2002年10月31日木曜日

4_27 めくれ上がった山脈:日高山脈3

 さて、日高山脈の最終回です。日高山脈は、大地の営みという、長い時間と強い力で、かつての海と列島の大地が、めくれ上がったものです。ということは、日高山脈には、過去の海洋と列島の岩石、もちろん深いところの石が出ているのです。


 2002年7月30日から2泊3日で、北海道の日高地方にいってきました。その時、日高山脈を横切るように、いろいろな石を見てきました。実際に日高山脈を横切る道路が何本かあるのですが、すべての石を一つのルートでみるのは、できません。そのために海岸沿いや山の中で、どの部分の石に当たるかをよく考えながら見ていくわけです。
 日高山脈は、列島の石が順番に出ています。その順番は、東側に現在の地表に続く浅い部分の石が出ており、西に向かうにつれてだんだん深くなり、表層から、列島の地殻上部、地殻下部、そして幌満のカンラン岩にあたるマントルまで、順番に深い部分の石がでています。これは、かつての列島のひとセットの断面といえます。
 深部の岩石ほど、高温かつ高圧の条件で変成岩になっています。このような変成岩を日高変成岩とよんでいます。そして、日高変成岩が分布している部分を日高変成帯といいます。日高変成帯には、高温高圧のため岩石が溶けてマグマが形成されているところもあります。そして、それがマグマとして活動し、深部でマグマが固まった深成岩としてあります。
 そして、さらに西側には、もぐりこんだ海洋地殻の断片が、列島の地殻下部の岩石にくっついてあります。海でたまった堆積物から、海溝の奥深くにもぐりこんだ海洋地殻の岩石までがあります。温度は高くないのですが、強い圧力で変成岩になった神居古潭(かむいこたん)変成岩があります。神居古潭変成岩が分布している地域を神居古潭変成帯といいます。
 高温高圧の日高変成帯と、低温高圧の神居古潭変成帯は、対(つい)をなしています。このような対をなす変成帯が、列島で古い時代の山脈にはよくみつかります。そして、日高変成帯も、神居古潭変成帯も、対をなす変成帯として、世界的に有名です。
 じつは、有名にしたのは、日本の地質学者が長くこの地域を調査、研究し、世界に重要性を示していったおかげです。
 日高山脈の東側、襟裳(えきも)岬から、十勝(とかち)に向かう道路は、断崖絶壁を通り抜けます。この道は黄金道路とよばれています。それは、断崖絶壁をに道路をつくるために、大金を投じられたからです。黄金道路沿いには、日高変成岩類と深成岩類がでています。
 日高山脈シリーズの最初に紹介した幌満のカンラン岩は、列島深部の一番深い部分から来たものです。
 日高三石には、蓬莱山という名所があります。蓬莱山は、河原に、にょっきりとたった岩山(ノッカーといいます)です。神居古潭変成岩にぞくする蛇紋岩と角閃岩からできている岩山です。角閃岩類は、深部にあった岩石が高圧で変成を受けたものです。蛇紋岩は、マントルをつくているカンラン岩からできた岩石です。カンラン岩が、 水を含んで軽い蛇紋岩となって上がってきたものです。そのとき、上にあった角閃岩を一緒に持ち上げてきたのです。神居古潭構造帯にはこのような変成岩類がいろいろ混じっています。
 ほんの一日ほどで、列島深部の岩石の旅ができます。そして、石ころは、地球の贈りものです。カンラン岩は重くて磨くときれいで、非常にすばらしいお土産になりました。

2002年10月24日木曜日

4_26 いろいろな山脈:日高山脈2

 日高山脈には、列島形成の秘密の鍵があります。それを多くの地質学者が、長い時間をかけて解明してきました。そんな積み上げられた、研究の成果を紹介しましょう。2002年7月30日から2泊3日で、北海道の日高地方の地質見学の第2弾です。


