生物は、地球環境の影響を敏感に受けます。そして弱いものは滅び、強いもの、適応性のあるだけが生き延びます。そして生き延びた生物は、ライバルのいなくなった環境で、勢力を広げていきます。生物とはたくましいものです。そんな生物のたくましさをみてきましょう。
まず、生物誕生の時から話を始めましょう。生命の誕生は、地球誕生のころに遡ります。地球の誕生のころといっても、海が地球にできるようなころの話です。海がいつできたかは、定かではありません。しかし、約38億年前、地球が誕生して、7、8億年後には、りっぱな海がありました。りっぱというのは、広くひろがる今のような海という意味です。
そんな海が、生命誕生の場となります。なぜ、誕生の場が海なのかという疑問がわきます。可能性として、生命は大気や陸などでも誕生するかもしれません。しかし、現在生きている生命の多くは、海と切っても切れない関係があります。細胞の大部分は水からできてます。また、太古の生物は水の中に住んでいたものばかりです。ですから、水の中で誕生するというストーリーが考えられています。
もちろんこれは、私たちが知っているのが地球の生物だけだから、水との関係が強いのかもしれません。もっと他の誕生の場があってもいいかもしれません。でも、私たちは、地球の生命以外の生物は知らないのです。いろいろな生物の誕生の可能性が考えられたとしても、地球外生命を見つけない限り、実証する手立てはありません。ですから、現状では、仮説にとどまります。生命の誕生については、地球生命で考えるしか選択しかなさそうです。
では、水のある星なら、あるいは水があれば、すぐに生命は誕生できるのでしょうか。それとも偶然にしか誕生しないのでしょうか。もし、偶然だとすると地球生命は非常に特殊なものとなります。地球外生命を探すなどということも無駄になってしまうかもしれません。
その答えはまだ見つかっていません。しかし、見つかる可能性があります。もし、水ができてすぐに生命が誕生したという証拠があれば、生命とは結構簡単に誕生できるという可能性がでてきます。つまり、最古の海の証拠から生物の化石あるいは生物の痕跡を見つければ、海の誕生と生命誕生の必然性の関係が大きくなります。
地質学者は、最古の堆積岩を手がかりにして、最古の生物化石探しを続けています。その結果については、次回紹介しましょう。
・生命のたくましさをたどるシリーズ。
生命は、ひとつひとつを取り上げてみていくと、
ちょっとした環境の変化が起こると死んでしまいます。
そういう点では、生き物とは、か弱い存在であります。
しかし、生命全体としてみると、なかなかタフな存在となります。
つまり、生命を個々の生き物としてではなく、
生物全体として考えるということです。
地球上でどのような環境の変化が起こっても、
生命は耐え抜いて生きてきました。
それどころか、生命はそんな逆境を生き延びるために会得した新たな能力を、
今度は、自分たちが生きていくときに
すごく有利な能力へと転用していきました。
そんな生命のたくましい生き方をシリーズとしてたどっていきましょう。
2003年11月20日木曜日
2003年11月13日木曜日
1_27 長い時間と子孫たち(2003年11月13日)
だいぶ以前のことです。ある読者からのメールの一節に「星の寿命って私たち人類と比べるとずっといんですよねー」というのがありました。そのとき私が書いたメールから次のようなエッセイを書きました。
「星の寿命って私たち人類と比べるとずっといんですよねー」そうなんです。星の寿命は、すごく長いのです。わかっていても、実は、100億年や50億年という時間の流れは、人類にとっては、長すぎます。ですから、多分だれも、実感できないと思います。
でも、科学者たるもの、わかったふりをします。でも、それは頭でわかっているだけで、実感がなかなか沸かないのも事実です。こんなたとえ話をしましょう。(このたとえは、私が返事のメールで使ったものです)
人間の1世代を30歳としましょう。30歳で子供を産みます。すべて、30歳で次の世代を一人作るとします。では、その家系で、地球の寿命分の時間(46億年)で生まれた子供の数をすべて足すと、日本の人口より多いでしょうか。少ないでしょうか。どちらでしょう。
答えは簡単に求められます。30年にひとりの子供が生まれるのですから、
46億年÷30年 = 1億5000万人
です。日本の人口を、1億3000万人とすれば、ほぼ、日本の人口に匹敵します。それくらいの時間が経過しています。すごく大きいでしょう。
というような、たとえ話をしました。あまりいい例では、なかったでしょうか。
もうひとつこんなたとえはどうでしょうか。毎日1万円の貯金をしましょう。一生かければ46億円たまるでしょうか。
これも答えは簡単に求めることができます。80歳まで生きるとしましょう。
1万円×365日×80年 = 2億9200万円
となります。46億円ためるには、1260年必要となり、一生では到底貯めることができません。
それくらい、長い時間ということをいいたかったのですが、たとえが、こちらの意図しているとおり伝わるとは限らないのです。
たとえば、1番目の例で、15歳から30歳まで毎年子供を作れば、一人が一生で15名の子供が作れから、46億年たつと、22億5000万人子供をつくれるのか。もし、3名からスタートすれば、たった3つの家系で人類全部がつくれるのか。などというイメージがつぎつぎと膨らんでいくこともあります。2番目の例では、1万円ずつ毎日ためれば、一生で3億円貯められるのかという印象を抱く人もいるかもしれません。
すると、伝えたい数値が、どこかへいってしまい、3名とか、22億、3億などの別の数値が頭に残ってしまいます。これでは、いけません。困ったことになります。
このようにたとえによって、違ったイメージが植えつけられるとこまるので、それくらいなら正確な数字を用いればいいのという当たり前の結論に達します。
問題を生じやすいのは、この例では、人ととか、お金とかをたとえにしました。すると、時間の流れを、別の価値観のある数に置き換えてしまっています。これが問題を生む危険性があります。時間を別の次元や価値観の数字に置き換えているようなときは、注意が必要です。
よく使われるたとえで、地球46億年の歴史を1日、あるいは1年にたとえると、というようなことがります。これは、親しみのない時間を、別の身近な時間に置き換えて、特に、人類の歴史の少なさを実感させるためにたとえとして利用されています。これはこれでよくできた、たとえでしょう。でもそれは、時間が短いということだけに、専念したためです。
しかし、大晦日に人類が生まれたと、大晦日の12時直前に生まれたというようなたとえでは、伝えたいの数値であれば、このような似た性質のたとえは、誤解を招きやすくなります。
さらに、たとえでは、日本の人口を多い、人類の歴史を短いという意味を持たせました。このイメージが多くの人が共通に持つものでないといいたとえとはいえません。人口が1億じゃ少ないと思う人、1年の大晦日の夜や、数秒が短いと思えない人がいれば、このたとえは通じません。
つまり、たとえはしょせんたとえで、あるイメージを抱かせるためにもので、正確にはやはり数値があるなら数値で示すべきでしょう。特に重要なことを伝えるためには、たとえには注意が必要です。
「星の寿命って私たち人類と比べるとずっといんですよねー」そうなんです。星の寿命は、すごく長いのです。わかっていても、実は、100億年や50億年という時間の流れは、人類にとっては、長すぎます。ですから、多分だれも、実感できないと思います。
でも、科学者たるもの、わかったふりをします。でも、それは頭でわかっているだけで、実感がなかなか沸かないのも事実です。こんなたとえ話をしましょう。(このたとえは、私が返事のメールで使ったものです)
