2026年1月29日木曜日

3_230 大絶滅を起こした隕石 3:論争

 斉一説、それを元にした進化論は、発表当時には、社会や学界から激しく批判されました。それらは、やがて受け入れられ、科学的方法論やその概念が、現在の科学の基礎となっていきました。


 教義に則った激変説と科学的方法論による斉一説との論争は、イギリスとフランスで激しく起こりました。その様子を少し見ていきましょう。
 イギリスでも、当然ながら、当時は地質学者も激変説を信じていました。斉一説は、18世紀末にハットン(1726~1797)が最初に唱え、その考え方は「現在は過去の鍵である」といわれていました。その後、ライエル(1797~1875)も、詳細な地質現象をもとに、斉一説に基づいて大著をしたためました。
 ダーウィン(1809~1882)も、ライエルの著書をビーグル号に乗っている時に入手して、斉一説の存在を知り、受け入れていました。ダーウィンは、自然淘汰という現象の積み重ねで、生物は進化してきたと考え、1859年に「種の起源」で進化論を提唱しました。進化論には、長い時間が必要になります。地質学的な斉一説を受け入れれば、聖書に示された時間(6000年程度)より、もっと長い時間が、地球には流れていたことを意味しました。
 ダーウィンの進化論は、「種の起源」出版直後から、かなり話題になりました。しかし、宗教界からも、恩師(アダム・セジウィック)や科学界からも激しい批判を受けました。ダーウィンは、その批判や書評に敏感になり、第2版では修正を加えています。
 ダーウィンは、公開の場での討論は避けました。その討論の代役をかってでたのが、ハクスリーで「ダーウィンのブルドッグ」とも呼ばれていました。もちろん、一部の地質学者や生物学者、若い人からの支持はあり、やがては科学界に受け入れられていきました。
 フランスでは、キュビエとラマルクが。生物進化について論争していました。キュビエ(1769~1832)は、各地から産する動物化石、とくに脊椎動物化石を研究し、「比較解剖学」の手法を確立しました。そのため、脊椎動物古生物学の祖ともいわれています。キュビエは、激変説によって古生物の変化を説明しました。
 キュビエは、生物は進化しないと考えていました。何千年前にも、犬、猫、人間はいるが骨格の変異も進化もしておらず、変種でさえ骨格は近似していることを比較解剖学で示しました。斉一説に対して、化石種から見られるように絶滅種は多数存在するが、生物連鎖(生物進化)があるなら、なぜ絶滅があり、連鎖が途切れているのかという批判をしました。
 一方、ラマルク(1744~1829)は、斉一説で生物進化を考えました。無脊椎動物化石の研究から、生物は無生物から自然発生し、単純なものから、複雑なものへと「前進」する、つまり進化してきたと考えました。自然界には、発生時期の違いによって、発展段階の違うものが階層的に存在すると考えていました。生物は、現在用いている器官(キリンの首)が、必要に応じて(高い木の葉を食べる)、優位に働く(首が長い)であれば、それが子孫に遺伝すると考え、「用不用説」の提唱しました。獲得形質(使って変化した形)が遺伝するという考えでした。
 キュビエの考えは、当時は多くの支持を受けていたのですが、ラマルクやライエルに反対され、やがて斉一説を受け入れました。ダーウィンにも影響を受け、進化説も受入れることになりました。

・大雪・
先週末には、全国的寒波や大雪で
大混乱となりました。
今回の寒波は厳しいものでした。
雪に慣れている北海道でも、
混乱はおきました。
わが町より、札幌の方に雪雲が伸びて
大雪となりました。
幸い日曜日だったので、
交通量が少なかったのが幸いでした。
交通の乱れは、しばらく続きました。

