北九州での最後の宿泊地は志賀島でした。志賀島は金印の発見地として有名です。実際の金印は見たことがないのですが、島の観光地やホテルに、金印が土産やデザインとして、あちこちにあしらわれていました。
北九州の旅では、海の中道のマリンワールドを見学したあと、志賀島(しかのしま)にあるホテルまで長男の車で送ってもらいました。長男は、翌日から仕事なので、そのまま車で自宅へと戻りました。翌日、私たちは、列車と地下鉄で福岡空港までいきました。
志賀島といえば金印が有名です。ホテルにも、金印の印影、金印模型などが飾られたり、レプリカも土産物になっていました。妻も大きな金印の飾りと一緒に写真をとりました。
金印は、1784(天明4)年2月23日、志賀島の農民(甚兵衛)が、田んぼに水をひく溝を修理していたところ、たまたま見つけたものでした。一辺2.35cmの立方体で、上には紐が通せる穴があいた蛇の形のつまみ(蛇鈕)がありました。含有率95.1%の金、108.729gからできているため、金印と呼ばれています。
金印には、漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)と書かれていました。そこから、福岡藩の儒学者の亀井南冥(かめい なんめい)は、解読を進めてきました。
中国の「後漢書」の東夷伝倭人条に、当時の皇帝の光武帝が、西暦57年(弥生時代後期)、倭奴国王が後漢の皇帝に朝貢したので、倭奴国王に印綬を与えたという記述ありました。
それと照らし合わせて、金印の印影の「漢」は、中国の後漢王朝(光武帝)が与えたもので、中国の当時の日本国のことを「倭」と呼んでいたので、倭の中のひとつの国家であった「奴國王」に送ったことを意味していると解釈しました。他の説もいくつかあるようですが、この説が、現在の定説となっています。
後漢のころ、記録は木や竹の板に残していました。しかし、重要な文章や記録は、誰も開いていないこと、つまり改竄、捏造をしていないことを示すのに。記録した竹を粘土で封をし、印(しるし)をつけることで密封していました。封として、粘土に金印で文字が押しました。金印の文字は浮き出るよう、作られています。
金印が、なぜ志賀島で見つかったのは謎です。金印は大きな石(二人がかりで持ち上げなければならないほどのサイズ)の下から見つかったそうです。まわりには他の遺構や遺物もないことから、墳墓・石棺説は否定されています。
奴国が滅亡するような危機的状態が起こった時、貴重な金印を奪われないように隠匿したという説が有力です。人目につかない場所で、アプローチが容易な志賀島を隠し場所に選んだと考えられいます。
印文は、漢の配下の奴国王となり、自国の地位が低いことになります。そのため、不名誉なことで、使用せずに封印したという説もあります。また、航海の安全の祈願が、信仰の場であった所に埋められたとする説もあります。いろいろな説があり、謎は残されています。
金印は、長年、福岡藩主黒田家に代々伝えられていたのですが、1931(昭和6)年に国宝に指定されました。1978(昭和53)年に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に展示されています。もし機会があれば、金印の実物を見にいきたいと考えていますが、いつになることでしょうか。
・マリンワールド海の中道・
福岡市は日本海側の玄界灘に面しています。
玄界灘と博多湾の間に大きな砂州があり、
「海の中道」と呼ばれています。
そこにマリンワールドと呼ばれる水族館があります。
マリンワールドは巨大な施設で、
巨大水槽があり、黒潮の生物を中心に展示されています。
また、ペンギン、アザラシ、イルカ、
クラゲも多数展示され、充実していました。
・アイスバーンに雨・
北海道は、寒波と大雪に襲われました。
路面にあった雪が凍り
アイスバーンになりました。
スパイクを靴につけて
なんとか転ばないように対処していました
その直後、急に暖かくなり
雨が降ってきました。
氷の上への雨となったので
非常に滑りやすくなりました。
自宅を出てすぐに、すべって危険なので
大学に歩いていくのを諦めて、
自宅の戻りました。
その日は休みとしました。
翌日も雨だったのですが、
凍っているところは残っていましたが、
かなり路面がでていたので
そこを選びなが歩いて
無事、大学に来れました。