 山脈は、日本列島の各地にあります。列島の山脈の並びはでたらめにあるのではなく、ある規則性があります。その規則は、列島の延びている方向へ山脈も延びています。それは、海岸線の伸びている方向とも一致します。もう少し広く見ると海溝の延びる方向にも並行しています。
 このような一般的な規則は、世界の地形に通じるものです。南米のアンデス山脈、北米大陸のシラネバダ山脈、比較的新しい時代にできた山脈にはこのような規則にそっています。
 山脈の代表として東北日本を考えましょう。東北日本の山脈には、火山があります。あるいは火山が山脈を形成しているともいえます。火山は海溝と平行して活動しています。海溝に近いところでは、火山はなくなりますし、遠くなってもなくなります。つまり、海溝に平行に、ある幅で火山が形成されています。これが、山脈のできかたの典型的なものです。いちばん海溝に近い火山を地図の上で書きますと、きれいな火山の線(火山前線、Vlocanic Front)ができあす。
 もちろん、例外もあります。マリアナ海溝に並行する山脈はありません。伊豆半島から南に延びる列島があるだけです。このような島々は山脈とはいえません。北海道の山脈も中部地方の日本アルプスも、列島、海岸線、海溝など並びからずれています。今回のテーマである日高山脈も例外となります。けっこう、例外も多そうです。では、上で述べた規則性は偶然の産物なのでしょうか。
 じつは、例外も、それなりの理由があるのです。例外にもいくつかの規則性があります。ひとつは、伊豆半島から小笠原の列島のように、列島としてはまだ、成長途中で、いってみれば、これから列島へと成長しつつあるものです。このようなものを未成熟といいます。
 そして、東北日本のように、「列島らしい」列島を、成熟した列島といます。成熟している列島には、火山が形成されています。
 さらに、時間が経過すると、過去の火山やめくれあがった大地などが形成されます。その一つの典型が、日高山脈なのです。そこには、過去の海溝と火山が再現されます。それに、海溝の周辺の海洋をつくっていた地殻もあります。さらに、火山の下の列島の深部をつくっていた岩石が、めくれ上がってでてきています。
 さらに進むと、かつては広くあった海が完全に海溝にもぐりこみ、つまりなくなり、海の両側の大陸がぶつかってしまうこともあります。それが、ヒマラヤ山脈からトルコ、アルプス、ピレネーへと続く山脈群です。そこには今は地中海のように小さくなった、巨大なテチス海があたのです。ヒマラヤではインド大陸が衝突して山脈も大きく成長しました。
 また、海洋地殻が海溝にもぐりこむこと、つまり一方から強く押されると、地球は丸いので、おおきな断裂、断層ができます。そこでも、断層によってめくれあがることがあります。フォッサマグナとよばれる日本列島を断ち切るような断層があります。その断層は非常に落差が大きく、両側の地層はまったく違ったものとなっています。そしてめくれあがってできたものが、日本アルプスです。ニュージーランドの南島のサンザンアルプスは、断層によってめくれあったものです。
 つまり、山脈と一口にいっても、列島の成長過程や構造に応じて、いくつかの種類ものがあるのです。日高山脈に触れる前に、山脈の説明で多くを使いました。次に日高山脈の話にしましょう。

2002年10月17日木曜日

4_25 幌満:日高山脈1

 ホロマンという地名をご存知でしょうか。日本の地名です。漢字では、幌満と書きます。知る人ぞ知る地名です。特に、地質学を学んだ人には、聞き覚えがあるはずです。今回は、幌満の石について紹介しましょう。


