2003年9月4日木曜日

6_31 氷と岩と狭間の最古のもの

 グリーンランドは、私が地質学を志して以来、ぜひ行ってみたい地でありました。そんなグリーンランドに、短い時間ですが訪れることができました。憧れの地にいたほんのつかの間の時。そんなつかの間に、岩と氷の織りなす大地を味わいました。

 それは、島というにはあまりに大きなものでした。白い大陸というべき大きなものでした。その白い大陸は、緑の大地、グリーンランドと呼ばれています。
 まるで、人跡未踏のようにみえる雪と氷の大地にも、人の足跡ありました。グリーンランドには、昔からそして今も、イヌイット(グリーンラドではグリーンランディックと呼ばれています)が住み、生活しています。でも、彼らの多くは、海岸沿いの地で、漁労や狩猟の生活をしていました。いまでは、国の政策によって、都市部に定住するようになってきました。
 グリーンランドは、デンマーク領です。ですからデンマークからの白人が、都市部には定住しています。グリーンランドの冬は長く厳しいので、仕事も余り多くありません。ですから、定住する白人はそれほど多くなく、夏にだけこの地で暮らす人が多くなります。地質学者も夏の間だけですが、デンマークからはもとより、世界各地からこの地を訪れ、調査をして過ごす人がいます。
 地質学を専門とする人は、グリーンランドと聞くと、地球でも、最も古い岩石や堆積岩など、最古の記録がグリーンランドにはいろいろあることを知っています。中でも約38億年前にできた岩石がグリーンランドのイスアと呼ばれる地域に分布していることも、地質学者ならよく知っています。でも、実際にその地を訪れる地質学者はそう多くはありません。
 地球最古の岩石は、10年ほど前までは、このイスアの地のものでした。今では、最古の岩石の席はカナダに、最古の鉱物はオーストラリアに譲っています。でも、最古の堆積岩は、いまでもイスアのものです。そのほかにも、最古の付加体や最古の海洋地殻などが、グリーンランドから見つかっています。
 地質学者は、最古のものを懸命に探します。地球で最古のものには、それなりの意味があるからです。
 地球のできたての頃は、熱いどろどろに溶けたマグマが地表を覆っていました。最古の岩石とは、そのマグマが冷えて固まった時期、あるいはその時期の下限を示しています。現在では、もっとも古い鉱物として、42億7600万年前ものがオーストラリアから見つかっていますが、古い大地の歴史を調べるためには、グリーンランドの岩石も、いまだに重要な意味があります。
 熱かった地球が冷えてくると、それまでは水蒸気として大気中あったH2Oが、液体の水になります。H2Oは気体より液体の方が密度が大きいので、地球の重力によって落ちてきます。つまり雨となり、降ってきます。大地に降った雨は、低いところに流れて、移動します。流れは集まり、やがて川になり、地表のいちばん低いところに集まっていきます。それが海です。
 堆積岩とは、土砂が川から運ばれて、海にたまり固まった岩石です。川の流れとともに運ばれた土砂が海にたまります。それが堆積岩となります。最古の堆積岩は、地球に液体の水が存在できる温度になった時期を示す証拠でもあり、海ができた証拠でもあります。38億年前のグリーンランドの堆積岩は、今でも最古の海の証拠です。
 熱かった初期の地球は、冷めてきました。でも、0℃以下にはなりませんでした。それは、堆積岩は、地球上のいろいろなところで、いろいろな時代にあることからわかります。つまり、38億年前以来、堆積岩がずっとあることから、地表には、海、液体の水がずっとあった証拠となるのです。38億年前から現在まで、地球は0℃から100℃という温度の間に常に保たれていたことがわかります。そんな海のはじまりを、グリーンランドの最古の堆積岩は物語っているのです。
 イスアは、グリーンランドの南西部のN65.12°、W49.48°に、氷床と露岩の境界にあります。ここは、人など住んでいない地です。夏でも氷河を渡る風は冷たく、防寒着をつけなければ、長く外にいることはできません。
 私は、2000年の夏に地質学で有名なイスアを訪れました。グリーンランドに行くために用意したのは10日間でした。グリーンランド最大の都市ヌーク(ゴットハープ)には、5泊6日で滞在しました。イスアに行くためには、ヘリコプターをチャーターしなければなりません。ヘリコプターを一日分を予約しました。でも、天候によって飛べないと困るので、予備日としてあと3日用意しました。
 予約をいれた当日は、幸いにも予定通り飛ぶことができました。ヌークからイスアまで、往復で3時間で、イスアには5時間ほど滞在するつもりでした。でも、イスアに向かう途中、霧が出てきて、霧が晴れるまで、谷合いの原野で1時間ほど天候待ちをしました。
 そして念願の地、イスアにつきました。驚いたことに、そこにはテント村があったのです。こんな人里はなれた荒涼たる地に、夏の間だけですが、何張りかのテントができていました。そのテント村は、地質学者たちが夏の間だけイスアを調査するためにできたものです。地質学者たちが世界中から集まっているのです。そのキャンプ村のリーダとして、デンマークの地質調査所の地質学者のアペルがいました。彼の名前は知っていたのですが、グリーンランドに来ているとは思ってもいませんでした。ですから連絡をとっていませんでした。彼にいえば、数日このテント村に滞在すれば岩石がよく見れたのにといってくれました。時すでに遅しです。
 しかし、彼がヘリコプターに同乗して案内してくれました。そのおかげで、非常に効率的に目的の岩石を見ることができました。代表的な岩石を見、標本も採集しました。
 さて、このグリーンランドで私がしたかったことは、地質調査もさることながら、現場をみて、感じることでした。グリーンランドという地で、風や気温、匂いなどが伴った風景の中に自分をおき、そして目的の岩石や地層を肉眼で見、触りたかったのです。そして、感じたことを記憶に残したかったのです。
 イスアに滞在したのは、結局3時間余りでした。調査というには、余りにも短い時間でした。もちろん、何日も滞在して調査すれば、もっといろいろ調べることができたと思います。私が見残した大切な岩石や地層も一杯あったと思います。
 でも、私は、満足しています。なぜなら、イスアという地で、岩石や地層をグリーンランドの景色の中で、肌で感じることができたからです。その3時間余りは、私にとって、どの調査旅行より印象に残っています。そしてグリーンランドのイスアの地には多分二度と訪れることがないでしょうが、その記憶は一生残って、忘れないでしょう。

