地球が丸いことは、誰も知っています。でも、日常生活で、地球が丸いことを、あなたは実感できますか。多分、実感はないと思います。別のいい方をしましょう。地球が丸いことを示す証拠を、あなたはいくつ挙げることができますか。
地球が丸いことは、よく知られていることです。いちばん手っ取り早いのは、宇宙から撮った地球の写真をみせることです。そうすれば、地球が丸いことが直感的に理解できます。
直感的に理解できても、実感できることとは違います。宇宙船も飛行機もない時代の人も、地球が丸いことを知っていました。そんな昔の人の智恵を見ていきましょう。
古い例では、エラトステネスが、同時刻に同経度の場所の影の長さの違いから地球の円周を測りました。これは、地球が丸いから起こる現象を利用したものです。
教科書によく出ている証拠としては、海で、近づいてくる船は上部から見えだし、船体はその後みえるというものです。これは目のいい人が多かった時代の例なのでしょうか。本当は、船から陸の山をみると、山の頂上からだんだん裾野まで見えていくというものだったようです。
月食とは、月が地球の影に入る現象です。この現象から、地球の影が丸い、つまり地球が丸いことがわかります。これは、ガリレオが思いついた方法です。
さて、私が思いついた、いくつかの方法を羅列しましょう。
手間はかかりますが、実感できる方法としては、80日間世界一周と同じことをすることです。つまり。地球を西か東にまっすぐ進めば、出発地点に戻るということです。
先ほど海の船の例を示しましたが、逆に、見る側が上昇すれば、より遠くが見えるというものです。それは、東京タワーに上るとか、山に登るとか、気球に乗る、ヘリコプターに乗るなど、視点を上昇させることによってより遠くが見えるという方法です。
今の方法と関連しますが、高くなるほど、地平線は遠く、広く見えます。非常に高くまで上がれば、地球の丸みが地平線となります。
北極星は現在、北の自転軸にの延長線にあります。地平線から北極星の見える高さは、北に行くほど高くなる。これも、地球が丸いからです。
他の天体と比較して類推するという方法もあります。地球から見えている天体で、その形が分かるものはすべて丸いのです。ですから、多分、地球も丸のだろうなという類推です。
理論的類推から一つ。重力によって集積したものは、球になるという推定です。例えば大きないびつな形のものがあるとします。そこに、小さな粘土(マメ粒ほどの大きさ)をいっぱい投げつけるとします。ひとつひつの粘土は、ぶつかるとくっつくとします。この粘土を、いろいろな方向からたくさんぶつけ続けると、ボールは、だんだん大きく丸くなっていくはずです。それを永遠と続けると、大きな球になります。地球のできかたもこうではないかと考えられています。
・柔軟な頭・
このエッセイは、子供からの質問に答えたときの答えを
いくつか集め、修正・加筆したものです。
子供の質問には、ときどき、足元をすくわれるようなものが潜んでいます。
彼らは、そこまでの答えを要求していなのかもしれません。
簡単に答えられない場合や、
簡単なことででお茶を濁すことは、答える側の気持ちが、許さない場合、
があります。
この質問も、両方を意味がありました。
地球が丸ということにたして、どれくらい自分は証拠が提示できるのか、
考えついたのが上のような答えでした。
もっともっといっぱいあると思います。
頭の柔軟な人には、もっともっといい一杯答えがあるはずです。
なにも科学的なものだけが答ではありません。
詩的なものだっていいはずです。
例えば、
地球が丸くないと端っこにいくと落ちる人がでてくるから、とか、
地球が丸いとどこに住んでいても、
自分が真中と考えることができてだれでも平等になるから、とか
いろいろあっていいはずです。
他にもなにかいいい証拠がありませんか。
素晴らしいのが見つかったら、ぜひ教えて下さい。
2003年5月8日木曜日
2003年5月1日木曜日
6_27 酸素の誕生:地球史上最大の絶滅
前回は、鉄鉱石の起源について紹介しました。今回は、鉄鉱石の由来と大きくかかわっていた酸素について紹介しましょう。酸素も、不思議な由来をもっているのです。酸素が大量につくられた証拠は、カナダの極北の地にありました。
日ごろ何気なくすっている空気。ご存知のように、空気のなかには、酸素が含まれています。私たちは、空気中の酸素を吸い込み、利用し、酸素から二酸化炭素に変え、吐き出します。これが呼吸と呼ばれているものです。酸素を利用し、炭素を二酸化炭素にすることによってエネルギーとして利用することを、広い意味での呼吸と呼んでいます。広い意味での呼吸は、ほとんど生物がおこなっている作用です。では、生物が吐き出した二酸化炭素は、どこに行き、生物が吸い込む酸素はどこから来るのでしょうか。
教科書には、酸素は光合成をする生物がつくり、その光合成に二酸化炭素が利用されている、と説明されています。光合成では、二酸化炭素から取り出された炭素が、生物の体をつくる材料となります。
光合成生物によって酸素がつくられているのなら、光合成生物がいなくなれば酸素がなくなるはずです。時間を遡れば、光合成をする生物が誕生することによって、酸素は生産されはじめ、それ以前は酸素のない世界だったわけです。ですから、光合成生物の誕生、あるいは光合成生物の大量発生の時期が、酸素の生成の時期となるはずです。
光合成生物は、いったいいつごろ誕生したのでしょうか。その答えは、光合成生物の化石や痕跡を探すことによって見つけ出すことができます。
約32億年前の地層から光合成をするシアノバクテリアの化石が発見されています。もっと古いものがあったとする説もありますが、今のところ研究者の合意を得ていません。多くの研究者が認めているのは、約32億年前のものです。
約32億年前に最初の光合成生物が生まれ、約27億年前には、光合成生物が大量発生したと考えられています。なぜなら、約27億年前の地層からは、大量のシアノバクテリアの化石が見つかっているからです。
その化石は、ストロマトライトとよばれる岩石からみつかっています。ストロマトライトとは、上から見ると直径数10センチメートルの同心円状の形をしており、断面をみると高さ1メートル程度のマッシュルームのような形で、中には数ミリほどの幅の細かい縞模様が見えます。そのストロマトライトは、小さなシアノバクテリアがたくさん集まってつくりあげた構造なのです。ストロマトライトが地層の中に大量に含まれています。
私は何箇所かでストロマトライトをみていますが、カナダ北西準州のグレート・スレイブ湖の東岸でみたものには圧倒されました。約20億年前の地層で、その中には大量のストロマトライトが含まれています。
まさに累々という形容詞がふさわしいものです。マッシュルームのような形態のストロマトライトを含む地層が、延々と湖岸に続いてみられるのです。その湖岸には水上飛行機でいったのですが、上空からもその地層が累々と続いているのが見ることができました。
前回の鉄鉱石は、海水中の酸素が増加することによって、鉄が沈殿したと説明しました。その酸素を生産したのが、ストロマトライトという化石になっているシアノバクテリアでした。大量の鉄鉱石と大量のストロマトライトができた時代は、呼応していたのです。
地球の大気中に酸素を付け加えはじめたのは、シアノバクテリアでした。では、酸素が付け加えられる前の大気はどんなものだったでしょう。それは、もちろん酸素のない、二酸化炭素と窒素を主とする大気だったはずです。
酸素のある大気は、酸素のない大気に比べると、生物にとっては大きな差となります。現在の生物は大部分は酸素を無毒化し、有効利用するシステムをもっています。それは細胞の中にあるミトコンドリアという器官のはたらきによっておこなわれています。
酸素のない時代の生物にとって、酸素のある環境は、生きてはいけない環境だったはずです。酸素が細胞内に入れば、酸化によって体内の成分が分解されてします。つまり、ミトコンドリアもたない生物にとっては、酸素は猛毒として作用しました。
20数億年前、シアノバクテリアよって、酸素が大量に生産されはじめると、その当時生きていた大部分の生物にとっては、とんでもない地球環境破壊がおこったのです。地球規模の酸素の汚染です。もちろん、汚染の行き着く先は、大絶滅です。多分、当時の生物の大半は絶滅したと思います。実態は定かではありませんが、地球史上最大の絶滅が起こったはずです。
