2008年4月17日木曜日

4_78 オフィオライト:若狭の旅3

 このたびの春休みにいった若狭への旅のエッセイは今回が最後になります。しかし、今回は行った場所ではなく、行きたかったが行けなかったのところの話題です。雨の岬は、春休みだというのに人気がなく、寒々していました。

 今回の若狭の旅で、天候の悪い日が何回かあり、いくつかの場所を断念しました。その一つに、福井県の大島半島の東端にある赤礁崎(あかぐりさき)がありました。
 実は、ここには、大学院生の頃に中国地方から近畿地方を広域に調べる調査の一環で、一度訪れています。その時は、夏の海水浴シーズンで、海水浴客でにぎわう海岸をわき目に、暑い中を調査のために、歩いたことが強く印象に残っています。
 今回、赤礁崎に再訪して見たいと思っていたものは、夜久野オフィオライトという岩石でした。オフィオライトとは、かつては海洋地殻とその下のマントルを形成していた岩石が、大地の営みによって陸地に持ち上げられたものです。大島半島全体がオフィオライトからできています。ですから、オフィオライトのメンバーの岩石は、道路わきの崖でも点々と見ることができました。
 大島半島の西に「待ちの山」という2つのこんもりした山があります。この山はマントルの岩石(ハルツバージャイトとよばれるかんらん岩の仲間)からできています。「待ちの山」はもともと島として独立していたのですが、半島とは、宮留の砂洲でつながり半島の一部になりました。その「待ちの山」の東はずれに赤礁崎があります。赤礁崎へは遊歩道があり、歩いて行きたいと考えていたのです。
 さて、夜久野オフィオライトの夜久野とは、地名です。大島半島より西、京都府夜久野町に分布しているのが典型的なオフィオライトで、最初に詳しく研究されたため付けられたものです。
 私は、夜久野オフィオライトの類似の岩石が見つかる西端にあたる岡山県井原で研究をして、修士論文を書きました。それを井原オフィオライト(正式にはディスメンバード・オフィオライトと呼びます)と名づけました。博士論文では、井原から研究する地域を東方に延長して、夜久野オフィオライトまでの連続性と性質の変化を調べていくことにしました。それらのオフィオライトの全体を「舞鶴構造帯」と総称しました。最終的に、舞鶴構造帯が、かつてはどのような場所であったのかを調べるのが目的でした。
 私より前から夜久野オフィオライトを研究されている金沢大学の石渡明さん(現在は東北大学)とは、共同研究をしました。彼が記載した岩石を、私が分析や年代測定をして、共著の論文を書いたこともあります。
 そのような舞鶴構造帯の研究も、博士課程修了と共に終わりました。当時の一連の野外調査は、2年間におよび、車で移動しながら点々とキャンプをしながら調べていました。そのため、多くの場所を訪れたのですが、中でも赤礁崎のきれいな景色と多様な岩石が印象深かったのです。今回、自身の古戦場を訪れるつもりで、赤礁崎の岩石を見ようと考えていました。しかし、残念ながら、車で行けるとこまではいったのですが、雨がひどく、赤礁崎への遊歩道を歩けそうになかったので断念しました。

・大飯原発・
大島半島は、かつて、陸続きでありながら道路がなく
連絡船で通わなければならないような不便なところでした。
まさに陸の孤島ととも呼ぶべきところでした。
しかし、今では海水浴客が多数訪れるところなりました。
それは、大島半島の先端に大飯原子力発電所が建設されたおかげで
立派な橋と道ができ、車で簡単にいけるようになりました。
今回赤礁崎までいったのですが、雨でどこにもいけなかったので、
大飯原子力発電所のPRための「エル・パークおおい」の
展示館「おおいり館」を訪ねました。
本来なら発電所内をシースルー見学できるはずなのですが、
今では「国際テロ情勢を踏まえた警備上の理由」で、
入ることができなくなっています。
福井県は原子力発電所が多数あるところです。
それらの原子力発電所から近畿地方に
多くの電力供給を行っています。
中でも大飯原子力発電所は
その発電量も最大で、電力供給には
非常に重要な役割を果たしているようです。

・模索のスタート・
北海道も平地の残雪もほとんど消え、
いよいよ花の季節になります。
フキノトウが一番に芽を出しました。
木々の新芽も開きはじめました。
大学の講義は、1週間が経過して、
いよいよ本格的に始動しました。
それに伴って、学生ともども教員も忙しくなります。
教員は、講義とその準備の合間に、
いろいろなことをこなさなければなりません。
今年からは、我が学科も3年目で専門のゼミナールがスタートします。
専門ゼミナールの延長が卒業研究になります。
その指導も教員は始めてのことになります。
どうしようかとの模索しながらのスタートとなります。