人間の1世代を30歳としましょう。30歳で子供を産みます。すべて、30歳で次の世代を一人作るとします。では、その家系で、地球の寿命分の時間(46億年)で生まれた子供の数をすべて足すと、日本の人口より多いでしょうか。少ないでしょうか。どちらでしょう。
答えは簡単に求められます。30年にひとりの子供が生まれるのですから、
46億年÷30年 = 1億5000万人
です。日本の人口を、1億3000万人とすれば、ほぼ、日本の人口に匹敵します。それくらいの時間が経過しています。すごく大きいでしょう。
というような、たとえ話をしました。あまりいい例では、なかったでしょうか。
もうひとつこんなたとえはどうでしょうか。毎日1万円の貯金をしましょう。一生かければ46億円たまるでしょうか。
これも答えは簡単に求めることができます。80歳まで生きるとしましょう。
1万円×365日×80年 = 2億9200万円
となります。46億円ためるには、1260年必要となり、一生では到底貯めることができません。
それくらい、長い時間ということをいいたかったのですが、たとえが、こちらの意図しているとおり伝わるとは限らないのです。
たとえば、1番目の例で、15歳から30歳まで毎年子供を作れば、一人が一生で15名の子供が作れから、46億年たつと、22億5000万人子供をつくれるのか。もし、3名からスタートすれば、たった3つの家系で人類全部がつくれるのか。などというイメージがつぎつぎと膨らんでいくこともあります。2番目の例では、1万円ずつ毎日ためれば、一生で3億円貯められるのかという印象を抱く人もいるかもしれません。
すると、伝えたい数値が、どこかへいってしまい、3名とか、22億、3億などの別の数値が頭に残ってしまいます。これでは、いけません。困ったことになります。
このようにたとえによって、違ったイメージが植えつけられるとこまるので、それくらいなら正確な数字を用いればいいのという当たり前の結論に達します。
問題を生じやすいのは、この例では、人ととか、お金とかをたとえにしました。すると、時間の流れを、別の価値観のある数に置き換えてしまっています。これが問題を生む危険性があります。時間を別の次元や価値観の数字に置き換えているようなときは、注意が必要です。
よく使われるたとえで、地球46億年の歴史を1日、あるいは1年にたとえると、というようなことがります。これは、親しみのない時間を、別の身近な時間に置き換えて、特に、人類の歴史の少なさを実感させるためにたとえとして利用されています。これはこれでよくできた、たとえでしょう。でもそれは、時間が短いということだけに、専念したためです。
しかし、大晦日に人類が生まれたと、大晦日の12時直前に生まれたというようなたとえでは、伝えたいの数値であれば、このような似た性質のたとえは、誤解を招きやすくなります。
さらに、たとえでは、日本の人口を多い、人類の歴史を短いという意味を持たせました。このイメージが多くの人が共通に持つものでないといいたとえとはいえません。人口が1億じゃ少ないと思う人、1年の大晦日の夜や、数秒が短いと思えない人がいれば、このたとえは通じません。
つまり、たとえはしょせんたとえで、あるイメージを抱かせるためにもので、正確にはやはり数値があるなら数値で示すべきでしょう。特に重要なことを伝えるためには、たとえには注意が必要です。
2003年11月6日木曜日
6_33 それぞれの境界:KT境界
平らな畑の先に、断崖絶壁があります。すとんと切ったような大地の切れ目が、あまりにも唐突にあります。断崖は数十メートルの落差があります。その断崖の先は、海です。そんな断崖に地球の大異変が記録されていました。
デンマークは、スカンジナ半島にむかって突き出した形のユトランド半島といくつかの島からなっています。東にある大きな島、シェラン島には、首都のコペンハーゲンがあります。コペンハーゲンの南へ、車で2、3時間ほど走るとスティーブンクリント海岸というところがあります。
スティーブンクリント海岸は、ささやか観光地ですが、観光客がバスで乗りつけるようなところでもありません。ほとんど人の来ないひっそりとした観光地です。そこは、小さな教会が一つ、小さな博物館が一つ、レストランが一つだけの、ささやかなものです。
私が訪れたのは、2000年7月の夏でした。2日間いたのですが、観光客はぽつりぽつとしかみかけませんでした。スクールバスで、子供たちが乗りつけ、その周辺を散策して、断崖の下の海岸におりて、そんなに広くない海辺で遊んでいました。ここには、海岸におりるための階段が作られているのです。でも、泳ぐ人は、見当たりしません。もっとも、岩がごろごろした海岸なので、泳ぐことはできそうにありませんし、何といっても寒かったのです。ダイビングをする2人連れをみかけましたが、寒むそうでした。
こんなとりたてて見るべきもののなさそうなところに、なぜ来たかというと、海岸へ降りるところにある1枚の色あせた看板が、その理由を物語っています。じつは、ここには、KT境界があるのです。
KT境界とは、白亜紀と第三紀の時代境界、あるいは中生代と新生代の境界ともいえます。KT境界では、恐竜の絶滅が起こっています。その時代の境界は、各地にあるのですが、ここでみられる境界は明瞭で、だれもがその境界を簡単に見つけて、みることができます。
境界の上下の地層は、チョークと呼ばれる白っぽい岩石からできていて、時代境界のところだけ、黒っぽい粘土からできています。ですから、色がはっきりと違うので、だれでも見分けられます。
チョークは、黒板に字を書くチョークの原料で、かつては黒板用に本物の岩石が用いられていましたが、今ではチョークも工業的につくられています。チョークとは、日本語で、白亜(はくあ)とも呼ばれています。まさに白亜紀の白亜です。チョークは石灰質の泥が固まったものです。石灰質の泥とは、海の有孔虫やココリスなどの微生物の遺骸が海底にまたったものです。チョークは暖かい海でたまってできるものです。このような白亜の崖は、北アメリカ大陸やヨーロッパの大西洋岸に広がっています。
でも考えると不思議なことです。時代境界の上下が同じ石なのに、時代境界だけが違う石でできているのです。つまり、白亜紀の終わりも第三紀の初めのころも、同じようなチョークがたまる暖かい海であったのが、白亜紀と第三紀の時代の境界だけが、違う石がたまる環境となったということです。つまり、何らかの環境変化があったということです。その環境変化によって、恐竜絶滅がおこったのです。
では、その環境変化は、なぜ起こったのでしょうか。環境変化は、一般には、寒冷化や温暖化などの地球全体の気候変動、あるいは、プレートテクトニクスなどによって、大陸の位置や配置、地形が変わることによっておこります。しかし、そのような環境変化は、ある日突然訪れるのではなく、ゆっくりと何万年もかけて起こる変化です。そのようなゆっくりとした変化なら、多くの生物が絶滅したとしても、ある種類の生物はそんな環境の変化に対応して、進化していくものもでてくるはずです。でも、白亜紀末には、多くの生物が、突如として、姿を消したのです。つまり、この環境変化は、生物に進化する余裕もあたえず、おこったものだと考えられます。
それは変化というのではなく、突如起こった異変ともいうべき、突然の出来事だったはずです。その異変は、隕石の衝突によるものだと考えられています。直径10kmほどの隕石が、中部アメリカのユカンタン半島に落ちたと考えられています。その時の事件のシナリオはいろいろなものが考えられていますが、概略としては次のようなものです。
隕石がぶつかった直後は、ものすごい衝撃波や熱が走り抜けます。これは巨大な爆発と同じことが起こります。爆発によって、周辺の生き物は焼く尽くされてしまいます。しかし、その被害は爆心地周辺だけです。問題は、そのあとです。巨大津波、大気の上空まで舞上がる埃やすすなど、私たち人類が経験もしたことのない、想像を絶するような異変です。