現在、地球環境問題が取りざたされています。でも、地球は、もっとすごい大激変を経験しているのです。そして、素晴らしいことに、そんな大激変も生きぬいたいくつかの種類が生物がいたのです。さらには、多くの生物の殺した猛毒の酸素を利用して、より効率のよりシステムをつくり上げた生物もいたのです。それは、もちろん、現在の生きている生物の、そして私たちの祖先であったのです。
・現在、旅行中です・
ゴールデンウイークに、家族ともども、四国を旅行しています。
愛媛県松山空港から、高知県の四万十川の河口まで、
6泊7日の旅行をしています。
私は、四万十川、肱川などの河川の調査を、
家族は観光をします。
懐かしい友人も訪れるつもりです。
その様子は、近々、紹介します。お楽しみに。
日ごろ何気なくすっている空気。ご存知のように、空気のなかには、酸素が含まれています。私たちは、空気中の酸素を吸い込み、利用し、酸素から二酸化炭素に変え、吐き出します。これが呼吸と呼ばれているものです。酸素を利用し、炭素を二酸化炭素にすることによってエネルギーとして利用することを、広い意味での呼吸と呼んでいます。広い意味での呼吸は、ほとんど生物がおこなっている作用です。では、生物が吐き出した二酸化炭素は、どこに行き、生物が吸い込む酸素はどこから来るのでしょうか。
教科書には、酸素は光合成をする生物がつくり、その光合成に二酸化炭素が利用されている、と説明されています。光合成では、二酸化炭素から取り出された炭素が、生物の体をつくる材料となります。
光合成生物によって酸素がつくられているのなら、光合成生物がいなくなれば酸素がなくなるはずです。時間を遡れば、光合成をする生物が誕生することによって、酸素は生産されはじめ、それ以前は酸素のない世界だったわけです。ですから、光合成生物の誕生、あるいは光合成生物の大量発生の時期が、酸素の生成の時期となるはずです。
光合成生物は、いったいいつごろ誕生したのでしょうか。その答えは、光合成生物の化石や痕跡を探すことによって見つけ出すことができます。
約32億年前の地層から光合成をするシアノバクテリアの化石が発見されています。もっと古いものがあったとする説もありますが、今のところ研究者の合意を得ていません。多くの研究者が認めているのは、約32億年前のものです。
約32億年前に最初の光合成生物が生まれ、約27億年前には、光合成生物が大量発生したと考えられています。なぜなら、約27億年前の地層からは、大量のシアノバクテリアの化石が見つかっているからです。
その化石は、ストロマトライトとよばれる岩石からみつかっています。ストロマトライトとは、上から見ると直径数10センチメートルの同心円状の形をしており、断面をみると高さ1メートル程度のマッシュルームのような形で、中には数ミリほどの幅の細かい縞模様が見えます。そのストロマトライトは、小さなシアノバクテリアがたくさん集まってつくりあげた構造なのです。ストロマトライトが地層の中に大量に含まれています。
私は何箇所かでストロマトライトをみていますが、カナダ北西準州のグレート・スレイブ湖の東岸でみたものには圧倒されました。約20億年前の地層で、その中には大量のストロマトライトが含まれています。
まさに累々という形容詞がふさわしいものです。マッシュルームのような形態のストロマトライトを含む地層が、延々と湖岸に続いてみられるのです。その湖岸には水上飛行機でいったのですが、上空からもその地層が累々と続いているのが見ることができました。
前回の鉄鉱石は、海水中の酸素が増加することによって、鉄が沈殿したと説明しました。その酸素を生産したのが、ストロマトライトという化石になっているシアノバクテリアでした。大量の鉄鉱石と大量のストロマトライトができた時代は、呼応していたのです。
地球の大気中に酸素を付け加えはじめたのは、シアノバクテリアでした。では、酸素が付け加えられる前の大気はどんなものだったでしょう。それは、もちろん酸素のない、二酸化炭素と窒素を主とする大気だったはずです。
酸素のある大気は、酸素のない大気に比べると、生物にとっては大きな差となります。現在の生物は大部分は酸素を無毒化し、有効利用するシステムをもっています。それは細胞の中にあるミトコンドリアという器官のはたらきによっておこなわれています。
酸素のない時代の生物にとって、酸素のある環境は、生きてはいけない環境だったはずです。酸素が細胞内に入れば、酸化によって体内の成分が分解されてします。つまり、ミトコンドリアもたない生物にとっては、酸素は猛毒として作用しました。
20数億年前、シアノバクテリアよって、酸素が大量に生産されはじめると、その当時生きていた大部分の生物にとっては、とんでもない地球環境破壊がおこったのです。地球規模の酸素の汚染です。もちろん、汚染の行き着く先は、大絶滅です。多分、当時の生物の大半は絶滅したと思います。実態は定かではありませんが、地球史上最大の絶滅が起こったはずです。
現在、地球環境問題が取りざたされています。でも、地球は、もっとすごい大激変を経験しているのです。そして、素晴らしいことに、そんな大激変も生きぬいたいくつかの種類が生物がいたのです。さらには、多くの生物の殺した猛毒の酸素を利用して、より効率のよりシステムをつくり上げた生物もいたのです。それは、もちろん、現在の生きている生物の、そして私たちの祖先であったのです。
・現在、旅行中です・
ゴールデンウイークに、家族ともども、四国を旅行しています。
愛媛県松山空港から、高知県の四万十川の河口まで、
6泊7日の旅行をしています。
私は、四万十川、肱川などの河川の調査を、
家族は観光をします。
懐かしい友人も訪れるつもりです。
その様子は、近々、紹介します。お楽しみに。
2003年4月24日木曜日
5_19 地球の自転
私たちはまったく感じませんが、地球はものすごいスピードで自転しています。そのスピードは、日本(緯度35度)では秒速約0.38km、赤道では秒速約0.47kmになります。ピンときませんが、時速にすると、日本では約1400km、赤道では約1700kmというとんでもないスピードになります。それを私たちは、気づかずに生活しているのです。本当にそんなスピードで地球が自転しているのでしょうか。
ある人から、こんな質問を受けました。「どうして人間は地球が自転していることに気がついたんですか?」これは、素朴な疑問です。多くの人は、地球が自転していることを、知識として知っています。しかし、それを、知識ではなく、自分が納得できるような答え、あるいは子供に説明できるような証拠をあげることができますかと聞かれると、なかなか思いつかないものです。こんな素朴な疑問について、考えてみましょう。
地球が自転しているということは、天空に見える太陽や惑星、他の星たちが、動いていようがじっとしていようが、動いて見えます。たとえば、自分の乗っている電車が動いていることを知らない場合、景色が動いているの、自分が動いてるのは、なかなか判断できません。でも、常識的に考えれば、電車が動いていることがわかります。
でも、地球のような大きな乗り物だと、動いているのかどうかすら、はっきりしません。ですから、昔は、地球がうごかず、回りのものが動くというごく当たり前の考えをもっていました。
この質問に答えるためには、地動説をどうして気づいたかとも関係します。ですから、この質問に答えるには、地動説の歴史という、科学の歴史を探ることになります。
実際には、多くの人が、長く天動説を信じ、それに違和感を覚えなかったということは、「地球の自然の中」では、地球の自転に気づきにくいということです。
説としては、古代ギリシアのネラクレイデスなどは、地動説を唱えていました。しかし、それは、空想に過ぎず、自転の証拠を示したわけではありませんでした。
コペルニクスが、地動説を最初に唱えたとされていますが、実は、証拠を提示した訳ではありません。コペルニクスは、天動説より、地動説の方が、天体の動きをよりよく説明できるという、単純な発想のもとにつくり上げた理論なのです。コペルニクスの地動説は、仮説に過ぎませんでした。それは、地動説を唱えた、ジョルダノ・ブルノやガリレオも、仮説を支持しただけで、地球の自転の証拠は提示できませんでした。説が仮説にすぎず、証明できないものですから、完全ではないですから、説得力がなかったのです。ですから、宗教裁判にかけられたとき、論証できず、迫害されたのかもしれんません。