・影響や乱れ・
大学は月曜日は大雪のため、
一日休講となりました。
月曜日から、後期の定期試験期間に入るため
試験日がずれることになりました。
どうなるかは別途、連絡があるのでしょう。
このメールマガジンは月曜日の朝に
予約配信しています。
そのため火曜日以降の状況はわかりませんが、
これで寒波や大雪が
一段落すればいいのですが。

2026年1月22日木曜日

3_229 大絶滅を起こした隕石 2:造形力説

 現在の科学は斉一説に基づいて進められているので、地層も、化石のでき方も現在の現象や生物をもとに考えられていきます。では、中世から近世のキリスト教が支配的な世界では、どのように考えられていたのでしょうか。


 中世から近世のキリスト教が支配的な世界では、聖書に記載された内容が正しいと信じられていました。自然現象も、聖書に書かれていることで説明されてきました。
 創世記には、生物の出現も多様な生物も、神がつくったと書かれていました。地層の形成も、生物の絶滅も、聖書にあるノアの洪水のような天変地異で説明されてきました。
 科学的知見が増えてくると、地層の中から見つかる化石は、多様で、現在はいないような形態の化石も、多数見つかってきました。地層の順に、化石の形態が変化していくこともわかってきました。このような化石の多様性や変化は、聖書の中の出来事だけでは説明できませんでした。
 自然に内在する「造形力(形成力)」という神秘的な作用があったと考えられました。これは、神が、混沌から秩序をもたらし、生物や人間に固有の形を与えるという考えです。生物の形態は、造形力によって、一定の秩序や方向性をもって生み出されると説明されました。化石も、造形力の表現様式の一環で、石が生命の形を模して石化し、成長したと考えられます。地層内の生物種の消滅(絶滅)も様式の転換として説明されてきました。
 造形力説であれば、神秘的な作用で、化石や生物の形態の変化など、どのような形態や、どのような形態変化も説明できました。造形力説で、生物や化石の問題は解決できそうでした。しかし、造形力自体の解明は困難でした。
 ところが、問題はまだありました。それは時間でした。聖書に書かれている時間は、天地創造が今から6000年ほと前で、地球の歴史は、それ以降にすべて起こっていなければなりませんでした。
 科学が発展してくると、斉一説が生まれてきました。斉一説とは、地質現象は、現在見られる自然現象の集積によって進んでいくという、ごく素直な考えでした。
 例えば、河川が氾濫したら、川に堆積していた土砂が一気に海に流れ込み、海底に堆積します。洪水は稀な現象ですが、数十年、数百年に一度は起こります。ただし、この洪水という稀な現象は、人間にとってであり、地球の時間にとっては、「しょっちゅう」起こっている現象となります。海底には、このような堆積物が繰り返し溜まっていきます。山をつくっている地層の存在は、地球には非常に長い時間が流れていたことを意味しています。
 斉一説では、造形力のような神秘的な作用ではなく、化石の多様性や変化も説明できました。山をつくっている地層中に貝化石には、現在の海に生きている貝に似ているものもあります。もともとは海で生きていた貝が、土砂が洪水にで海底に運ばれた時、貝も土砂に埋まったと考えれば、山の地層内の化石も説明できます。
 斉一説に従えば、地層も化石も、現在起こっている自然現象によって説明できます。斉一説で地層や化石の形成を考えるには長い時間が必要となります。ただし、何年くらいの時間が流れていたかは、不明でした。過去の時間の定量化はできていませんでした。
 激変説と斉一説は激しく論争しました。激変説は、これまでのキリスト教の信仰の中で考えればよく、当時の教義や常識に叶っていました。一方、斉一説では、論理的ではありますが、教義に反する異端となる考え方でした。斉一説を唱えるのは、それなり勇気も必要でした。
 その論争については、次回としましょう。

・共通テスト・
このエッセイは、19日に配信しています。
大学入学共通テストが先週末に終わりました。
交通の乱れがあると、
受験生も試験会場の担当者も
大変な思いをすることになります。
札幌の一部会場で開始時間繰り下げがありましたが
無事に終わりました。
北海道では、週半ばには
寒波が来るとの予報がでています。
何度も寒波は来ているのですが
今回の寒波は、かなりの降雪が
週末まで続くとの予報です。
試験と重ならずによかったです。