世界中の低地は津波に洗われます。なにより問題は、大気上空に舞い上がった埃やすすです。地表には光が届かないほど、多くの埃が成層圏に上がり、何年も落ちることなく、地表を真っ暗にします。光のないところでは、光合成をしていた植物は死に絶え、草食の生物は餌がなくなり死に、肉食の生物も死にます。そして、他の生物の死骸を分解していた生物も死にます。つまり、地球全体の生態系がつぶれてしまうのです。特に大型の恐竜のような生物は、絶滅してしまいます。また、海洋の微生物にもその影響は及びます。
こんな大異変がチョークの間の粘土層には記録されています。粘土層ができたのは、チョークのもととなる海の生き物が死に絶えたからです。それまでも、粘土の成分の堆積はあったのですが、チョークの量の多さに隠れて、存在がわからなかったのが、チョークが堆積できなくなったことによって、粘土層として現れてきたのです。
世界中のKT境界の地層を調べていくと、隕石から由来した粒や、イリジウムという地表の岩石にはほとんど含まれず隕石にはたくさんある元素や、衝撃でつぶされた鉱物、飛び散ったすすなどが含まれていることがわかってきました。これらは、すべて隕石の衝突を物語る証拠とされています。
ところが、生き残った生物もいました。それが、私たちの祖先の哺乳類であり、粘土層より上のチョークを作った微生物であります。生物は弱さと強さの両面を持っています。ある過酷な環境が訪れた時、それに耐えられないものは絶滅し、それを耐えにいた生物は後に大繁栄できます。生き抜いた微生物は、やがて暖かい海で再びチョークを作れるほどに大繁栄しました。哺乳類も新生代には大繁栄し、KT境界の大絶滅を考えるような生物、ヒトが誕生しました。
スティーブンクリント海岸の色あせた看板には、KT境界がここで見られるという説明があり、小さい博物館では、KT境界についての説明がされていました。観光客は小さな教会を訪れ、子供たちは海と陸の境界に遊びます。私は過ぎ去ったKTの時代境界に思いをはせました。
デンマークは、スカンジナ半島にむかって突き出した形のユトランド半島といくつかの島からなっています。東にある大きな島、シェラン島には、首都のコペンハーゲンがあります。コペンハーゲンの南へ、車で2、3時間ほど走るとスティーブンクリント海岸というところがあります。
スティーブンクリント海岸は、ささやか観光地ですが、観光客がバスで乗りつけるようなところでもありません。ほとんど人の来ないひっそりとした観光地です。そこは、小さな教会が一つ、小さな博物館が一つ、レストランが一つだけの、ささやかなものです。
私が訪れたのは、2000年7月の夏でした。2日間いたのですが、観光客はぽつりぽつとしかみかけませんでした。スクールバスで、子供たちが乗りつけ、その周辺を散策して、断崖の下の海岸におりて、そんなに広くない海辺で遊んでいました。ここには、海岸におりるための階段が作られているのです。でも、泳ぐ人は、見当たりしません。もっとも、岩がごろごろした海岸なので、泳ぐことはできそうにありませんし、何といっても寒かったのです。ダイビングをする2人連れをみかけましたが、寒むそうでした。
こんなとりたてて見るべきもののなさそうなところに、なぜ来たかというと、海岸へ降りるところにある1枚の色あせた看板が、その理由を物語っています。じつは、ここには、KT境界があるのです。
KT境界とは、白亜紀と第三紀の時代境界、あるいは中生代と新生代の境界ともいえます。KT境界では、恐竜の絶滅が起こっています。その時代の境界は、各地にあるのですが、ここでみられる境界は明瞭で、だれもがその境界を簡単に見つけて、みることができます。
境界の上下の地層は、チョークと呼ばれる白っぽい岩石からできていて、時代境界のところだけ、黒っぽい粘土からできています。ですから、色がはっきりと違うので、だれでも見分けられます。
チョークは、黒板に字を書くチョークの原料で、かつては黒板用に本物の岩石が用いられていましたが、今ではチョークも工業的につくられています。チョークとは、日本語で、白亜(はくあ)とも呼ばれています。まさに白亜紀の白亜です。チョークは石灰質の泥が固まったものです。石灰質の泥とは、海の有孔虫やココリスなどの微生物の遺骸が海底にまたったものです。チョークは暖かい海でたまってできるものです。このような白亜の崖は、北アメリカ大陸やヨーロッパの大西洋岸に広がっています。
でも考えると不思議なことです。時代境界の上下が同じ石なのに、時代境界だけが違う石でできているのです。つまり、白亜紀の終わりも第三紀の初めのころも、同じようなチョークがたまる暖かい海であったのが、白亜紀と第三紀の時代の境界だけが、違う石がたまる環境となったということです。つまり、何らかの環境変化があったということです。その環境変化によって、恐竜絶滅がおこったのです。
では、その環境変化は、なぜ起こったのでしょうか。環境変化は、一般には、寒冷化や温暖化などの地球全体の気候変動、あるいは、プレートテクトニクスなどによって、大陸の位置や配置、地形が変わることによっておこります。しかし、そのような環境変化は、ある日突然訪れるのではなく、ゆっくりと何万年もかけて起こる変化です。そのようなゆっくりとした変化なら、多くの生物が絶滅したとしても、ある種類の生物はそんな環境の変化に対応して、進化していくものもでてくるはずです。でも、白亜紀末には、多くの生物が、突如として、姿を消したのです。つまり、この環境変化は、生物に進化する余裕もあたえず、おこったものだと考えられます。
それは変化というのではなく、突如起こった異変ともいうべき、突然の出来事だったはずです。その異変は、隕石の衝突によるものだと考えられています。直径10kmほどの隕石が、中部アメリカのユカンタン半島に落ちたと考えられています。その時の事件のシナリオはいろいろなものが考えられていますが、概略としては次のようなものです。
隕石がぶつかった直後は、ものすごい衝撃波や熱が走り抜けます。これは巨大な爆発と同じことが起こります。爆発によって、周辺の生き物は焼く尽くされてしまいます。しかし、その被害は爆心地周辺だけです。問題は、そのあとです。巨大津波、大気の上空まで舞上がる埃やすすなど、私たち人類が経験もしたことのない、想像を絶するような異変です。
世界中の低地は津波に洗われます。なにより問題は、大気上空に舞い上がった埃やすすです。地表には光が届かないほど、多くの埃が成層圏に上がり、何年も落ちることなく、地表を真っ暗にします。光のないところでは、光合成をしていた植物は死に絶え、草食の生物は餌がなくなり死に、肉食の生物も死にます。そして、他の生物の死骸を分解していた生物も死にます。つまり、地球全体の生態系がつぶれてしまうのです。特に大型の恐竜のような生物は、絶滅してしまいます。また、海洋の微生物にもその影響は及びます。
こんな大異変がチョークの間の粘土層には記録されています。粘土層ができたのは、チョークのもととなる海の生き物が死に絶えたからです。それまでも、粘土の成分の堆積はあったのですが、チョークの量の多さに隠れて、存在がわからなかったのが、チョークが堆積できなくなったことによって、粘土層として現れてきたのです。
世界中のKT境界の地層を調べていくと、隕石から由来した粒や、イリジウムという地表の岩石にはほとんど含まれず隕石にはたくさんある元素や、衝撃でつぶされた鉱物、飛び散ったすすなどが含まれていることがわかってきました。これらは、すべて隕石の衝突を物語る証拠とされています。
ところが、生き残った生物もいました。それが、私たちの祖先の哺乳類であり、粘土層より上のチョークを作った微生物であります。生物は弱さと強さの両面を持っています。ある過酷な環境が訪れた時、それに耐えられないものは絶滅し、それを耐えにいた生物は後に大繁栄できます。生き抜いた微生物は、やがて暖かい海で再びチョークを作れるほどに大繁栄しました。哺乳類も新生代には大繁栄し、KT境界の大絶滅を考えるような生物、ヒトが誕生しました。