地球の自転の証拠を最初に提示したのは、ニュートンでした。ニュートンが解明した歳差という現象が、自転の証拠の第一号となりました。
では、その歳差とは、どんな現象でしょうか。まっすぐ立って回っているコマは、軸がぶれずに鉛直にたって回っています。しかし、斜めに回っているコマは、軸が首をくるくる回します。このような運動を、地球もしています。地球は、太陽の周りを回る面(公転面)に対して、自転の軸は、約23度ほど傾いています。コマの軸が首を振るように、地球の自転の軸も首を振ります。それは、コマと比べると非常にゆっくりしたもので、約2万5800年で一周するようなものです。でも、たとえば、1万3000年で夏の星座と冬の星座が入れ替わるのです。
この歳差という運動は、自分自身が回転しているという証拠になります。その歳差を確認して、証拠としたのが、ニュートンだったのです。やっぱりニュートンは偉大です。
・地球自転の証拠・
他にも、多くの地球の自転の証拠があります。
皆さんも考えてみてください。
現在、地球の証拠として、教科書によくでているものとして、
・フーコーの振り子(実際には、振動子面の回転といいます)、
・日周光行差、
・恒星の視線速度に日周変化があること、
・ジャイロコンパスの運動、
コンプトンの実験
などがあります。
精しく知りたいひとは、自分で調べてみてください。
そして、ここで述べたもの以外の証拠を見つけた人は、
ぜひ、私にも教えてください。
楽しみにしています。
・素朴な疑問・
素朴な疑問シリーズの3本目です。
地球の自転の証拠。
これは、じつは、なかなかむつかしい問題なのです。
なにしろ、直感的な証拠が、なかなかないのですから。
実感はなくても、長い智恵の積み重ねで、地球の自転に気づき、
そして、今では、知識として地球の自転を誰もがもつようになったのです。
これは、重要で、すばらしいことです。
知的資産の積み重ねとは、このようにして行なわれていくのです。
でも、やはり誰でもわかる直感的な証拠が欲しいですね。
だれか思いつきませんか。
ある人から、こんな質問を受けました。「どうして人間は地球が自転していることに気がついたんですか?」これは、素朴な疑問です。多くの人は、地球が自転していることを、知識として知っています。しかし、それを、知識ではなく、自分が納得できるような答え、あるいは子供に説明できるような証拠をあげることができますかと聞かれると、なかなか思いつかないものです。こんな素朴な疑問について、考えてみましょう。
地球が自転しているということは、天空に見える太陽や惑星、他の星たちが、動いていようがじっとしていようが、動いて見えます。たとえば、自分の乗っている電車が動いていることを知らない場合、景色が動いているの、自分が動いてるのは、なかなか判断できません。でも、常識的に考えれば、電車が動いていることがわかります。
でも、地球のような大きな乗り物だと、動いているのかどうかすら、はっきりしません。ですから、昔は、地球がうごかず、回りのものが動くというごく当たり前の考えをもっていました。
この質問に答えるためには、地動説をどうして気づいたかとも関係します。ですから、この質問に答えるには、地動説の歴史という、科学の歴史を探ることになります。
実際には、多くの人が、長く天動説を信じ、それに違和感を覚えなかったということは、「地球の自然の中」では、地球の自転に気づきにくいということです。
説としては、古代ギリシアのネラクレイデスなどは、地動説を唱えていました。しかし、それは、空想に過ぎず、自転の証拠を示したわけではありませんでした。
コペルニクスが、地動説を最初に唱えたとされていますが、実は、証拠を提示した訳ではありません。コペルニクスは、天動説より、地動説の方が、天体の動きをよりよく説明できるという、単純な発想のもとにつくり上げた理論なのです。コペルニクスの地動説は、仮説に過ぎませんでした。それは、地動説を唱えた、ジョルダノ・ブルノやガリレオも、仮説を支持しただけで、地球の自転の証拠は提示できませんでした。説が仮説にすぎず、証明できないものですから、完全ではないですから、説得力がなかったのです。ですから、宗教裁判にかけられたとき、論証できず、迫害されたのかもしれんません。
地球の自転の証拠を最初に提示したのは、ニュートンでした。ニュートンが解明した歳差という現象が、自転の証拠の第一号となりました。
では、その歳差とは、どんな現象でしょうか。まっすぐ立って回っているコマは、軸がぶれずに鉛直にたって回っています。しかし、斜めに回っているコマは、軸が首をくるくる回します。このような運動を、地球もしています。地球は、太陽の周りを回る面(公転面)に対して、自転の軸は、約23度ほど傾いています。コマの軸が首を振るように、地球の自転の軸も首を振ります。それは、コマと比べると非常にゆっくりしたもので、約2万5800年で一周するようなものです。でも、たとえば、1万3000年で夏の星座と冬の星座が入れ替わるのです。
この歳差という運動は、自分自身が回転しているという証拠になります。その歳差を確認して、証拠としたのが、ニュートンだったのです。やっぱりニュートンは偉大です。
・地球自転の証拠・
他にも、多くの地球の自転の証拠があります。
皆さんも考えてみてください。
現在、地球の証拠として、教科書によくでているものとして、
・フーコーの振り子(実際には、振動子面の回転といいます)、
・日周光行差、
・恒星の視線速度に日周変化があること、
・ジャイロコンパスの運動、
コンプトンの実験
などがあります。
精しく知りたいひとは、自分で調べてみてください。
そして、ここで述べたもの以外の証拠を見つけた人は、
ぜひ、私にも教えてください。
楽しみにしています。
・素朴な疑問・
素朴な疑問シリーズの3本目です。
地球の自転の証拠。
これは、じつは、なかなかむつかしい問題なのです。
なにしろ、直感的な証拠が、なかなかないのですから。
実感はなくても、長い智恵の積み重ねで、地球の自転に気づき、
そして、今では、知識として地球の自転を誰もがもつようになったのです。
これは、重要で、すばらしいことです。
知的資産の積み重ねとは、このようにして行なわれていくのです。
でも、やはり誰でもわかる直感的な証拠が欲しいですね。
だれか思いつきませんか。
2003年4月17日木曜日
5_18 地下水はどれほどあるの
日本は水に恵まれています。雨が少ないときには、送水制限が出たり、プールも閉鎖されることもありますが、飲み水にこまって、生死に関わるようなこうとはほとんどなくなりました。乾燥地や砂漠地域などの水の少ないところや、大陸の飲むのに適さない水しかない地域と比べれば、日本の水は安心して飲めます。今回は水に関する話題です。
川の水は、下流になるほど、汚れてきますが、地下水はきれいなものが多いです。ただし、飲料水に適するかどうかは、保険所などに確かめてもらう必要があります。でも、日本の多くの地域で、地下水があり、そのいくつかは、古くから利用され、造り酒屋の多い地域は、水もきれいで豊富なところです。近年では、湧水でも名水とされるものは、人気があり、多くの需要があります。
いつも、こんこんとわいている湧水は、どこからくるのでしょうか。湧水、つまり地表にわいてくる地下水は、いったいどれほどの量があるのでしょうか。この謎を解くには、地下水のもとをる必要がありそうです。地下水のもとをたどれば、上流のどこかに降った雨が、地下にしみこんだものです。雨と川と地下水の関係をみていきましょう。
湧水の量は、
・雨は地下にどれくらいの期間たまっているのか。
・山はどれくらいの水をためられるのか。
ということを考えれば、答えができてそうです。
以下で、これらについて考えていきますが、これは一般論ですので、地域ごと、山ごとによって、その数値は大きく変動する可能性がありますので、その点は御了承ください。