・研究室の使用期限・
先週、研究室の使用期限に関する連絡がきました。
2月末までが期限となっており、
それ以降の延長は認めないというものでした。
27日に退去することにしました。
現在、日々使う最低限のものだけを
研究室に残して、
毎日持てるものを運んで帰っています。
ほぼ片付きつつあります。
現在、研究の必要な最低限のものになっています。
日々、静かに研究できる環境は
捨てがたいものがあります。
3月からは、自宅が研究の場となります。
緊張感の継続が重要かと思っています。

2026年1月15日木曜日

3_228 大絶滅を起こした隕石 1:斉一説

 恐竜絶滅が隕石の衝突によるものというのは、多くの人が知っています。ところが、その隕石は少々異なった性質をもっていることがわかってきました。隕石の性質が、どのようなものだったのかを紹介していきます。


 このシリーズでは、恐竜を大絶滅に至らせた隕石の種類に関する論文を紹介していきます。ただし、まず、恐竜大絶滅が隕石衝突によるものだという説に至るまでの、いろいろな論争を紹介しながら、説明していくことにします。
 中生代白亜紀と新生代の古第三紀の境界は、生物の大絶滅によって区分されています。K-Pg境界と略されて呼ばれています。時代境界は、両側の時代名の略号を用いて示されます。Pgは英語の古第三紀(Paleogene)の略号です。白亜紀(Cretaceous)は、CではなくKとなっているのは、Cは石炭紀(Carboniferous)の略号としてすでに用いられているので、ドイツ語のKreidezeitからKが使われています。
 さて、K-Pg境界では、恐竜の大絶滅は有名ですが、それ以外の生物種も同様に大絶滅しています。その原因となったが、隕石衝突という事件であることは、多くの人が知るようになりました。大絶滅を起こすのですから、隕石衝突の規模が、いかに大きかったのかが想像されます。
 K-Pg境界の隕石衝突が、はじめて科学的に確定された大絶滅の原因になります。それ以前は、K-Pg境界の大絶滅や他の時代の大絶滅でも、これという定説がありませんでした。いろいろな説があり、地球内部からの現象(巨大火山噴火、プレート運動など)や、地球環境の変化(気候変動など)、激しい生物同士の生存競争のような、現在でも起こりうる自然現象で説明していくことになっていました。
 地球内で起こる自然現象による説明は、「斉一説」と呼ばれる考え方で、現在の科学でも重視されているものです。斉一説が、科学のいろいろな分野で利用されるようになると、生物の進化、新種の出現や大絶滅など、化石としてみられる種の変化は、地球内で起こる現象で、説明することになっていました。また、各種の地層形成や地層変化、火山活動なども、現在みられる自然現象の繰り返しや蓄積でできると考えれれるようになってきました。
 ところが、隕石は地球外に由来するもので、その衝突は偶然に起こる現象になります。隕石衝突による大絶滅は、天変地異によることになり、激変説と呼ばれるものです。原因としては起こりえますが、不定期に突然起こるものです。激変説は、斉一説に対抗する説になります。
 激変説と斉一説は、近世ヨーロッパで激しい論争を巻き起こしました。その論争を次回から紹介していきましょう。

・科学史・
現在、科学と宗教に関する論文をまとめています。
激変説と斉一説の論争は
近世のヨーロッパの科学史においては
重要なものになります。
ですから、このシリーズでも、
科学史の内容に触れながら
隕石の性質に関する
論文の紹介もしていくことにしました。

