陸繋砂州はトンボロとも呼ばれ、島と陸が砂州で繋がった地形です。砂の供給源と、その砂を陸側に運ぶ海流や風などの条件が必要となります。志賀島と海の中道は、その条件を満たしていました。
金印の見つかった志賀島(しかのしま)は、現在は、九州と陸続きになっています。陸の東から志賀島に伸びる海の中道があります。海の中道から砂嘴が東西に伸びて、志賀島まで繋がっています。陸繋島とも陸繋砂州(りくけいさす)、あるいはトンボロとも呼ばれています。現在は、砂嘴の上に道路が整備され、1928(昭和3)年に志賀島のと間に橋(志賀島橋)が架けられて、安定して陸続きとなっています。
志賀島はもともとは島なのですが、山地になっています。一方、海の中道はのっぺりとした平地になっており、長さは約8km、幅は最大約2.4kmにも達しています。海の中道北側の海岸には砂丘ができています。それぞれ全く異なった地形となっています。これは大地を形成した地質が異なっていたためです。
志賀島は、主に白亜紀の花崗岩類からできています。花崗岩類は、マグマが深部でゆっくりと冷え固まった深成岩類で、花崗閃緑岩(花崗岩と閃緑岩の中間的な深成岩)という岩石に分類されます。北部は南東の海岸沿いには、花崗閃緑岩に貫入している斑れい岩があります。斑レイ岩も深成岩類となります。
つまり、志賀島は、マグマが深部で冷え固まった岩石からできていることになります。深成岩なので地下深部で形成されたので、周辺にはなんらかの岩石類があったはずです。それらは、長い時間、侵食を受けたため、現在では残っておらず、花崗閃緑岩と斑レイ岩が露出している島となっています。非常に古い時代に形成され、侵食を受けたところとなります。
海の中道は、第四紀に堆積した砂礫からできています。この堆積物は、砂浜でたまったものが、砂丘を形成しています。砂丘の堆積物は二層あり、氷河時代以前に形成された「奈多(なた)砂層」、その上に「海の中道砂層」がたまっています。この砂丘の形成の作用が継続したことで、志賀島とつながっていきました。
砂丘をつくった大量の砂は、志賀島の花崗岩類が供給源だと考えられています。花崗岩類は、風化や侵食に弱い岩石なので侵食されやすく、砂状の「真砂(マサ)」となって海に流れ込みます。海に流れ込んだ砂は、志賀島の東側を回り込んだ海流に運ばれ、海の中道に海岸に打ち上げられます。ただし、砂丘の形成は、少々複雑な歴史をもっています。
その砂が、日本海からの北風で陸に持ち上げられます。その作用が長く続くことで、志賀島と陸地の海の中道をつなぐ砂州、そして砂丘となっていきました。
氷河期には海面が低下して、奈多砂層が砂丘として形成されていました。ところが、1万5000年前の温暖化で海面上昇が起こり、海の中道の奈多砂層が侵食を受けました。海面上昇がもっとも大きかった4700年前(縄文中期)ころには、かなり北側に砂丘ができていました。その後、3100年前(縄文晩期)ころには寒冷が起こり、現在と同じくらいの海面になると、海の中道に砂丘で再度形成されました。
現在は、侵食と堆積が均衡して安定化しています。ただし、人間の時間スケールでの安定にすぎません。地球環境において、気候変動は常に興っている現象なので、今後、どうなっていくは不明です。
・新年のスタート・
大学の講義も昨日からはじまりました。
1月4日から大学にはでていました。
年末年始の休みの期間は、
暖房が最低限にしか入っていません。
そのため研究室も寒い状態となっています。
その対策としては、まずは厚着で
あとは小さな電気ストーブで
なんとか寒さを凌いでいいます。
昼過ぎまでは仕事をしていましたが
長時間は寒いです。
・再訪・
今年の、5月の連休明けに
福岡に旅行することにしました。
再度、長男に1日車を出してもらう予定でいます。
主に北九州を見ていく予定でいます。
博物館や景勝地を見るつもりです。
車のない日は、宿泊施設の近くの
博物館などをみていくつもりです。
そして今回も、志賀島に宿泊することにしています。