まず、雨水が地下にある期間についてです。これは、観測できます。放射性同位体という成分を用いる方法です。地下水の年齢決定用いられる放射性元素として炭素14やトリチウム(三重水素)などがあります。このような放射性同位体は、大気中の水蒸気や大気では、ある一定の値を持っているのですが、大気から隔離されると、ある規則で壊れていく(崩壊といいます)性質を利用しています。
大陸地域の地下水の年齢は、アフリカのサハラ砂漠やテキサス州カリゾ砂岩では2万~3万年という値が出ています。日本の平野部では、関東地方の地下水の年齢は数十年から数百年と推定されています。
次に、地下にしみ込む量を推定しましょう。
山に降った雨の一部は、川となって流れていきます。海に注ぐ川の水量は、その川が集める全地域(流域といいます)に降った雨で、地下にしみ込まなかった分です。ここでは、蒸発するぶんは少ないので、無視することにしましょう。
川の水量は、河口で観測できます。ですから、川が海に流し込む水の量は求めることができます。
川の地域の年間降水量×流域面積が、年間の総雨量となります。年間総雨量から、川の年間の流水量を引いてやれば、地下に染み込んだ雨水の量が推定できます。
雨水が、河川と地下水に配分される比率は、地域によって違ってきます。その地域の植生や地形、地質などによって大きく左右されます。
地下水も、流れています。地表の流れの方向とは必ずしも一致しません。地下水の流れる方向は、地層の構造、地質によって規定されていますが、地下の地質は、地表のものとは一致するとは限らないからです。
地下水の流れていくスピードは井戸を掘って実測したり、上で述べた地下水の年齢の降雨地域との距離から推測することが可能です。
地下水の流速は、アフリカのサハラ砂漠やテキサス州カリゾ砂岩では1~2m/年、日本の平野部では1m/日前後、武蔵野台地では3~5m/日です。富士山麓の三島溶岩中では300~500m/日と非常に早く、地下川とも呼ばれるほどです。
でも河川の流速が0.1~1m/sですので、これと比べれば、地下水の流速は非常に小さいといます。いいかえると、地下水は、長く地下にとどまっている、あるいは古いものが地下にはある、ということになります。大部分の地下水は浅いところを流れていますが、一般に深いほど移動が遅くなります。
さて、2つ目の問題となる山がどれくらい水をためているかは、降雨量と面積、河川水の量、地下水の年齢によって決めることができます。
試算をしてみましょう。
ある地域(東海地方)を想定して試算しいきましょう。その流域面積は、約5000km2(天竜川)としましょう。降雨量を年間1600mm(飯田)としましょう。この2つの数値から、全流域の降雨量は年間8km3と計算できます。
平均流速は、221m3/s(天竜川)としましょう。これを年間の値にしますと、年間7km3という値になります。
全流域の年間降雨量8km3から、河川に流れる年間7km3を引けば、年間1km3が、地下に蓄えたれていると見積もれます。
地下水の年齢が50年(柿田湧水)とすると、50年分の地下水が大地には貯められているのはずですので、総量は50km3と試算できます。これは、河川が流す7年分くらいの量、あるいはその地域に振った雨の6年分が地下に蓄えられているということになります。
もちろん、概算ですので、先ほどもいったように、この値は、地域や状態によって変動します。でも、日本では、その地域に降った数年分の雨が、地下に貯められているといえそうです。日本の水は、川を流れているのではなく、地下に地下水としてためられているのです。
・素朴な疑問シリーズ・
前回の「5_17 オルバースのパラドックス」は、
「夜の空はなぜ暗いのか」という素朴な疑問でした。
前回のオルバースのパラドックスに続いて、
今回も「地下水はどれほどあるか」という素朴な疑問です。
これから、少しシリーズとして、
ちょっと考えると不思議な素朴な疑問をあげて、
それをテーマにして考えていくことにします。
そんな疑問は、結構ありそうです。
たとえば、
「地球は本当に自転しているの」
「地球は本当に丸いの」
などにように、考えてもすぐには答えが浮かばないようなものもあります。
そんな「素朴な疑問シリーズ」をしばらく続けましょう。
・質問に答えて・
2003年3月20日の「4_28 湧水:厳冬の道南1」に関連して、
Shiさんから次のような質問を受けました。
「以前、柿田川に行った時、
50年前後も前に降った雨や雪が
今ここに流れているということが看板に書いてありました。
かなりの流量なのにあれの50年分となると大変な量ですが、
それが富士の麓に溜まっているということですか。
わが地元の標高百数十メートルの里山でさえ年中小川が流れています。
いったい山というのはどのくらいの水を湛えられるんでしょうか。
どの山も数十年も前に降った水を流しだしているんでしょうか。」
このエッセイは、Shiさんの質問に答えたメールに大幅な修正したものです。
川の水は、下流になるほど、汚れてきますが、地下水はきれいなものが多いです。ただし、飲料水に適するかどうかは、保険所などに確かめてもらう必要があります。でも、日本の多くの地域で、地下水があり、そのいくつかは、古くから利用され、造り酒屋の多い地域は、水もきれいで豊富なところです。近年では、湧水でも名水とされるものは、人気があり、多くの需要があります。
いつも、こんこんとわいている湧水は、どこからくるのでしょうか。湧水、つまり地表にわいてくる地下水は、いったいどれほどの量があるのでしょうか。この謎を解くには、地下水のもとをる必要がありそうです。地下水のもとをたどれば、上流のどこかに降った雨が、地下にしみこんだものです。雨と川と地下水の関係をみていきましょう。
湧水の量は、
・雨は地下にどれくらいの期間たまっているのか。
・山はどれくらいの水をためられるのか。
ということを考えれば、答えができてそうです。
以下で、これらについて考えていきますが、これは一般論ですので、地域ごと、山ごとによって、その数値は大きく変動する可能性がありますので、その点は御了承ください。
まず、雨水が地下にある期間についてです。これは、観測できます。放射性同位体という成分を用いる方法です。地下水の年齢決定用いられる放射性元素として炭素14やトリチウム(三重水素)などがあります。このような放射性同位体は、大気中の水蒸気や大気では、ある一定の値を持っているのですが、大気から隔離されると、ある規則で壊れていく(崩壊といいます)性質を利用しています。
大陸地域の地下水の年齢は、アフリカのサハラ砂漠やテキサス州カリゾ砂岩では2万~3万年という値が出ています。日本の平野部では、関東地方の地下水の年齢は数十年から数百年と推定されています。
次に、地下にしみ込む量を推定しましょう。
山に降った雨の一部は、川となって流れていきます。海に注ぐ川の水量は、その川が集める全地域(流域といいます)に降った雨で、地下にしみ込まなかった分です。ここでは、蒸発するぶんは少ないので、無視することにしましょう。
川の水量は、河口で観測できます。ですから、川が海に流し込む水の量は求めることができます。
川の地域の年間降水量×流域面積が、年間の総雨量となります。年間総雨量から、川の年間の流水量を引いてやれば、地下に染み込んだ雨水の量が推定できます。
雨水が、河川と地下水に配分される比率は、地域によって違ってきます。その地域の植生や地形、地質などによって大きく左右されます。
地下水も、流れています。地表の流れの方向とは必ずしも一致しません。地下水の流れる方向は、地層の構造、地質によって規定されていますが、地下の地質は、地表のものとは一致するとは限らないからです。
地下水の流れていくスピードは井戸を掘って実測したり、上で述べた地下水の年齢の降雨地域との距離から推測することが可能です。
地下水の流速は、アフリカのサハラ砂漠やテキサス州カリゾ砂岩では1~2m/年、日本の平野部では1m/日前後、武蔵野台地では3~5m/日です。富士山麓の三島溶岩中では300~500m/日と非常に早く、地下川とも呼ばれるほどです。
でも河川の流速が0.1~1m/sですので、これと比べれば、地下水の流速は非常に小さいといます。いいかえると、地下水は、長く地下にとどまっている、あるいは古いものが地下にはある、ということになります。大部分の地下水は浅いところを流れていますが、一般に深いほど移動が遅くなります。