・嵐・
週末から祝日にかけて、
北海道は大荒れとなりました。
金曜日から土曜日の午前中までは暖かく、
非常に珍しいのですが雨が降りました。
日曜日の早朝も小雨で
道路の氷が濡れてツルツルになっており
雨で溶けて水たまりになっていました。
いったん自宅をでたのですが、
危なくて歩けず、大学にでるのを断念しました。
日曜日の昼にはいったん晴れたのですが、
午後からは一転、雪になりました。
月曜日には嵐となり、降雪も激しく、
あちこちに吹き溜まりができていました。
雪が深いので長靴を履いてきたのですが、
大学に着いた時には、
長靴の中まで雪が入り込んでいました。
大変な思いをしました。
ところが昼にはおさまってきました。
激しく変化する天気でした。

2026年1月8日木曜日

4_205 志賀島 2:トンボロ

 陸繋砂州はトンボロとも呼ばれ、島と陸が砂州で繋がった地形です。砂の供給源と、その砂を陸側に運ぶ海流や風などの条件が必要となります。志賀島と海の中道は、その条件を満たしていました。


 金印の見つかった志賀島(しかのしま)は、現在は、九州と陸続きになっています。陸の東から志賀島に伸びる海の中道があります。海の中道から砂嘴が東西に伸びて、志賀島まで繋がっています。陸繋島とも陸繋砂州(りくけいさす)、あるいはトンボロとも呼ばれています。現在は、砂嘴の上に道路が整備され、1928(昭和3)年に志賀島のと間に橋(志賀島橋)が架けられて、安定して陸続きとなっています。
 志賀島はもともとは島なのですが、山地になっています。一方、海の中道はのっぺりとした平地になっており、長さは約8km、幅は最大約2.4kmにも達しています。海の中道北側の海岸には砂丘ができています。それぞれ全く異なった地形となっています。これは大地を形成した地質が異なっていたためです。
 志賀島は、主に白亜紀の花崗岩類からできています。花崗岩類は、マグマが深部でゆっくりと冷え固まった深成岩類で、花崗閃緑岩(花崗岩と閃緑岩の中間的な深成岩)という岩石に分類されます。北部は南東の海岸沿いには、花崗閃緑岩に貫入している斑れい岩があります。斑レイ岩も深成岩類となります。
 つまり、志賀島は、マグマが深部で冷え固まった岩石からできていることになります。深成岩なので地下深部で形成されたので、周辺にはなんらかの岩石類があったはずです。それらは、長い時間、侵食を受けたため、現在では残っておらず、花崗閃緑岩と斑レイ岩が露出している島となっています。非常に古い時代に形成され、侵食を受けたところとなります。
 海の中道は、第四紀に堆積した砂礫からできています。この堆積物は、砂浜でたまったものが、砂丘を形成しています。砂丘の堆積物は二層あり、氷河時代以前に形成された「奈多(なた)砂層」、その上に「海の中道砂層」がたまっています。この砂丘の形成の作用が継続したことで、志賀島とつながっていきました。
 砂丘をつくった大量の砂は、志賀島の花崗岩類が供給源だと考えられています。花崗岩類は、風化や侵食に弱い岩石なので侵食されやすく、砂状の「真砂(マサ)」となって海に流れ込みます。海に流れ込んだ砂は、志賀島の東側を回り込んだ海流に運ばれ、海の中道に海岸に打ち上げられます。ただし、砂丘の形成は、少々複雑な歴史をもっています。
その砂が、日本海からの北風で陸に持ち上げられます。その作用が長く続くことで、志賀島と陸地の海の中道をつなぐ砂州、そして砂丘となっていきました。
 氷河期には海面が低下して、奈多砂層が砂丘として形成されていました。ところが、1万5000年前の温暖化で海面上昇が起こり、海の中道の奈多砂層が侵食を受けました。海面上昇がもっとも大きかった4700年前(縄文中期)ころには、かなり北側に砂丘ができていました。その後、3100年前(縄文晩期)ころには寒冷が起こり、現在と同じくらいの海面になると、海の中道に砂丘で再度形成されました。
 現在は、侵食と堆積が均衡して安定化しています。ただし、人間の時間スケールでの安定にすぎません。地球環境において、気候変動は常に興っている現象なので、今後、どうなっていくは不明です。