スティーブンクリント海岸の色あせた看板には、KT境界がここで見られるという説明があり、小さい博物館では、KT境界についての説明がされていました。観光客は小さな教会を訪れ、子供たちは海と陸の境界に遊びます。私は過ぎ去ったKTの時代境界に思いをはせました。
2003年10月30日木曜日
5_27 宇宙の昔鏡
私たちには、「現在」しか感じられません。「過去」は、現在に残された記録や記憶でしか、見ることができないのです。でも、これは本当でしょうか。
宇宙は広大です。どれほど広大かというと、この世で一番速いとされる光でも、届くのに長い時間がかかります。光は1秒間に30万キロメートルも進みます。秒速30万キロメートルとは、1秒間で地球を7.5周してしまうほどのスピードです。とてつもないスピードのように見えます。
ところが、宇宙は広大です。たとえば月までの距離を考えると、月の光は、月の表面を発った光は、1.28秒前のものになります。このように考えていくと、太陽系から遠く離れた星の光は、はるか昔にその星をでたことになります。宇宙が広大であることは、「宇宙では、過去がみている」という意味でもあります。逆に言うと、「今」「現在」などというものが存在するのは、宇宙では、局所でしか起こらない現象なのかもしれません。
さて、この広大な宇宙を利用して、思考実験をして見ましょう。思考実験とは、現実にはできないけれど、頭の中で考えて実験してみるという方法のことです。
地球を映す鏡が、宇宙空間あるとしましょう。これを「宇宙の昔鏡」とよびましょう。さらに、どんなに遠くにその「宇宙の昔鏡」があっても、その鏡に映った像を、地球から観測できる高性能の望遠鏡があるとします。
さて、この「宇宙の昔鏡」が月の表面にあるとしましょう。そこに映った地球の像は、月までの距離を光が往復するに要する時間、つまり、1.28秒かける2で、2.56秒前の地球の姿を見ることになります。
この「宇宙の昔鏡」をずーっと遠くにまで持っていくと、光がそこに届くのに時間がさらにかかることになります。そのために、地球から、遠くの「宇宙の昔鏡」をみると、光が往復にかかった時間だけ、昔の地球の像を見ることになります。もし鏡が1億光年のかなたにあるとすると、その像を地球から見ると、2億年前の地球の様子が映っていることになります。人がタイムトラベルをすることはできないのですが、過去の姿はこの原理によって見ることができるのです。
「宇宙の昔鏡」は、宇宙が非常に大きいので、「宇宙だけは、過去を直接みることができる例外的なもの」と考えることができます。でも、よく考えると、宇宙というものは大きいし、私たち自身が宇宙の一部に過ぎません。ですから、例外という扱いは、おかしいのかもしれません。私たちが、小さすぎて、例外的な、局所的な見方しかできないのかもしれません。
「宇宙の昔鏡」は、私たちが宇宙と比べると、あまりにもちっぽけであることを、教えてくれているのです。
・ネタ・
実は、この「宇宙の昔鏡」というのは私がつけたものですが、
このアイディアは昔、本で読んだような気がするのですが、
定かでありません。
もし、だれかがこの考えをどこかで述べたのであるなら、
その人のオリジナリティを尊重します。
しかし、定かでないので、
私が、かなり勝手に考えたものでもあります。
宇宙は広大です。どれほど広大かというと、この世で一番速いとされる光でも、届くのに長い時間がかかります。光は1秒間に30万キロメートルも進みます。秒速30万キロメートルとは、1秒間で地球を7.5周してしまうほどのスピードです。とてつもないスピードのように見えます。
ところが、宇宙は広大です。たとえば月までの距離を考えると、月の光は、月の表面を発った光は、1.28秒前のものになります。このように考えていくと、太陽系から遠く離れた星の光は、はるか昔にその星をでたことになります。宇宙が広大であることは、「宇宙では、過去がみている」という意味でもあります。逆に言うと、「今」「現在」などというものが存在するのは、宇宙では、局所でしか起こらない現象なのかもしれません。
さて、この広大な宇宙を利用して、思考実験をして見ましょう。思考実験とは、現実にはできないけれど、頭の中で考えて実験してみるという方法のことです。
地球を映す鏡が、宇宙空間あるとしましょう。これを「宇宙の昔鏡」とよびましょう。さらに、どんなに遠くにその「宇宙の昔鏡」があっても、その鏡に映った像を、地球から観測できる高性能の望遠鏡があるとします。
さて、この「宇宙の昔鏡」が月の表面にあるとしましょう。そこに映った地球の像は、月までの距離を光が往復するに要する時間、つまり、1.28秒かける2で、2.56秒前の地球の姿を見ることになります。
この「宇宙の昔鏡」をずーっと遠くにまで持っていくと、光がそこに届くのに時間がさらにかかることになります。そのために、地球から、遠くの「宇宙の昔鏡」をみると、光が往復にかかった時間だけ、昔の地球の像を見ることになります。もし鏡が1億光年のかなたにあるとすると、その像を地球から見ると、2億年前の地球の様子が映っていることになります。人がタイムトラベルをすることはできないのですが、過去の姿はこの原理によって見ることができるのです。
「宇宙の昔鏡」は、宇宙が非常に大きいので、「宇宙だけは、過去を直接みることができる例外的なもの」と考えることができます。でも、よく考えると、宇宙というものは大きいし、私たち自身が宇宙の一部に過ぎません。ですから、例外という扱いは、おかしいのかもしれません。私たちが、小さすぎて、例外的な、局所的な見方しかできないのかもしれません。
「宇宙の昔鏡」は、私たちが宇宙と比べると、あまりにもちっぽけであることを、教えてくれているのです。
・ネタ・
実は、この「宇宙の昔鏡」というのは私がつけたものですが、
このアイディアは昔、本で読んだような気がするのですが、
定かでありません。
もし、だれかがこの考えをどこかで述べたのであるなら、
その人のオリジナリティを尊重します。
しかし、定かでないので、
私が、かなり勝手に考えたものでもあります。
2003年10月23日木曜日
5_26 石は、なぜ硬くなるのか
ある人から、質問を受けました。深海にたまった微生物の死骸がチャートという硬い岩石になるのですが、それのプロセスがわからないという質問でした。この質問に答えたものから、このエッセイは生まれました。
素朴な疑問がよくあります。でも、その素朴な疑問を解き明かすには、さまざなま知識の積み重ねが必要となることもあります。堆積物が、なぜ、硬い石、堆積岩になるかということを考えてみましょう。
チャートは、プランクトンの死骸が集まり、固まってできたものです。プランクトンの死骸のような一見軽い堆積物には浮力が働いてるため、大きな圧力を受けないのでは、と思ってしまいます。しかし、プランクトンが海底に沈んでくる時点で、まず、海水の浮力に質量が勝っているはずです。
水の密度1g/cm3に対して、プランクトンの遺骸の原料でもあり、チャートを構成する鉱物でもある石英の密度は、2.6 g/cm3ほどあります。プランクトンの遺骸の原料である石は、実は重いのです。ですから、大量に上に積み重なるっていくと、どんどん圧力は大きくなっていきます。
チャートのもととなる堆積物は、生物の遺骸(石英)プラス水の密度です。つまり、密度は、1から2.6g/cm3の間ですが、上からの圧力によって、圧縮されることで上に水が抜けていきます。これにより堆積物の密度は、より大きくなっていきます。このようにしてプランクトンの遺骸には圧力がかかり、圧縮されていきます。
岩石になる時には、圧力だけでなく、温度の効果も加わります。
冷たい海底では、温度は4℃くらいしかありません。なぜ、こんな冷たい海底で温度が加わるのでしょうか。
岩石は堆積物は断熱効果を持っています。