 2002年7月30日から2泊3日で、北海道の日高地方にいってきました。その一番の目的が、幌満をみることです。人を案内するために、下見として、7月上旬にも、ここを訪れています。今回、幌満にいったのは、何年ぶりでしょうか。学生のとき、2、3度訪れました。20年ぶりくらいでしょうか。ほとんど覚えていないので新鮮な部分と、かすかな思い出と、以前来たことがあるという記憶で、懐かしいような、不思議な気持ちでした。
 幌満は、北海道様似郡様似町のなかの小さな地域の地名です。アポイ岳が有名ですが、アポイ岳もかんらん岩からできています。そこには、かんらん岩と呼ばれる岩石が、それもほとんど変質もなく、マントルにあったときのまま地表に出ていることで、地質学では、世界的に有名です。2002年8月26日には、様似町でかんらん岩の国際学会も開かれました。
 アポイ岳は日高山脈えりも国定公園の一部です。また、アポイ岳周辺は国指定の特別天然記念物「アポイ岳高山植物群落」にもなっています。高山植物群落で特別天然記念物に指定されているのは、岩手県の早池根山、富山県と長野県にまたがる白馬岳です。
 アポイ岳が、こんなに有名なのは、理由があります。標高は810.6mなのですが、なぜかこの山だけは、350m付近から高山植生帯の景観をもっているのです。本州中部なら、2500m以上、北海道でもは、高山植生帯は1000m以上です。なのに、アポイ岳は、その森林限界が非常に低いのです。それは、かんらん岩の特徴に関連があるのです。
 かんらん岩は、鉄やマグネシウムが多い岩石です。そのうち、マグネシウムは、植物の生育にはよくない元素です。また、窒素、リン、カリウムなどの植物の栄養となる元素も少ないので、植物が育ちにくく、特殊な環境となっています。アポイ岳には、アポイ岳に特徴的にみられるヒダカソウ、エゾクゾリナ、アポイカンバような珍しい植物、ヒメチヤマダラセセリ、アポイマイマイなどの珍しい動物もいます。
 かんらん岩が、なぜ、それほど珍しいかというと、マントルという部分を構成している岩石だからです。マントルとは、地球の深部にある岩石からできた部分で、地殻より下部にあります。かんらん岩は、地球深部にある岩石ですから、地表ではなかなか見ることのできないものなのです。
 地殻は、海で10km、大陸では40km、列島では20kmあります。それより下の岩石でできた部分はすべて、マントルで、地表から2900kmがマントルになります。地球の半径でいうと45%が、体積では83%マントルにあたります。それより深部には、鉄でできた核と呼ばれるものが、地球の中心まであります。
 マントルをつくっているかんらん岩は、オリーブ色のかんらん石を主として、濃い褐色(あめ色)の斜方輝石、エメラルドグリーン(濃い緑色)の単斜輝石、そして少量の真っ黒のスピネルかあるいは白く透明感のある斜長石からできています。このような鉱物の組み合わせ、量比によって、かんらん岩は細分されています。マントルのつくっているかんらん岩は、レルゾライトと呼ばれるものです。
 幌満のかんらん岩は、地下60から75kmの上部マントルが地表に上がってきたと考えられています。それは、1500万から2000万年前におこった日高山脈の形成にともなっておこった現象なのです。