・新年のスタート・
大学の講義も昨日からはじまりました。
1月4日から大学にはでていました。
年末年始の休みの期間は、
暖房が最低限にしか入っていません。
そのため研究室も寒い状態となっています。
その対策としては、まずは厚着で
あとは小さな電気ストーブで
なんとか寒さを凌いでいいます。
昼過ぎまでは仕事をしていましたが
長時間は寒いです。

・再訪・
今年の、5月の連休明けに
福岡に旅行することにしました。
再度、長男に1日車を出してもらう予定でいます。
主に北九州を見ていく予定でいます。
博物館や景勝地を見るつもりです。
車のない日は、宿泊施設の近くの
博物館などをみていくつもりです。
そして今回も、志賀島に宿泊することにしています。

2026年1月1日木曜日

6_215 年齢と時間の感じ方

 毎年、年末になるとこの1年があっという間に過ぎ去ったことを思います。それは年々短く感じています。ほんの1日の差しかありませんが、年始には新しい年の1年の計を考えています。時間の感じ方についてい考えました。


 年齢ととともに、時間の経過を速くなっているように感じてしまいます。多くの人が、同じように感じていることではないでしょうか。脳の働きが関係しているとは考えられますが、これまで仕組みがよくわかっていませんでした。その感じ方が、科学的に解明されてきました。
 イギリスのルグトマイヤー(Lugtmeijer)らの共同研究で、その仕組を明らかにしてきました。2025年10月8日、Communications Biologyという科学雑誌に
Temporal dedifferentiation of neural states with age during naturalistic viewing
(自然な視聴中に加齢に伴う神経状態の時間的脱分化)
というタイトルで報告されました。
 タイトルの中の「時間脱分化(temporal dedifferentiation)」という言葉が、とてもわかりにくいものにしています。歳を取ると、脳が体験を区切る「境界線」(分化)が減っていきます。これが「脱分化」となります。その時間的分化が減っていき、出来事が一つにまとまって感じられるようになることを意味しています。
 自然な視聴中の体験とは、ケンブリッジ老化・神経科学センター(Cam-CAN)の577名の参加者(18~88歳)に、8分間の映画を視聴するという実験のことです。参加者の34の年齢グループに分けて、映画を見て、イベントの終了と別のイベントのはじまりと感じたときにボタンを押すことにしました。その実験中、脳の神経状態の変化を機能的磁気共鳴画像法(fMRI)で観測しています。
 その結果、視覚野と腹内側前頭前野に、神経状態が加齢とともに有意に長くなることがわかりました。これも難しい内容です。
 イベントの境界は、脳の状態変化と重なっているのですが、年齢には影響はありませんでした。ところが、加齢とともに、脳は出来事を細かく区切らなくなり、より大きな流れとしてまとめて処理していることがわかりました。同じ時間でも、記憶される時間感覚が、加齢とともに長くなっていくことになります。つまり、加齢によって脳が時間の流れを細かく区切るのをやめ、体験を大きなまとまりとしているのです。そのため、時間の流れが速く感じられる現象となっていることになります。加齢による時間の流れの速さは、錯覚ではなかったのです。
 もしこの仮説が正しければ、老人になるほど、1年が早く経つことは、拒めないということになります。しかし、見方を変えれば、全体をまとめて理解し大局を掴むための「効率化」がされていることにもなります。これは年の功ともいえるのではないでしょうか。

・来し方行く末・
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
とはいっても、今年も、年末まで大学にいて、
暮れに、この1年の来し方を考えていました。
そして、今年はどのように過ごすかの行く末、
1年の計も、年末に立ています。
正月から三ヶ日は休むことしています。
このメールは2025年末に配信しています。