・衛星画像・
月初めは、ASTERの衛星画像を使ったエッセイです。
衛星画像は、
http://www.ersdac.or.jp/Others/geoessay_htm/index_geoessay_j.htm
をご覧ください。
今回は、グリーンランドの露岩地帯ですので、地形がよく見え、
地層が地形に反映されています。
地質図と比べると、衛星画像でみる地形に一致しています。
ここでは、地質図は簡単にできてしまいます。
そして、地質図は誰でも同じようなものができるはずです。

・地質図を描く・
地質図を描くということは、
日本では、一種の想像(創造)的な部分があります。
日本では、大地を植物が覆っていて、
どんな石が、どこに、どのように出ているかを
まさに地を這うようにして調べていきます。
見えないところは、地層であれば、(地質)図学を利用して想像します。
火成岩では、エイヤーっと線を引いていきます。
地層がずれたり、あわないときは、推定断層を書きます。
ですから、同じところを調べても人によって、
地質図がずいぶん違ったものになることがあります。
でも、グリーンランドのような地域は、いい地質図は誰でもかけます。
その違いは、どれほど、細かく地表を歩き、
岩石を精しく観察したかによります。
日本でも、外国でも、いずれにしても、
地質学者は、地を這って調査すべき運命なのです。

2003年8月28日木曜日

1_25 プレソーラーグレイン(2003年8月28日)

 隕石の中には、不思議なものがいろいろ含まれています。そんな不思議な、小さな粒を紹介しましょう。

 炭素質コンドライトとよばれる隕石から、プレソーラーグレイン(presolar grain)という不思議な粒が見つかりました。プレソーラグレインとは、太陽系(ソーラー)の誕生より前(プレ)にできた粒(グレイン)という意味です。不思議な名前を持つ粒です。
 炭素質コンドライトのような原始的な隕石は、太陽系ができるとき、宇宙空間にあった材料物質が集まってできたものです。しかし、太陽系では、粒が集まる前に、高温になる時期がありました。その高温時に、初期にあった材料物質の粒子が溶けて、気体になってしまいました。つまり、多くの材料は、元素のレベルで一度ならされ、太陽系全体で均質になったのです。そのときに、太陽系にあった材料の平均的なものですから、太陽系独自にブレンドされた成分となったのです。太陽系のどの物質でもある一定の値を持ちます。それは、太陽系で固有の値となっています。
 しかし、そんな高温に耐えて、少しだけですがもとの姿のまま「火の通っていない」材料、プレソーラーグレインがあることが発見されました。つまり、太陽系初期に溶けないで残った粒子があったのです。そんな粒子、プレソーラーグレインは、太陽系のブレンドされた組成とは違った成分をもっています。
 隕石の中にこんな風変わりな成分が混ざっていることは、1960年代から知られていました。その風変わりなものが分離され、そして分析できるようになったのは、1990年代になってからでした。
 プレソーラーグレインは、炭素質コンドライトの基質(マトリックスともいわれます)から発見されました。プレソーラグレインには、最初は、3種類の鉱物が発見されました。炭化けい素(シリコンカーバイト、SiC)、ダイヤモンド(Diamond、C)、グラファイト(Graphite、C)の3種です。最近では、さらに新たなプレソーラグレインとして、コランダム(Al2O3)や炭化チタン(TiC)なども発見されてきました。
 一つ一つの鉱物は非常に小さく、数ミクロンメートルから数ナノメートルくらいしかありません。ですから、見つけることも、まして分析することも大変だったのです。
 プレソーラーグレインのいくつかの元素の同位体組成で、異常が発見されました。最初は、酸素(O)やキセノン(Xe)などの同位体組成で異常が見つかっていましたが、今では、ネオン(Ne)、炭素(C)、窒素(N)、けい素(Si)などでも異常が見つかっています。
 このような地球でブレンドされた組成とは違ったものは、その粒子ができたときの情報を保存していると考えられています。太陽系の材料が、どのようなところから由来しているかを知るためには重要な情報が得られたのです。
 炭化けい素(シリコンカーバイトSiC)には、組成の違うものが4種類ほどふくまれていました。それぞれが、違った起源をもっています。その起源として、漸近巨星分枝星(Asymptotic Giant Branch Star)、超新星というものが考えられていますが、起源の不明なものもあります。
 ダイアモンドは、別の超新星、グラファイトは、別の漸近巨星分枝星、Wolf-Rayet星、新星などが起源が考えられています。
 ほんのちっぽけな粒子ですが、私たちの太陽系よりもう一つ前に存在した星たちの名残をとどめているものです。自然は、素晴らしい贈り物を私たちに用意してくれていたのです。