陸地での地表の温度を考えると、けっこう温度変化は激しいものです。しかし、地下では地表の気温変化をあまり受けず、年中一定の温度になっています。これは、岩石が地表の気温変化に対して断熱効果が働らいてるからです。つまり、地下に暖かいものがあると、海水が冷たくてもなかなか冷めないということです。
そんな条件を持っているところに加えて、地球内部からの熱の供給があるのです。つまり、チャートには、圧力が上がるだけでなく、温度も上がっていくという仕組みがあります。地下深くなるにつれて、地殻の温度が上がっていきます。このような効果を地温勾配と呼んでいます。地表付近で地温勾配は、20から30℃/km程度です。それは、地球自身が持っている熱によるものです。堆積岩はそれほど高温にはなりませんが、熱と圧力によって、長い時間をかけて固まっていきます。
長い時間を経るにしたがって、岩石は一般に圧力と温度が上がるおかげで硬くなっていきます。岩石の固まりぐわいをあらわす方法はいくつかありますが、そのひとつに空隙率というものがあります。空隙率とは隙間の多さのことです。深く埋もれた岩石ほど空隙率は小さくなります。
日本の岩石でみますと、たまり始めの堆積物は、60から85%ほどの空隙率ですが、1000メートルの深さに埋もれると30%、2000メートルでは20%以下になります。深くに埋もれている堆積岩からは、いまだに水がしぼり出されていることになります。堆積岩が海でたまったものなら、しぼり出される水は、海水です。
火山のない地帯に温泉がでることがありますが、そのような場合、深いところにある堆積岩からしぼり出された水から由来しているものです。そんな温泉は、地温勾配によって温度が上がったものです。そしてもし、その堆積岩は海底でたまったものなら、温泉は食塩泉つまり海水となります。このような水を古海水と呼ぶことがあります。その古海水は、堆積岩がたまった時代の海水です。食塩泉の温泉につかるということは、古い時代の海水につかるということでもあります。そんなことを考えて温泉に入ってみてはいかがでしょうか。
・素朴な疑問・
素朴な疑問は、以前、シリーズで行ないました。
今回もそんな素朴な疑問でした。
当たり前に思っていることも、考えるとよくわからなかったり、
答えを出すのにいろいろな知識が必要だったり、
その答えは思わぬことを教えてくれたりします。
今回の素朴な疑問も、そんな例でした。
私自身、いろいろなことの関連に気づくという意味でも
なかなか面白いものです。
こんな内容も、これからも時々書いていこうと思います。
・子供から教わる・
ちょっと親ばかになりそうで心配ですが、そんな話をします。
以前、長男(5歳)がカタカナを知らないうちに
覚えていたので驚いた話です。
ひらかなは、教え、書く練習をさせたことがあったのですが、
根気が続かないようなので、
「嫌だったら練習はしなくてもいいよ」というと、
その通りに、ほとんど字を書く練習はしていませんでした。
でも、ひらかなは、つまりながらも
だいぶ読めるようになってきていました。
ときどきカタカナがあると
「まだ、カタカナは知らないから読めないよ」っていいながら
読んで聞かせると、一部おほえているようでしたが、まだまだでした。
しかし、ある時突然、長男がカタカナを読み出したのです。
家内が、車で長男を幼稚園まで迎えに行ったら、
前に止まっている車のボディでカタカナで書かれた文字を、
突然、読んだのです。
その理由を家内が突き止めました。
我が家では、長男がひらかなを覚えるために、
冷蔵庫にひらかなの絵付の表がはってあります。
シールを一杯張っていたり、端っこを次男が破ったりで、
もうぼろぼろですが、テープやシールで補修しながらも、
かろうじて文字が読める状態のものです。
長男がしょっちゅうそこで声を上げて文字を読んでいました。
てっきりひらかなの読む練習をしていたと思っていましたが、
よく見ると、その表には小さな字で
カタカナも書いてあることに、家内が気づきました。
ひらかなと絵を頼りにカタカナを覚えたようです。
人間は興味をもつと、知らず知らずのうちに独習できるのです。
無理に覚えさせようとすると、なかなか覚えられませんが、
「まだ読めないよ」といっていると、それに反発してでしょうか、
独習していたのです。
親ばかではなく、人間の能力のすごさには驚かされました。
大人も見習わなければなりません。
大人はついつい、条件や環境を重視します。
道具がないと始められないとか、
指導者いなとできなとか、
教科書がないと何からはじめていいかわからないとか、
みんなが見ていると恥ずかしいとか、
あれやこれや理由をつけ、
はじめもしないことがいかに多いことでしょうか。
好奇心、興味に任せて、こつこつと
好きなところからはじめればいいではないでしょうか。
それがいちばんの上達の道かもしれません。
子供から学ぶことの基本を教わったような気がしました。
素朴な疑問がよくあります。でも、その素朴な疑問を解き明かすには、さまざなま知識の積み重ねが必要となることもあります。堆積物が、なぜ、硬い石、堆積岩になるかということを考えてみましょう。
チャートは、プランクトンの死骸が集まり、固まってできたものです。プランクトンの死骸のような一見軽い堆積物には浮力が働いてるため、大きな圧力を受けないのでは、と思ってしまいます。しかし、プランクトンが海底に沈んでくる時点で、まず、海水の浮力に質量が勝っているはずです。
水の密度1g/cm3に対して、プランクトンの遺骸の原料でもあり、チャートを構成する鉱物でもある石英の密度は、2.6 g/cm3ほどあります。プランクトンの遺骸の原料である石は、実は重いのです。ですから、大量に上に積み重なるっていくと、どんどん圧力は大きくなっていきます。
チャートのもととなる堆積物は、生物の遺骸(石英)プラス水の密度です。つまり、密度は、1から2.6g/cm3の間ですが、上からの圧力によって、圧縮されることで上に水が抜けていきます。これにより堆積物の密度は、より大きくなっていきます。このようにしてプランクトンの遺骸には圧力がかかり、圧縮されていきます。
岩石になる時には、圧力だけでなく、温度の効果も加わります。
冷たい海底では、温度は4℃くらいしかありません。なぜ、こんな冷たい海底で温度が加わるのでしょうか。
岩石は堆積物は断熱効果を持っています。
陸地での地表の温度を考えると、けっこう温度変化は激しいものです。しかし、地下では地表の気温変化をあまり受けず、年中一定の温度になっています。これは、岩石が地表の気温変化に対して断熱効果が働らいてるからです。つまり、地下に暖かいものがあると、海水が冷たくてもなかなか冷めないということです。
そんな条件を持っているところに加えて、地球内部からの熱の供給があるのです。つまり、チャートには、圧力が上がるだけでなく、温度も上がっていくという仕組みがあります。地下深くなるにつれて、地殻の温度が上がっていきます。このような効果を地温勾配と呼んでいます。地表付近で地温勾配は、20から30℃/km程度です。それは、地球自身が持っている熱によるものです。堆積岩はそれほど高温にはなりませんが、熱と圧力によって、長い時間をかけて固まっていきます。
長い時間を経るにしたがって、岩石は一般に圧力と温度が上がるおかげで硬くなっていきます。岩石の固まりぐわいをあらわす方法はいくつかありますが、そのひとつに空隙率というものがあります。空隙率とは隙間の多さのことです。深く埋もれた岩石ほど空隙率は小さくなります。
日本の岩石でみますと、たまり始めの堆積物は、60から85%ほどの空隙率ですが、1000メートルの深さに埋もれると30%、2000メートルでは20%以下になります。深くに埋もれている堆積岩からは、いまだに水がしぼり出されていることになります。堆積岩が海でたまったものなら、しぼり出される水は、海水です。