・コホート研究・
この報告は、疫学研究の手法となる
コホート研究の対象者を参加者にしています。
コホート研究とは、定まった参加者集団を
長期追跡し、生活習慣や病気の関係を調べる
研究手法となっています。
日本でも、国立がん研究センターで
「多目的コホート研究」が実施されています。 

2025年12月25日木曜日

4_204 志賀島 1:金印

 北九州での最後の宿泊地は志賀島でした。志賀島は金印の発見地として有名です。実際の金印は見たことがないのですが、島の観光地やホテルに、金印が土産やデザインとして、あちこちにあしらわれていました。


 北九州の旅では、海の中道のマリンワールドを見学したあと、志賀島(しかのしま)にあるホテルまで長男の車で送ってもらいました。長男は、翌日から仕事なので、そのまま車で自宅へと戻りました。翌日、私たちは、列車と地下鉄で福岡空港までいきました。
 志賀島といえば金印が有名です。ホテルにも、金印の印影、金印模型などが飾られたり、レプリカも土産物になっていました。妻も大きな金印の飾りと一緒に写真をとりました。
 金印は、1784(天明4)年2月23日、志賀島の農民(甚兵衛)が、田んぼに水をひく溝を修理していたところ、たまたま見つけたものでした。一辺2.35cmの立方体で、上には紐が通せる穴があいた蛇の形のつまみ(蛇鈕)がありました。含有率95.1%の金、108.729gからできているため、金印と呼ばれています。
 金印には、漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)と書かれていました。そこから、福岡藩の儒学者の亀井南冥(かめい なんめい)は、解読を進めてきました。
 中国の「後漢書」の東夷伝倭人条に、当時の皇帝の光武帝が、西暦57年(弥生時代後期)、倭奴国王が後漢の皇帝に朝貢したので、倭奴国王に印綬を与えたという記述ありました。
 それと照らし合わせて、金印の印影の「漢」は、中国の後漢王朝(光武帝)が与えたもので、中国の当時の日本国のことを「倭」と呼んでいたので、倭の中のひとつの国家であった「奴國王」に送ったことを意味していると解釈しました。他の説もいくつかあるようですが、この説が、現在の定説となっています。
 後漢のころ、記録は木や竹の板に残していました。しかし、重要な文章や記録は、誰も開いていないこと、つまり改竄、捏造をしていないことを示すのに。記録した竹を粘土で封をし、印(しるし)をつけることで密封していました。封として、粘土に金印で文字が押しました。金印の文字は浮き出るよう、作られています。
 金印が、なぜ志賀島で見つかったのは謎です。金印は大きな石(二人がかりで持ち上げなければならないほどのサイズ)の下から見つかったそうです。まわりには他の遺構や遺物もないことから、墳墓・石棺説は否定されています。
 奴国が滅亡するような危機的状態が起こった時、貴重な金印を奪われないように隠匿したという説が有力です。人目につかない場所で、アプローチが容易な志賀島を隠し場所に選んだと考えられいます。
 印文は、漢の配下の奴国王となり、自国の地位が低いことになります。そのため、不名誉なことで、使用せずに封印したという説もあります。また、航海の安全の祈願が、信仰の場であった所に埋められたとする説もあります。いろいろな説があり、謎は残されています。
 金印は、長年、福岡藩主黒田家に代々伝えられていたのですが、1931(昭和6)年に国宝に指定されました。1978(昭和53)年に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に展示されています。もし機会があれば、金印の実物を見にいきたいと考えていますが、いつになることでしょうか。

・マリンワールド海の中道・
福岡市は日本海側の玄界灘に面しています。
玄界灘と博多湾の間に大きな砂州があり、
「海の中道」と呼ばれています。
そこにマリンワールドと呼ばれる水族館があります。
マリンワールドは巨大な施設で、
巨大水槽があり、黒潮の生物を中心に展示されています。
また、ペンギン、アザラシ、イルカ、
クラゲも多数展示され、充実していました。