2003年8月21日木曜日

4_36 佐田岬半島:夏の黒瀬川2

 四国、愛媛県の北西部に、九州に向かって伸びている佐田岬半島があります。佐田岬半島の先まで、石を見に出かけました。夏の暑い日の見学でした。海水浴客を横目に、石を見てきました。


 佐田岬半島を貫くようにして国道197号が走ります。佐田岬半島の先端の三崎港から四国九四フェリーで九州に、この国道は続きます。197号の東は、愛媛県東宇和郡城川町を通り抜けて、高知県の須崎まで伸びています。この国道は、以前はくねくね道で、「いくな酷道」(197国道)と呼ばれるほどひどい道だったそうです。今では2車線のまっすぐな道になり、かなり走りやすくなっています。
 そんな佐田岬半島をつくる石を見に行きました。佐田岬半島の海岸は、緑色の縞のある石からできています。石積みの塀の多くは、この緑色のしましま石からできていました。この石は、緑色片岩と呼ばれています。緑色でも、さまざまな色合いの縞模様をもつ変成岩です。高い圧力で、玄武岩の溶岩や玄武岩の破片からできた堆積岩が、変成されたものです。
 これらの緑色片岩は、三波川変成岩の一部です。きれいな石なので、三波石として庭石や積石に利用されています。三波川変成岩は、緑色片岩だけでなく、いろいろな石が見られます。
 今回みたのは、佐田岬半島の先端の町、三崎町の南側の海岸、長浜というところです。長浜は三波川変成岩の崖の下に砂浜が広がる海岸で、人っ子一人いませんでした。もったいないようなきれいな砂浜を、独り占めできました。暑く、泳ぎたくなるような日でしたが、ここへ来た目的は石を見ることです。
 長浜には、緑色片岩の露頭はなく、蛇紋岩と黒色片岩がありました。蛇紋岩と黒色片岩が断層で複雑に接していました。
 蛇紋岩とは、蛇の体のように、青や黒、緑などの色が、てかてか光って見える石です。蛇紋岩は、マントルをつくっているカンラン岩に水が加わってできた岩石です。
 黒色片岩の片岩とは、細かい縞模様をもつ岩石で、ハンマーでたたくと、縞模様にそって割れやすく、時には手でもはがれます。黒色片岩は、黒い色をした片岩で、堆積岩のうち泥岩のような細かく黒っぽい石が強い圧力による変成作用を受けたものです。
 その他にも海岸にはいろいろな石の転石がありました。緑色片岩ももちろんありました。砂岩の変成された砂質片岩、石灰岩が変成した石灰質片岩。それらが交互に重なった片岩も見かけられました。石英片岩を探したのですが見当たりませんでした。
 三波川変成帯には、各種の片岩が含まれています。場所によっては、さらに圧力の強いところでできる変成岩も見つかっています。三波川変成帯は、温度より圧力の強い場所でできたことになります。そのような場所は、地球の深い場所で、それほど温度の高くないところということになります。
 現在の地球では、それは、海溝より深部だと考えられています。海溝深部とは、海洋プレートの沈み込むところです。海洋プレートは冷たいまま、沈み込みます。すると温度はそれほど高くならずに、圧力だけが上がっていきます。ですから、三波川変成帯は、昔のプレートの沈み込み帯の深部の岩石が、顔を出していると考えられています。佐田岬半島とは、昔に沈み込んだ海洋プレートが変成作用を受けたのち、地表の持ち上がられたものだったのです。