2002年10月10日木曜日

6_16 10月の誕生石

 10月の誕生石は、トルマリンとオパールです。どちらも比較的よくでてくる宝石です。

 トルマリンは、日本では電気石と呼んでいます。この日本の名前の由来は、加熱したり、摩擦したりすると、静電気がおきることによります。
 化学成分は、気が遠くなるほど複雑です。化学式で書くと、Na(Mg,Fe,Mn,Li,Al)3Al6Si6O18(BO3)3(OH,F)4となります。ホウ素を含むことが、大きな特徴です。化学組成のカッコの中は、どれかの元素か、いくつかの元素が組み合わさったものを意味します。ですから、非常に多様なトルマリンがあることが、わかります。
 多くは、色が黒いのですが、褐黒、青黒、緑、紅、と多様ですし、透明だったり不透明であったりします。もっとも普通にでてくるのは、鉄電気石とよばれるもので、ガラスのような光沢をもち、黒色で不透明な六角柱状結晶です。
 宝石となるものは、リチア電気石で、10月の誕生石とされているトルマリンは、これをさします。
 火成岩のペグマタイトや花コウ岩の中に、ごく普通にみられ、結晶片岩や片麻岩などにも含まれています。
 日本の代表的な産地としては、福島県石川、山梨県黒平、鳥取県広瀬鉱山、宮崎県鹿川、鹿児島県屋久島などがありますが、宝石となるようなものはほどんど出てきません。日本以外では、多くの国から出てきますが、なかでも、ブラジル、アメリカ合衆国、タンザニア、ケニア、マダガスカルなどがおもな産地となっています。
 つづいて、オパールです。オパールは、日本でもなじみのある名称ですが、タンパク石という日本名を持っています。
 でも、オパールは、鉱物ではないのです。つまり、結晶化していません。化学組成は、珪酸(SiO2)を主としていますが、1~21%の水を含んでいます。ですから、化学組成を式(構造式といいます)で書くと、SiO2・nH2Oとなります。宝石となるようなものは、水分が約6~12%の範囲になるようです。
 オパールは、硬度が5.5~6.5ですが、比重が2.0~2.3と小さいのが特徴です。
 オパールは、無色透明(ウォーターオパール)、白(ホワイトオパール)、黒(ブラックオパール)、黄から赤色(ファイアオパール)など、変化にとむ色(七彩色、遊色効果ともいいます。英語ではplay of colorです)をもっています。しかし、虹色にきらめくもの、特殊な色をもつもの、おもしろい模様のあるものが、宝石としてつかわれます。
 オパールの七彩色は、珪酸の小さな(直径150~300nm)粒子が規則的に配列して、光を回折現象させるからです。粒子が大きいときには、波長の長い赤色の光を、小さい場合には、波長の短い紫色の光をだしますが、これらが入りまじって七彩色となります。
 オーストラリアとメキシコが、オパールの産地として有名です。1870年代にオーストラリアで、堆積岩の中から品質のいいオパールが発見されました。ときには化石がオパール化したものがります。現在もホワイトオパールやブラックオパールのおもな産地となっている。メキシコのオパールは、火山岩の中の穴にできるウォーターオパールやファイアオパールが有名です。
 日本では、福島県西会津町宝坂、長崎県波佐見町、石川県赤瀬、北海道紋別などで、流紋岩の中にでてきますが、宝石にあるようなきれいなものはほとんどとれません。
 1972年に、ホワイト・オパールとブラック・オパールが人工的に製造できるようになりました。現在では、プラスチック製で、天然物と同じような構造で、識別困難な精巧な人工オパールもできるようになりました。
 オパールは水をふくんでいるため、乾燥したり、熱によってひびがはいってしまうことがあるので、保存には注意が必要です。

・宝石のはやりすたり・
オパールは、ローマ時代から珍重されていたようです。
大プリニウスの「博物誌」には
「いろいろな宝石の魅力を寄せあつめたようなものだから、
これを記述するのはひじょうに困難である。
それはいわば、ザクロ石のちらちら燃える火と、
アメシストの緋色の輝きと、
エメラルドの海緑色とを併せもっている」
とあります。
中世には、オパールは、
毒を予防する力があると信じられていたので、
指輪だけでなく、金銀細工の装飾としてよく使われました。
その後も、17世紀初期まで、宝石として大いにもてはやされました。
ところが、ウォルター・スコットの小説
「ガイアスタインのアン」(1829年)で、
主人公が、オパールを持っていたため不幸にあい、
オパールを海に捨ててやっと不幸から免れるというものでした。
この小説の影響で、18世紀から19世紀にかけては、
不幸を招く石として不評でした。
1964年にオーストラリアから、
青色の遊色効果を示す203カラットのホワイト・オパールを
イギリスのエリザベス女王に献上されました。
このオパールは、白金枠にセットされ、
ネックレスとして女王に愛用したので、
再びオパールの人気が出たそうです。
宝石にも、はやり、すたりがあるようです。