火山のない地帯に温泉がでることがありますが、そのような場合、深いところにある堆積岩からしぼり出された水から由来しているものです。そんな温泉は、地温勾配によって温度が上がったものです。そしてもし、その堆積岩は海底でたまったものなら、温泉は食塩泉つまり海水となります。このような水を古海水と呼ぶことがあります。その古海水は、堆積岩がたまった時代の海水です。食塩泉の温泉につかるということは、古い時代の海水につかるということでもあります。そんなことを考えて温泉に入ってみてはいかがでしょうか。
・素朴な疑問・
素朴な疑問は、以前、シリーズで行ないました。
今回もそんな素朴な疑問でした。
当たり前に思っていることも、考えるとよくわからなかったり、
答えを出すのにいろいろな知識が必要だったり、
その答えは思わぬことを教えてくれたりします。
今回の素朴な疑問も、そんな例でした。
私自身、いろいろなことの関連に気づくという意味でも
なかなか面白いものです。
こんな内容も、これからも時々書いていこうと思います。
・子供から教わる・
ちょっと親ばかになりそうで心配ですが、そんな話をします。
以前、長男(5歳)がカタカナを知らないうちに
覚えていたので驚いた話です。
ひらかなは、教え、書く練習をさせたことがあったのですが、
根気が続かないようなので、
「嫌だったら練習はしなくてもいいよ」というと、
その通りに、ほとんど字を書く練習はしていませんでした。
でも、ひらかなは、つまりながらも
だいぶ読めるようになってきていました。
ときどきカタカナがあると
「まだ、カタカナは知らないから読めないよ」っていいながら
読んで聞かせると、一部おほえているようでしたが、まだまだでした。
しかし、ある時突然、長男がカタカナを読み出したのです。
家内が、車で長男を幼稚園まで迎えに行ったら、
前に止まっている車のボディでカタカナで書かれた文字を、
突然、読んだのです。
その理由を家内が突き止めました。
我が家では、長男がひらかなを覚えるために、
冷蔵庫にひらかなの絵付の表がはってあります。
シールを一杯張っていたり、端っこを次男が破ったりで、
もうぼろぼろですが、テープやシールで補修しながらも、
かろうじて文字が読める状態のものです。
長男がしょっちゅうそこで声を上げて文字を読んでいました。
てっきりひらかなの読む練習をしていたと思っていましたが、
よく見ると、その表には小さな字で
カタカナも書いてあることに、家内が気づきました。
ひらかなと絵を頼りにカタカナを覚えたようです。
人間は興味をもつと、知らず知らずのうちに独習できるのです。
無理に覚えさせようとすると、なかなか覚えられませんが、
「まだ読めないよ」といっていると、それに反発してでしょうか、
独習していたのです。
親ばかではなく、人間の能力のすごさには驚かされました。
大人も見習わなければなりません。
大人はついつい、条件や環境を重視します。
道具がないと始められないとか、
指導者いなとできなとか、
教科書がないと何からはじめていいかわからないとか、
みんなが見ていると恥ずかしいとか、
あれやこれや理由をつけ、
はじめもしないことがいかに多いことでしょうか。
好奇心、興味に任せて、こつこつと
好きなところからはじめればいいではないでしょうか。
それがいちばんの上達の道かもしれません。
子供から学ぶことの基本を教わったような気がしました。
2003年10月16日木曜日
4_40 生の自然:留萌
夏の終わりに、留萌川の調査に1泊2日で出かけました。もちろん宿泊は、温泉です。ただし、留萌には温泉が神居岩温泉しかありませんでしたので、他の選択肢はありませんでした。
北海道、札幌から80kmほど北に、日本海側に面して暑寒別岳(1491m)を主峰とする山塊があります。山塊の北西の海側には、留萌市があります。山塊の西側を巡る国道231号線は、断崖絶壁の険しい道です。
そんな海岸沿いの道路に一番奥まった雄冬は、陸の孤島でした。まともな道路がなく、船でしか往来ができないようなところでした。いまでも海岸線沿いの道路は崩落危険箇所でもあり、雪や雨、風が強いと通行止めになります。
切り立った断崖絶壁は、地質学者には、じつは、喜ばしいところなのです。なぜなら、断崖絶壁は、岩石や地層が良く見えるところだからです。地質学者には、なかなか見ごたえがある景色となっています。暑寒別の山塊は火山でできています。ですから海岸線の露頭では、溶岩がつくるいろいろな構造や、溶岩が海に入ったときできる構造が見ることができます。
溶岩の構造としては、節理(せつり)というものがいろいろみられます。節理とは、マグマが固まるとき体積が少し減ります。すると溶岩は縮むときに割れ目ができます。このような割れ目を節理とよんでいます。その節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまなものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっている柱状節理、放射状になっている放射状節理などがみれます。
溶岩が海に入ったときできる構造は、特有のなものがあります。マグマが海水に入ると、急激に冷やされるので、割れてしまいます。壊れたものが集まった岩石ができます。マグマは急激に冷えてしまうので、ほどんど結晶もできる余裕もなく、固まってしまいます。このような溶岩をハイアロクラスタイト(hyaloclastite)と呼んでいます。ハイアロ(hyalo)とはガラス、クラスト(clast)とは壊れたという意味で、最後のアイト(ite)と石につける接尾語です。
マグマが急令されても、壊れることなく丸い枕のようになって固まることがあります。でもあとからマグマが押し出してくると、枕状の溶岩が一部に穴が開き、次の枕ができます。これが積み重なったような溶岩もできます。これを枕状溶岩といいます。
ハイアロクラスタイトや枕状溶岩は、火山の噴出物でも海中でできる特殊なものですが、海洋底の岩石の調査が進むにつれて、その様子が良くわかるようになってきました。そして特別なものではなく、陸地にも過去の海底の岩石が持ち上げられたオフィオライトと呼ばれるものにも、たくさんあることがわかってきました。
人を長く拒絶してきた自然は荒々しいものでしたが、そのおかげで、生の自然を目の当たりにすることができました。そして、そんな自然に戦ってきた人の営みを、小さな村々に感じることができました。
・川の調査・
今年も、旅シリーズが続いています。
これは北海道の地質学者にとっては、宿命とも言うべきことです。
しょうがないことなのです。
夏しか調査できないのですから。
そして処理しきれないほどの資料が研究室に積みあげられていきます。
これは、調査には出れない雪の季節に、こつこつと処理していきます。
私の研究テーマは、北海道の川と火山です。
地質学的資料として、川では、石ころ(転石といいます)と砂を採集します。
石ころは、統計処理できるように50cm四方の枠内で
大きいものから順に、100個の石ころを拾い集めます。
北海道の一級河川河川は13個あります。
それを3年ほどで調査し、画像付のデータベースをつくろうと考えています。
火山では岩石資料を採集します。
北海道には100座ほどの火山があります。
できれば、その火山を何とか調査したいと考えています。
これには、時間がかかりそうなので、
慌てないことにしています。
もちろん、どこでも大量の写真を撮影します。
砂は、いたるところで採集します。
また、北海道の川と比較するために、
日本各地の代表的河川の調査をしています。
などなど出かけなければならないところが一杯あります。
でも、一応予定を立てて出かけていますので、
川の調査は、3年ほどで終了するつもりです。
夏にはお付き合い願います。
・留萌川・
留萌川は北海道の一級河川でもいちばん小さいものです。
長さ(幹川流路延長)が44kmで、流域面積でも270平方kmしかありません。
ちなみに北海道でいちばん大きな河川は、
石狩川で、長さ268km、流域面積14,330平方kmです。