・人工と自然・
三崎の北向きの入り江に海水浴場がありました。
しかし、見るからに人工の防波堤と持ち込まれた白い砂からできています。
防波堤はこの地にない花崗岩で作られ、
砂も、この地にはない花崗岩からできたマサと呼ばれる白い砂です。
少し離れていますが、南向きの海岸には、いい砂浜があります。
それを利用する人はなく、人工の砂浜で海水浴をしているのです。
利用している人も、これは人工の砂浜であることよく知りながら使っています。
これで、いいのでしょうか。
自然の恵みをそのまま利用すれば良いのではないでしょうか。
もちろん、自然のままですから、荒々しさや危険も伴うかもしれません。
でも、それは自然の中で遊ぶための、当たり前のルールではないでしょうか。
それが自然との接し方ではないでしょうか。

・原子力発電所・
佐田岬半島の伊方には原子力発電所があります。
そのアピール館があり、立ち寄りました。
原子力発電所の仕組みや、安全対策、そして安全性を紹介しています。
クイズやゲームもあり、大人も子供も楽しめるようになっています。
そして物産展もあります。
大変なお金をかけて、このアピール館は、維持運営されているようです。
これも消費者である電気使用者のお金から出ているはずです。
このようなことは、宣伝費として、当たり前なのかもしれません。
この原子力発電所は、四国の4分の1の電力を供給しているようです。
ですから、この原子力発電所は、もはや中止することはできません。
原子力発電所が本当に安全かどうかは、わかりません。
もし何かがあったとき、水力発電所や火力発電所より
原子力発電所は危険です。
それを多くの人は直感的に恐れているのです。
理屈や安全対策をいくら説明しても、
人々はその危険性を肌で感じています。
「もしも」ということを、誰もが感じていることなのです。
安全対策の予想を超えた「もしも」があったとき、どうなるか。
それを多くの人は心配しているのです。
私たち、人類はとんでもないものに、
生活の基盤を依存しているのではないかと心配になってきました。
それに日本人は、原子力の怖さをいちばん知っている国民でもあるのです。

2003年8月14日木曜日

4_35 城川再び:夏の黒瀬川1

 今年(2003年)の5月のゴールデンウィークに、四国の愛媛県東宇和郡城川町を訪れました。そして、8月3日から8日まで、5泊6日で再び、城川町に滞在しました。再訪した城川で感じたことです。


 泊まっていた宿泊施設で、地元のおじいさんと話す機会が毎朝、何度かありました。そして、城川の今と昔を話を聞きました。そこで聞いた話を紹介しましょう。
 四国の松山空港についたとき、冷房の効いたロビーから外に出ると、熱く湿気のある空気が体を包み、一気に汗が吹き出しました。本州では、長かった梅雨のあけて、夏らしい暑い日がはじまっていました。
 愛媛県東宇和郡城川町に滞在中に、夕立がありました。激しい夕立、まさに「篠突く雨」というべきものが、1時間ほど降りました。そのとき私は、山のかなり上流にある地質館という建物の中にいました。すると、地質館のすぐわきの川は増水し、轟々と音を立てて、茶色くにごった水が流れていました。こんな集中豪雨と増水は、天候によってどこでもおこることです。ところが午後2時ころあった夕立が、夕方には川の水量もだいぶおさまり、濁りも取れたきました。さすがに、山をしっかりと守っている町だから、山も保水力や浄化作用があって、いいなと思っていました。
 こんな状態になるのにも、紆余曲折があったようです。古老の話を聞くと、戦後は、木が必要でいっぱい切ったそうです。切ったあとの山の斜面は、段々畑にして、食料を作っていた時期があったそうです。そのころは、山に保水力がなく、年に3度も4度も増水があり、川筋はそのたびに洗われて、石ころの荒れた川原だったそうです。ですから、葦なんかはえず、広い河原があったそうです。草刈などの川の手入れがあまりいらなかったそうです。
 ところが、いまでは、山に木が植えられ、しっかりした森ができると、洪水がなくなり、河原は葦がびっしりはえるようになったそうです。少々の洪水では、根のはる葦は流されず、河原が葦林になってきたそうです。葦の生えた狭い河原は、手入れをしないと、近づきがたいものです。山と川、植物、人間活動。これらは密接な関係を持っているようです。
 食糧難がおわると、国の政策もあり、荒廃した山を建て直すために、植林をしたそうです。でも少し前までは、間伐材も充分商品となったので、山や木を守ることができたそうです。ところが最近では、30年以上たった太い木でも、手間賃、搬送コストのほうが、木の売れる金額より高くなるようです。これでは、林業では食っていけません。
 日本では、けっして木の需要が減っているわけではありません。未だに木の住宅は建てられ続けています。しかし、その木の大半は、外国の木で、安く輸入しているものです。この状態が続く限り、日本の林業が廃れていきます。
 でも、今、木を切っている外国の森も、戦後の日本が経験したことと同じことがおこっているのかもしれません。日本のように、植えさえすれば木が成長するところは、切っても復元できます。日本が輸入している木材が、熱帯雨林の木やタイガの針葉樹などがたくさん含まれているとすると、その再生は容易ではありません。すごく長い年月が必要かもしれません。あるいは、二度と復元できないかもしれません。
 私たちは、経済性だけを中心して、生活しているようです。いつのころからお金中心の生活をするようになったのでしょうか。安ければいい。もうかればいい。多くの人は、それを世の中の仕組みと思っています。でも、森を守ろう、30年しか持たない家より100年も200年ももち、子孫がそこに住み続けられる家を建てるべきではないでしょうか。
 林業も重要な産業としていた城川も、もはや山の維持がなかなか難しくなってきたようです。そんな夕立でにごった川を見て、こんなことを考えしまいました。

