2014年6月12日木曜日

3_129 ダイヤモンド 2:オフィオライト

(2014.06.12)
 オフィオライトからダイヤモンドが見つかっています。オフィオライトのダイヤモンドの認定については、紆余曲折があった後に、今では確認がされています。ただし、まだすべてのオフィオライトから発見されているわけではなく、一部のオフィオライトからだけです。

 キンバーライトという火山岩に伴うものが現在の宝石の供給源で一番多くのダイヤモンドを産出しています。その他のダイヤモンドの産状として、衝突ダイヤモンドも超高圧変成ダイヤモンドを紹介しましたが、量も少なく、大きさも小さいものでした。もう一つの産状として、近年見つかってきた、オフィオライトに伴うダイヤモンドがあります。
 オフィオライトとは、海洋プレートが海溝で沈み込むときに、大陸の縁や島弧に一部が持ち上げられて、大陸に保存されたものです。過去の海洋プレートの「化石」のようなものです。オフィオライトに見られる岩石の並び(層序と呼びます)は、下からマントルの岩石(カンラン岩の一種のハルツバージャイト)、次にマグマだまりの底に沈殿した岩石(いろいろなカンラン岩やクロミタイトなど)、マグマだまりが固まった岩石(斑レイ岩)、噴出するときのマグマの通り道となった岩脈群(ドレライト)、海底に噴出した枕状の溶岩(玄武岩)、その上に海底に沈殿した生物の遺骸(層状チャート)となります。
 1993年には、オフィオライトのカンラン岩からダイヤモンドが見つかったという報告がなされましたが、なんらか(自然か人為)の原因による汚染ではないかと考えられていました。その原因として、岩石を顕微鏡で観察するときに研磨するのですが、研磨剤にダイヤモンドを使うことがありました。そのような人為的にダイヤモンドが紛れ込んだのか、あるいは自然状態であるが、オフィオライトの岩石が形成されるときに同時にできたのではなく、何らかの理由で紛れ込んだのではないかと考えられていました。つまり、オフィオライトの中でダイヤモンドが形成されたのではなく、汚染物質としてダイヤモンドが紛れ込んなのではないかとされてきました。
 ところが2000年代になって、ダイヤモンドの存在は、汚染ではないことがわかってきました。各地のオフィオライトで、何人も研究者がダイヤモンドが検証され、他の高圧鉱物も見つかっていることから、ダイヤモンドの産出は確からしいと考えられてきました。もちろんそれらのダイヤモンドは、大きなも宝石になるようなサイズではなく、1mmに満たいないマイクロダイヤモンドですが。
 ダイヤモンドが見つかっているオフィオライトの多くは、チベットの衝突帯からです。この地域は、インド大陸がユーラシア大陸に衝突したとき、間にあった消えたテチス海を構成していた海洋プレートの断片が、オフィオライトになっています。ダイヤモンドの産地は点在していますが、2000kmの長さにわたって、ダイヤモンドを含むオフィオライトが分布していることになります。現在のところ、チベットでは8箇所のオフィオライトから見つかっています。
 他にも、天山山脈やウラルのオフィオライトからも、マイクロダイヤモンドが見つかっていますが、いずれも大陸の衝突や島弧の衝突でできたオフィオライトのようです。
 マイクロダイヤモンドは、大陸が衝突した地域のオフィオライトだけに見つかるのか、それとも他のタイプのオフィオライトからも見つかるのかは、今後の研究を待たなければなりません。
 さて、オフィオライトの中のダイヤモンドは、どのようなところから見つかるのでしょうか。実際の産状についてですが、それは次回としましょう。

・地質学的フレームワーク・
私は、オフィオライトを研究していました。
研究常識からすると、オフィオライトの中から
ダイヤモンドが発見されるとは考えられません。
オフィオライトとは海洋プレートの最上部にあたります。
まして、ダイヤモンドが見つかっているのは
マグマだりの底ですから、
せいぜい10kmほどの深さしかないはずです。
そこはダイヤモンドができる条件からは、かけ離れています。
不思議としかいえません。
オフィオライトのダイヤモンドの成因を解明は
地質学的フレームワークを変更する必要が
でてくるくらいの重要性を持つかもしれません。
今度、もっと研究されるべきでしょう。

・光陰矢のごとし・
6月は、北海道が一番いい季節になります。
ところが、私にとって、6月はあれよあれよという間に、
過ぎていきそうで焦っています。
やるべきこともできずに時間だけが、
ただただ過ぎていきます。
年々忙しだけが増え、
時間が矢のように過ぎていきます。
これは私だけでないのでしょう。
「光陰矢のごとし」という言葉があるのですから、
昔の人も同じ思いに駆られたのでしょう。
でも、ゆったりとした落ち着いた時間が
流れないでしょうか。
それも心の持ちよう次第なのでしょうかね。