さて、2つ目の問題となる山がどれくらい水をためているかは、降雨量と面積、河川水の量、地下水の年齢によって決めることができます。
試算をしてみましょう。
ある地域(東海地方)を想定して試算しいきましょう。その流域面積は、約5000km2(天竜川)としましょう。降雨量を年間1600mm(飯田)としましょう。この2つの数値から、全流域の降雨量は年間8km3と計算できます。
平均流速は、221m3/s(天竜川)としましょう。これを年間の値にしますと、年間7km3という値になります。
全流域の年間降雨量8km3から、河川に流れる年間7km3を引けば、年間1km3が、地下に蓄えたれていると見積もれます。
地下水の年齢が50年(柿田湧水)とすると、50年分の地下水が大地には貯められているのはずですので、総量は50km3と試算できます。これは、河川が流す7年分くらいの量、あるいはその地域に振った雨の6年分が地下に蓄えられているということになります。
もちろん、概算ですので、先ほどもいったように、この値は、地域や状態によって変動します。でも、日本では、その地域に降った数年分の雨が、地下に貯められているといえそうです。日本の水は、川を流れているのではなく、地下に地下水としてためられているのです。
・素朴な疑問シリーズ・
前回の「5_17 オルバースのパラドックス」は、
「夜の空はなぜ暗いのか」という素朴な疑問でした。
前回のオルバースのパラドックスに続いて、
今回も「地下水はどれほどあるか」という素朴な疑問です。
これから、少しシリーズとして、
ちょっと考えると不思議な素朴な疑問をあげて、
それをテーマにして考えていくことにします。
そんな疑問は、結構ありそうです。
たとえば、
「地球は本当に自転しているの」
「地球は本当に丸いの」
などにように、考えてもすぐには答えが浮かばないようなものもあります。
そんな「素朴な疑問シリーズ」をしばらく続けましょう。
・質問に答えて・
2003年3月20日の「4_28 湧水:厳冬の道南1」に関連して、
Shiさんから次のような質問を受けました。
「以前、柿田川に行った時、
50年前後も前に降った雨や雪が
今ここに流れているということが看板に書いてありました。
かなりの流量なのにあれの50年分となると大変な量ですが、
それが富士の麓に溜まっているということですか。
わが地元の標高百数十メートルの里山でさえ年中小川が流れています。
いったい山というのはどのくらいの水を湛えられるんでしょうか。
どの山も数十年も前に降った水を流しだしているんでしょうか。」
このエッセイは、Shiさんの質問に答えたメールに大幅な修正したものです。
2003年4月10日木曜日
5_17 オルバースのパラドックス
「夜はなぜ暗いのか。」なにを当たり前のことをいうのかと思われる方も多いと思われます。いいかえましょう。「夜空はなぜ暗いのか。」同じことのように思えますが、じつは、ここに、不思議なこと、パラドックスがあったのです。
19世紀前半のドイツのアマチュア天文学者、H.W.M. Olbersは、英語読みでオルバースと呼ばれることが多いようです。「夜空はなぜ暗いのか」という疑問は、オルバースが発したものですもので、「オルバースのパラドックス」と呼ばれているのです。
詳しく説明しましょう。
肉眼で夜空を見るより、望遠鏡で夜空を見たほうが、多くの星がみえます。では、望遠鏡をもっと高性能にしていくと、望遠鏡の能力にあわせて、より暗い星も見えてくるはずです。では、望遠鏡の能力をどこまでも上げていけば、より暗い星がどんどん見えていくはずです。
オルバースの生きていた時代の常識的な見解から、つぎのような仮定をします。
・星の平均的な明るさは、遠くても近くても同じである
・星は平均すると、無限のかなたまで一様に分布している
という仮定です。
この仮定をもうけると、以下のような考えが導き出せます。
星の数を考えます。地球を中心とする球体のある範囲の中(これを球殻といいます)にある星の数は、近くにある星の数は少ないはずです。小さいときは、球殻の中にある星は、近いために、明るく輝きます。遠くの星は、地球から見ると暗くなります。でも、遠くには、半径が大きくなる分、球殻の体積が大きくなり、多くの数の星が含まれるはずです。
上の前提のもとでは、どの球殻からもある一定の光を送ってくるはずです。各球殻から来る光が弱いとしても、もし、無限のかなたまで、星があるとすると、弱い光も無限に集めれば、明るくなります。つまり、夜空は明るくなるはずです。なのに、夜空はなぜか暗いのです。
ある前提から導かれる結論と現実が一致しません。そのような矛盾を、オルバースのパラドックスと呼んでいます。このパラドックスは、前提か論理のどこかに間違いあるから起こっているはずです。論理は、単純で、簡単に計算式もつくれます。ですから、論理は、間違っていないようです。となると、前提が間違っていることになるはずです。
前提の最初のものが間違っているとすると、「遠くの星ほど暗くなっている」ということが、あるかどうか。これは、「暗く見える」可能性があります。星の光が、すべて地球に届いているのではなく、途中で光をさいえぎるものがあれば、その光は、届きません。例えば、各球殻に一箇所、後ろの光をさえぎる星や雲のようなもの(星雲やガスなど)があると、後ろにどれほど星があっても、地球には届きません。ですから、遠く星ほど、このような効果を受けやすくなります。つまり、実際に星があっても、光は届かないということがおこっているのです。
また、宇宙が膨張していると、遠くの星ほど、遠ざかるスピードは速くなるという効果を生みます。すると、光も遠ざかるスピードに応じて、赤側にずれていきます。ずれが大きくなると、赤から紫、紫外線、そして見えない波長へとずれていきます。そうなると、遠くの星は、地球からは肉眼、あるいは光学的には見えなくなります。
前提のひたつめの「星は無限のかなたまで一様に分布していない」という可能性を考えてみましょう。これは、銀河を考えると、一様でないことがわかります。銀河に模様があるということは、星がムラをもって分布しているということです。地球は銀河の中にいます。私たちが属している銀河を、地球から見ると、天の川としてみえます。つまり、明るいところと暗いところがムラをもって見えているのです。
また、銀河をでると、次の銀河まで、星はほとんどありません。つぎの銀河には、たくさん星があります。でも、遠くの銀河は、銀河自体を、一つの光源として扱うことができます。でも、この銀河も、構造を持っています。それは、泡状構造というものです。洗濯の時にでる泡のような構造をもっています。泡の幕のところに銀河が集まり、泡の空気のところには、銀河がほとんどありません。宇宙の銀河による構造は、そんなムラを持った構造となっています。
ということから、オルバースのパラドックスは、もはやパラドックスではありません。オルバースの誤解だったのです。
・創造性・
これは、Shiさんから、受けた質問に答えたものを
加筆修正して書いたエッセイです。
質問とは、大分内容が変わってきましたが、面白いテーマだと思います。
オルバースの発想は素晴らしいと思います。
こんなことを気付いた人がいたということが非常に重要です。
このパラドックスをといていく過程で、
当時の常識的な考え(前提)が間違っていることがわかってきたのです。
この例のように、一見当たり前に見えることに疑問を感じて、
そしてそれを疑問として提示することに独創性を感じます。
最終的に、現代の宇宙論に通じる重要なヒントがあったのですが、
そのようなことがなくても、
常識に疑問をもてること、このような発想ができる人は、
その疑問を解くことより素晴らしいことではないのでしょうか。
問題は与えられれば、解く努力ができます。
個人だけではなく、多くの人が取り組むこともできます。
問題に答えがあるのなら、やがては解けるはずです。
でも、問題を見つけること、疑問を提示すること、
そのことのほうが、より大きいな創造性が必要ではないでしょうか。
19世紀前半のドイツのアマチュア天文学者、H.W.M. Olbersは、英語読みでオルバースと呼ばれることが多いようです。「夜空はなぜ暗いのか」という疑問は、オルバースが発したものですもので、「オルバースのパラドックス」と呼ばれているのです。
詳しく説明しましょう。