・台風・
私が城川町から発つ日、台風10号が四国に接近していました。
昼前の東京行きに乗ったのですが、ぎりぎり飛んでくれました。
午後の便はすべて欠航でした。
この台風は、大きな被害を与えました。
北海道でも多くの犠牲者を出しました。
城川町でも、2名の行方不明者を出したことをニュースを見て驚きました。
これは、城川町の人たちは大変だろうなと心配していたのですが、
さらに驚いたことに、
そのひとりは、私の友人の同級生だったそうです。
なんとか彼の遺体は発見されたました。
それがせめてもの救いです。
御冥福をお祈りします。
北海道に住んで感じることですが、
関東を台風が過ぎたり、それたりすると、報道の量が一気に減ります。
需要と供給を考えると仕方ないことですが、
地元の放送局でもその報道量は極端に減ります。
NHKの四国接近の時はずーっと報道してました。
しかし、北海道では、被害のみがニュースになり、
その被害を防止す効果を持つ、報道が少なくなっていました。
なんとなく残念な気がしました。

・城川再訪・
私が今回来たのは、城川町の地質館のデータベースをつくるためです。
私の他に、博物館から4名がその要員として、作業をしました。
城川の地質館にある全資料の撮影とそのラベルや解説のデータベース。
城川町内の地質の観察ポイントの資料採集と撮影、解説のデータベース。
城川町とその周辺からとれる化石とその解説のデータベース。
これらを城川町のホームページに置いて公開することが目的でした。
これを完成させて帰ろうというのが目標でした。
私は、そのほかに、城川と神奈川の地学クラブの子供たちの交流行事をします。
交流事業は、4日午後の学習会と5日一日の地質の野外観察会でした。
このような交流も、もう4回目となりました。
着実に成果は上がっていると思います。
そして子供たちもそれなりの成長をしてくれていることでしょう。

・心の故郷・
城川滞在中に、激しい夕立が2日続けてありました。
2度目の夕立のときは、私たちは佐田岬半島にいたため、
雨にもあわず、暑い思いをしていました。
その日、城川でバーベキューをしました。
その夜は、一雨のおかげで夜は涼しくなっていました。
やはり、私は田舎は好きです。
もちろん、そこを訪れた、季節のせいかもしません。
でも、あるとき、あるところを訪れたとき、
その地のよさは、訪れた時期、気候、天候、精神状態、肉体状態など
すべての条件を寄せ集めて、それをどう感じたかということです。
それが、すべて合計してプラスになれば、その地はいいところとなるはずです。
私にとって城川は、何度も訪れているところです。
そのようなたびたび訪れている地では、
たぶん本質的なところ、風土というべきもでしょうか、
そこが好きかどうかになっているのでしょう。
私とって、城川は、好きなところです。
心の故郷、あるいは第二の田舎となっていきそうです。

2003年8月7日木曜日

6_30 天空の島:人智を超えるもの

 川は、海から蒸発した水蒸気が、雨として大地に降り、雨が集まり、流れ下っていくものです。川はやがて海にいたります。日本の川のはじまり、つまり源流は、山岳地帯です。川が刻む大地の模様、すなわち地形は、水と大地が織りなすものです。もし平らな大地に雨が降ったらどんな模様ができるでしょうか。そんな疑問に答えるてくれるような素晴らしい、そして圧倒的な模様が、大陸にありました。

