。
「もっとたくさんの課題があるに違いない。
人生は無限に続く訳ではないのだから、
より効率的に、そしてしっかりと物事を進めていくために、
少し冷静になって考えてみたいと思っている。
そのためにも、私はこの本を抱えて、
もう一度小豆島を訪れるつもりでいる。」
小豆島は、巽さんが卒業論文で調査されたところです。
私もこの言葉に刺激されたのです。
一流の研究者と私とでは、
やはり能力も行動力も違うのでしょう。
私には、天も味方しませんでした。
でも、古戦場の川は、過去より未来を、
今流れている時間を精一杯に生き抜くことの
大切さ教えてくれました。
2005年10月13日木曜日
4_64 石狩川の源流へ
9月下旬の連休に、石狩川の上流を目指しました。石狩川の源流である石狩岳に、できるだけ近づきたいと考えて出かけました。
北海道を代表する石狩川は、アイヌ語が語源だとされています。いくつかの説があるようですが、「非常にまがりくねった川」を意味する「イ・シカラ・ペツ」というアイヌ語が語源だといわれています。
石狩川の源流は、標高1967mの石狩岳です。石狩岳は、大雪山系から東に延びる石狩山地の中にあり、主峰ともいうべき位置にあります。石狩岳に端を発した石狩川は、大雪山を反時計回りに流れながら、旭川、深川、滝川、岩見沢、江別を抜け、石狩で日本海に出ます。全長268kmに及ぶ大河です。
長さでみると石狩川は、日本では3番目の長さで、北海道では一番長い川です。日本で第一位が367kmの信濃川、第二位が322kmの利根川です。ここに示した川の長さは、現在ものです。
石狩川は、もともとの人手が入る前の状態では、語源どおり、激しく蛇行していたため、356kmもありました。第一位の信濃川に次ぐ長さでした。しかし、明治から開拓が始まると、治水事業として、蛇行を短絡してまっすぐにする工事がおこなわれました。その結果、88kmも短くなりました。現在も治水工事は続いています。
私は、北海道に13個ある一級河川を調べています。中でも石狩川が長く、自宅の近くにあるので、よく調べています。しかし、なかなか源流へは出かけることができませんでした。そこで、思い切って今年の9月下旬の連休にでかけました。
連休の初日は雨でした。調査もできないで、層雲峡でうろうろしていたのですが、夕方近くになって雨が上がったので、下見をかねて、石狩川源流に向けて出かけました。層雲峡を抜けて、石北峠に向かう国道39号線から左に別れ、次いで三国峠に向かう国道273号とも分かれ左に進みます。そこからは林道です。
下見のつもりで途中までいって、いい川原を見つけたので調査をしました。その日は暗くなったので、それより奥に行くことなく帰りました。翌日は大雪山の黒岳に登る予定だったので、翌々日にもう一度、もっと上流まで調査に入るつもりでした。
翌々日に再度出かけたとき、驚きました。上流に入る林道は通行規制がされていました。大雪山の山腹に大雪高原温泉があるのですが、そこまでマイカーがたくさん入り、事故も起こるのでしょう。国道脇の駐車場にマイカーをとめて、そこから先はバスで温泉までいくことになります。
下見に行った日は、天気が悪く観光客もいないので、通行規制が解除されていていたようです。通行規制を知らせる看板があったのですが、解除という張り紙がしてあったので、もう規制の期間は終わったのだろうと思い込んでいました。
調査するつもりの日は、天気もよく、駐車場には多くの車やバスがとめてありました。バスで温泉に行ったのでは、調査になりません。ですからあきらめました。でも、いつの日にか、石狩川の源流の調査をしてみたいものです。
・源流へ・
私が石狩川の源流の調査を渋っていたのは、
層雲峡が有数の観光地で、
なかなか安い宿が取れないのと、
人が多いことが理由でした。
石狩川源流への旅は、
9月23日から25日の連休でした。
早めにペンションを予約しておき、出かけました。
予想通り紅葉シーズンで
多くの観光バスが層雲峡には来ていました。
源流へはいけなかったのですが、
上流の各所で調査はしました。
しかし、できればなんとか再度出かけて
念願の源流をたどりつきたいものです。
・渡り鳥・
山の上の方は9月下旬ですが