肉眼で夜空を見るより、望遠鏡で夜空を見たほうが、多くの星がみえます。では、望遠鏡をもっと高性能にしていくと、望遠鏡の能力にあわせて、より暗い星も見えてくるはずです。では、望遠鏡の能力をどこまでも上げていけば、より暗い星がどんどん見えていくはずです。
オルバースの生きていた時代の常識的な見解から、つぎのような仮定をします。
・星の平均的な明るさは、遠くても近くても同じである
・星は平均すると、無限のかなたまで一様に分布している
という仮定です。
この仮定をもうけると、以下のような考えが導き出せます。
星の数を考えます。地球を中心とする球体のある範囲の中(これを球殻といいます)にある星の数は、近くにある星の数は少ないはずです。小さいときは、球殻の中にある星は、近いために、明るく輝きます。遠くの星は、地球から見ると暗くなります。でも、遠くには、半径が大きくなる分、球殻の体積が大きくなり、多くの数の星が含まれるはずです。
上の前提のもとでは、どの球殻からもある一定の光を送ってくるはずです。各球殻から来る光が弱いとしても、もし、無限のかなたまで、星があるとすると、弱い光も無限に集めれば、明るくなります。つまり、夜空は明るくなるはずです。なのに、夜空はなぜか暗いのです。
ある前提から導かれる結論と現実が一致しません。そのような矛盾を、オルバースのパラドックスと呼んでいます。このパラドックスは、前提か論理のどこかに間違いあるから起こっているはずです。論理は、単純で、簡単に計算式もつくれます。ですから、論理は、間違っていないようです。となると、前提が間違っていることになるはずです。
前提の最初のものが間違っているとすると、「遠くの星ほど暗くなっている」ということが、あるかどうか。これは、「暗く見える」可能性があります。星の光が、すべて地球に届いているのではなく、途中で光をさいえぎるものがあれば、その光は、届きません。例えば、各球殻に一箇所、後ろの光をさえぎる星や雲のようなもの(星雲やガスなど)があると、後ろにどれほど星があっても、地球には届きません。ですから、遠く星ほど、このような効果を受けやすくなります。つまり、実際に星があっても、光は届かないということがおこっているのです。
また、宇宙が膨張していると、遠くの星ほど、遠ざかるスピードは速くなるという効果を生みます。すると、光も遠ざかるスピードに応じて、赤側にずれていきます。ずれが大きくなると、赤から紫、紫外線、そして見えない波長へとずれていきます。そうなると、遠くの星は、地球からは肉眼、あるいは光学的には見えなくなります。
前提のひたつめの「星は無限のかなたまで一様に分布していない」という可能性を考えてみましょう。これは、銀河を考えると、一様でないことがわかります。銀河に模様があるということは、星がムラをもって分布しているということです。地球は銀河の中にいます。私たちが属している銀河を、地球から見ると、天の川としてみえます。つまり、明るいところと暗いところがムラをもって見えているのです。
また、銀河をでると、次の銀河まで、星はほとんどありません。つぎの銀河には、たくさん星があります。でも、遠くの銀河は、銀河自体を、一つの光源として扱うことができます。でも、この銀河も、構造を持っています。それは、泡状構造というものです。洗濯の時にでる泡のような構造をもっています。泡の幕のところに銀河が集まり、泡の空気のところには、銀河がほとんどありません。宇宙の銀河による構造は、そんなムラを持った構造となっています。
ということから、オルバースのパラドックスは、もはやパラドックスではありません。オルバースの誤解だったのです。
・創造性・
これは、Shiさんから、受けた質問に答えたものを
加筆修正して書いたエッセイです。
質問とは、大分内容が変わってきましたが、面白いテーマだと思います。
オルバースの発想は素晴らしいと思います。
こんなことを気付いた人がいたということが非常に重要です。
このパラドックスをといていく過程で、
当時の常識的な考え(前提)が間違っていることがわかってきたのです。
この例のように、一見当たり前に見えることに疑問を感じて、
そしてそれを疑問として提示することに独創性を感じます。
最終的に、現代の宇宙論に通じる重要なヒントがあったのですが、
そのようなことがなくても、
常識に疑問をもてること、このような発想ができる人は、
その疑問を解くことより素晴らしいことではないのでしょうか。
問題は与えられれば、解く努力ができます。
個人だけではなく、多くの人が取り組むこともできます。
問題に答えがあるのなら、やがては解けるはずです。
でも、問題を見つけること、疑問を提示すること、
そのことのほうが、より大きいな創造性が必要ではないでしょうか。
2003年4月3日木曜日
6_26 鉄と酸素と文明
私たちが日常的に使っている鉄。この鉄は、どこから来たのでしょうか。鉄鉱石からつくられているということは知っていても、その鉄鉱石がどんなところからとれ、鉄鉱石がどんな様子であり、鉄鉱石がどのようにしてできたかは、あまり知られていません。今回は鉄の産地をみていきましょう。そして、鉄鉱石が語る地球の歴史を紹介していきましょう。
列車が通りすぎるのに、何分待ったでしょうか。10分以上かかったような気がします。こんな状態だと、多くの人はいらいらするでしょう。ところが、不思議と待たされることへの不快感はありませんでした。列車が通り過ぎるのを、車を止め、ただただ見とれていたのです。
これは、日本の開かずの踏み切りの話でもありませんし、私が特別に列車が好きでもありません。でも、この光景は一見の価値があると思います。
この情景は、西オーストラリアのポートヘッドランドという港町から内陸へ向かう途中でのものです。港にへ鉄鉱石を運ぶ列車が通りすぎるのを眺めていたのです。待っている車は、ただ一台。もちろんそれは私がのっている車です。機関車は、たった一両で、数え切れないほど連結された貨車を引いていました。ゆっくりとしたスピードなので、より長い時間がかかって通過するのでしょう。
鉄鉱石は、内陸のピルバラ地域に分布する約25億年前の地層から露天掘りされています。鉱山の周辺には国立公園があり、鉄鉱石の地層のよく見える渓谷があります。平らな乾燥した平原に深く刻まれた渓谷に降りると、鉄鉱石をよく見ることができます。
赤っ茶けた、綺麗な縞模様の地層が渓谷の壁面となっています。縞模様は、近づけば数ミリメールほどの細かい縞模様が見え、離れれば大きなスケールの縞模様が見えてきます。このような縞模様があるため、鉄鉱石を含む地層は、縞状鉄鉱層とよばれています。
縞模様は、鉄の多い部分と少ない部分からつくられています。鉄の多い部分が鉄鉱石となります。鉄鉱石は、鉄の酸化物(磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱などの鉱物)を主とする岩石です。鉄の少ない部分は、石英を主とするチャートと呼ばれる岩石からできます。
私が訪れた西オーストラリアのハマスレーは、見渡す限り縞状鉄鉱層の大地です。そんな地層から、露天掘りで鉄鉱石が掘られています。露天掘りされている鉱山は、宇宙からも見えるほど大規模なものです。鉄鉱石を構内で運ぶトラックも巨大で、タイヤだけでも、背丈を越える大きさです。大規模に掘り出された鉄鉱石が、先ほどの貨物列車で港まで運ばれていくのです。
世界各地に縞状鉄鉱層がみつかっています。もちろんそこでは鉄鉱石が採掘されています。世界の縞状鉄鉱層も、ハマスレーのように大規模なものが多くあります。大規模な縞状鉄鉱層が形成された年代をみていくと、ほとんどが25億年前ころのもので、19億年前より新しい時代のものはなくなります。
縞状鉄鉱層の形成年代の一致と、縞状鉄鉱層がある時以降突然なくなるということには、どんな意味があるのでしょうか。大規模な縞状鉄鉱層が世界各地であることから、縞状鉄鉱層は、地球全体におよんだ現象によって形成されたと予想できます。
その現象とはどんなものでしょうか。縞状鉄鉱層は地層ですから、堆積岩の仲間です。堆積岩は海底でたまったものです。鉄鉱石とは、海底に鉄がたまってできたことになります。鉄は、普通、イオンの状態(Fe2+)では海水に溶けています。なんらかの原因で、より酸化されたイオン(Fe3+)になると、水酸化鉄(Fe(OH)3)となり沈殿します。沈殿した水酸化鉄は、長い時間のうち、脱水作用で酸化鉄へと変わっていきます。