 コロラド川の上流にあるコロラド高原は、海抜2,000mから3,000mの高さで、さしわたし500kmを越える広い台地です。コロラド高原には、グランドキャニオンという有名な景勝地があります。しかし、さらに上流にも、すばらしい景勝地があります。キャニオンランズ国立公園ということろであります。ここキャニオンランズ国立公園の一角に、大陸の川のはじまりを見ることができました。
 コロラド川は、カリフォルニア湾に注ぐ川で、下流からメキシコ合衆国、カリフォルニアとアリゾナの州境界を流れ、ネバダとアリゾナの州境界、アリゾナ州、ユタ州、そしてコロラド州のロッキー山脈にその源をたどります。北アメリカでは6番目の長さと流域面積を持つ、大きな河川です。
 グランドキャニオン国立公園はアリゾナ州のコロラド川流域にあります。キャニオンランズ国立公園は、アリゾナ州の北隣のユタ州の南東に位置します。グランドキャニオンでは、川が大地を削り込んでつくった景観が見ることができます。しかし、グランドキャニオンは、川がすでに深く切り込んで深い谷となったものです。
 では、平らな大地を川が削りはじめるときは、どんな模様ができるのでしょうか。もちろん、最初は小さな川の跡ができるでしょう。この作業が長年にわたって繰り返されると、どうなるでしょうか。
 日本のような山岳の河川の源流では、太かった川の流れも細くなり、やがてちょろちょろ流れいた川も、尾根や山腹で消え去ります。川は、周辺に生えている植物や岩場の隅からしたたり落ちたひと滴からはじまります。つまり、川のはじまりは、ほそぼそとした小さなものです。
 私たち日本人には、川とは上流にいくとほそぼそとした流れになるという常識がありました。ところが、大陸の平ら大地では違っていました。それも、想像もつかないような不思議な模様からはじまっていました。
 唐突というべき模様です。唐突に川ははじまります。まるで巨大な熊手でざっくりと大地を掘り起こしたように、あるいは針葉樹のような形をして、川がはじまります。地上から見ているのに、まるで自分が天空にいるような錯覚に落ちってします。数百メートルあるような巨大な地形が、まるで箱庭のように見えてします。まるで、自分が天空の視点を得たような気持ちにさせる、そんな錯覚を起こすところです。ここは、「天空の島(Island in the Sky)」という名称をもつ地です。まさにここは天空といいたくなるような、そんな不思議なそして神々しさに感動を覚えます。
 ある時は、3つの支脈をもった、まるで巨大な恐竜がつめで削ったような川の模様です。川の浸食がさらに進むと本流が太くなり、爪あとが小さな木の枝状に残っていきます。巨大な天空の物の怪が、戯れに大地を掘り込んだように、平坦な大地に川が生まれます。
 もちろん、そこにつながる小さな川の流れの跡があります。しかし、その小さな川の跡は、大地を刻んでいません。小さな川の跡はあっても、平らな大地と呼んでもおかしくありません。ここでは、それは川の跡というにはふさわしくありません。
 その川の跡は、あまりにも唐突にはじまります。常識を覆すはじまり方です。でも、これも川のはじまりの姿です。もしかすると川のはじまりとしては、例外的なものかもしれません。でも、数百メートルにおよぶその地形は、厳然として存在します。
 こんな不思議な地形をみると、どうしてできたのだろうという疑問は当然わきます。もちろん科学はそんな疑問に答えてくれます。科学とは、「天空の島」だけの説明にとどまらず、どこでも通用するようなものに仕立て上げられます。
 水平の地層があり、サバンナや草原のような半乾燥あるいは乾湿が繰り返される気候のところでできます。大陸内部で長い時間かけてたどり着く地形です。川は線状の侵食ではなく、面状の侵食をおこないます。水平の地層中には、いくつ種類かの岩石からできています。その中には侵食の程度が違うものが含まれています。硬い岩石は浸食されにくい地層となります。硬い岩石の地層は浸食されずに上面が平な面となり、平原となっていきます。「天空の島」のように広いものは、構造平原と呼ばれています。構造平原のような地形は、コロラド高原だけでなく、インドのデカン高原、アフリカのレソト高原などでも見れます。
 このような水平な地域が地殻変動により上昇すると、川の位置は変わることなく、上昇した分だけ、平らな大地を深く掘り込み、川の深さは維持されます。侵食が進むとメサやビュートと呼ばれる地層になり、やがて次の硬い地層が現れると、そこが次の構造平原へと変わっていきます。古い大陸では、このようなサイクルが繰り返されていきます。
 このように「天空の島」の地形のでき方は、地質学あるいは地形学で説明されています。でき方がわかっても、なお不思議なものもあるようです。そして感動はいつまでたっても消えていきません。そんな人間の小ざかしさを吹き飛ばす奇妙さ、そして不思議な感動は、ここにはあります。まさに、先人が呼んだ「天空の島(Island in the Sky)」にふさわしい地に、川のはじまりを見ました。