紅葉が始まっていました。
私が登った黒岳には、
9月20日には初雪が観測されていました。
先日朝大学に着くと
空からカモの鳴き声がしました。
見上げると快晴の秋空を
南に向かって渡り鳥が飛んできました。
彼らは季節の変わり目を忘れることなく
移動を続けています。
季節や自然は人の思いとはかかわりなく流れていきます。
北海道を代表する石狩川は、アイヌ語が語源だとされています。いくつかの説があるようですが、「非常にまがりくねった川」を意味する「イ・シカラ・ペツ」というアイヌ語が語源だといわれています。
石狩川の源流は、標高1967mの石狩岳です。石狩岳は、大雪山系から東に延びる石狩山地の中にあり、主峰ともいうべき位置にあります。石狩岳に端を発した石狩川は、大雪山を反時計回りに流れながら、旭川、深川、滝川、岩見沢、江別を抜け、石狩で日本海に出ます。全長268kmに及ぶ大河です。
長さでみると石狩川は、日本では3番目の長さで、北海道では一番長い川です。日本で第一位が367kmの信濃川、第二位が322kmの利根川です。ここに示した川の長さは、現在ものです。
石狩川は、もともとの人手が入る前の状態では、語源どおり、激しく蛇行していたため、356kmもありました。第一位の信濃川に次ぐ長さでした。しかし、明治から開拓が始まると、治水事業として、蛇行を短絡してまっすぐにする工事がおこなわれました。その結果、88kmも短くなりました。現在も治水工事は続いています。
私は、北海道に13個ある一級河川を調べています。中でも石狩川が長く、自宅の近くにあるので、よく調べています。しかし、なかなか源流へは出かけることができませんでした。そこで、思い切って今年の9月下旬の連休にでかけました。
連休の初日は雨でした。調査もできないで、層雲峡でうろうろしていたのですが、夕方近くになって雨が上がったので、下見をかねて、石狩川源流に向けて出かけました。層雲峡を抜けて、石北峠に向かう国道39号線から左に別れ、次いで三国峠に向かう国道273号とも分かれ左に進みます。そこからは林道です。
下見のつもりで途中までいって、いい川原を見つけたので調査をしました。その日は暗くなったので、それより奥に行くことなく帰りました。翌日は大雪山の黒岳に登る予定だったので、翌々日にもう一度、もっと上流まで調査に入るつもりでした。
翌々日に再度出かけたとき、驚きました。上流に入る林道は通行規制がされていました。大雪山の山腹に大雪高原温泉があるのですが、そこまでマイカーがたくさん入り、事故も起こるのでしょう。国道脇の駐車場にマイカーをとめて、そこから先はバスで温泉までいくことになります。
下見に行った日は、天気が悪く観光客もいないので、通行規制が解除されていていたようです。通行規制を知らせる看板があったのですが、解除という張り紙がしてあったので、もう規制の期間は終わったのだろうと思い込んでいました。
調査するつもりの日は、天気もよく、駐車場には多くの車やバスがとめてありました。バスで温泉に行ったのでは、調査になりません。ですからあきらめました。でも、いつの日にか、石狩川の源流の調査をしてみたいものです。
・源流へ・
私が石狩川の源流の調査を渋っていたのは、
層雲峡が有数の観光地で、
なかなか安い宿が取れないのと、
人が多いことが理由でした。
石狩川源流への旅は、
9月23日から25日の連休でした。
早めにペンションを予約しておき、出かけました。
予想通り紅葉シーズンで
多くの観光バスが層雲峡には来ていました。
源流へはいけなかったのですが、
上流の各所で調査はしました。
しかし、できればなんとか再度出かけて
念願の源流をたどりつきたいものです。
・渡り鳥・
山の上の方は9月下旬ですが
紅葉が始まっていました。
私が登った黒岳には、
9月20日には初雪が観測されていました。
先日朝大学に着くと
空からカモの鳴き声がしました。
見上げると快晴の秋空を
南に向かって渡り鳥が飛んできました。
彼らは季節の変わり目を忘れることなく
移動を続けています。
季節や自然は人の思いとはかかわりなく流れていきます。
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