縞状鉄鉱層の形成とは、海水に溶けていた鉄イオンが、地球規模で酸化されたということを意味します。つまり、海水の大規模な酸化という事件が起こったのです。では、その酸化は、なぜおこったのでしょうか。それは、酸素をつくる生物が、このころから海に大量に生まれたのではないかと考えられています。酸素をつくる生物とは、光合成をする生物のことです。
縞状鉄鉱層形成のシナリオは次のように考えられています。
30億年前あるいはもっと以前に生まれた光合成をおこなう生物(シアノバクテリア)が、25億年前ころには大量発生します。酸素のない海では、鉄がイオンとして溶けていました。それが、酸素が供給されることによって、鉄イオンが酸化され、沈殿していきます。光合成生物の活動している季節には酸素が海水中に増え鉄が沈殿し、活動が衰えた季節(あるいは昼夜)には鉄が沈殿せず通常の海底の堆積物(チャート)が沈殿します。このような季節による生物活動の変化が、縞模様をつくっていきます。
海水中の鉄イオンの大部分が使われてしまうと、酸素と鉄イオンとの濃度がつりあい(平衡になり)ます。海水中の鉄がなくなると、やがて酸素は大気中へと付け加わることとなります。
大規模な縞状鉄鉱層は、地球の酸素形成という事件の証拠だったのです。生物によって酸素が急激に形成されたおかげで、海で「鉄の晴れ上がり」がおこり、鉄が25億年前の地層に濃集しました。そのおかげて私は鉄を資源として利用できるのです。
もしこの酸素形成が急激でなければ、鉄は濃集していなかったはずです。濃集してなければ、鉄は集めにくい資源、貴重な資源となっていたはずです。現代文明は鉄に支えらているのですが、鉄が少ししかない貴重な資源となっていれば全く違った文明となっていたかもしれません。あるいは、まだ鉄器時代はきておらず、石器時代や青銅器時代であったかもしれません。
列車が通りすぎるのに、何分待ったでしょうか。10分以上かかったような気がします。こんな状態だと、多くの人はいらいらするでしょう。ところが、不思議と待たされることへの不快感はありませんでした。列車が通り過ぎるのを、車を止め、ただただ見とれていたのです。
これは、日本の開かずの踏み切りの話でもありませんし、私が特別に列車が好きでもありません。でも、この光景は一見の価値があると思います。
この情景は、西オーストラリアのポートヘッドランドという港町から内陸へ向かう途中でのものです。港にへ鉄鉱石を運ぶ列車が通りすぎるのを眺めていたのです。待っている車は、ただ一台。もちろんそれは私がのっている車です。機関車は、たった一両で、数え切れないほど連結された貨車を引いていました。ゆっくりとしたスピードなので、より長い時間がかかって通過するのでしょう。
鉄鉱石は、内陸のピルバラ地域に分布する約25億年前の地層から露天掘りされています。鉱山の周辺には国立公園があり、鉄鉱石の地層のよく見える渓谷があります。平らな乾燥した平原に深く刻まれた渓谷に降りると、鉄鉱石をよく見ることができます。
赤っ茶けた、綺麗な縞模様の地層が渓谷の壁面となっています。縞模様は、近づけば数ミリメールほどの細かい縞模様が見え、離れれば大きなスケールの縞模様が見えてきます。このような縞模様があるため、鉄鉱石を含む地層は、縞状鉄鉱層とよばれています。
縞模様は、鉄の多い部分と少ない部分からつくられています。鉄の多い部分が鉄鉱石となります。鉄鉱石は、鉄の酸化物(磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱などの鉱物)を主とする岩石です。鉄の少ない部分は、石英を主とするチャートと呼ばれる岩石からできます。
私が訪れた西オーストラリアのハマスレーは、見渡す限り縞状鉄鉱層の大地です。そんな地層から、露天掘りで鉄鉱石が掘られています。露天掘りされている鉱山は、宇宙からも見えるほど大規模なものです。鉄鉱石を構内で運ぶトラックも巨大で、タイヤだけでも、背丈を越える大きさです。大規模に掘り出された鉄鉱石が、先ほどの貨物列車で港まで運ばれていくのです。
世界各地に縞状鉄鉱層がみつかっています。もちろんそこでは鉄鉱石が採掘されています。世界の縞状鉄鉱層も、ハマスレーのように大規模なものが多くあります。大規模な縞状鉄鉱層が形成された年代をみていくと、ほとんどが25億年前ころのもので、19億年前より新しい時代のものはなくなります。
縞状鉄鉱層の形成年代の一致と、縞状鉄鉱層がある時以降突然なくなるということには、どんな意味があるのでしょうか。大規模な縞状鉄鉱層が世界各地であることから、縞状鉄鉱層は、地球全体におよんだ現象によって形成されたと予想できます。
その現象とはどんなものでしょうか。縞状鉄鉱層は地層ですから、堆積岩の仲間です。堆積岩は海底でたまったものです。鉄鉱石とは、海底に鉄がたまってできたことになります。鉄は、普通、イオンの状態(Fe2+)では海水に溶けています。なんらかの原因で、より酸化されたイオン(Fe3+)になると、水酸化鉄(Fe(OH)3)となり沈殿します。沈殿した水酸化鉄は、長い時間のうち、脱水作用で酸化鉄へと変わっていきます。
縞状鉄鉱層の形成とは、海水に溶けていた鉄イオンが、地球規模で酸化されたということを意味します。つまり、海水の大規模な酸化という事件が起こったのです。では、その酸化は、なぜおこったのでしょうか。それは、酸素をつくる生物が、このころから海に大量に生まれたのではないかと考えられています。酸素をつくる生物とは、光合成をする生物のことです。
縞状鉄鉱層形成のシナリオは次のように考えられています。
30億年前あるいはもっと以前に生まれた光合成をおこなう生物(シアノバクテリア)が、25億年前ころには大量発生します。酸素のない海では、鉄がイオンとして溶けていました。それが、酸素が供給されることによって、鉄イオンが酸化され、沈殿していきます。光合成生物の活動している季節には酸素が海水中に増え鉄が沈殿し、活動が衰えた季節(あるいは昼夜)には鉄が沈殿せず通常の海底の堆積物(チャート)が沈殿します。このような季節による生物活動の変化が、縞模様をつくっていきます。
海水中の鉄イオンの大部分が使われてしまうと、酸素と鉄イオンとの濃度がつりあい(平衡になり)ます。海水中の鉄がなくなると、やがて酸素は大気中へと付け加わることとなります。
大規模な縞状鉄鉱層は、地球の酸素形成という事件の証拠だったのです。生物によって酸素が急激に形成されたおかげで、海で「鉄の晴れ上がり」がおこり、鉄が25億年前の地層に濃集しました。そのおかげて私は鉄を資源として利用できるのです。
もしこの酸素形成が急激でなければ、鉄は濃集していなかったはずです。濃集してなければ、鉄は集めにくい資源、貴重な資源となっていたはずです。現代文明は鉄に支えらているのですが、鉄が少ししかない貴重な資源となっていれば全く違った文明となっていたかもしれません。あるいは、まだ鉄器時代はきておらず、石器時代や青銅器時代であったかもしれません。
2003年3月27日木曜日
4_29 有珠山:厳冬の道南2
有珠山を訪れるのは何度目でしょうか。正確には覚えていませんが、数度訪れています。そんな有珠山は、私にとって、地質学者としてではなく、一市民として、印象的な火山です。そんな有珠山についてみていきましょう。
道南の旅の目的は、火山を巡る旅でもありました。今回まわったコースでも、いくつもの火山があります。しかし、今回の火山では、やはり、有珠山をみることがいちばんの目的でした。噴火後8ヶ月ほどたった2000年11月に、一度訪れたのですが、まだ激しい噴煙をあげていました。避難生活をしている人も、いましたので、観光気分で眺めるのがはばかられました。
今回は、噴火も一段落していました。噴気はまだあがっているのですが、噴火の危険性はなく、噴火口の散策路も整備されて、安全に見学できるようになっていました。ただし、私が行ったときは、散策路は雪のため、閉鎖されていました。噴気を、遠くから眺めるだけでした。
有珠山は、2000年3月31日に噴火しました。この噴火では、4日前に予知されて、警告が出され、住民全員非難しました。そのおかげで、道路や鉄道、建物には被害が出たのですが、死傷者や負傷者なかったのです。