2003年7月31日木曜日

4_34 尻別川:夏の道南2

 今回の道南の旅のいちばんの目的は、尻別川の調査でした。周辺には湧水で有名な羊蹄山もあり、きれいな川を期待していました。さてさて、その結果はどうだったでしょうか。


 尻別川は、126kmしかない短い一級河川です。道南ではいちばん長い川ですし、流域にはニセコ連山や羊蹄山、さらに上流には洞爺、徳瞬瞥、無意根などの火山が連なっています。そこは、峨々としてた深い山並みとなっています。蹄山には、多くの湧水あることで有名です。京極町では水を商品として、売っています。もちろん、湧水は地下から湧いているので、冷たく綺麗なのですが、それが川に流れ込むと、川もきれいなはずです。
 今回の道南行では、尻別川は、河口、下流、中流、上流の4ヶ所の川辺で調査しました。
 上流の水はきれいでした。川原には、バッタや川原の草花、そして釣りをする人の姿もありました。ところが、上流以外は、川の水が汚いのです。川原の石が、コケではなく、水垢のような汚れで、ぬるぬるしています。乾いた石は真っ白な汚れがついていて、石の模様もよく見えなくなっています。とっても泳げるような水ではありませんでした。
 うちの子供たちも足だけはつかっていましたが、全身ぬらして水遊びをするような気も起きませんでした。石を集めて調査はしたのですが。下流と中流、特に下流の石はぬるぬるして、あまり気持ちがよくありませんでした。調べる時には、よくタワシで洗わなければなりません。尻別川の中流には、ラフティングをするようなところもあるようなのですが、私は、この川の水につかる気がしませんでした。その周辺のとった石も綺麗ではありませんでした。
 羊蹄山周辺は、いくつもの湧水があり、京極町では名水100選にも選ばれています。湧水がひとつの観光となり、かたやその観光の影響で川が汚れるとなると、なんとなく納得がいかないものを感じました。同じ川が、中流、下流になると、周りの景色は、緑あふれる山や田園風景なのに、川の水だけがこのように汚れているのは、川がちょっとかわいそうな気がしました。
 汚れている理由は、定かでないのですが、下水処理設備がなく、家庭用排水がそのまま川に流されているのではないかと思われます。日本で下水処理をしている地域は、人口密集地の一部でしょう。農村地域では、生活廃水は、浄化槽を経て、川に流れ込むのでしょう。これは、田舎では当たり前のことでしょう。
 ただ、尻別川の流域には、ニセコ、羊蹄山、ルスツなどがあり、スキーと温泉、遊園地などの観光地も多いため、関連施設が多いようです。このよな観光に力をいえているせいで、もしかすると川を、より汚しているのかもしれません。
 尻別川が特別汚いのではなく、たぶん、このような川は、日本では、ごく普通にみられる川、ごくありふれた川なのではないでしょうか。四万十川を春に見て、尻別川にも同じようなイメージを抱いて出向いたおかげで、このような気分になったにすぎません。私も通りすがりのものですから、根拠もなく、批判めいたことをいうのはよくないと思います。
 水は、人間にだけでなく、生物に不可欠のものです。そんな人間の生活とは切っても切れない水の最終到達地が、川なのです。だから、川を見たらその地の暮らしぶり、あるいは、生活基盤が何によっているかが、ある程度想像つくのかもしれません。尻別川流域は、農業と観光なのでしょうか。

・湧水・
この年の夏は、例年になく、涼しいのですが、
羊蹄山の周辺にいるときは、天気もよく暑い日になりました。
子供たちは、汗だくで走り回っていました。
そして、湧水があるたびに、
ペットボトルに冷たい水を汲んでは、飲んでいました。
もちろん大人も飲んでいました。
いつも旅行に出かけると、飲み物をコンビで買うのですが、
羊蹄山の周辺を巡っているときは、
飲み物を買う必要がありませんでした。

・野菜の季節・
羊蹄山周辺は、農産物の産地でもあります。
ジャガイモ、キャベツ、アスパラガス、トウモロコシ、かぼちゃ。
私が行ったときには、ジャガイモの淡い紫を帯びた白い花が
あちこちで見かけられました。
イチゴとサクランボのもぎ取りもありました。
海沿いの雷電温泉に、2泊目は宿泊したのですが、
ここは雷電スイカで有名です。
これから北海道は、野菜や果物がおいしい季節です。
毎日、露地ものの野菜がいろいろ食べられます。
楽しみな季節です。

・夏が忙しい・
調査には行きたし、でも、時間がない。
仕事があると、自由に時間を使って調査ができません。
夏は北海道、海外にもいきます。
学会もあり、他の共同研究にも参加しなければなりません。
ゼミの夏合宿、採点、成績など夏休み中の公務もあります。
ですから、夏休みが、私にはいちばん忙しい時となります。
こんな忙しさの合間を縫って、
調査するからその味わいも深くなるのかもしれません。

2003年7月24日木曜日

4_33 利別川:夏の道南1

 昨年(2002年)12月に訪れた道南地方に再度でかけました。昨年暮れの調査は雪のために、十分できなかったからです。当たり前のことですが、北海道の冬は雪があって地質調査はできないのです。でも、少しくらいはという期待のもとに出かけたのですが、惨敗でした。今は夏です。去年の雪辱を果たすためにいきました。


