2004年11月11日木曜日

1_35 太古代2:海と大気の形成(2004年11月11日)

 前回の陸の形成に続いて、太古代の2回目は、海と大気の形成についてみていきます。

 はじめに太古代の海についてみてきましょう。冥王代で、海の形成については紹介しましたが、今の海は今のものに過ぎず、過去の海は残されていません。ですから、今ある海から過去の海は探ることができません。
 しかし、海が存在していた間接的な証拠はあります。それは堆積岩です。堆積岩とは、土砂が海で溜まって、固まったものです。ですから、海の存在を、間接的ですが知ることができます。堆積岩の存在は、大陸があり、雨が降り、川ができ、土砂が大陸から川によって海に運ばれるということを意味します。堆積岩ができるということは、海と陸と大気があったということです。
 最古の堆積岩は、冥王代でも紹介しましたが、38億年前のグリーンランドのイスアにあります。それ以降、どの時代にも堆積岩が見つかっており、地球ではいつも海と陸があったということになります。
 グリーランドのイスアには、枕状溶岩という岩石があります。枕状溶岩とは、マグマが水の中で噴出して、枕をたくさん並べたような形になって固まったものです。枕状溶岩も、海があった証拠となります。
 グリーンランドの枕状溶岩は、オフィオライトとよばれる一連の岩石の一部です。オフィオライトとは、昔の海洋地殻を構成していた岩石が、陸上に上がり、保存されているものをいいます。オフィオライトには、枕状溶岩のほかにも、岩脈群、班れい岩、かんらん岩など現在の海洋地殻を構成しているのと同じ岩石が含まれています。グリーランドのイスアの岩石は、最古のオフィオライト、つまり海洋地殻があったことを示しています。
 次は太古代の大気です。冥王代には、二酸化炭素(CO2)あるいは一酸化炭素(CO)や、水蒸気(H2O)、窒素(N2)などを主成分とする大気がありました。これは、金星や火星の大気が似ていて、隕石に含まれている揮発性成分とも一致しています。ところが、現在の地球の大気は、窒素と酸素(O2)を主成分で、二酸化炭素は微量成分にすぎません。
 このよう大気の成分の違いは、地球の大気が、変化してきたことを意味します。窒素は変化しなかったのですが、水蒸気と二酸化炭素がなくなり、酸素が新たに加わらないと、現在の大気になりません。そのような変化が地球では起こったことになります。
 水蒸気は、地球が冷めるとともに、液体の水となります。海の誕生です。今も水蒸気は海に液体として蓄えられています。もし、この海をすべて水蒸気にすると、30 MPa(300気圧)ほどになってしまいます。これは、冥王代に起こった大激変と考えられます。
 酸素は、生物がつくったと考えられています。その証拠として、25億年前から6億年前にかけて、ストロマトライトとよばれる岩石が、大量に見つかっています。ストロマトライトは、同心円状の構造をもつ不思議な岩石なのですが、シアノバクテリアが群生して形成される岩石であることがわかってきました。太古代の終わり、約25億年前頃から、シアノバクテリアが大量に酸素を生産しはじめたことになります。現在では、植物が光合成によって酸素を生産しています。
 二酸化炭素は、石灰岩として、地殻に蓄えられていると考えられています。二酸化炭素は、大陸の岩石に含まれているカルシウムイオン(Ca2+)を、雨が溶かし、川が海に運びます。カルシウムイオンは、海で大気から溶けこんだ炭酸イオンと結合して、炭酸カルシウム(CaCO4)として沈殿します。そのままでは、また溶けていくのですが、プレートテクトニクスによって、陸上に上げる作用が起こります。石灰岩として大地に保存されれば、溶けることはありません。現在、岩石には、5~10 MPa(50~100気圧)もの二酸化炭素が固定されていると見積もられています。
 古生代以降、生物が殻や骨(炭酸カルシウムからできいます)をつくるようになってから、サンゴ礁のように大量に集まると、二酸化炭素が固体になる作用が促進され、陸上で石灰岩として保存できます。生物が炭酸カルシウムを作りようになってからは、二酸化炭素の固化が促進されたと考えられます。
 地殻と海洋、生命、プレートテクトニクスの連携によって、大気の変換が絶え間なく続けられていることになります。

・今年は雪が遅いほうがいい・
北海道では、10月下旬に初雪が降って以来、
暖かい日が続いています。
今年は、誰がなんと言っても、雪が遅いほうがいいのです。
観光やレジャーで雪を待つ人がいるかもしれませんが、
雪は遅ければ遅いほどいいのです。
今年は多くの地域で自然災害がありました。
被災地で、雪はつらいものです。
雪が降れば、復興作業も滞ります。
北海道の台風の復興も徐々に進んでいます。
でも、新潟の余震はまだ続いています。
自分なりにできること、
今までの研究で培ってきたものを活かすにはどうすればいいか。
台風の被災地の積丹、支笏の災害地は、
近いので訪れて地質学者としてみることはできます。
でも、遠いところは、その地の地質学者に任すことになります。
私一人では、あれもこれもできませんが、
新潟の復興のために義捐金を送らせていただきました。
寒いときほど、人の温かさが必要だと思います。

・医療とは・
次男の急性中耳炎はすぐには直らず、
いっきに治すために、強い炎症止めを飲むことなりました。
この薬は、吐き気、下痢、腹痛を伴うもので、
次男は3度ほど吐きました。
月曜日には一応薬を飲まなくていいというお許しができました。
そのときに考えたことがあります。
医療とは、何のため、誰のためなのかということです。
病気の苦痛より治療の苦痛の方が大きいとき、どうすべきでしょうか。
医療とは病気や怪我の苦痛から人を救うものであるはずです。
それを治療のためとはいえ、ひどい苦痛を伴うのは、考えものです。
医学とは難しいものです。
がん治療でも似たようなことがなされます。
これは明らかに間違っていると私は思います。
生を長らえるために、苦痛に耐えることはわかります。
しかし、その先には、やはり、遅かれ早かれ寿命という死があります。
若いうちなら、まだその苦痛に耐えて、次の生を謳歌できるかもしれません。
また、確実に生を保証されているのなら、耐えられるかもしれません。
でも、治癒の可能性が低いのなら、 私は治療を拒否すると思います。
私は40代後半ですが、残りの生を長らえるために、
私はそのような延命治療は望みません。
死の病にかかれば、私は告知されることを望んでいますし、
家族にもその希望は伝えています。
そしてどのような治療を受けるかは、私自身が判断したいと思っています。
たとえ延命できても、頭が働かなくなるような状態なら、私は生を望みません。
苦痛を和らげるだけの治療をして、短い生を望みます。
その残された期間を、私は頭が働く状態で過ごし、死に臨みたいのです。
残された時間で、何をするかはわかりません。
でも、多分、私は淡々と、今と同じ日々を過ごせること望むと思います。
もし毎日を精一杯、目標に向かって進んでいるのであれば、
その生き方を変える必要ないからです。
そんな日々を過ごすことを望んでいるのです。