予想通りの西山腹で噴火しました。研究者の予測を裏切らないことから、有珠山は「嘘をつかない火山」と呼ばれました。
私は、2000年の噴火は、テレビで見ていました。私は、地質学を専門としていますが、活火山は研究の対象としていませんでした。ですから、火山活動があったとしても、傍観者として眺めるだけでした。しかし、有珠山だけは、印象深い火山なのです。
有珠山は、2000年より前の噴火は、23年前の1977年(昭和52年)8月6日から地震がはじまり、7日に山頂から激しい噴火が起こりました。9日までの3日間に激しい噴煙を上げました。噴火は、断続的に1978年10月27日まで続きました。その後も、地殻変動や地震は、1982年3月まで継続しました。火口内に有珠新山ができました。
有珠山は、地質学者にとっては、非常に印象深い、噴火として1943年のものがあります。時は、太平洋戦争のさなか、1943年(昭和18年)12月28日に火山性の地震がはじまり、翌年には震源が東麓に移動し、麦畑が隆起をはじめました。5月には隆起量は50mになりました。隆起は、最終的には、標高405.9mにも達しました。
その様子は、地元の郵便局長の三松(みまつ)正夫氏が克明に記録していきました。1944年5月から、1945年9月まで隆起の様子を書いたグラフは、後に、三松ダイアグラムとよばれ、火山ドームの成長過程を記録していたのです。1948年の国際火山学会で発表され、火山学者からも高い評価を受けました。6月になると上昇したマグマが、水蒸気爆発を、何度もおこし、火山灰を降らせました。3年にわたる火山活動は、1945年9月に終了しました。
有珠山は、2万年頃から7000年にかけて、外輪山を形成する活動がありました。1663年以降、有珠山は、2、30年から100年に一度の頻度で、8回の噴火しています。記録としては、1663年(休止期数千年)、1769年(休止期106年)、1822年(休止期52年)、1853年(休止期31年)、1910年(休止期57年)、1943~1945年(休止期33年)、1977~1978年(休止期32年)、2000年(休止期22年)の活動が、新規の活動と呼ばれています。
火山とは、噴火という恐ろしい災害をおこします。でも、考えてみると、噴火は、数年続きますが、噴火をしてないときの長い年月、火山は、温泉、景観、そして、観光客をもたらします。
温泉地の人びとは、火山と共存しているのです。確かに、2000年の噴火口も、観光地として利用されていました。噴火なんかにへこたれない、そしてしたたかな人びとを見せて、心強くしました。
・1977年の噴火の思い出1・
1977年の噴火には、いくつかの思い出があります。
1977年、私は、大学で、地質を専攻することに決めた年でした。
有珠山の噴火によって、火山灰が札幌でも降ったのが、印象的でした。
それにも増して印象的だったのは、
私が専攻した学科は、有珠山の噴火で、
右往左往しているあわただしでした。
・1977年の噴火の思い出2・
噴火が続く中、1978年春、私は、友人と有珠に出かけ、
登山禁止でしたが、火山を眺めるために、登山をしました。
地図を頼りに、火口の眺められる火山灰の中を登っていきました。
そして、登山禁止にも関わらず、稜線に出ると、
多くの人が歩いた踏み跡が道としてありました。
火口を眺められるところでは、缶ジュースの空き缶が数個ありました。
さらに印象的だったのは、火山灰の斜面を登っているとき、
深い火山灰を掻き分けるようにして、
エンレイソウの蕾が伸びてきているを見つけました。
生命力の偉大さに感動しました。
道南の旅の目的は、火山を巡る旅でもありました。今回まわったコースでも、いくつもの火山があります。しかし、今回の火山では、やはり、有珠山をみることがいちばんの目的でした。噴火後8ヶ月ほどたった2000年11月に、一度訪れたのですが、まだ激しい噴煙をあげていました。避難生活をしている人も、いましたので、観光気分で眺めるのがはばかられました。
今回は、噴火も一段落していました。噴気はまだあがっているのですが、噴火の危険性はなく、噴火口の散策路も整備されて、安全に見学できるようになっていました。ただし、私が行ったときは、散策路は雪のため、閉鎖されていました。噴気を、遠くから眺めるだけでした。
有珠山は、2000年3月31日に噴火しました。この噴火では、4日前に予知されて、警告が出され、住民全員非難しました。そのおかげで、道路や鉄道、建物には被害が出たのですが、死傷者や負傷者なかったのです。
予想通りの西山腹で噴火しました。研究者の予測を裏切らないことから、有珠山は「嘘をつかない火山」と呼ばれました。
私は、2000年の噴火は、テレビで見ていました。私は、地質学を専門としていますが、活火山は研究の対象としていませんでした。ですから、火山活動があったとしても、傍観者として眺めるだけでした。しかし、有珠山だけは、印象深い火山なのです。
有珠山は、2000年より前の噴火は、23年前の1977年(昭和52年)8月6日から地震がはじまり、7日に山頂から激しい噴火が起こりました。9日までの3日間に激しい噴煙を上げました。噴火は、断続的に1978年10月27日まで続きました。その後も、地殻変動や地震は、1982年3月まで継続しました。火口内に有珠新山ができました。
有珠山は、地質学者にとっては、非常に印象深い、噴火として1943年のものがあります。時は、太平洋戦争のさなか、1943年(昭和18年)12月28日に火山性の地震がはじまり、翌年には震源が東麓に移動し、麦畑が隆起をはじめました。5月には隆起量は50mになりました。隆起は、最終的には、標高405.9mにも達しました。
その様子は、地元の郵便局長の三松(みまつ)正夫氏が克明に記録していきました。1944年5月から、1945年9月まで隆起の様子を書いたグラフは、後に、三松ダイアグラムとよばれ、火山ドームの成長過程を記録していたのです。1948年の国際火山学会で発表され、火山学者からも高い評価を受けました。6月になると上昇したマグマが、水蒸気爆発を、何度もおこし、火山灰を降らせました。3年にわたる火山活動は、1945年9月に終了しました。
有珠山は、2万年頃から7000年にかけて、外輪山を形成する活動がありました。1663年以降、有珠山は、2、30年から100年に一度の頻度で、8回の噴火しています。記録としては、1663年(休止期数千年)、1769年(休止期106年)、1822年(休止期52年)、1853年(休止期31年)、1910年(休止期57年)、1943~1945年(休止期33年)、1977~1978年(休止期32年)、2000年(休止期22年)の活動が、新規の活動と呼ばれています。
火山とは、噴火という恐ろしい災害をおこします。でも、考えてみると、噴火は、数年続きますが、噴火をしてないときの長い年月、火山は、温泉、景観、そして、観光客をもたらします。
温泉地の人びとは、火山と共存しているのです。確かに、2000年の噴火口も、観光地として利用されていました。噴火なんかにへこたれない、そしてしたたかな人びとを見せて、心強くしました。
・1977年の噴火の思い出1・
1977年の噴火には、いくつかの思い出があります。
1977年、私は、大学で、地質を専攻することに決めた年でした。
有珠山の噴火によって、火山灰が札幌でも降ったのが、印象的でした。
それにも増して印象的だったのは、
私が専攻した学科は、有珠山の噴火で、
右往左往しているあわただしでした。
・1977年の噴火の思い出2・
噴火が続く中、1978年春、私は、友人と有珠に出かけ、
登山禁止でしたが、火山を眺めるために、登山をしました。
地図を頼りに、火口の眺められる火山灰の中を登っていきました。
そして、登山禁止にも関わらず、稜線に出ると、
多くの人が歩いた踏み跡が道としてありました。
火口を眺められるところでは、缶ジュースの空き缶が数個ありました。
さらに印象的だったのは、火山灰の斜面を登っているとき、
深い火山灰を掻き分けるようにして、
エンレイソウの蕾が伸びてきているを見つけました。
生命力の偉大さに感動しました。
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