 瀬棚郡今金町(いまがねちょう)美利河(ぴりか)というところにある温泉宿泊施設に泊まりました。昨年来た時も、ここに泊まりました。
 昨年は冬だったので、ホテルの裏山は、スキーのゲレンデになっていました。今年の夏は、今北海道ではやっているパークゴルフのゲレンデコースとなっていました。ホテルの正面には、平地のパークゴルフ場があります。こんな小さなところに、2つものコースがあるというのは、すごいブームだということです。でも私が泊まったときは、平日で天気が悪かったせいか、だれもコースにはいませんでした。温泉だけでは、今や集客力がなくなったせいでしょうか。どこにでもあるパークゴルフ場をつくるということは、他の施設と差別化がはかれないような気がしますが、大きなお世話でしょか。
 さて、今金町に再訪したのは、一級河川の利別川(としべつかわ)の河川の石ころ(転石)の調査と、ピリカカイギュウの化石をみること、そして、河川礫としてマンガン鉱石やメノウの転石が採集するというのが目的でした。
 利別川では、上流と河口付近で石ころの統計的採集をする予定でしたが、河口では、石がたまっているところがなく、砂だけでした。砂の採集をして終わりました。また、カイギュウは、展示室が金・土・日曜日の3日しかやっていません。私は木曜日に行きました。ですから、今回も見ることができませんでした。今金の有名な石ころも、河口で転石がなかったので、拾えませんでした。でも、地元のメノウは、物産店で磨いたコースター状の板を2つ購入しました。これで良しとしました。川の各所で、転石を探せば、目的のものを見つけられたかもしれませんが、まだ先のある旅でしたのであきらめました。
 この地での一番の目的は、利別川の調査でした。利別川は、十勝川の同名の支流と区別するために、正式には後志(しりべし)利別川と呼ばれています。源流を長万部岳とする流路延長が80kmしかない短い川です。短い川ですが、上流へいくと、山の奥深くでいかにも源流に近づいているというようなところでした。でも、今回は源流を調べるのが目的ではありませんでしたので、できるだけ上流まで林道を進み、林道の橋の下の河原で調査をしました。
 明け方まで降っていた雨で、川に下りるだけで、草露で靴の中までぐっしょり濡れてしまいました。冷たかったですが、心地よいものでした。深山幽谷という気分にさせられるところでした。
 教科書どおり、上流では、石の大きさは不揃いで、角張っています。そんな当たり前のことを、これからしばらく研究していくつもりです。地域の自然そのものをデータベースとしたいと考えています。もちろん科学的原理の追及は重要ですし、行なうつもりです。素朴に自然を感激できるようなデータベースを構築したいと考えています。
 まだまだ、途上ですが、北海道のすべて一級河川の石ころと、北海道の全火山、北海道の河川と海岸の砂のデータベースをつくりたいと考えています。数年かけてつくり上げていくつもりです。その利用方法や、科学的な部分も、遊びの部分も、これからいろいろ考えながら、少しずつ充実していくつもりです。
 いつの頃からでしょうか、私は、人里はなれた山奥にくるとホッとした気分になります。最初は一人で山に登ったりするのは怖かったのですが、大学生のころ、自分の好きなところを、好きのときに、好きなように登りたいと思うようになり、単独行の山登りをはじめまして。その後、地質学を目指す学生として、調査は一人でするのが当たり前となり、深い山をひとりであるくようになりました。
 天気が悪いときは嫌な時ももちろんありましたが、気分のいい時、すばらしい沢を登っている時など、渓流の奥深くに滝や野生で生物に出会ったとき、こんな景色、こんな気分を独り占めする幸せを味わっていました。そのころからでしょうか、人里はなれた山にくると、なぜかホッとした気分になるようになったのです。

・夏が忙しい・
とりあえず、昨年の雪辱は半分くらいは果たせました。
でも、まだまだ、心残りがあります。
出かけるたびに、その地は、いつの日にかまた来たいという気持ちが残ります。
こんな地が増えていきます。
調査が目的となると、ある程度の収穫があると、
次の目的の地へと進まなければなりません。
とどまることはできないのです。次を目指さなければなりません。
北海道は広いです。
上で述べましたような目的を数年で果たすには、
何度も調査にでなかればなりません。
でも、限られた時間、許された時間で行なわなければなりません。
本当に目的が果たせるのでしょうか。
でも、調査していて楽しいのがいちばんです。

・調査の成果・
今回の道南の調査では、次のような成果をあげました。
デジカメによる撮影は、1,269枚で、
一部動画を含みますが、1.6Gbになりました。
調査した川は、国縫川、後志利別川、尻別川で、
国縫川以外は、目的の一級河川です。
石の調査は、8ヶ所でしました。
そのうち統計的調査は、5ヶ所でおこない、700個以上の資料を採集しました。
砂は、15ヶ所で採集しました。
火山の撮影は、室蘭岳、有珠山、昭和新山、羊蹄山、尻別岳、
ニセコアンヌプリ、 雷電山、洞爺湖中島の8山でおこないました。
支笏湖周辺の火山を、最終日に撮るつもりでしたが、
小雨で霧のため、撮影できませんでした。
これから、調査の写真と資料の整理が控えています。
これが、時間がかかり、単調ですが、楽しいものでもあります。
面白い結果が出そうな予感があります。
そして、データを出しながら、次なるターゲットに向けて、夢が膨らむみます。