こんな小さな川ですが、護岸がいたるところになされて、
自然の川の面影をもはや見ることはできません。
一級河川ともなる資金が導入され、下流の町の安全を守るために、
治水がなされていくようです。
少し、驚かされました。
北海道、札幌から80kmほど北に、日本海側に面して暑寒別岳(1491m)を主峰とする山塊があります。山塊の北西の海側には、留萌市があります。山塊の西側を巡る国道231号線は、断崖絶壁の険しい道です。
そんな海岸沿いの道路に一番奥まった雄冬は、陸の孤島でした。まともな道路がなく、船でしか往来ができないようなところでした。いまでも海岸線沿いの道路は崩落危険箇所でもあり、雪や雨、風が強いと通行止めになります。
切り立った断崖絶壁は、地質学者には、じつは、喜ばしいところなのです。なぜなら、断崖絶壁は、岩石や地層が良く見えるところだからです。地質学者には、なかなか見ごたえがある景色となっています。暑寒別の山塊は火山でできています。ですから海岸線の露頭では、溶岩がつくるいろいろな構造や、溶岩が海に入ったときできる構造が見ることができます。
溶岩の構造としては、節理(せつり)というものがいろいろみられます。節理とは、マグマが固まるとき体積が少し減ります。すると溶岩は縮むときに割れ目ができます。このような割れ目を節理とよんでいます。その節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまなものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっている柱状節理、放射状になっている放射状節理などがみれます。
溶岩が海に入ったときできる構造は、特有のなものがあります。マグマが海水に入ると、急激に冷やされるので、割れてしまいます。壊れたものが集まった岩石ができます。マグマは急激に冷えてしまうので、ほどんど結晶もできる余裕もなく、固まってしまいます。このような溶岩をハイアロクラスタイト(hyaloclastite)と呼んでいます。ハイアロ(hyalo)とはガラス、クラスト(clast)とは壊れたという意味で、最後のアイト(ite)と石につける接尾語です。
マグマが急令されても、壊れることなく丸い枕のようになって固まることがあります。でもあとからマグマが押し出してくると、枕状の溶岩が一部に穴が開き、次の枕ができます。これが積み重なったような溶岩もできます。これを枕状溶岩といいます。
ハイアロクラスタイトや枕状溶岩は、火山の噴出物でも海中でできる特殊なものですが、海洋底の岩石の調査が進むにつれて、その様子が良くわかるようになってきました。そして特別なものではなく、陸地にも過去の海底の岩石が持ち上げられたオフィオライトと呼ばれるものにも、たくさんあることがわかってきました。
人を長く拒絶してきた自然は荒々しいものでしたが、そのおかげで、生の自然を目の当たりにすることができました。そして、そんな自然に戦ってきた人の営みを、小さな村々に感じることができました。
・川の調査・
今年も、旅シリーズが続いています。
これは北海道の地質学者にとっては、宿命とも言うべきことです。
しょうがないことなのです。
夏しか調査できないのですから。
そして処理しきれないほどの資料が研究室に積みあげられていきます。
これは、調査には出れない雪の季節に、こつこつと処理していきます。
私の研究テーマは、北海道の川と火山です。
地質学的資料として、川では、石ころ(転石といいます)と砂を採集します。
石ころは、統計処理できるように50cm四方の枠内で
大きいものから順に、100個の石ころを拾い集めます。
北海道の一級河川河川は13個あります。
それを3年ほどで調査し、画像付のデータベースをつくろうと考えています。
火山では岩石資料を採集します。
北海道には100座ほどの火山があります。
できれば、その火山を何とか調査したいと考えています。
これには、時間がかかりそうなので、
慌てないことにしています。
もちろん、どこでも大量の写真を撮影します。
砂は、いたるところで採集します。
また、北海道の川と比較するために、
日本各地の代表的河川の調査をしています。
などなど出かけなければならないところが一杯あります。
でも、一応予定を立てて出かけていますので、
川の調査は、3年ほどで終了するつもりです。
夏にはお付き合い願います。
・留萌川・
留萌川は北海道の一級河川でもいちばん小さいものです。
長さ(幹川流路延長)が44kmで、流域面積でも270平方kmしかありません。
ちなみに北海道でいちばん大きな河川は、
石狩川で、長さ268km、流域面積14,330平方kmです。
こんな小さな川ですが、護岸がいたるところになされて、
自然の川の面影をもはや見ることはできません。
一級河川ともなる資金が導入され、下流の町の安全を守るために、
治水がなされていくようです。
少し、驚かされました。
2003年10月9日木曜日
6_32 大地の造形、海中ハイウェイ
コバルトブルーの海の上を延々と続くハイウェイ。そんな道を車で走る爽快さは、車が特別好きでない人もきっと感じるはずです。海と空の境界を切り裂きながら走り抜けているような気がして、気持ちのいいものでした。でも、この海上ハイウェイは、私に多様な大地の世界があることを、気づかせてくれました。
私は、アメリカ合衆国の国立公園が好きで、機会があれば訪れることにしてます。1996年4月にフロリダ半島のケープカナベラルにあるNASAのケネディ宇宙センターを見学に行きました。その時、半島の南にあるエバーグレイズ国立公園とビスケーン国立公園を見学に行きました。さらに、足を延ばして、1日、キーウエスト(Keywest)を訪れました。
フロリダキーズ(Florida Keys)と呼ばれる島並みを縫うように、U.S.ハイウェイ、ルート1が、フロリダ半島から先端のキーウエストまで続いています。島並みの中ほどにマラソンという町があり、そこから先へは、映画やCMで見かける7マイルズブリッジがあります。7マイルズブリッジは、アップダウンがあり、カーブもあるため、海の上の走っているような爽快な気分になります。
キーウエストは、ルート1の尽きるところでもあります。キーウエストには、アメリカ本土の最南端(Southern Most Point)があります。本当の最南端は軍の基地がありますので、一般人は入れませんし、さらに先にも島々が続いています。
ここから、約150kmほど南にキューバがあります。ここまでくると、私には聞きなれないスペイン語が多く聞こえてくるようになります。そんな南の果ての異国情緒のあふれるキーウエストを、文豪ヘミングウェイは愛し、8年間、家族と暮らした家が今では博物館となっています。
フロリダ半島は、湿地帯であります。湿地帯も多様な環境があります。例えば、湿地帯の中に丸く小さな丘がこんもりとあります。そんなところには木が生えています。湿地の植物がぎっしと支配しているなかに、そんな島のような小さな森があります。植物と共存して、湿地に適応できる動物もすんでいます。なかでも、野生のワニはなかなか迫力がありました。
こんな平坦な湿地帯では、岩石や地層をみることはむつかしいものです。しかし、私は、たまたま道路際で、電柱を立てるための工事現場で穴を見つけました。そこを覗いてみると、貝がらだけからできている岩石がありました。岩石というより固まりかけの礫が集まったようなものでありました。強く触るとくずれそうなもろいものでした。また、フロリダキーズの島では、マングローブの隙間や海岸に、死んでしまったサンゴが石ころとしてたくさん転がっていました。
フロリダ半島からフロリダキーズまでは、浅瀬で堆積物を運ぶ大きな川もなく、貝殻やサンゴくらいしか硬いものがない地域なので、そのようなものが、岩石のもととなるのでしょう。でも、土砂からできている堆積岩しかみかけない私にとっては、ちょっと不思議な気がしました。