・アイスバーンに雨・
北海道は、寒波と大雪に襲われました。
路面にあった雪が凍り
アイスバーンになりました。
スパイクを靴につけて
なんとか転ばないように対処していました
その直後、急に暖かくなり
雨が降ってきました。
氷の上への雨となったので
非常に滑りやすくなりました。
自宅を出てすぐに、すべって危険なので
大学に歩いていくのを諦めて、
自宅の戻りました。
その日は休みとしました。
翌日も雨だったのですが、
凍っているところは残っていましたが、
かなり路面がでていたので
そこを選びなが歩いて
無事、大学に来れました。

2025年12月18日木曜日

4_203 関門海峡 2:地質学的成り立ち

 前回は関門海峡の地形の特徴を紹介ました。その地形は、狭く変な形状の海峡でした。なぜこのような狭く、曲がった形の海峡ができたのかを、地質学的背景を紹介してきましょう。


 日本列島は、大陸の縁にありました。そして中国地方と九州地方も、地質学的には連続した地層が分布しています。古生代末から中生代初期には、大陸の縁に、海洋プレートが沈み込みこんで、大陸棚の堆積物、海山や海洋島の岩石や、その周辺の石灰岩、海洋地殻などが、陸に付け加わった地質体(付加体)からできています。
 中生代のジュラ紀から白亜紀には、浅海や河川の堆積物(関門層群)ができ、後期白亜紀には火成活動が盛んになり深成岩類も形成されます。新生代古第三紀から新第三紀(漸新世〜中新世)には、日本列島が大陸から切り離されていきます。その時、激しい火山活動が起こり、多様な火成岩類ができました。
 大陸から分離して日本列島がができたころ、関門海峡はまだありませんでした。関門海峡は、白亜紀後期の花崗岩の分布域にできています。その花崗岩が削られているように見えます。
 花崗岩は火成岩でも深成岩とよばれるものです。深成岩は、マグマが地下深いところでゆっくりと固まった岩石です。地質学的に上昇しているところでは、表層が常に侵食されていきます。長い時間が経過すると、深部にあった花崗岩も表層にでてくることがあります。花崗岩類は他の深成岩類と比べると、地表に露出すると、風化によって崩れやすい岩石です。花崗岩は、侵食されやすい上に、河川があると侵食が激しくなります(差別侵食)。
 氷河期には、海水面が低かったので、海峡のある地域も、陸地になっていました。そこに大きな河川(古瀬戸内海川)ができ、花崗岩を差別侵食して深い谷となっていきました。
 縄文時代になると、暖かくなってきます。海水面が上昇し、低地の谷に海水が入り込み、日本海と瀬戸内海がつながり、地質学的特徴を残した地形の海峡となってきました。
 充実した旅行となりました。長男は住んでいるので、来年も、長男の運転で九州の北側を巡れればと思っています。

・門司にて・
門司は港レトロとして、明治の洋館、
そして現在も使われている門司駅などがあり
街全体が博物館のようになっています。
関門海峡ミュージアムは門司側にある博物館です。
海峡や門司港に関する展示が充実していました。
そしてり驚いたのは、バナナに関することでした。
貿易港として栄え、バナナの輸入中継地となっていたそうです。
また、傷んだバナナを安く売りさばくために、
「バナナの叩き売り」がはじまったとのことでした。
バナナの関する商品もあり土産として買って帰りました。

・下関にて・
一日目は、門司の古い町並みと
下関の水族館、海響館を見ました。
長男は以前海響館を訪れているようですが、
リニューアル後は、行ったことがないというので
一緒に見学しました。
二日目は関門トンネルの中を人道を県境まで歩き、
海峡大橋などを見ました。
そして、下関の唐戸市場を見て回りました。