2002年10月3日木曜日

4_24 ハットンの火成説:イギリス3

 今回、ハットンのスケッチのある地点として、エディンバラ市内の東部にあるホリーロード公園というところも見ました。その紹介をしましょう。


 ハットンは、エディンバラを活動の場としていました。ですから、地質調査も、もちろん、エディンバラを基点としていたはずです。その証拠として、エディンバラの町の中に、ハットンが重要な考えを得た地質の現象があります。そのスケッチも残っています。
 そこは、エディンバラの市内で、高さ220メートルほどのアーサーズ・シート(Arthur's Seat)呼ばれる山があります。その山並みは、市外から見ると、山の中腹に10メートルほどの厚さの岩石の帯が見えます。
 その岩石の帯の見える山を詳しく調べたハットンは、いまでは当たり前となった、火成(かせい)説の証拠を見つけ出したのです。
 その岩石の帯の下に岩石がむき出しになっているところがあります。その岩石は、ドレライト(dolelite)とよばれる種類の岩石でした。そのドレライトを、近づいて観察すると、地層にほぼ平行にドレライトがあります。その下には赤い砂岩から泥岩が層をなしてあります。ですから、ドレライトも地層のように、水中でたまったように見えます。水成説を唱える人たちは、そう考えていました。
 詳しく見ると、水中でたまってはできないような現象を、ハットンは発見したのです。それは、下にある堆積岩の一部が、めくれ上がって、ドレライトのなかに取り込まれているところがあったのです。このような現象は、上から順番にたまる地層としてはできないものです。
 ドレライトが地層の間を分け入るとき、マグマに引っ掻かれて、マグマの中に地層がめくれ上がったのです。ハットンは、これをマグマの存在の証拠として示しました。マグマが地層に入り込む現象は、現在、貫入(かんにゅう)とよばれます。しかし、今回のように地層に平行に、貫入した岩石を、シル(sill)と呼んでいます。
 ドレライトは、玄武岩のマグマが、地中でゆっくりと冷えたものです。斑レイ岩よりもっと浅いところ、つまりやや早く冷え固まりましたす。ですから、斑レイ岩より粒は細かいのですが、目で見えるほどの結晶からできている岩石です。マグマが冷え固まったのですから、熱い物質から形成されました。
 本当は、地層を切ってマグマが貫入したもの(岩脈(がんみゃく、dyke)と呼びます)があれば、一目瞭然で、わかりやすかったのですが、なかったようです。幸いにも、シルが地層を巻き込んでいるところがあったので、ハットンは、マグマのしわざと見抜けたのですが、このような現象がなければ、ここでは、火成説を証明するのは難しかったでしょう。
 もちろん、日本は、火山国ですから、さまざまなタイプの岩脈を、多くの地域で見ることができます。
 重要なことは、自然を見る視点だということです。少々材料が不十分でも、たとえば、火成説で自然を見ていけば、その考えを支持するような証拠をみつけだすことができるのです。そのような視点を持てたかどうか、そしてその視点で、自然から証拠を見つけることができたか、その点が重要です。
 不整合とともに火成説も、ハットンの自然の見方が正しかったので、見抜けたのです。

Letter
・寒い火山・
ハットンが調査をした町を見下ろす小高い丘に立ちました。
9月の上旬だというのに、風が冷たく、
T-シャツ、ワイシャツ、トレーナー、ジャンバーまで着込んでも
寒いほどの気候でした。
前日、来ようとしたのですが、雨が降っていたので、あきらめました。
そして、午前中しかないこの日に見に来たのです。
震えながら、ハットンのみた露頭をみたのですが、
よくもこんな小さな露頭で、
地質学の趨勢を決するような証拠を見つけたな、
と関心しました。
やはり、どんなものでも、見る人が見れば、
真実は見抜けるのです。

・ハットンの知名度・
ハットンは、エディンバラの出身で、近代地質学の祖といわれています。
しかし、エディンバラ、スコットランド、あるいはイギリスにおいて、
その扱いはあまりに小さく感じました。
なぜでしょうか。
確かに
それなに評価はされています。
エディンバラの科学アカデミーに胸像も飾られています。
一般の人が入手できる資料はゼロではありません。
でも、なぜかその扱いは大きくありません。
考えてみると、イギリス人で
科学で、世界に名をなしている人々を考えると、
ダーウィン、ニュートンから、ドーキンス、ホーキングまで、
綺羅星のごとき科学者がいっぱいいます。
地質学でも、スコットランドの大地主の子として生まれた
ライエルという巨人がいます。

・火成説と水成説・
18世紀、岩石の成因として、
火成説と水成論とがあり、論争していました。
火成説は、岩石はすべて熱い溶融物(マグマ)が固まったものか、
変成してできたものだとしました。
水成説では、地殻は海洋底にたまった堆積物からできたするものです。
ハットンは、堆積岩とマグマ起源の岩石があり、それを区別していました。

エディンバラの東方にあるこの山は、
約3億5000万年前(石炭紀初期)の火山です。
長い年月のうち、火山の上部が削剥されてしまったものです。
成層火山の中央部はクレータで、
側方は層をなす岩脈や溶岩が見えています。

こんな地の利が、
ハットンの火成説を培ったのかもしれません。