私は、降雨量の多い温帯の火山地帯である日本列島に住んでいます。このような環境では、火山岩や山を構成する各種の岩石を起源とする土砂が、川によって海に運ばれ、堆積します。堆積物はやがて堆積岩となり、その一部は、大地になります。そんなことが繰り返し起こっているところが日本列島です。ですから、堆積岩というと土砂が固まったものというイメージが、日本ではできてしまいます。これは、日本人の常識、あるいは先入観というべきものです。
日本での堆積岩の常識は、あまりにも局所的で、小さいものです。地球はもっと広く、多様なのです。フロリダキーズの石ころは、私にそんなことを気づかせてくれました。
さらにもう一つ、大切なことをフロリダキーズは、私に気づかせてくれました。
フロリダキーズやキーウエストで使われてているキーとは、フロリダのこの地域でよく使われている言葉で、サンゴ礁のことを意味します。スペイン語のcayoから由来しています。
フロリダキーズは、北東に位置するビスケーン湾から、南西のキーウエストまで、弧状に、200kmほども続くサンゴ礁の島のつらなりです。サンゴ礁は浅瀬にできます。ですから、フロリダキーズは、もともと深い海ではなく、弧状にのびる浅瀬に形成された島なみなのです。
衛星画像や海底地形図を見ると、そのようすをみることができます。浅い海底の地形が連続していて、フロリダキーズはフロリダ半島の延長として大地が続いていることがよくわかります。フロリダ半島は、湿地ですが陸地として海上に恒常的に顔を出しています。いっぽう、フロリダキーズでは、陸地に顔を出している部分は点々として少ないですが、海底地形を見ると、大地が続いているのです。
フロリダ半島もフロリダキーズも一連の地形的高まりがあり、半島では、湿地帯となり、先端では海の要素が強いサンゴ礁の島の連なりとなっています。つまり、海底にも大地のハイウェイがあったのです。
人のつくった車数台分の幅の狭いハイウェイより、もっと長く太いハイウェイが、フロリダ半島の先にはあったのです。大地は巨大な造形を、人より先につくっていたのです。人の造形は、人のサイズでしかありません。でも、大地の造形は、そのスケールが違っていました。そんな雄大さをフロリダキーズは気づかせてくれました。
フロリダキーズ、大地と海の境界に位置するところです。その隙間に人間は分け入っています。でもそれは、もしかすると、ささやかものなのかもしれません。でもそんなささやかな進入にも、私に、爽快感を与えてくれたのです。大地の大きさに比べて、人間のスケールの小ささも感じさせてくれました。
私は、アメリカ合衆国の国立公園が好きで、機会があれば訪れることにしてます。1996年4月にフロリダ半島のケープカナベラルにあるNASAのケネディ宇宙センターを見学に行きました。その時、半島の南にあるエバーグレイズ国立公園とビスケーン国立公園を見学に行きました。さらに、足を延ばして、1日、キーウエスト(Keywest)を訪れました。
フロリダキーズ(Florida Keys)と呼ばれる島並みを縫うように、U.S.ハイウェイ、ルート1が、フロリダ半島から先端のキーウエストまで続いています。島並みの中ほどにマラソンという町があり、そこから先へは、映画やCMで見かける7マイルズブリッジがあります。7マイルズブリッジは、アップダウンがあり、カーブもあるため、海の上の走っているような爽快な気分になります。
キーウエストは、ルート1の尽きるところでもあります。キーウエストには、アメリカ本土の最南端(Southern Most Point)があります。本当の最南端は軍の基地がありますので、一般人は入れませんし、さらに先にも島々が続いています。
ここから、約150kmほど南にキューバがあります。ここまでくると、私には聞きなれないスペイン語が多く聞こえてくるようになります。そんな南の果ての異国情緒のあふれるキーウエストを、文豪ヘミングウェイは愛し、8年間、家族と暮らした家が今では博物館となっています。
フロリダ半島は、湿地帯であります。湿地帯も多様な環境があります。例えば、湿地帯の中に丸く小さな丘がこんもりとあります。そんなところには木が生えています。湿地の植物がぎっしと支配しているなかに、そんな島のような小さな森があります。植物と共存して、湿地に適応できる動物もすんでいます。なかでも、野生のワニはなかなか迫力がありました。
こんな平坦な湿地帯では、岩石や地層をみることはむつかしいものです。しかし、私は、たまたま道路際で、電柱を立てるための工事現場で穴を見つけました。そこを覗いてみると、貝がらだけからできている岩石がありました。岩石というより固まりかけの礫が集まったようなものでありました。強く触るとくずれそうなもろいものでした。また、フロリダキーズの島では、マングローブの隙間や海岸に、死んでしまったサンゴが石ころとしてたくさん転がっていました。
フロリダ半島からフロリダキーズまでは、浅瀬で堆積物を運ぶ大きな川もなく、貝殻やサンゴくらいしか硬いものがない地域なので、そのようなものが、岩石のもととなるのでしょう。でも、土砂からできている堆積岩しかみかけない私にとっては、ちょっと不思議な気がしました。
私は、降雨量の多い温帯の火山地帯である日本列島に住んでいます。このような環境では、火山岩や山を構成する各種の岩石を起源とする土砂が、川によって海に運ばれ、堆積します。堆積物はやがて堆積岩となり、その一部は、大地になります。そんなことが繰り返し起こっているところが日本列島です。ですから、堆積岩というと土砂が固まったものというイメージが、日本ではできてしまいます。これは、日本人の常識、あるいは先入観というべきものです。
日本での堆積岩の常識は、あまりにも局所的で、小さいものです。地球はもっと広く、多様なのです。フロリダキーズの石ころは、私にそんなことを気づかせてくれました。
さらにもう一つ、大切なことをフロリダキーズは、私に気づかせてくれました。
フロリダキーズやキーウエストで使われてているキーとは、フロリダのこの地域でよく使われている言葉で、サンゴ礁のことを意味します。スペイン語のcayoから由来しています。
フロリダキーズは、北東に位置するビスケーン湾から、南西のキーウエストまで、弧状に、200kmほども続くサンゴ礁の島のつらなりです。サンゴ礁は浅瀬にできます。ですから、フロリダキーズは、もともと深い海ではなく、弧状にのびる浅瀬に形成された島なみなのです。
衛星画像や海底地形図を見ると、そのようすをみることができます。浅い海底の地形が連続していて、フロリダキーズはフロリダ半島の延長として大地が続いていることがよくわかります。フロリダ半島は、湿地ですが陸地として海上に恒常的に顔を出しています。いっぽう、フロリダキーズでは、陸地に顔を出している部分は点々として少ないですが、海底地形を見ると、大地が続いているのです。
フロリダ半島もフロリダキーズも一連の地形的高まりがあり、半島では、湿地帯となり、先端では海の要素が強いサンゴ礁の島の連なりとなっています。つまり、海底にも大地のハイウェイがあったのです。
人のつくった車数台分の幅の狭いハイウェイより、もっと長く太いハイウェイが、フロリダ半島の先にはあったのです。大地は巨大な造形を、人より先につくっていたのです。人の造形は、人のサイズでしかありません。でも、大地の造形は、そのスケールが違っていました。そんな雄大さをフロリダキーズは気づかせてくれました。
フロリダキーズ、大地と海の境界に位置するところです。その隙間に人間は分け入っています。でもそれは、もしかすると、ささやかものなのかもしれません。でもそんなささやかな進入にも、私に、爽快感を与えてくれたのです。大地の大きさに比べて、人間のスケールの小ささも感じさせてくれました。
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